第五話 その10基、今日中に届けてください
フィーネの通信水晶が、もう一度淡く光った。
『北方第三砦への10基は、竜騎兵団に運ばせる。ラグナには話を通した』
ガルドの声だった。
『今日中に届ける』
通信が切れる。
高城律は、第七庫の出庫口に残された黒鉄箱を見た。
判断は早かった。少なくとも今回は、魔王へ確認を取りに行っていない。ガルドが必要性を判断し、竜騎兵団へつないでいる。
今朝の会議で決めたことが、ようやく実際の行動へ移ろうとしていた。
「よかった……」
フィーネが小さく息を吐く。
「まだです」
答えたのはキリクだった。
彼は黒鉄箱の前にしゃがみ込み、底面を覗き込んでいる。
「これ、地上便用なんで」
「運べないんですか?」
「載せ替えれば運べます」
キリクは箱の左右に付いた太い金具を叩いた。
「竜で運ぶなら下にも固定が要る。空で振れたら、箱より先に封紋が割れます」
説明を終える頃には、もう作業員へ指示を飛ばしていた。
「飛行架を2台。北方用の耐寒布も。封紋は触るな、そのまま載せ替える」
倉庫の奥から鉄骨を組んだ細長い架台が運ばれてくる。作業員たちは木製の滑車を差し込み、黒鉄箱を手際よく移し始めた。
律は「どれくらいかかる」と聞きかけて、やめた。
見れば分かる。
誰も迷っていない。緊急輸送そのものは、珍しくても未知の仕事ではないらしい。できない仕事ではなく、普段の流れから外れる仕事なのだ。
◇
ほどなく、搬入口の向こうから重い羽ばたきが響いた。
空気が押され、壁に吊られた荷札が一斉に揺れる。
現れたのは、首筋に赤黒い鱗を持つ大男――竜騎兵団長ラグナだった。その後ろから、黒い翼を畳んだ2頭の騎竜が低く身を屈めて入ってくる。
近くで見ると、かなり大きい。
一頭だけで、律が前の世界で見慣れていた配送車より明らかに大きかった。爪が石床を擦るたび、乾いた音が響く。
「これか」
ラグナは挨拶より先に荷物を確認した。
「10基。2騎で分ける」
「5基ずつなら安定します」
キリクが答え、二人で固定位置を確認していく。
現場同士の会話は短い。律が口を挟む余地もなければ、挟む必要もなかった。
ラグナが飛行架を一度揺すった。
「今朝、竜騎兵団へ回った6基のうち5基を、今回の出撃に使う」
律は顔を上げた。
「5基?」
「一度まともに飛ばすなら、それだけ要ると言っただろう」
会議で聞いた数字だった。
竜騎兵団が最低限必要だと主張していた5基。
それを、今から使う。
「西方の哨戒は?」
「一便抜く」
あまりにも当然の口調だった。
北方第三砦へ10基を届けるために、竜騎兵団へ配った魔石を使い、西方の哨戒まで一つ削る。
「緊急輸送って、高くつきますね」
「金の話なら知らん」
「そういう意味じゃないです」
ラグナは気にせず、次の留め具を確かめた。
何かを優先するということは、別の何かを後ろへ回すことだ。
会議室でも分かっていたつもりだった。
実際に確保した6基のうち5基が消え、哨戒まで一便減るのを見ると、ずいぶん重さが違う。
「高城」
ラグナが呼んだ。
「お前も来い」
律は騎竜を見る。
騎竜も律を見た。黄色い瞳だった。
「どこまで?」
「第三砦」
「……地上で行く案は?」
「今日中に着かん」
「ですよね」
横でフィーネが笑いを堪えていた。
ラグナは律の顔を見て、少しだけ眉を動かす。
「敵の魔導砲は今は沈黙している。降ろすのも内郭だ。偵察が異変を拾えば、砦へ着く前に引き返す」
どうやら、何も考えずに非戦闘員を連れていくわけではないらしい。
「それなら安心しました」
「顔は安心していないな」
「高いところは聞いてませんでした」
律はフィーネを見る。
「フィーネも――」
そこまで言って、止めた。
一緒に来てもらった方が楽だ。その場で記録を頼めるし、必要な情報も探してもらえる。
だからこそ、違う気がした。
「フィーネは城に残ってください。さっき頼んだ『魔王軍の一日』をお願いします」
「私だけで、ですか?」
「はい。前線から報告が届く時刻、会議、倉庫の締め切り、各方面の便。分かる範囲で並べてください」
つい、並べ方まで指定しそうになる。
律は飲み込んだ。
「見せ方は任せます」
フィーネが一瞬だけ目を丸くした。
「……分かりました」
羊皮紙の束を抱え直す。
「戻るまでにやっておきます」
「お願いします」
言った以上、帰ってから全部作り直さない。
たぶん今日いちばん難しい仕事は、そちらだった。
◇
魔王城の竜騎発着場には、柵がなかった。
城壁から張り出した石床の先は、そのまま空である。
律は端まで歩いて、すぐに半歩戻った。
この設備を設計した種族とは、安全という言葉の定義から確認する必要がありそうだった。
「乗れ」
ラグナが騎竜の背を叩く。
鞍の後ろへ律が座ると、腰と腹、さらに胸へ太い革帯を締められた。
「三本?」
「減らすか?」
「増やせるなら増やしてください」
ラグナが鼻で笑った。
隣の騎竜には魔石5基。律たちが乗る方にも5基が固定されている。
荷役係が最後の留め具を確認し、手を上げた。
「出るぞ」
騎竜が走り始める。
数歩先には、何もない。
「ちょっ――」
地面が消えた。
腹の奥が浮き上がり、次の瞬間には巨大な翼が空気を掴んだ。律の身体が鞍へ押し付けられる。
黒い魔王城が急速に遠ざかっていった。
