第九話
かつて遺跡の中で鬼を見つけた男が居た。その男に憧れた者達が居た。
鬼を連れ帰った日を皮切りに、男の仲間達は次々と変死を遂げ、遂には先日男が最後の犠牲者となった。
そんな男が住んでいた家は今現在封鎖されており、中には誰も居ない。
ただ男が死んだ現場である書斎にこびり付いた死の後が残り、腐敗しそうなものが取り除かれているだけだ。
壁と床に張り付いた血痕、そして微かに臭う死の匂い……それが確かにそこで男が死んだことを物語っていた。
そんな死の起きた場所に、白雪は居た。
白雪と美空の精神が溶け合ってぐちゃぐちゃになった今、彼女には己がどちらであるとはっきり認識する術がない。
悲しい程にその境界はぼやけてしまい、既に彼女は己を総称して白雪とするしかなかった。
似過ぎてはいるものの同一ではない精神が生み出す不和が少しずつ消えていくのを彼女は実感している。
それと同時に、二人の精神が消滅して一つになっていくのもまた感じ取っていた。
今実際に存在する人格は『一鬼を信じられなかった白雪』と『一鬼を信じたかった白雪』だけだ。
前者は白雪と美空の人格が統合されつつあることで変化しつつあるが、後者は揺らいでいない。
肉体の全ての主導権は前者にあるが、精神的な強さでは後者の方が圧倒的に上であろう。
もしも後者が主導権を得たならば、一鬼に懺悔をし、そのまま殺されるのを待つ筈だ。
それ程に『一鬼を信じたかった白雪』という人格は純粋で、彼女の良心そのものなのだ。
「……ここで、私は……父さんを、神谷明を殺した。まだ二日しか経っていないなんて……不思議な気分だわ」
『……悲しい?』
「少し、ね。でも、後悔はしていないわ……復讐は遂げた。別の形でする分岐もあったのでしょうけれど……私達には必要ないの」
『そう……なら、どうして戻ってきたの?』
「覚悟とやらを決める為よ。覚悟が無ければ……立ち向かえない」
温泉での碧とのやり取りの後、白雪は過去を振り返る為に神谷家に来た。
妖狐としての過去は既に何度も振り返ったが、美空としての過去はそこまで振り返っていない。
だからこそ、彼女は様々なものを確認しながら過去を振り返っている。覚悟の材料となるものを探している。
過去を振り返れば振り返る程に現れる懐かしさと虚無感に胸を打たれながらも、彼女はこの家に来た。
一鬼へのコンプレックスと歪んだ依存に塗れた十八年間は、この家で繰り広げられたのだ。
ここが神谷美空の始まりであり、白雪が己を振り返るべき大事な要素であった。
一鬼と共に過ごした十七年間も、喪失と共に過ごした一年間もここにあった。ここで始まり、ここで終わった。
既に神谷美空は死に、今ここに居るのは白雪という妖狐だけだ。もう神谷美空は死んだ。
だが、死んだ筈の神谷美空の部分にも覚悟が必要だった。白雪が最後の覚悟をする為には、逃げ続けた少女が覚悟を決める必要があった。
だからこそ、ここで彼女は神谷美空の過去を振り返る。
「私はここで育った……兄さんにあやされて、父さんと母さんに愛されて。でも、それは違った。愛は確かにあったけれど……兄さんに対してのそれと比べればゴミのようなものよ」
『一鬼と比べても詮無いだけでしょう?』
「そうね。私には光が無い。兄さんにはある。だから、差が出るのは当然」
『いいえ、差が出たのは、貴方達の精神力の差故よ。貴方と一鬼の間にあった最も大きな差は精神力……それは、光があるかないかの問題ではないわ』
「……だから、何だと言うの?」
良心が語る残酷な事実に表情を歪めながらも、白雪はそっと壁に張り付いた血痕に触れた。
それは父の血であり、彼女がここで親殺しをしたという証だ。もうここが彼女の居場所ではない証拠だ。
妖となり、神谷美空という己を捨て、彼女は白雪となった。ここでそう宣言した。覚悟した。
しかし、実際は覚悟しきれていなかった為に彼女は今ここに居る訳で、その覚悟は脆いものであったということを意味している。
彼女は臆病で、覚悟しきれず、ただただ覚悟できたつもりになっていただけだ。
良心の言葉通り、白雪と美空の精神は一鬼のそれと比べれば遥かに脆弱である。
どんなに彼女が努力しようがその差は埋められないだろう。資格を持たぬ彼女では、届かないだろう。
碧の言った通り、超越者になるから強くなるのではなく、強いから超越者になるのだ。
資格があるから強くなれるのではなく、強いから資格を得るのだ。
そこを履き違えていた彼女が超越者に勝てる筈が無かった。叶う筈が無かった。
『もう、気付いているのでしょう?……ここに来る必要なんてないことに。貴方が向き合うべきは、この場所の過去じゃなくて、私よ。貴方が切り離した良心よ』
「……私はそうは思わないわ。ここで真に神谷美空を捨て去ってこそ、私は……」
『捨てる? 過去をなかったことにするの? 苦しみも、喜びも、何もかもを? 貴方が歩んで来た道の全てを?』
「そうよ。ここで神谷美空を私は捨てる……一鬼が神谷一鬼という付加価値を捨て去ったように。こんなものがあるから、覚悟できないのよ。欲しいものを掴む為には、邪魔なものを全部捨てなければならないの」
個々がその手にすることができる量には限りがある。
二つしかない手で絶対に相手を離すまいと誓う為には、それ以外の全てを捨てるしかない。
一年前、一鬼が碧を守る為にそれ以外の全てを……その命すらも放棄したように、可能な限り身軽にならねば、光を手に入れることは困難だ。
超越者達は光を守る為に、まさしく己を含む全てを投げ打っている。その全てをかけている。
だからこそ彼らは強いのだと白雪は考えているし、その考えが間違っているとは思わなかった。
可能な限り拾おうとすれば、いずれ限界が生じてしまう。
まさしく全てを守り切れなかった一鬼は、一年前一矢も羽月も愛梨も失った。
兄貴分の自殺を止められず、親友が変質した緋蓮に食われた時も傍に居られず、愛した少女の今際にすら立ち会えなかった。
その全てがまさしく白雪が撒いた種であり、愛梨に至っては彼女自身が殺している。
結局、一鬼は碧を除き、彼女から大切な者達を守り切れなかった。
その様子から、改めて彼女は拾える物を拾うことが愚かだと悟ったのだ。
『……その考えが間違っているとは言わないわ。そういうやり方もある。だけど……その程度のものすら受け入れきれずに、一鬼を受け止めきれる筈がないわ』
「受け止める為に余裕を作っているのよ。一鬼ですら、一年前そうやって失敗した。私は同じ轍を踏むつもりはないわ」
『確かに力の伴わない信念は脆いわ……だけど、一鬼から大切な者達を奪ったのは貴方……いいえ、私達よ。自ら奪っておいて、他人事のような物言いは止めなさい』
「実際私が直接殺したのは、あの思い上がった半妖だけよ? 高橋一矢は自刃で死んだ訳だし、佐藤羽月のあの死に方に関しては、私も予想していなかったわ」
『それでも……それでも、『虹色の肋骨』という死を振りまく毒をばら撒いたのは他でもない白雪……私達よ』
良心の言っていることは部分的には正しいが、しかし間違っている部分が多々ある。
実際に『虹色の肋骨』を生み出したのは白雪であって、その時点で既に良心の部分は切り離されていた。
つまり、一鬼を手に入れる為に画策したのも、実際に行動したのも、全部良心には関係のないことなのだ。
それでも良心はそれを関係ないことだと思わずに、自身も罪を背負うべきだと考えている。
白雪からすればその態度は傲慢以外のなにものでもないが、しかし超越者とはそういうものなのだろう。
