237基、全部ありました
魔王城の下層へ降りるにつれ、空気の匂いが変わった。石と紙の匂いが薄れ、代わりに油、獣皮、乾いた薬草、それから金属を焼いたような匂いが混じってくる。
高城律とフィーネを乗せた昇降盤が止まると、目の前には城の中とは思えない空間が広がっていた。天井は高く、巨人でも槍を立てたまま歩けそうだ。梁の間を荷運び用の小型飛竜が横切り、床では角のある荷獣が2台の台車をまとめて引いている。壁沿いではゴブリンたちが箱の隙間を縫うように走り回っていた。
「ここが王都中央備蓄庫です」
フィーネの声が、荷車の軋む音に半分かき消された。律は返事をせず、しばらく周囲を見る。
倉庫というより、小さな街だ。物が入る場所、数える場所、積み替える場所、出ていく場所が、それぞれ別の流れを作っている。運ぶ種族の体格も違えば、扱う荷物の大きさも違う。
中央記録院で数字だけを見ていた時より、ずっと情報量が多い。帳簿は、書かれた数字しか返してくれない。現場は、聞いてもいないことまで見せてくれる。
「高城さん、魔石の担当を――」
フィーネが言いかけた時、頭上で金属の弾ける音がした。吊り上げられていた黒鉄の箱が、大きく傾く。
「下がれ!」
短い声が飛んだ。
小柄なゴブリンが積荷の真下を避けて操作柱へ駆け、張られた鎖を見上げる。
「2番鎖を緩めろ。左は張ったまま。薬箱だけ先に退かせろ!」
作業員たちが一斉に動いた。一人が左の鎖を張ったまま支え、もう一人が2番鎖をゆっくり緩める。傾いた箱は横振れを抑えられながら石床へ降りていき、その間に別のゴブリンが荷車を押し込んで落下方向から薬品箱を引き抜いた。
黒鉄の箱が床へ着いた。誰も怪我をしていない。指示を出したゴブリンは箱の角を一度叩き、耳を寄せた。
「中身は無事。鎖は廃棄。赤印の吊具は全部止めろ」
それだけ告げて、もう別の積荷へ向かおうとする。
「キリクさん!」
フィーネが呼び止めた。
背は律の胸ほど。片耳の先が欠け、腰には鍵と荷札がいくつもぶら下がっている。作業着の袖には、白い粉と黒い煤が染みついていた。
「書記官殿」
「こちら、高城さんです。魔王様の現状調査を――」
「ああ。237の人ですね」
律は一瞬、言葉に詰まった。
「俺、もうそういう呼ばれ方してるんですか」
「補給局から先に連絡が来てます」
ゴブリンは平然としている。
「王都中央備蓄庫、第七庫副管理官。キリク・ポポです」
名乗ると、そのまま奥へ歩き出した。
「237基なら、ありますよ」
律とフィーネが同時に足を止める。
「……あります?」
「はい。全部」
◇
第七庫の奥には、黒鉄の箱が壁際まで整然と積まれていた。キリクが棚を指で追う。
「79箱。1箱3基。237基」
少し離れた出庫口には、今朝配分された23基が行き先ごとに分けられていた。北方第三砦10基、竜騎兵団6基、東部都市結界7基。青い荷札には、会議で決まった数字がそのまま書かれている。
フィーネは中央記録院から持ってきた羊皮紙と、目の前の箱を交互に見た。
「……本当に260基ある」
律も黙って箱を見る。倉庫へ来るまで頭に置いていた盗難、誤配、別用途への流用という仮説が、まとめて消えた。
外れたなら捨てればいい。問題は、現物があるのに使えないことだった。
「補給局では、どうして23基だけを可動在庫に?」
「そっちは使えるからです」
キリクは黒鉄箱の一つを指した。蓋の角には、赤い札が結ばれている。
『封紋待ち』
箱の四隅には細い溝が彫られ、そのうち三つに黒い紋様が焼き付いていた。最後の一つだけが空白だ。
フィーネがしゃがみ込み、脇へ差された木札を読む。
「三日前に240基入庫。3基は亀裂で除外……残り237基は検品済み」
「封紋が終わるまで、城門を通せません」
キリクが短く補った。
