59話 ガラス越しの憧れ
好きなものを前にした時、人は普段見せない表情を見せることがあります。
今回は魚たちに囲まれながら、優斗が千春の意外な一面に触れていくお話です。
どうぞお楽しみください。
「中、広いな~。」
入り口を抜けた先には、薄暗い別世界が広がっていた。
「見て、サンゴっ。それに魚もたくさんいる!」
「どれどれ? うわ、めっちゃ綺麗。」
「でしょー!」
ガラスに張り付くように身を乗り出しながら、目を輝かせる千春。
「あれがミドリイシで、あっちのがハナヤサイサンゴ。」
「ふむふむ。」
「それで、あのキノコみたいなのが―――」
僕はそのまま彼女の言葉を待った。
だけど、いつまで経っても続きが聞こえてこない。
「千春?」
不思議に思って顔を横へ向けた瞬間、至近距離に彼女の顔があった。
艶のある唇はライトの明かりを受けて淡く光り、長いまつ毛が空調の風に揺れている。
「ご、ごめん!!」
「い、いえ!」
反射的に、二人揃って顔を背けた。
心臓の鼓動が一気に速くなる。
体中の血液が顔まで駆け上がってくるのを感じた。
この静かな空間なら、ひょっとしたら千春にも聞こえてしまうんじゃないか。
そう思うほどだった。
「き、気を取り直してですね……。」
早速、何事もなかったように振る舞おうとする彼女。
だけど、水槽のライトに照らされた横顔は色々と隠しきれていなかった。
「あれがウミキノコデス。」
「ソ、ソウナンダ~。」
―――しばらく、お互いの顔を見ることができなかった。
***
「次はこっちみたい。」
「おっ、魚めっちゃいる。」
「水槽も今までより大きい!」
「わぁ~~~!」
小さな歓声を上げながら、千春が無邪気にはしゃぐ。
そんな姿を見ていると、自然と口元が緩んでしまった。
「ナポレオンフィッシュに、トラフザメ! あとマダラトビエイもいる!!」
飛び跳ねる勢いで、彼女が次々と魚を指差していく。
「ほんとだ、すごいな。」
「だよねっ!」
すごいと言ったのは魚たちのことじゃない。
千春の知識量のことだ。
もちろん、彼女はそんなこと気付いていないだろうけど。
「この水族館に来るの久しぶりだけど、ずっと見ていられるなぁ~。」
「そっか。」
「うんっ!」
天真爛漫な笑顔が弾ける。
無意識なんだと思う。
彼女は今、普段の相手の顔色を窺うような話し方じゃなくて、自分の好きなものを夢中で語っている。
とても活き活きとしていて、眩しかった。
魚を通して、飾らない千春に触れられている。
そんな気がして、僕は心の底から嬉しかった。
「ね、優斗君。この魚の名前分かる?」
「舐めてもらっちゃ困るよ。これなら僕でも分かる。」
そう言って、僕は自信満々に答えた。
「ズバリ、カクレクマノミだ!」
「ぶっぶーっ。」
千春は小さく頬を膨らませながら、顔の前で腕を交差させた。
……何だろう。
めちゃくちゃ可愛い。
「正解はハマクマノミでした~。」
「マジか。当たったと思ったのに……。」
「クマノミは良い線だったけどね。」
わざとらしく肩を落とす僕を見て、千春が慰めるように笑う。
「この白い帯が二本だとクマノミで、一本だとハマクマノミ。覚えとくといいかも。」
「なるほど、勉強になるっす。」
「ふふっ。魚のことなら何でも聞いて。」
感心したように声を漏らすと、彼女は少し誇らしげに胸を張った。
《本当に魚が好きなんだな。》
千春の知らなかった一面を見られた気がした。
「千春って魚、好きなの?」
「ん?」
「こんだけ種類がいて、よく見分けられるな~って。」
「え、普通じゃ?」
僕は即座に首を横へ振る。
「僕、千春に言われるまで別の種類だって気付かなかった魚、結構いたよ。」
「ほんと?」
千春は少し意外そうに目を瞬かせた。
「結構、見たら分かるものだけど……。」
そう呟きながら、水槽へ視線を向ける。
しばらく魚たちを眺めた後、小さく笑った。
「でも確かに、魚は好きなのかもしれない。」
そう言ってスマホを取り出し、カシャリと一枚写真を撮る。
「特に、水族館にいる魚だけどね。」
画面を僕に向ける。
そこにはハマクマノミが映っていた。
鮮やかなオレンジの体に、一本だけ走る白帯。
そのコントラストがよく映えている。
「どの魚もみんな綺麗で、堂々としてて……。」
千春はガラスの向こうを泳ぐ魚たちを見つめた。
「なにより、自由だから。」
その声は小さくて、どこか遠かった。
「私に無いものばかり持ってるから。」
近いのに、触れられない。
水槽の中を泳ぐ魚たちへ向けるように、千春はそっと手を伸ばした。
まるで、ないものねだりをするかのように。
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