逃げれば良いものを態々背負い、そのまま背負い続け、それでも進むその真っ直ぐさが彼女は嫌いだった。
一鬼の居ない二百年の間その代りを務めたブルー・シャーマンも、そのようなことさえしなければ弱り切ることはなかっただろう。
その頑なな直進が彼女に機会を与えてくれたのだから喜ぶべきなのだが、しかし彼女は素直に喜べなかった
今彼女がこうしてここに居るのは、全てが彼女の思い通りに行かなかったからだ。
決して己の弱さ故ではない……そう言い聞かせて、彼女は歩を進める。
「それが?」
『貴方は……本当に何を言ってもダメなのね。神谷美空を捨てたのなら、もうこの肉体も必要ないでしょう? 他の肉体を探せば良いわ』
「愚かなことを言うわね。それができるなら、とっくにしているわ。もう、無理なのよ……今から他の体に乗り移っても、超越者に殺されるだけ。この体だから……神谷美空という付加価値があるからこそ、私は超越者に見逃されたの。他の肉体になれば、今度は一瞬で殺されるわ」
『神谷美空を捨てたと言いながら、そこに頼り切っているなんて……おかしいと思わないの? 神谷美空はここで死んだのでしょう? なら、貴方はただの白雪。一鬼が容赦する必要はない』
「それは貴方の価値観でしかないわ。私はそれでも構わない。この歪さがあってこそ、私は生き残れるのよ」
いかに歪であるかを自覚しながらも、白雪は美空という付加価値を利用する。
誰よりも付加価値にされることを嫌っている美空が、白雪として己を利用しているのだ。
現在の白雪は実質美空と白雪の融合が限りなく果たされ、もう戻れない状態にあった。
どんなに矛盾していても、一鬼を手に入れることさえできれば彼女はそれで良い。
一年前も彼女の思い通りにはならなかったが、今回はそれ以上に彼女の思い通りにならないだろう。
超越者という圧倒的な存在を前にしては、彼女程度では何もできないのだ。
況してや、完全に恐怖に負けてしまった今の白雪では、立ち向かうことすらできない。
どんなに勇気を振り絞っても、彼女の脳裏に焼き付いた金虎の恐怖がそれを破壊する。
月の裏側からほんの数秒で戻って来る速度、そして再生能力を封じる攻撃……そのどれもが圧倒的過ぎた
その圧倒的な力が全力ではないことが分かってしまうからこそ、彼女は恐怖に囚われている。
彼女を絶望させた圧倒的な力も、金虎にはただのお遊び程度のものなのだ。
その力の差の大きさは彼女の想像を遥かに上回っており、抗う勇気を容易に砕く程である。
だが、このまま諦めることは彼女にはできない。それでは、逃げ場を己で絶ってまで進んだ意味がない。
『……本当に何を言っても無駄なのね』
「今更ね。それにしても……懐かしいわ。この全てが私の居場所……私に熱を与えてくれた男にとっての家。私にとっての……美空にとっての」
白雪は美空としての記憶を噛みしめながら、ゆっくりと階段を上っていく。
体重を人間の平均体重まで誤魔化した状態ですら軋む音を立てる階段は、しかし随分と頑丈であった。
明が一鬼と出会う前に建てられたというこの家は、もうすぐ築二十一年になる。
彼女達と共に年を取り続けたこの家は今現在誰が所有権を持つのか、少しばかり彼女は気になった。
だが、そのことを考えるのは詮無いことであり、神谷美空という一面を捨てきれていない証拠だ。
階段を上り切り、そのまま白雪は神谷美空として過ごした部屋へと向かう。
扉をゆっくりと開ければ、そこにあるのは以前となんら変わらぬ彼女の部屋だ。
実際は多少警察によって証拠探しの為に弄られているが、生憎そのようなものはここにはない。
神谷明を殺した凶器は白雪の腕であって、殺しに使われた得物はどこにも存在しないのだ。
妖のことを知る佐村敬吾も碧が犯人だと思い込んでいる筈なので、彼女を追う者は居ない。
そもそもが、地球上は愚か、宇宙にすら容易に瞬間移動で逃げられる彼女を人間如きが捕まえることはできないのだ。
人間達に関しては、彼女は一切の心配をしていない。
「……ここではダメだわ。何も得るものがない。一鬼の……部屋は」
『……そこは違うわ。貴方が向き合うべきは―――』
「黙っていなさい。耳障りよ」
白雪は美空の部屋を後にすると、一鬼の部屋に向かった。
この一年間一度たりとも入らなかった兄の部屋……そこに、彼女は踏み込む。
今まで避け続けたその場所は碧がこの一年間使った部屋でもあり、兄の所有物はそのまま受け継がれている。
彼女はそのことに若干の苛立ちが再燃するのを自覚しながらも、ゆっくりとドアノブに手をかけて、扉を開いた。
生活感がまるでないその部屋に、彼女は若干の恐怖を覚えながらも踏み入る。
一鬼の匂いも碧の匂いもしない、無臭と言える程に匂いが断たれたその部屋を白雪は見渡した。
埃一つない部屋の中で、以前と変わらず本棚や机などの家具が置いてあり、兄が愛用していたパソコンもある。
だが、そこにはまるで生が感じられない。本当にここで碧という妖狐が一年間過ごしたのか分からない程に、何も感じない。
生前の碧も一鬼も、ここまで無機質さを感じさせる部屋などにはしなかった筈だというのに。
恐ろしい程に生を感じられない部屋の中を進みながら、彼女はそこで漸く違和感の正体に気付いた。
「そうか。ここには……怨念が少しもないんだ」
『……姉さんが全て吸収したのね。超越者は怨念を吸収する……それを選択的に行えば、この部屋だけの怨念を吸収するのは不可能ではないわ』
「一鬼の身の回りのものには、その怨念が滲みついていた……それを食らって、今まで精神を保っていたというの?」
『そのようなことをせずとも、今の姉さんは絶望しないわ。寧ろ、それは己を律する為のものである筈よ』
「……一鬼に尻尾を振るしか能がない癖に、余計なことを」
白雪は内心舌打ちをしながら、一鬼の名残が一切残っていない部屋を後にした。
一鬼との思い出に思いを馳せるよりも、碧への嫌悪感と理解できない不気味さが勝ったのだ。
過去を振り返ろうにも、碧の影がちらついて彼女はどうしても気が散ってしまう。
血が繋がっているだけの姉が言った言葉が脳裏で何度も再生され、彼女の心を惑わすのだ。
姉が己を愛してくれていたのかもしれないという期待が彼女を揺らし、苦悩を生み出す。
一鬼ならばその苦悩も最終的に乗り越えるのだろうが、白雪にはそれはできない。
痛みから逃げ続けて来た白雪と美空では、恐怖すら感じさせる程の混乱を制することはできなかった。
格下とばかり戦い、格上と戦う際には必ず奇襲か搦め手を使って直接の戦闘を避けていた彼女は、実際に壁にぶつかった際の対処法が分からないのだ。
立ち向かう覚悟の仕方も、覚悟した後にどうすれば良いのかも知らず、彼女はこれまで育ってきた。
その弱さを今まで支えてくれた一鬼はここには居ない。
彼女一人でそれと向き合わねばならない訳だが……しかし、彼女にはそれができないでいた。
「……ここが駄目なら、いったい私はどうすれば良いの……?」
『言った筈でしょう。私と向き合わない限り駄目だと』
「ここが駄目なら、何処で……! 墓……あそこなら、きっと……」
『ちょっと、私の話を……』
「ふふ……まだ大丈夫。行けるわ」
一鬼の名残を感じる為には、まだ墓場に行くという手が残されている。
初めて一鬼達が倒した『虹色の肋骨』であるイエロー・レディと、彼にとっての兄貴分であった高橋一矢が死んだ墓地には、間違いなく一鬼の怨念が漂っている。