軍用魔石は検品後、黒鉄箱を閉じて輸送用の封紋を焼き付ける。途中で開ければ痕跡が残り、軍の印が揃っていない箱は払い出せないらしい。
「普段は当日中です。今は封紋師が足りない」
キリクが顎で北を示す。
「北方じゃ中継核の損傷が続いていて、何人か修理へ回った。扱う術式が近いんで」
律は前日の光景を思い出した。北方第三砦で、レオノーラの《黒炎界》を遠方へ通した中継核。昨日見たあれだけではなく、北方では同じ設備の損傷が続いているらしい。
封紋師を北へ回す理由はある。その結果、ここでは237基が三日止まっている。
誰かが怠けたわけではない。それぞれが、自分の場所で急ぐべき仕事をしている。なのに、物は動かない。
◇
律は箱の列から離れ、今度は荷物そのものではなく荷札を見た。乾燥肉の樽には『検品待ち』、治療薬には『承認待ち』、槍の束には『搬送待ち』。別の棚には『振替確認中』の札もある。
理由は違うが、止まっている物は魔石だけではなかった。
「封紋の遅れは、上にも出してます」
律が聞く前に、キリクが事務机の脇を指した。
薄い板が何枚も積まれている。
『第七庫 処理遅延につき封紋要員の補充を要請』
同じ文面が五日前、三日前、昨日と続き、どれにも受領印が押されていた。
「俺は第七庫しか知りません」
キリクは淡々と言った。
「北で何人要るかも、他の庫がどれだけ詰まってるかも知らない。人を戻して北が止まるなら、そっちの方が困るでしょう」
律は、その言い方を気に入った。知らないことを、知らないと言える人間は話が早い。
「高城さん」
隣で帳面をめくっていたフィーネが、あるページで手を止めた。
「第七庫の現場台帳です」
そこには、同じ魔石が二つの欄に分けて記録されていた。
『可動在庫 23基』
『受入検品済・封紋待ち 237基』
フィーネは続けて、中央記録院へ送られた受入報告を確かめる。
『受入検品完了 237基』
その報告には、封紋待ちを記す欄がなかった。
最後に、中央記録院から持ってきた集計記録を横へ置く。
『可動在庫 260基』
「倉庫では分けているのに、中央へ送る報告には『封紋待ち』がありません」
なら、数字が変わった場所はかなり絞れる。
律とフィーネは、記録卓に鎖で括り付けられた分厚い《庫務規程》を開いた。ページの端は手垢で黒ずみ、何度も追記された跡がある。ほどなく、中央集計に関する記述が見つかった。
『受入検品を完了した軍用魔石は、中央集計において次回報告より可動在庫へ算入する』
『封紋は受入当日中に完了すること』
律は、その二行を見たまま動かなかった。公式上の「可動在庫」は、すぐに払い出せる在庫を指す。
以前は検品した日のうちに封紋まで終わった。だから中央では、検品完了の報告を受けた時点で、次の集計から可動在庫へ移しても数字はずれなかった。ところが今は、封紋師が北へ回っている。
第七庫は、城門を通せない237基を「封紋待ち」として正しく残している。中央記録院も、従来の集計手順どおり検品済みの237基を可動在庫へ足している。
誰も数字を書き間違えていない。誰も自分の手順を破っていない。全員が正しく仕事をした結果、数字だけが間違った。
最悪のやつだ。
そう理解した瞬間、律の頭が嫌なくらい冴えた。笑うところではない。
「高城さん?」
「いや」
律は《庫務規程》を閉じた。
「物がないんじゃない。流れてない」
フィーネが倉庫の奥を見る。前線では魔石が足りない。同じ城の中では、79箱が動かずに積まれている。
その二つが、同時に成立していた。
◇
フィーネが《庫務規程》を戻そうとして、隣の棚にある薄い綴りへ目を留めた。
『改善提案・返戻』
中をめくると、一枚だけ見覚えのある名前があった。
『入庫・封紋・払出を別項目で報告する案』
