第十話
天に向かって伸びる光の塔の内部は、恐ろしい程に静まり返っていた。
実質最上階以外は無用の長物であるそれは、空の超越者が鎮座するそこを除いて誰も居ない。
夕暮れももう終わり、夜へと移っていく今も塔は光を放ち続け、その不気味さを見せつける。
狂気の詰まった建造物ではあるが、それももうすぐ必要なくなることを超越者達は知っていた。
目的である空の超越者の再生は間もなく終了し、そこでこの塔は役目を終える。
ブルー・シャーマンという名の超越者が生み出したその塔は、まさしく空の超越者の為だけにあるのだ。
だからこそ、後数十分で空の超越者が完全に再生した暁には、この塔は崩される定めにあった。
そして、その数十分の間を狙ってくる白雪という名の妖狐がそこに辿り着くことはあっても、それ以上のことは起こり得ない。
超越者達は皆それを知っている。理解している。信じている。
全ては空の超越者の掌の上なのだと、彼らは理解しているのだ。
それが世界と繋がっている彼らの特権であり、苦しみであり、証だ。
「……金虎は予定通りに動いてくれましたか」
空の超越者が鎮座する間に唯一残っていた藍色の超越者、藍龍は感慨深げにそう言うと、玉座の後ろにある水晶を見遣った。
そこに居るのは、彼女にとって最愛であり唯一執着することができる男だ。
一体の鬼は最後まで鬼であり続け、彼女はその隣に立ち続けることができる竜としてあり続ける。
化け物に寄り添うことができるのは同じ化け物だけ……つまり、彼女ならば寄り添えるのだ。
超越者は妖を超えた化け物であり、ひたすらに力を抑圧しなければ他の生命と共に生きることすらできない。
だからこそ、空の超越者には彼女達が必要で、彼女達もまた空の超越者が必要だった。
一鬼という名の鬼は、母の命で以てその生を与えられ、そして兄の命で以て生き長らえた。
そこに父親という存在は介入することはできなかったが、だが神谷一鬼という育ての親が彼の精神を育て上げている。
遥か昔に死んでしまった父の代わりは鬼に惹かれた人間が務め、鬼として育て上げた。
そして今、その隣に竜達が寄り添うのだ。光の虚無を埋める為に、尽くすのだ。
「一鬼様……世界は貴方を孤独にしますが、やはり死なせてはくれないようですね」
藍龍は小さく溜息をつくと、そのまま目を細めて悲しげに微笑む。
世界そのものと一つになっている一鬼は、その力を抑え続けて生きて来た。
もしも彼が力を開放することで他者が死ぬことを気にしない男であったならば、一年前に二度目の死を迎えることはなかっただろう。
人間達を切り捨てる覚悟をしていると言いながらも、彼は拾えるものを拾おうとする傾向にあった。
己が我慢して周りを殺さずにおくという精神で以て十九年間生き続けたことが、彼の力を休眠状態に入らせてしまったのだ。
そうでなければ、一年前一鬼はもっと早く目覚め、大切な者達を守り切れただろう。
高橋一矢も佐藤羽月も柿坂愛梨も……彼にとって大切な者達は誰一人欠けなかった筈だ。
彼が力も……それを開放したいという思いも抑え続け、精神と力の双方が摩耗した結果が一年前の死であった。
仮に彼に宿ったのが碧ではなく藍龍であったならば、彼女はその力を開放させて絶対に死なせないようにする。
ブルー・シャーマンや紫鬼が一鬼を傷つけ得るのならば、殺す。それが彼らと彼女の約束だ。彼らの業だ。望んだ生き方だ。
紫鬼は誰よりも一鬼の命を守ることを第一とし、その為に全てを滅ぼす。
ブルー・シャーマンは誰よりも一鬼の強さを守ることを第一とし、その為に全てを利用する。
「ですが、安心してください。私は……藍龍は―――いつまでも貴方のお傍に居ます」
そして、藍龍は誰よりも一鬼の心を守ることを第一とし―――全てを与えるのだ。
煌々と赤に燃え上がる夕日を傍に、かつて妖狐の里があった場所を暗闇が包み込んでいた。
日は沈みかけ、もうすぐ完全な夜へと移行する時間でありながらも、既にそこは暗闇に覆われているのだ。
その異常さはまさしく理を捻じ曲げるものであり、森が闇の中に沈んでいく様が不気味さを際立てる。
まるで沼に沈んでいくようにゆっくりと木々が沈み、そのまま暗黒の中へと消えていく光景は、無へと帰る過程を表しているのではないかと思わせる程不気味だ。
全てのものが無へと帰るのは必然であり、帰ることのできない定めでもある。
無から有は生まれないとは言うが、有から無へと帰ることはあり得るものだ。
正確には、無だの有だのは人間達が持つ概念に過ぎず、実際は形を変えてこの世界に存在している。
死という概念は生という概念があってこそ成り立ち、その定義から外れたものが死に分類されるという仕組みだ。
椅子にとっての死は椅子としての役割を足せないことであり、生物にとっての死は生命活動の停止であろう。
では、怨念というものに死はあるのか?……答えは否だ。
怨念は一度生まれてしまえば、そこから永遠に存在し続け、その力を周囲にふりまく。
一言で怨念と言ってもそこにはいくつかの種類があり、大きく分けて二つに分けられる。