それも、妖としての彼のそれではなく、人間としてのそれが……純粋な怒りと憎しみが。
イエロー・レディは所詮人間が偶然妖になれただけの存在で、彼女からすれば塵芥でしかない。
だが、一鬼の持つ怨念をその地にこびりつかせるという意味では、非常に役に立った。
イエロー・レディは噛ませ犬としての役割だけでなく、それ以上のことをしてくれた訳だ。
そのことに満足しながらも、白雪は念の為に耳と尻尾を隠して墓地へ飛ぶ用意をした。
血にまみれていた服を能力で妖狐の里の跡地に飛ばしてしまうと、下着も上着も履き替える。
尻尾をすぐに出すことができるように多少弄りながらも、彼女はすぐに着替え終えると、そのまま玄関に瞬間移動した。
そして、流れるようにブーツを手に取って履くと、早速墓地に向かうことにする。
白雪か口角を歪めながら、すぐさま良く知った墓地、更に言えば高橋家の墓石の前に瞬間移動し―――見知った少女がそこに居ることに驚いた。
「―――!?」
「?……わっ!?……み……美空!?」
「奈央……?」
「や、やっぱり美空だ! 心配したんだよ!」
そこに居たのは、美空の親友であった荒木奈央であった。
神谷家の墓石の前に居た少女は白雪に気付くと暫くの間固まっていた。
しかし、すぐに眼尻に涙を浮かべながら安堵の表情と共に彼女に歩み寄って来る。
前もって耳と尻尾を隠していたこと、更にはそれによってこの少女を殺す必要が生じることがなかったことに安堵しながらも、彼女は苦笑した。
一鬼以外は全て捨て去ったつもりでいたが、まだ捨てきれていないことを自覚したからだ。
白雪はまだ神谷美空の部分を捨てきれておらず、友人である荒木奈央を切り捨てられない。
一瞬だけ勇気を出せばこの場で殺すことも不可能ではないが、しかしその後に襲い掛かる後悔は途方もないものであろう。
それが分かってしまう為、彼女は目の前で無防備を晒す少女を殺せない。
結局の処彼女は口だけで、何一つ覚悟しきれていないのだ。揺らぐだけで、決意ができないのだ。
だから、超越者に立ち向かう覚悟が揺らぐ。
「心配をかけてごめんね。それよりも、奈央はどうしてうちの墓に?」
「あっ……その……私は……美空のお兄さんに……会いに」
「……えっ?」
「私……あの人のことが好きだったの」
「何を……言っているの?」
白雪は奈央の言葉に咽が詰まるのを感じながらも、何とか声を絞り出した。
今まで彼女が神谷美空として見て来た荒木奈央という少女は、一鬼を苦手としていた筈だ。
だというのに、その少女が一鬼のことを好きだったのだなどと言っている。
もしかしたら、好きだったが諦めようとしたのかもしれない。その異常性故に最初から諦めていたのかもしれない。
だが、彼女はいったい何故奈央が今になってそのようなことを言い出すのかが理解できなかった。
二人が出会ったのは、中学一年生になった頃で、一鬼との接点はなかった筈だ。
強いて言えば、彼女が奈央を家に招いた時に何度か会ったくらいで、その程度で惹かれることはない。
一鬼の強さは多くの者にとっては恐怖を見出すしかないものであり、彼の内側に入った者にしか魅力的には映らないものだ。
では、いったい何処で二人の線が交わったのかと言えば、彼女には想像もつかない
何かがおかしいが、その何かを彼女は特定できないのだ。
「私ね……今までずっと手が届かないと思っていたの。あのひとは眩し過ぎて、強過ぎて……私なんかじゃ隣に居ることはできないって、分かっていたの。だけど、一年前あのひとが死んだって聞いて、分かっちゃった……私、本当にあのひとが本当に好きだったんだって」
「……最初に会ったのはいつ?」
「小学生だった頃だよ。ねぇ、知ってる? 私達、実は小学校も同じだったんだよ?」
「あ……そうか。そこで……」
「うん。美空の考えている通り、私はそこであのひとに会ったの。そこで色々と助けて貰って。結局何一つ想いは伝えられなかったけれど……」
白雪は思わず額を押さえながら、知らない処で一人の人間を助けていた一鬼に呆れた。
彼は常に誰かを助ける訳ではないし、飽くまで己が助けたいから助ける。
守るべき存在を第一にし、それを危険に晒すようならばそれ以外を切り捨てる冷徹さを持ってはいるが、彼は冷血ではない。
余裕があるからこそ、彼はその時その時で可能な限り手を伸ばすのだ。
偶然そこに奈央が当て嵌まってしまい、その強さが隠していた優しさに気付いてしまったのだろう。
一鬼の在り方は大多数からすれば恐怖でしかないが、一部の者達を強く引き付けるのも確かなのだ。
「そう……でも、もう兄さんは居ないんだよ?」
「うん。だから、あの時助けてありがとうって……ここで言っていたの。美空は、この二日間何処に居たの? 美空のお父さんは……その……」
「私だよ」
「……えっ?」
「私が殺したの……あの男は。私を黙殺し続けたあの人間には、当然の報いよ」
白雪は衝動に身を任せて憎しみの言葉を吐き出し、微笑んだ。
彼女は奈央を殺すつもりはないが、ここで完全に美空という要素を排除することにした。
今ならばまだ人間の世界に帰ることができるが、しかしもう彼女にそのつもりはない。
神谷美空として再び歩んでいくのは、もう彼女には苦痛なのだ。必要ないものなのだ。
だから、ここで完全に断ち切る。覚悟をする為に必要なのは、やはり捨てることなのだと彼女は悟る。
いかに間違ったものであると言われようとも、それが彼女の覚悟の仕方だ。
「美空……な、何を言っているの?」
「ねぇ、知っている? つい先日現れた光の塔のこと」
「えっ!? う、うん」
「あれはね……化け物達の巣窟なのよ。私みたいな―――ね」
白雪は笑顔のまま、擬態を解いてその耳と九つの尾を露わにした。
それに驚いて声を上げることすらできない奈央を前にしても、彼女は心を揺らさない。
美空にとっての居場所を完全に消し去る為にも、目の前の少女を圧することに集中するのだ。
今まで彼女には逃げ場があった。神谷美空として生きるという逃げ場が、確かにあった。
だが、目の前に居る少女の心を壊してしまえば、彼女はもう本当に戻れなくなる。
最後のブレーキである大切な存在達を破壊することで、彼女は完全に逃げ道を断つ。
超越者達に立ち向かう為には、あらゆる逃げ場を断たなければ駄目だと白雪は確信している。
金虎により植えつけられた恐怖を取り除くことは叶わないが、それに耐えることはできる筈だった。
だから、彼女はその勇気を振り絞る為に、逃げ場を一切排除することにしたのだ。
それがいかに愚かな選択肢であるかを知ることもなく、ただ己の望むままに、進み始めてしまったのだ。
悲しい程に愚かなその選択を止めてくれる者はもう彼女の傍には居ない。
誰も止めてくれないが故に、彼女は再び間違う。
「なん……で……それ……つくりもの……だよね? それに、その口調……どうしたの?」
「残念ながら、これは本物よ。私は―――化け物なの」
高橋家の墓石を尾の一本を伸ばして粉砕しながら、白雪は微笑んだ。
高橋一矢の遺骨が納められた墓石は完全に破砕され、そこから一鬼の怨念が漏れ出す。
この墓地の中でも最も濃い怨念を向けられたそこから溢れ出した怨念に触れ、彼女はほんの少しの安らぎを得た。
懐かしい一鬼の怨念と同化しているという事実が彼女を癒し、彼女に力を与える。
超越者としてではなく、神谷一鬼として彼が抱いた怨念が、確かに美空の部分に最後の勇気を与えてくれているのだ。
未来への希望だけでは恐怖を乗り越えらえないが、過去の温もりがあれば話は別だ。