提出者――キリク・ポポ。
「昔、一回だけ出しました」
キリクは荷札を束ねながら言う。
「その時は必要性が薄いって戻った。実際、あの頃は全部その日に終わってましたから」
言い方は、天気の話でもするように淡々としていた。当時、すべての工程がその日のうちに終わっていたなら、律だって「何のために報告項目を増やすんですか」と聞いたかもしれない。
仕組みを作った時には合理的だった。ただ、現場だけが変わり、仕組みは昔のまま残った。
報告項目を分けることも、封紋師の配置を見直すことも、滞留日数を追えるようにすることもできる。案なら、もういくつも浮かんでいた。
「高城さん。これなら――」
「まだ直しません」
自分でも、思ったより早く言葉が出た。封紋師を戻せば北方の中継核修理が遅れるかもしれない。報告欄を増やせば、中央記録院の転記作業がさらに増えるかもしれない。
一つ直した瞬間、別の場所が詰まる。この軍について、律はまだ知らないことの方が多い。
「今日は原因を集めます。直すのは、そのあとです」
そう言いながら、頭の中では改善案同士が勝手に競争を始めていた。止める方にも、だいぶ労力が要る。
フィーネが何かを書き留めようとした時、出庫口の方から作業員の声が飛んだ。
「北方便の戻りは明日の夜だ! 3番路、空けとけ!」
律の視線が止まる。
「第三砦方面は夜明け前に出します」
出庫口へ目を向けた律に、キリクが先回りして言った。
「明るくなってから北街道を走ると、敵の飛行偵察に見つかりやすいんで」
青い札を付けた10基は、まだ目の前にある。
フィーネの羽根ペンが止まった。
「……会議が終わったの、日の出から半刻ほど後です」
夜明け前に出る北方便と、日の出後に決まった北方第三砦への10基。しかも朝の報告では、本日中に防壁維持へ支障が出ると言っていた。
「通常便なら、届くのは明日です」
キリクは、当たり前のことを説明する口調だった。
「急ぐなら竜騎兵に積むか、緊急便を立てるか。ただ、どちらも別の手配になります」
律は今朝の会議を思い返した。
ガルドたちは理由を説明し、自分たちで合意した。レオノーラも、その判断を認めた。
意思決定としては前へ進んだ。
それでも、その決定を運ぶ通常便は会議が始まる前に城を出ていた。
補給便が夜明け前に出るのは、敵に見つからないため。戦況報告が朝に揃うのにも、各戦線から情報を集める都合があるのだろう。
一つずつ見れば、どちらもまともだ。ところが全部合わせると、今日必要だと決めた物が今日届かない。
会議で決められるようになっただけでは、軍は動かない。決定と実行の間にも、まだ詰まりがある。
「フィーネ。10基が通常便に乗らないことを、ガルドさんと補給局へ今すぐ返してください」
「分かりました」
「緊急輸送にするかは、俺たちで決めない。必要な情報を持っている側で判断してもらいましょう」
フィーネは頷くと、腰の小さな通信水晶へ手を伸ばした。
ほどなく、水晶が淡く光る。
『了解した。こちらで手配する』
ガルドの短い声を聞いて、律は倉庫の壁へ掛けられた搬送表へ視線を移した。
決める時刻、締める時刻、出す時刻、前線から情報が届く時刻。別々に見ていたものが、頭の中で一本の線になり始める。
「フィーネ」
「はい」
「昨日見た魔王様の予定に、前線から報告が届く時刻、倉庫の締め切り、各方面の補給便が出る時刻を足してください。竜騎兵が緊急輸送に出せる時間も」
フィーネは一瞬だけ考え、すぐに羽根ペンを取った。
「全部ですか?」
「全部」
律は、倉庫の奥へ続く搬送路を見た。
「この軍の一日を、最初から最後まで並べてみましょう」
物も人も、何もかも足りないわけではない。判断だってできる。
それでも届かないなら、次に見るべきものは時間のつながりだった。