巨大な浮遊岩盤。その底面を、紫色の魔力光が血管のように走っている。さらに下には雲海が広がり、切れ間から深い紫の森と、空へ届きそうな巨木が見えた。
遠方では、川のような魔力光が大地を横切っている。
律はしばらく何も考えなかった。
ただ見た。
「どうした」
前からラグナの声が飛んでくる。
「……異世界だったんですね」
「今さら何を言っている」
「城の中だと、ずっと仕事してたので」
それでは前の世界とあまり変わらない。
騎竜が大きく傾き、律は慌てて鞍の取っ手を掴んだ。
40階を超えるオフィスで働いていたから、高所には強いと思っていた。
完全な勘違いだった。
ビルには床と窓があった。
今あるのは革帯3本だけである。
安全管理という概念が、急にとても愛おしくなった。
北へ進むにつれ、騎竜は高度を落としていく。
雲の切れ間に黒い点が三つ見えた瞬間、ラグナの手が上がった。先行する騎竜が谷へ入り、律たちも岩肌すれすれまで降下する。
「敵の飛行偵察だ。荷を持って高く飛べば見つかる」
一騎が隊列を離れ、西へ向かった。
「あいつが目を引く。その間に抜ける」
律はそれ以上聞かなかった。
地上便より速い。
だから緊急時には使える。
だが、敵に見つかる危険があり、別の哨戒を削り、囮まで必要になる。
「竜で運べばいい」の一言では、何も説明できていなかった。
山を越えたところで、眼下に荷車の列が見えた。
「あれが今朝の北方便だ」
夜明け前に魔王城を出た通常輸送隊だった。
何時間も前に出発して、それでもまだ街道を進んでいる。
地図の上では一本の線にしか見えない。実際には、荷獣が歩き、御者が手綱を握り、兵士が護衛し、敵を避けながら少しずつ前へ進んでいた。
「物流」という二文字では、そこにかかる時間も、人も、危険も全部消えてしまう。
◇
北方第三砦は、白い山肌へ食い込むように建っていた。
黒い城壁の一部は崩れ、塔の先端が折れている。焼け焦げた外壁を覆うように薄紫色の防壁が揺れ、その表面には黒い炎が焼き付いたような痕跡が残っていた。
通信水晶越しに見た場所だ。
今は、その中へ降りていく。
騎竜が石床へ着地すると、律は革帯を外して地面へ降りた。
「顔が白いぞ」
「仕様です」
「何のだ」
「俺のです」
ラグナが呆れた顔をした。
その間にも荷下ろしは始まっていた。
兵士たちは飛行架から黒鉄箱を外し、封紋を確かめる。そのまま数人がかりで防壁区画へ運び込んでいく。
「10基、受領した!」
砦の奥から声が返った。
「これで今夜は持つ!」
歓声は短かった。誰も作業の手を止めない。
それでも、張り詰めていた空気が少し緩んだのが律にも分かった。
会議室ではただの「10」だった数字が、ここでは今夜を越えるための10基になっていた。
律は周囲へ目を向ける。
崩れた壁を補修する兵士。包帯を巻かれた負傷者。防壁装置の周囲では術師たちが走り回っている。
「次の補修板! 早く!」
煤だらけの術師が叫びながら律の横を駆け抜けた。
その手に抱えられた黒い板には、見覚えのある細かな紋様が焼かれている。
律は足を止めた。
倉庫で見た封紋と似ていた。
視線の先。
砦中央では、何人もの術師が大きな黒水晶――中継核を囲み、欠けた紋様を焼き直している。
キリクが言っていた「扱う術式が近い」というのは、これか。
この人員を倉庫へ戻せば、止まっている237基は動き始めるかもしれない。
その代わり。
ここが止まる。
一つの現場だけを見ていれば、答えは簡単に見える。全体を見た瞬間、その答えが別の問題へ変わる。
律の頭に質問が湧き始めた。
中継核の予備は。修理に必要な人数は。交代要員は。魔石以外の補給は。
一つ聞けば、たぶん二つ増える。
律は止めた。
「もういいのか?」
ラグナが聞く。
「はい」
「もっと聞き回るかと思った」
「俺もそう思ってました」
全部を見ることはできない。
三日間の現状分析で必要なのは、知らないことを全部なくすことではなく、何が敗勢を生んでいるのかを見極めることだ。
分からないものを残すのは気持ちが悪い。
だからこそ、どこで切るかまで含めて仕事だった。
「戻りましょう」
◇
帰りの空で、ラグナが前を向いたまま言った。
「今日の輸送で、西方の哨戒を一度飛ばした。一度なら構わん。毎日なら困る」
律は眼下を見る。
朝に出た通常便が、まだ北へ向かっている。
誰かが余計に動けば、今日のように間に合う。
強い兵がいて、速い騎竜がいて、その場で判断できる者もいる。
魔王軍には、穴を埋められる人間がいる。
だから今日も回る。
そして回ってしまうから、途中に空いた穴そのものは残る。
そこまで考えて、律は思考を止めた。
まだ結論にするには早い。
ただ、覚えておく価値はある。
魔王城へ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。
騎竜から降りた律は、しばらく石壁へ手をつく。
「次は慣れる」
ラグナが言った。
「次がある前提なんですね」
「戦争中だからな」
「嫌な説得力だ」
律は足元の感覚を確かめながら、中央記録院へ向かった。
ここで決まったことが倉庫へ伝わり、荷物になって城を出て、何時間もかけて前線へ届く。
当たり前のことだ。
その当たり前を、律は今日初めて身体で見た。
記録院の一室まで戻り、扉を開ける。
律は足を止めた。
壁一面に、光の帯が浮かんでいた。