白雪の中にあった恐れを完全に振り切るには余りにも心許ない量の温もりだが、彼女にはそれだけで十分だった。
その僅かな勇気が生み出す行動力で目の前の少女を壊し、そこから生まれる強迫観念で彼女は恐怖を忘れる。
超えることができないのならば、それを感じなくなるしかない。無視するしかない。
かつて佐村優希がしたように、麻痺するしか道は残されていない―――そう彼女は思った。
だから、敢えて間違えた道を進む。神谷一鬼が嫌う世界に踏み入る。
「……私を殺すの?」
「……? 貴方、怖くないの?」
「怖いよ。だけど……あのひとと比べたら、怖くない。だって……あのひとは、こんなに弱弱しくなんかないから」
「……私が弱い、ですって?」
「うん。他人を切り捨てることでしか前に進めないひとは弱者だって、あのひとは……美空のお兄さんは言っていたよ」
白雪は苛々しながらも、その衝動に身を任せずに堪えた。
奈央をここで殺すのは簡単だが、それでは明の時と何一つ変わらない。
覚悟をする為に必要なのは逃げ道との決別であって、殺しによる別離ではないのだ。
優希がかつて一鬼に為したように、決別する意思を明確にすることこそが重要なのであって、殺すのが目的ではない。
明の時は最大の目的は白雪としての復讐であって、美空の逃げ場を潰すことは二の次であった。
だからこそ、殺すという短絡的な行動に出ることができたのだ。
殺すのは簡単なことだが、決別を明らかにすることこそが、今白雪がすべきことであった。
「そう……確かにそうね。でもね、私はそんな強さは要らないの。私は強くなくて良い。ただ……光さえあれば」
「私を殺すの?」
「ええ、そのつもりよ」
「そうなんだ……良いよ、私を殺しても。本当にその覚悟があるのなら、やってみて」
いつもの気弱さは何処へ行ったのか、奈央は恐怖と戦って死を受け入れた。
その様に白雪は己の中で何かが大きく揺れたのを感じながら、衝動に身を任せそうになってしまう。
だが、耐えねばならない。殺すのは最終手段であって、飽くまで本質は決別なのだ。
殺すことでの決別は一方的なものであって、実際は互いに道を違えた決別と比べると弱い。
向き合って決別できないから殺す……そういう短絡的な考えに辿り着くのは簡単だが、しかし彼女にはできなかった。
はっきりと向き合うことでこそ、白雪は神谷美空を完全に殺せる。
彼女にとってのタイムリミットである一鬼の覚醒まで、もう時間は二日程度しか残されていない。
既にその気配は世界を埋め尽くす程に膨れ上がっており、もうすぐ蘇ることを嫌と言う程知らせているのだ。
その限られた時間で覚悟をするには、半端な決別では力不足だった。ただ殺すだけの半端な決別では、まるで役に立たない。
「……あの女と似た目をするのね」
「えっ?」
「柿坂愛梨……誰よりも神谷一鬼に近づいた女。私よりもずっと強くて、私よりも弱い癖に諦めが悪くて、私よりも醜い癖に、あんなに愛されていた。私は神谷明と夜空の娘としてしか見て貰えなかったのに、あの女は―――」
「美空は努力したの? 柿坂さんも碧さんも、多分その好意をはっきりと形にしていたと思うよ。それをできなかった私が言えた義理じゃないけれど……そこまで渇望するのなら、どうして求めなかったの? どうしてその想いを伝えなかったの?」
「……知った口を……!」
奈央の言葉に殺意が増大していくのを自覚しながらも、白雪は堪える。
一鬼が実の兄ではないと知らなかった美空では、その想いをはっきりと伝えることはできない。
禁忌の道に平然と踏み込める程神谷美空は異常ではなかったし、その覚悟もなかった。
白雪に似た精神を持っていたとはいえ、十六年間という年月が生み出した違いは大きい。
美空にはルールを破ってまで何かを強く求めることはできず、従ってしまう。
それが正しいことではあるが、逆に言えばその為に己が望みを殺してしまうのだ。
だから、美空は一鬼のことが好きでもはっきりと男女の関係には持っていけなかった。
勿論、己の気持ちを打ち明けた末に拒絶されることが怖かったことも関係してはいるが、それだけではないのだ。
いかに白雪と非情に似通った精神を持っていたとしても、積み上げて来た経験が異なる已上は、その差異の部分で大きく行動は変わる。
本当に微々たる違いが大きな結果の差を生むことは良くあるものだ。
碧と白雪の間に絶対的な差が開いてしまったように、僅かな違いは大きな違いに繋がる。
同じ穴の狢だと言っても、その差異は確かに碧を勝者にしたのだから。
「美空、私は弱虫で、垢抜けなくて、いつも美空よりに劣っていたけれど、これだけは言えるよ。私は……あのひとのことが好き。きっと、美空よりもちゃんとあのひとのことを考えている」
「……」
「今まで感じていた違和感の、正体が漸く分かったの。美空はただあのひとに愛されたいだけで……愛していない。美空が欲しいのは―――」
「止めなさい。私は……」
奈央の言葉の先にあるものが白雪には理解できてしまう。
彼女の中の美空の部分が悲鳴をあげてそれを止めようとするが、しかし止まらない。
その首を締め上げれば簡単に黙らせることができるが、そのようなことは彼女にはできなかった。
ここで逃げることは許されない。それをすれば、もう二度と超越者に立ち向かえなくなる。
たった一人の人間を相手に逃げ出すような脆弱な精神などで、立ち向かえる筈がない。
だからこそ、彼女は続く言葉を受け止めるしかなかった。
「都合の良い揺り籠なんでしょう?」
「……っ……ふふ……はは……なんで……分かるのよ?」
「私は……美空の親友だから」
「―――!!」
『―――私達は、世界でたった二人の姉妹だから』
碧の言葉を思い出しながら、白雪は己の変化に気付いた。
元来このようなことを言われたならば彼女は怒り狂っていた筈だというのに、彼女はそう思えない。
怒りよりも、皆が持っていて己が持っていない要素の方が気になってしまうのだ。
それは思いやりというものなのかもしれない。愛というものなのかもしれない。
何かが底にあるのを彼女は感じ取れるが、それが何なのかがまるで分からずに居る。
だが、それは……不思議と心地良いものであった。
一鬼がかつて与えてくれた光に似たその暖かい何かが、彼女の心のしこりを解していく。
それは恐らく優しさというものなのだろう。思いやりというものなのだろう。
例え彼女が兄にとって両親に報いる為の存在でしかないとしても、確かにそこに愛はあった。
愛が無かったという碧の言葉は真実ではない……確かに愛はあったのだ。
ただ、それが向けられた相手が美空ではなく、神谷明と夜空の娘であるだけ。
そして、その事実は彼女の痛みを更に倍増させる。途方もない喪失感と痛みを齎す。
例え真に愛されている訳ではないとしても、そのまま美空として兄と共に生きたかったという思いが、彼女を支配した。
深い後悔が彼女に襲い掛かり、過去に戻りたいという思いが更なる飢えと渇きを齎し、そして……願いを生む。
失った温もりをもう一度手に入れる為に進む覚悟が、少しずつ彼女の中で定まっていく。
喉が渇いたから水が飲みたいと思うように、彼女は心に渇きを感じて、一鬼を求める。
「そうか……そうだったのね……はは……はははははは!! ありがとう、奈央! 漸く分かったよ……私が本当にしかったことが」
「美空……うっ!?」
美空の面影を垣間見たであろう奈央を尾の一つで吹き飛ばすと、白雪は微笑んだ。
