第二信 灯台へ行く前に、名前のない手紙は海を呼
封蝋が割れた音は、小さかった。
けれどそのひびは、紙だけではなく、部屋の空気そのものに走ったように思えた。
ユノの指先で、青い蝋が乾いた花びらみたいに崩れていく。
開けるつもりはなかった。
だが封筒のほうが先に口を開いたのだ。
「だから開けるなと言ったんだよ!」
モルネの怒声が飛ぶ。
その瞬間、仕分け室の闇が濃くなった。
消えたはずの青いランプの芯から、かすかな燐光が漏れ、それが逆に室内の異様さを際立たせる。
ユノは封筒を取り落としかけた。
中に便箋が入っている。
紙は白ではなく、長く海水に晒された骨のように青白い。
触れた覚えはないのに、手のひらに冷たさではなく、ひどく古い水圧の重みが残っていた。
「ユノ、手を離しな」
「……離せません」
嘘ではなかった。
糊で貼りついたように、指先が封筒から離れない。いや、離すという感覚自体が、さっきから少しおかしい。
自分の体の輪郭が、海に浸したインクみたいに曖昧になっていく。
そのとき、天井の向こうで巨大な影がふたたび動いた。
ぬるり、と。
魚の泳ぎではない。
鯨より長く、蛇よりもしなやかで、骨のない夜そのものが通りすぎていくようだった。膜越しの海水がたわみ、支局全体がわずかに軋む。
ユノの喉が鳴る。
「……あれ、何ですか」
モルネは答えなかった。
代わりに素早く作業台を回り込み、ユノの右手首を掴んだ。細い指なのに、錆びた錨のように強い力だった。
「目を閉じな」
「でも――」
「閉じろ!」
局長補佐の声は、普段の毒舌とはまるで違った。
ユノは反射的に目を閉じた。
次の瞬間、額に冷たいものが押し当てられる。
塩だ。細かく砕いた白塩が、皮膚の上でじりじり熱を持つ。
モルネが何かを唱える声が聞こえる。
郵便局の呪式だ。封印便、回収不能便、逆流便――海底郵便局には、普通の役所にはない祈りと手順がいくつもある。
しばらくして、重苦しい圧力が少しだけ遠のいた。
「……もういい。開けな」
「え?」
「どうせ半分開いた。なら中身を見たほうが被害が少ない」
被害、という言い方が嫌に引っかかった。
ユノはゆっくり目を開ける。
ランプの火はまだ戻らない。
暗い室内の中心で、封筒だけがかすかに発光していた。
「読め、ただし声に出すな。見えたことだけを私に言え」
ユノは息を整え、便箋を引き抜いた。
文字は、最初は読めなかった。
王国の公用語でも、海商人の記号文字でもない。見たことのない曲線と点、波のように繰り返す文様。
なのに不思議なことに、眺めているうちに意味が染みこんできた。
読む、というより、沈んでいく感覚だった。
――返送不能。
――受取人、未定。
――差出人、海へ帰属。
――配達対象、落とし子第七号。
「落とし子……?」
そこで、視界が裏返った。
海。
底の見えない、黒ではなく群青の海。
その底に、白い建物が沈んでいる。郵便局だ。アズール支局よりもはるかに古く、塔のように高く、窓のひとつひとつに青い火が灯っている。
階段の前に人影が立っていた。
自分だ。
今より少し幼い顔。
けれど間違いなくユノ自身が、白い郵便局の入口に立っている。
服はずぶ濡れで、両手に何かを抱えていた。箱だ。木箱ではない。ゆりかごに近い形をしている。
そこまで見えた瞬間、映像が揺れる。
白い郵便局の扉が開く。
中から誰かが現れる。顔は見えない。長い外套だけが見えた。
その人物がユノに向かって手を伸ばす。
そして声が聞こえた。
――今度こそ、君を海に返す。
「っ!」
ユノは便箋を落とし、よろめいて後ずさった。
背中が棚にぶつかり、未仕分けの封筒が床へ散らばる。
呼吸が荒い。胸の奥で心臓が不規則に暴れていた。
「何を見た」
モルネの声は静かだった。
怒っていない。だが、その静けさがかえって怖い。
ユノは喉を押さえながら答えた。
「……海の底に、別の郵便局がありました」
モルネの目が細くなる。
「白い建物で、塔みたいに高くて……入口に、僕がいたんです」
「今のおまえかい」
「少し小さいです。でも僕でした。たぶん」
「他には」
ユノは迷ってから言った。
「“落とし子第七号”って、書いてありました」
その言葉を聞いた瞬間、モルネの顔色が変わった。
いつも死人みたいに落ち着いている老女の表情に、はっきりした緊張が走る。
彼女はすぐに便箋を拾い上げようとしたが、指先が触れた瞬間、青白い紙は水に溶けるように崩れた。
跡形もなく。
残ったのは、机に滲んだ丸い水染みだけだった。
「消えた……」
「見せる相手を選ぶ手紙だね」
モルネは低く言った。