死にはしない程度に手加減してはあるが、骨の一本程度は折れているだろう。
人間にとって強過ぎる今の彼女では、最大限手加減してもこれが限界だ。
一鬼ならばその力を恐ろしい程に精密制御し、人間相手でもなんともない程に加減できるかもしれない。
だが、生憎白雪は力の使い方が下手で、卓越した技術というものを持つことは叶わなかった。
地面に倒れ伏した奈央のズボンのポケットから携帯を取り出し、警察に電話をするとそのまま白雪は携帯電話を奈央の掌に置いた。
こうしておけば警察が場所を知ることができる。放っておいても死にはしないが、怪我の治療はしておいた方が良い。
彼女が病院まで運んでも良いが、生憎そのつもりは彼女には無かった。
晴れ晴れとした気持ちを殺さずに進む為にも、彼女はここで時間を無駄にするのを好まない。
今すぐに行かねば、この勇気も色褪せてしまう。覚悟が弱まってしまう。
「本当にありがとう。そして……さようなら。私はもう行くよ―――兄さんの処に」
白雪は微笑みながら、そっと奈央にお礼と別れを告げると―――そのままそこから消えた。
ちっぽけな気配が近くに現れたことを認識した一鬼は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
その背後にある巨大な水晶の中にあるものをちらりと見遣ると、そのまま彼は階段を降りていく。
仁王立ちしてそれを待ち受ける黄金の超越者の元へと歩みを進め、彼は虹色の炎で構成された肉体を少しずつ崩していった。
もうその肉体は必要ないと空の超越者は知っている。超越者達は知っている。
これから始まる蹂躙の果てにある結末は、一つだけだ。
睨みあうように向き合う虹色の鬼と黄金の虎は、暫くの間そのまま睨みあっていたが、すぐに流れが変わった。
『金虎、予定通り頼むぞ』
「はい。仰せのままに……間に合うことをお祈りしています」
『間に合うとも……そうなるように計算している。行け―――お前の役目を果たせ』
「御意」
黄金の閃光と共に金虎の姿がその場から消えるのを目撃すると、一鬼はそのまま虹色の炎を崩していく。
鬼の形を失い、人型ですらなくなり、そのまま炎は消えてしまう。
不気味な静寂と濃密な怨念だけが広大な空間に残り、暫くの間そこはまさしく無そのものであった。
人間ならば発狂死しているであろう程に濃密な虚無が、そこには充満している。
そんな死と虚無を想起させる場所で、ゆっくりと水晶が光り輝いた。
怪しげな光を放つその巨大な水晶の内部には水分が充満しており、その中央に何かが浮いている。
人体のようなそれは、しかし左腕と心臓部が欠如しており、作り物なのではないかと思わせる程だ。
だが、それには確かに血が通っている……生きている。間違いなく生命が宿っている。
眼は固く閉じられたままだが、その頭に生えている夜空の如き藍色の髪は、余りにも瑞々しい。
徐々に光は強くなっていき、やがてそれは―――虹色へと変わった。
白雪の気配が光の塔に近くに現れたことに気付き、碧はゆっくりと立ち上がった。
妖狐達の集落があったそこは今や更地と化しており、一切の生命が存在しない。
二百余年前、紫鬼の持つ鬼火が全てを燃やし尽くしてしまったのだ。愚かな一族に罰を与えたのだ。
ここは彼女が生まれ育った場所でもある訳だが、しかしそれ以上に母が死んだ場所としての側面が強い。
母も白雪も、妖狐は皆ここで生まれて育った。
翡翠は男を知ることなく自然と懐妊し、碧と白雪を産んだという。
実際、母の周りに男の影はなかったし、そういう素振りも見せたことはない。
もしもそのような者が居たならば、どんなに隠しても浮ついた部分が必ず出る筈なのだ。
碧が一鬼と出会い、そこから多くを意識するようになったように、必ず誰かを想う気持ちは漏れだす。
彼女がそれを全く察知できなかったことから察するに、やはり翡翠はそういう相手を持たなかったと言える。
今ならば碧もはっきりと分かる……母は愛しか知らなかった。
だからこそ、妖狐としては異常な程に謙虚で居られたのだ。身を焦がす恋を知らぬが故に、個に執着しなかったのだ。
「もう……間違えないわ。族長……いいえ、母さん」
物心がついてから初めて、碧は翡翠を母と呼んだ。
幼かった頃に生まれた憎しみから母を母と呼ばなくなった彼女であったが、しかし今はそれも受け止めた。
母による過剰な訓練と厳し過ぎる躾は、彼女を恐れたが故の行動であることも理解している。
妖狐を簡単に滅ぼし得る存在になることを予見し、母は彼女をそうできないようにした。
誓いを守ることを必要以上に強い、一族を愛し、それ以外を憎むように仕向けたのだ。
もしも碧が我が侭で誓いを平気で破るように育っていたならば、妖狐はもっと早く滅んでいただろう。
例え光と出会わずとも、いずれ彼女はその手で同族を皆殺しにしていた筈だ。
空虚過ぎる一族を早々と見限り、皆殺しにし、その果てに己が最も虚無だったのだと気付く道を彼女が辿るかもしれなかった。
詰まる所、母が律さなければ、彼女は一族を滅ぼす切掛けになり、更には壊れていたかもしれなかったのだ。
その双方を防ぐ為に翡翠は彼女を厳しく育てたのである。
「私を愛してくれてありがとう。今になって気付くなんて、本当に遅過ぎるけれど……次はもう間違わないわ」
もう一度やり直せたならば、碧は別の道を模索するだろう。
勿論、実際に過去に戻りでもしなければそのようなことはできないし、叶う筈がない。
例え超越者であっても過去には飛べないだろう。過去は過去でしかないのだから、そこに固執するだけ無駄なのだ。
彼女達にできるのは過去から学び、それを現在と未来に生かすことだけで、過去に戻ることなどできなかった。
だからこそ、後悔せぬように進むのだ。誰かのせいにして逃げるのではなく、己で可能な限り考えて進むのだ。
それが強い生き方だ。弱さを排除した、狂った生き方だ。
誰かの死を悲しみながらも、己の道を後悔しながらも、絶対に弱さに潰されない……それが超越者だった。
碧は半端ながらもその一人であり、同じく強い生き方をしなければならない定めにある。
狡さも弱さも全て捨てて、強くあることこそが超越者であることでるのだから。
実の処、一鬼は碧にそのようなことは望んでいない。
彼は彼女を超越させはしたが、それは飽くまでも中途半端なものでしかなく、そこに強い拘束力はないのだ。
彼女は部分的に超越者であるだけで、完全な超越者ではない。
だから、本来ならば彼女が強く生きる必要はないのだ。一鬼もそれを強いるつもりが無いからこそ、そこには縛りがないのだろう。
しかし、彼女は強くあることを望む。その為の力を欲する。
愛する男の隣に立つ為に必要なのは強さだと、彼女が一番良く知っているからだ。
「一鬼……もう私は割り切ったわ。だから、安心して決着をつけて。私は……私の決着をつけるから」
「良い心がけね。それでこそ、一鬼様も貴方を贔屓した甲斐があったと言えるわ」
「来たわね―――カナリー・ロード」
夕日を背に現れた黄色の超越者、カナリー・ロードと向き合うと、碧はその拳を握り締めた。
光の塔を守る守護者である筈の超越者の一人がここに来るなど、元来あり得ないことだ。
彼らは今度こそ一鬼を守る為に全力を尽くす筈で、元来ここに居て良い存在ではない。
だが、光の塔から溢れ出す力の奔流が大きく変化したのを感じ取った碧には、その理由が理解できる。
彼らはもう光を守護する必要がないということを理解しているのだ。