「ユノ。その件は誰にも話すんじゃない」
「でも――」
「誰にもだ。局長にも、上席にも、港の人間にも」
モルネはそこで言葉を切り、天井の暗い海を見上げた。
「特に、“海鳴りの司祭”にだけは知られるな」
その名前に聞き覚えはなかった。
だが、知らないのに嫌な感じがした。子どものころ見た悪夢の残り香のような、不快さだけが先に胸へ落ちる。
ユノが何か尋ねる前に、仕分け室の外で鐘が鳴った。
甲高い、短い三打。
陸の時刻を知らせる鐘ではない。
局内の緊急伝令だ。
モルネが舌打ちする。
「朝から厄日だね……」
扉が開き、小柄な少年局員が顔を出した。息を切らし、髪からまだ水滴を落としている。外の水路から直接走ってきたらしい。
「モルネさん! 北岬から急便です!」
ユノとモルネは同時に振り向いた。
「何だって?」
「灯台守のエダ・フォルンが、昨夜から行方不明だそうです!」
空気が凍った。
ユノの胸ポケットの中で、さっきの妹からの手紙が、ひどく重く感じられる。
「そんな……火事は三日後のはずだ」
思わずこぼれた独り言に、モルネが鋭く目を向けた。
「断片は断片だよ。順番まで正確とは限らない。だから厄介なんだ」
少年局員は事情が飲み込めないまま、おろおろしている。
モルネは即座に指示を飛ばした。
「北岬への外便記録を全部持ってきな。過去ひと月分だ」
「は、はい!」
少年が走り去る。
モルネはユノを見た。
「行くよ」
「北岬へ?」
「他にどこへ行くんだい。おまえの見た火事と、行方不明が同じ線なら、まだ間に合うかもしれない」
「勤務外じゃ」
「今から特例公務だ。文句あるなら帰って寝な」
「ありません」
即答だった。
ユノは外套を羽織り直し、胸ポケットの手紙を確かめる。
妹より、とだけ書かれた封筒は、変わらず静かだった。だが先ほどの“まだ、間に合う”という残り声が、まだ耳の奥に残っている。
仕分け室を出る直前、ユノは一度だけ振り返った。
暗い作業台。
溶けて消えた便箋の水染み。
そして、誰もいないはずの室内の隅で、青いランプの消えた硝子がかすかに揺れた。
何かがまだいる。
そう思ったが、口には出さなかった。
⸻
海底郵便局から地上へ戻る階段は、行きより長く感じられた。
上へ進むごとに、海の圧が遠のいていく。
代わりに、陸の朝が近づいてくる。
岩の扉を抜けたとき、東の空が薄く白み始めていた。港では漁師たちが一日の支度を始め、網の匂いと濡れた木箱の匂いが潮風に混じっている。
だがユノの心は妙に冷えていた。
北岬灯台の火事。
行方不明の灯台守。
落とし子第七号。
海に返す、という謎の言葉。
頭の中で並べても、一本の線にならない。
まるで違う封筒に入った別々の手紙を、無理やり一つの宛名で束ねようとしているみたいだった。
「モルネさん」
「何だい」
「落とし子って、何ですか」
老女はしばらく黙って歩いた。
返事をしないのではなく、どこまで言うべきか測っている沈黙だった。
「海底郵便局にはね、たまに差出人のない子が来るんだよ」
「子?」
「赤ん坊さ。嵐の夜に流れ着いたり、沈んだ船の残骸の中にいたり、ありえない深さの海から拾われたりする」
ユノの足がわずかに止まる。
モルネは構わず続けた。
「親も戸籍もない。誰が置いたかもわからない。そういう子を昔は、海の落とし子と呼んだ」
「……じゃあ第七号って」
モルネは前を向いたまま答えた。
「さあね。数えたことはないよ」
明らかな嘘だった。
だがそれ以上追及する前に、岬へ向かう荷馬車の御者がこちらへ手を振った。局の外套に気づいて、便乗させてくれるつもりらしい。
モルネが顎で合図する。
「乗るよ。話は道すがらだ」
ユノは頷きかけて、ふと海のほうを見た。
朝の港。
まだ穏やかな波。
船影の隙間を縫うように、小さな青い何かが漂っているのが見えた。
郵袋だ。
また沈信が浮かんでいる。
しかも一つではない。二つ、三つ。
沖のほうから、まるで季節外れの鳥の群れみたいに、青い郵袋が次々と港へ流れ込んできていた。
ユノの背筋が冷たくなる。
沈信が大量に上がるのは、嵐のあとか、大きな事故の前触れだ。
そして、そのいちばん先頭を漂っていた一袋には、見覚えのある三日月と鍵の紋章が、はっきりと押されていた。
モルネもそれを見たらしい。
老女の口元が、初めてわかるほど険しく歪んだ。
「……最悪だね」
「何が来るんですか」
モルネは答えなかった。
ただ、海から目を離さずに、ぽつりと言った。
「おまえ宛ての便りが、まとめて来る」
その言葉の意味を問う暇もなく、
港の沖で、まだ朝なのに灯台の火が上がった。