今までとは比べ物にならない速度で増大していく力の奔流は、まさしく一鬼のものだ。
加速する再生が今までの何倍、何十倍もの速度で以て、空の超越者の気配をより一層濃くしていく。
まるで白雪を焦らせるかのように始まったその加速は、恐らく後半日もせずに一鬼を再生させるだろう。
いや、今尚加速を続けていることを考慮すれば、もしかしたら数十分のレベルかもしれない。
その状態でカナリーを傍から離したということは、守護は残る二名で十分過ぎるということなのだ。
実際問題、金虎だけ居れば全ては解決するだろう。
「貴方は結局紫鬼との誓いも一鬼様との誓いも守れはしなかったけれど……まぁ、良くやった方でしょうね」
「それは褒めているの? それとも……貶しているの?」
「ふふ……褒めているのよ。一鬼様に贔屓されたからには、それなりの覚悟を見せてくれないと困るの。おめでとう……貴方は及第点には達したわ」
「……なら、何故貴方はここに居るのかしら?」
碧はゆっくりと拳の力を抜き、隙を見せないようにカナリーと対峙した。
言葉にせずとも彼女も理解してはいる……だが、敢えて問う。
何故二人が対峙する必要があるのか。何故、超越者が態々出来損ないに構うのか。
その理由を互いに明らかにすることが、新たな段階へと進む為に必要なのだ。
新緑の眼と黄色の眼が向き合い、そこから放たれる圧倒的な死のイメージが互いを苛む。
しかし、彼女達にとってその程度の重みは耐えうるものだ。受け止めるべきものだ。
今ここに彼女達を止める者は居ない。
「勿論、最後の試練の為よ。貴方が一鬼様の隣に立つことができるかどうかの、最後の試練」
「最後の試練?……貴方の私怨故の私闘の間違いでしょう?」
「それもあるわ。だけどね……私は私自身と一鬼様の意思で、今ここに居るの。貴方の妹さんを騙す為に、一役買って貰うわよ」
「……そういうことなら、仕方ないわね」
碧も既に理解している……この戦いは必然なのだ。
白雪が振り絞った勇気は非常に脆いもので、すぐにまた破壊される可能性がある。
だからこそ、一鬼は白雪を安心させる為に敢えて手薄にしようとしているのだ。安心させ、そこから一気に突き落とそうとしているのだ。
碧はそのことを痛い程に理解できてしまう。世界は、愛する男の求める復讐が為される以外の道を許さない。
彼女にとっての唯一の姉妹である妹は、今日求める存在に殺されるのだ。
今、碧はその為の片棒を担がされている。
まだ一鬼はここから彼女に決める猶予を与えてくれてはいるが、既に答えは出ていた。
碧はもう割り切った。妹を大切にしたいという思いを持ちながらも、切り捨てる冷徹さを保った。
だからこそ、多くを語りはしない。カナリーも多くを尋ねはしない。
同じ男に惹かれ、その隣に居たいと思った同志であるが故に、言葉は必要ない。
これから繰り広げられるのは、純粋な私闘ではない。女の戦いでもない。
愛する男に捧げる、歪な形の愛なのだ。
「改めて名乗るわ。私の名はカナリー・ロード、黄色の席を担う超越者……そして、一鬼様に『望まれた守護者』よ」
「私の名は碧、緑色の席を与えられた女……そして、一鬼に『望まれた罪の証』よ」
「殺戮者、碧……今回に限っては、先日のような手加減はしないわ。貴方も本気で来なさい。でなければ―――死ぬわよ?」
二百余年前とは違い、一切の手加減のない力の奔流がカナリーから放たれる。
以前の碧ならば、その全力を前にして精神を崩壊する可能性すらあっただろう。
だが、今の彼女ならばその怨念に立ち向かえる。以前のように遊ばれずに、対峙できる。
それ程に彼女は強くなったのだ。愛する男が与えてくれたその力で、彼女は完全なる超越者にこれから挑む。
完全に一鬼が覚醒しない限りは力が半減した状態である超越者達ではあるが、その力は圧倒的だ。
今碧の目の前に居るカナリーもその例に漏れない。
半減している筈の力ですら、碧の数百倍に及ぶ力を持っており、純粋な戦闘力でも彼女を上回る。
全ての力を戦闘力につぎ込んだ碧を嘲笑うかのような圧倒的なポテンシャルではあるが、彼女はそれでも退かない。
白雪が安心して進む為には、今ここで彼女が黄色の超越者とぶつからねばならないのだ。
その果てにあるのは妹の死ではあるが、しかし一鬼の望みがそれならば彼女は構わない。
彼女は妹の命すら愛する男に捧げる。一年前果たせなかった彼の復讐を、今度こそ遂げさせる。
一鬼にとっての最後の罪の証である神谷美空と白雪……その全てを今日終わらせるのだ。
今まで多くの悲しみが生まれ、多くを彼女達から奪った。彼女達もまた、多くを他者から奪った。
その贖罪の時がこれから始まる。断罪の時がやってくる。
光は完全な闇になりきれなかった資格者を今日殺す。
彼女達はその舞台を整える為の脇役でしかない。
「言われずとも分かっているわ。さぁ、始めましょう―――同じ男を愛する女同士の醜い戦いを」
そして、それを自覚している黄色と緑の超越者は―――再びぶつかった。
かつて鬼の里があった場所に現れた光の塔は、現在夕日を背にその歪な光を強めていた。
塔はまるで鼓動しているかのように緩やかな点滅を繰り返し、その色を虹色に変えていく
ゆっくり、ゆっくりと確かめるように鼓動を繰り返し、そしてそれに合わせて塔の頂上に居る何かの気配は加速度的に強大になり続ける。
この数百キロの高さを誇る塔がたった一人の為に作られたものであるなどと、いったい誰が信じられるだろうか。
明らかに理を超えた存在であるその塔は、空の超越者という鬼の為だけにそこにあるのだ。
そのおどろおどろしい様を目で見、光の鼓動を肌で感じながら、白雪は塔の前に辿り着いた。
恐ろしい速度で再生を始めた一鬼が、個の塔の頂上で彼女を待っている。
今日を逃せば間違いなく一鬼は完全に覚醒し、もう二度と彼女の手が届かない存在になるのだ。
彼女もそれを自覚しているが故に、急ぐしか道が無い。それが一鬼の思い通りの行動であったとしても、彼女にはそれしか道は残されていないのだから。
ここで逃げても、彼女は一鬼に殺される。
理を捻じ曲げ、光すら超える速度で追いかけて来る相手では、彼女は逃げきれない。
「……今度は、逃げない」
「その心意気がいつまで持つか見物だな」
「黄金の超越者……金虎」
光の塔を背に、宙に浮かぶ黄金の超越者の姿を白雪は捉えた。
金虎という名を持つその超越者は『西』の一族の末裔であり、彼女はある意味仇になり得る。
十数年前、彼女は山吹以外の全ての妖を滅ぼしたのだから、全ての超越者にとっての仇になり得るのだ。
一鬼さえ庇ってくれたならば何とかなっただろうが、それももう得られない。
一矢も羽月も愛梨も、彼の大切な者を多く死なせた彼女は、既に引き返せない処まで来てしまった。
立ち向かわねば、待っているのは死だけだ。
だから彼女は抗う。残された道を必死に歩む。
「資格を持ちながらも、超越できなかった出来損ないよ……恐怖を克服したことは褒めてやる。だが、お前如きではどうしようもないのだ。諦めろ……その手が掴むのは別離のみだ」
「嫌よ。私は絶対に諦めない。一鬼に……兄さんに言いたいことがあるの。伝えたいことがあるの。だから、私はそれまでは諦めないわ」
「ほぅ……面白いことを言う。そこまで欲するのならば、私を倒して進んで見せろ」
「言われずとも……そうさせて貰うわ!!」
白雪はすぐさま数十の核ミサイルを瞬間移動で呼び出し、射出した。
音速で発射されたそれらは光の塔目掛けて、その破壊を目的として放たれたのだ。
インディゴと比べれば既存の物しか利用できないのはマイナスだが、燃費が良いのは利点と言える。
流石に予め場所を知っておかなければこのようなものを呼ぶことなど白雪にはできないが、これだけあれば十分だ。
いかに超越者と言えども、その全てを捌ききるのは不可能に等しい。
だが、守護者である已上は必ずそれをどうにかしようとする筈だと彼女は踏んでいる。
そこに生じる隙を狙うことこそが、彼女の狙いだ。
「……笑止」
「なっ!?」
しかし、白雪の目論見は一瞬で崩れ去った。
金虎の体が光ったかと思うと、全てのミサイルが発射した瞬間に撃ち落されたのだ。
白雪はすぐさま瞬間移動で数十キロ後方に非難したが、その威力は絶大で金虎の姿をその爆風で完全に呑み込んでしまった。
そう、完全に呑み込んだのだ。だというのに―――その気配は以前健在なまま。
数十の核ミサイルが引き起こす破壊が空気を震わせているというのに、その中心にいる筈の黄金の超越者の力は少しも弱体化しない。
白雪ならば核ミサイルの爆発に直撃すれば間違いなく死亡しているだろう。
妖は放射能の影響は受けないが、しかし実体がある已上爆発の威力には耐えられない。
一年前にインディゴが格上である一鬼達を相手に何とか立ち回れたのは、実体が無いが故の自爆戦法が取れたからだ。
実際問題、受肉した後は一切自爆せずに遠距離からの攻撃に切り替えている。
ただの妖ならば、いかに上級妖であろうともミサイルレベルの攻撃力には耐えきれない。
だと言うのに、それに耐えるどころか、物ともしない存在が今彼女の眼の前に居る。
超越者と呼ばれ、そう名乗ってもいる者達は、まさしく理を超えた存在なのだ。
恐ろしい程に強く、同類でしか殺せない程に化け物じみている、規格外の存在なのだ。
爆炎を切り裂き、全くの無傷で現れた黄金の超越者―――金虎を前に彼女は絶望的な力の差を感じ取った。
やはり、ただの妖でしかない彼女では勝てない。同じ超越者にしか、超越者は倒せない。
「……これで終わりか?」
「ひっ!?」
「下らんことをする」
「っ!?……」
金虎の姿が一瞬で目の前に現れたかと思うと、白雪の腹部を衝撃が襲った。
痛みに耐えながら恐る恐る下を見遣った彼女が見たのは、抉り取られた腰から溢れ出す血だ。
金虎の手には血すらついていないというのに、彼女の腹部は綺麗に抉られている。
傷口は回復するが、しかし切除された部分は二度と戻ってこない……それが黄金の超越者の力だ。
既に彼女はその能力を嫌と言う程見せつけられた……もう二度と再生しない左腕がその証と言える。
白雪は激痛と失血のショックに顔を青ざめながらも、何とか距離を取ろうと再び瞬間移動した。
数百キロの距離を飛び、海上にジャンプした彼女はそのまま体勢を立て直そうと、光の塔の方を見―――再び金虎と眼が合う。
「無駄だ」
「―――!?」
瞬間移動した先で再び金虎に遭遇したことで、白雪は混乱した。
数十キロならば、音を超える速度で動ける超越者が数秒で距離を詰めることは容易だろう。
だが、今彼女が移動した距離は数百キロ……マッハ数十程度では一瞬でつくことはできない。
半端ながらも超越した碧ですらも、マッハ数十程度で動くのが限界なのだ。
それをいとも簡単にこなした金虎がいかに異常なのかが良く分かる。
紫鬼がかつて碧に言ったという言葉がただの比喩ではない可能性に、白雪は気付きつつあった。
まさしく光に達し得る程の速さを、金虎と藍龍という名の超越者達は持っているかもしれないのだ。
だが、それが事実であるならば彼女に勝ち目などない。ある筈がない。
絶望的な力の差に逃げたくなる彼女であったが、逃げれば今度はそれ以上の絶望が彼女に襲い掛かってくる。
完全に目覚めた空の超越者を前にしては、抗うことは叶わない。
金虎達相手ですら絶望的な差があるというのに、それよりも強い存在を前に抗える筈がないのだ。
「っ!?」
一瞬で水面に叩き付けられ、衝撃によって脳が大きく揺れるのを自覚しながら、白雪はそのまま海の中に沈んだ。
視界が揺れ、海水が彼女の気管に入り込み、内側にある高熱によって蒸発していく。
あっという間に気化した水分を吐き出しながら、白雪は海上に昇ろうと試みた。
金虎の攻撃は余りにも速過ぎる一撃ではあったが、しかし不自然な程に手加減されたものでもある。
やはり、今はまだ彼女を殺す気はないようだ。
白雪が勝利するには、そこにつけこむしかない。
彼女を傷つけることを躊躇い、手加減をし過ぎた深紅の超越者のように、金虎もまた手加減をしてしまっている。
そこにつけこんでも勝てないようならば、彼女は二度と光に届き得ないだろう。
残された時間は恐らく後数十分のみで、間に合わなければ一鬼は完全に復活する。
そして、そうなれば……彼女は確実に殺されるだろう。
もはや神谷美空は盾になり得ないと、彼女も理解している。一鬼が愛したのは美空ではなく、神谷明と夜空の娘なのだ。
彼女は既にそれを捨て去ってしまった。親殺しをしてしまった。戻れない処まで来てしまった。
彼女を守る盾はもうない。白雪という妖狐でしかなくなった彼女は、殺されるしかない。
それを防ぐ為に、彼女は抗う。
「この―――!!」
「無駄だと言った筈だ」
「!?」
水中から一気に上昇し、金虎に突っ込んだ白雪であったが、いとも簡単にいなされてしまう。
彼女は残った片腕を掴まれ、そのまま流れるように空中に投げ飛ばされてしまった。
その際に生じた遠心力が彼女の肩の関節を外し、こきりと渇いた嫌な音を立てる。
白雪は投げ飛ばされながらも所々で姿勢を整えようと足場を形成するが、だが上手くいかない。
碧ならば経験とセンスを活かし、華麗に体制を整えることができただろう。
だが、白雪には戦闘に関する才能など無い。
一鬼達のような、純粋な身体能力とそれを活かし得る卓越した技能の二つを持つ訳ではないのだ。
いかに身体能力が高くとも、それを上手く使えない限りは強者にはなれない。
制御できない力に振り回されるようでは、それは強者とは言えないのだ。
一鬼達超越者は彼女の何百倍、何千倍の力を完全に制御し、それを扱いきれているというのに、彼女にはそれができない。
才能の違い……そう言うのもバカらしく成程の格の差だ。
「ぐっ……おぇ……」
「お前では私達には勝てない……諦めることだ」
「嫌よ……私は……諦めない!!」
「ならば、諦めさせてやろう……絶望的な差で以てな」
「がっ!?」
平衡感覚が狂ったまま、白雪は金虎にデコピンで飛ばされた。
バカにしたようなその攻撃は、しかし彼女の腹部に膨大な衝撃を齎して吹き飛ばす。
肋骨の数本をいとも簡単にもっていかれ、それが生み出す激痛に思わず彼女は涙ぐんだ。強烈な吐き気を催しながら白雪は宙を舞い、数キロ程吹き飛ばされて漸く姿勢を整え直すことに成功した。
幸い、すぐさま肋骨の再生が開始されたが、痛みは残ったままで吐き気も催している。
だが、吐き気に従って何かを吐こうとしても、何も出てこない。精々が唾液のような液体程度だ。
それもその筈……妖の肉体には胃液も唾液も存在しないのだから。
怨念というオカルト染みたものが生み出すものが妖の原動力であり、病も寿命もそこにはない。
食事もなければ排せつも必要なく、代謝も行われているとはいえない。汗も何故かくのか分からない。
妖の肉体は未知の部分だらけであり、人間のように解剖すれば分かる訳ではないのだ。
怨念が全てを制御しているというのは確かなのだが、それ以外は全てが謎だった。
だが、今白雪が感じている吐き気も痛みも謎ではない。幻ではない。
その痛みも何もかもが本物だ。否定しようのない現実だ。
「どうした? 反撃しないのか?」
「はぁ……はぁ……この……」
「……随分と息が上がるのが早いな。やはり、九尾などこの程度か」
「くっ……」
夕日を浴びて煌々と輝く黄金の鎧が酷く怪しげな美しさを見せる。
黄金の超越者、金虎の強さは白雪の数百倍……否、数千倍以上だと考えても良い。
絶望的なまでの力の差が両者の間にはあることは彼女も承知しているが、その差は余りにも大き過ぎた。
もしも彼女がここからどうにか金虎を飛ばすことができたのだとすれば、それすらも超越者の掌の上なのかもしれない。
そう感じさせる程に、絶望的な差なのだ。
白雪は……美空は、一鬼に言いたいことがある。伝えたいことがある。
だからこそ諦めずにその絶望と向き合う。怖くても戦う。最後まで諦めずに立ち向かう。
彼女が白雪として望んだもの、そして美空として望んだものが、やっと彼女も分かったのだ。
何が本当に欲しかったのかのかも、何を伝えたかったのかも、やっと見つけたのだ。
彼女はそれを達することもできずに死にたくはなかった。
だから抗う。己の為だけに、最後までもがく。
かつて一鬼や碧はそうした。そして今、彼女もその道を辿っているのだ。
「所詮は格下相手しか相手にしたことが無いお前だ。この程度が限界でもおかしくはあるまい」
「はぁ……はぁ……超越者だって、同じで……しょう……?」
「紫鬼と戦っていれば、いやでも格上相手の戦い方は覚える。一鬼様も、お前が用意した舞台で格上と手合わせをした。たった数度ではあるが、あのお方にはそれで十分なのだ」
「……化け物……ね……」
「今更だ」
鼻で笑う金虎は酷く傲慢に見えるが、言っていることは正しい。
超越者はそういうもので、白雪などとは比べ物にならない強さを持っている。
超越者だから強くなるのではなく、強いから超越者になるのだと一鬼が言ったのも納得できてしまう。
彼らはそういう強さと孤独を持つが故に……資格を持つが故に一鬼に選ばれ、超越したのだ。
その強さはただの暴力だけではなく、精神力も含まれており、その双方が精密な制御を可能とする。
燃え盛る鬼火が生み出す無限の力と、それを完全に制御する精神……その双方が相まって、超越者はまさしく最強と言える強さを持ち得るのだ。
永遠に戦える持久力とそれを可能にする精神力が、彼らを超越者足らしめている。
超越者は皆一鬼という空の超越者にしか生を見出せない訳ではなく、飽くまでそれは一つの拠り所でしかない。
特に、今白雪の目の前に居る金虎とブルー・シャーマンは、誰かに大きく心的依存をする必要が無い者達だ。
だからこそ、金虎達は光を失っても絶望しない。
あるのは絶望ではなく、後悔と憎しみを込めた復讐なのだ。
「だけど……負ける訳にはいかない!!」
「―――!」
白雪はミサイルを呼び出すと、下に広がる海に向かって発射した。
金虎はそれに反応したものの、動きはしない……動く必要が無いと思っているからだ。
数十の核ミサイルの爆発の真只中に居ても無傷であった黄金の超越者には、逃げる必要がない。
たった一発のミサイルなどでは、超越者に傷をつけられないことは彼女も分かっている。
だが、そもそも彼女は超越者に勝つ必要がないのだ。その強さに真正面から挑む必要性は皆無なのだ。
白雪に必要なのはそのようなものではない。必要なのは―――光に届き得る時間だけだ。
「いったい何を―――!」
「っ!!」
金虎が疑問を言葉にしようとした瞬間、ミサイルが爆発して大量の海水が白雪達に襲い掛かった。
その様に金虎は驚いたように見える……が、実際は驚いてはいない。
甘んじて海水を浴びる黄金の超越者の驕りが、白雪がつけいることができる隙だ。
明らかに手加減をしているからこそ、彼女が逆転し得る隙が生まれる。可能性が生じる。
例えそれが敢えて生み出されたものであったとしても、彼女はそこに賭けるしかない。
まともにぶつかれば彼女は一瞬で殺されるだけで、何もできずに終わるだけなのだ。
だからこそ、白雪はその一瞬に動いた。
美空としての彼女が手に入れた能力―――氷結能力を開放し、周囲の海水から温度を一瞬で奪い去る。
誰よりも一鬼の与えてくれる熱に依存し、それを渇望した美空に与えられた力が、今漸くその真価を発揮するのだ。
直接使えば簡単に回避されてしまうし、例え最初が通用したとしても、殺すことは叶わない。
そして、不死身と言っても良い彼らは必ずそこから復帰し、彼女に二度目はない。
一瞬で氷点下を大きく下回り、そのまま絶対零度に向かっていく温度が海水を一瞬で氷結させ―――金虎はその中に閉じ込められた。
「まだっ……!」
白雪はそのまま氷に触れて、金虎を氷ごとテレポートさせることに成功した。
例え氷結させても、このまま放っておけば金虎は簡単に脱出することは明らかだ。
相手は理を超えた存在であって、いかに絶対零度で氷結させたとしても勝ったと断じてはいけない相手である。
完全に固まったまま氷の中に閉じ込められている姿はあたかも死んだように見えるが、しかし実際はそうではない。
だからこそ、彼女はすぐさまテレポートを行ったのだ。
一瞬で終了したテレポートは、金虎を太陽よりもずっと遠い場所にまで飛ばした。
何処まで飛ばせたかは白雪自身にも定かではないが、少なくとも数十分は持つ距離である筈だ。
そう実感するのと同時に、数日前に紅鴉を太陽まで飛ばした時とは比べ物にならない疲労が彼女を襲う。
今の状態で超越者と戦うことは余りにも無謀だが、時間は余り残されていない。
死にかける程に力を消耗しても、数十分しか持たないのが現実なのだ。
「やった……やっ……ゲホッ! ゴホッ! はぁ……はぁ……―――!」
漸く金虎を追放できたことに喜んだ白雪であったが、すぐに咳き込んだ。
口を押さえて手に付着したどす黒い血を見遣ると、そのまま彼女は手を握り締めた。
太陽まで飛ばすだけでも力の七割程を使うというのに、無理をしてそれ以上に飛ばしたツケが回って来たのだ。
妖には寿命というものはないが、怨念を力にできる以外はただの生物である已上は限度というものがある。
ほぼ全ての力を使ったと言っても良い今の彼女では、ただの生物ではない超越者には絶対に抗えない。
白雪はたった今見てしまった。感じ取ってしまった……超越者の持つ深淵を。闇を。
かつて紫鬼、碧、そして一鬼の怨念を背負わされた彼女ではあるが、その時はただ怨念に振り回されるだけだった。
それはある意味彼女がその本質、そして深淵に触れてしまう機会を奪っていたのだろう。
当時彼女は膨大な量の怨念によって精神を病みながらも、絶望はしなかった。深淵に呑み込まれはしなかった。
だが、今白雪が見てしまったそれは違う。
彼女が抱えたのではなく、それ以外の存在が彼女に向けた闇だ。光が生み出す裏側のものだ。
黄金の超越者が彼女に向けた怨念であり、一年前に彼女がブルー・シャーマンに下された予言でもある。
彼女に向けられた闇は殺意でもなく、恐怖でもなく、況してや憎悪でもない……酷くシンプルで、恐ろしいものだ。
一瞬で絶望の淵に突き落とされそうになる程の、力強いメッセージだ。
「そんな……筈は……」
テレポートによって遥か宇宙の彼方に飛ばされる刹那、嘲笑うかのように細められた金虎の眼に映っていたのは―――彼女の死の未来だった。