一つは対象を守護する願いであり、もう一つは死へと誘う呪いと言える代物だ。
妖が背負うのは双方の怨念であり、彼らは他の妖を殺すことでその怨念を奪える。受け継げる。
その結果、この地球には大量の怨念が残り、居場所を変えない。死に向かわない。
だからこそ、その居場所を変える為に空の超越者が生まれ、それを守護する超越者が選ばれた。
この闇はその超越者の心臓に宿る無限の怨念が具現化したものだ。
「っ……これが……超越者の……力……」
碧は、今尚広がり続けている闇を前にして、その眼を見開いた。
超越者というものは元々空の超越者という唯一無二の存在を守る為に生まれた存在だ。
それと引き換えに彼らは世界そのものと同化している空の超越者の力の一部を与えられ、世界と繋がる。
誰も感じることができない世界との繋がりを実感し、光を得て、何があっても絶望しない狂気の世界へと踏み込む。
彼らはその果てにポテンシャルの全てを活かせる体へと変化する。あるべき最終形態へと移行する。
それが超越するということであり、碧がかつて心の底から欲した手段だ。
一鬼という光に触れることを他の超越者に認めさせる為に、かつて彼女は超越しようとした。
結果として、一年前それは不完全ながらも一鬼自身の手によって為されたが、それと引き換えに彼女は一鬼という目的を失っている。
だが、それでも彼女は生き続けた。一鬼との誓いを守る為に。その願いを果たす為に。
そして今、碧はその贖罪にならない贖罪の果てに、再び愛する男に会える機会を与えられた。
だが、その為には超越者に認められなければならない。その信念を明らかにせねばならない。
「どうしたの? そうやって逃げ続けても私には勝てないわよ?」
「くっ……強い……」
そして今、碧は闇をまき散らすカナリー・ロードと対峙していた。
黄色の超越者であるカナリーはその席に似合わぬ闇を使う。
既に完全に闇の中に消えた森は一瞥しながらも、碧は構えも警戒を解かずに居た。
カナリーの純粋な戦闘力は半減している筈の今ですら、彼女と同等かそれ以上だ。
十尾の力全てを戦闘力に注いだ彼女ですら、その動きに完全に対応することは難しい。
二百余年前、彼女が感じた力の差は絶望的であったが、今ですらもそれは同じであった。
当時の差が数十万の差ならば、今の差は千倍程度の差……どちらにしろ、勝てる相手ではない。
同じ鬼火を持つ者ではあるが、残念ながら碧とカナリーではポテンシャルが違い過ぎる。
カナリーは十三尾と言える程の圧倒的なポテンシャルを持ち、対して彼女の元来のポテンシャルは八尾が限界だ。
一年前一鬼が文字通り命を賭けてその力を百倍以上の十尾にまで高めてくれはしたものの、実際の限界は八尾でしかない。
まさしく生まれながらの格の差が碧とカナリーの間には存在する。
愛する男を手に入れる為の手段を得る為に、その男を失った本末転倒の愚かな妖狐と、初めから選ばれていたヴァンパイアでは、生き方も何もかもが違う。
ヴァンパイアと妖狐は似通った部分を持つ一族ではあったが、しかしカナリーはその範疇を大きく逸脱していた。
一方で碧は他の妖狐とは違うと思い込んでいながらも、その実誰よりも妖狐らしい妖狐でしかなかった。
今もその差は殆ど変ってはいないし、これ以上縮めることはできないだろう。
だが、今碧の精神はカナリーと同じ境地に辿りつつあることを両者は自覚していた。
「仕方ないわね……」
「!?」
暫くの間互いを牽制していた二人であったが、突如カナリーが暗闇を全て消し去ったことでそこに静寂が生まれる。
碧は何故カナリーがそのようなことをしたのか理解できずに、驚きに目を見開いた。
このまま互いを牽制し続けていれば、そう遠くない未来で彼女は闇に呑まれていた筈だ。
だというのに、その圧倒的優位をカナリーが突如崩した……そこにいったいどのような意図があったのか、彼女には理解し難い。
だが、とにかくこれで彼女が闇に呑まれて消滅する心配はなくなった。
手加減されたという事実は碧のプライドを刺激するが、しかし背に腹は代えられない。
カナリーとまともに戦うには闇をどうにかしなければならないが、残念ながらその術は彼女にはないのだ。
この状況では、カナリー自身がそれを取り払ったことに感謝するしかないのが現状である。
身体能力の差も大きいが、闇がなくなれば大分戦いは楽になるのだから、彼女にも勝機はあるのだ。
この戦いは飽くまで白雪を騙す為のものではあるが、同時に二人の女の喧嘩でもある。
碧はその喧嘩で負けるつもりはなかった。
「これを使ってしまうと、流石に数十分も戦うのは無理があるわ。私も大人げなかったわね……本気の出し方を誤ったわ。ここは、後腐れなく殴り合いと行きましょうか」
「望む処よ」
「ふふ……それじゃあ、行くわよ!!」
カナリーは碧の返事に満足げに微笑むと、そのまま拳を握って急接近してきた。
碧も今度は距離を取らずに、同じく拳を握ってそれに応じる。
マッハ数十の速度で互いが急接近し、その拳を相手目掛けて放ち……ぶつかった。
両者の拳がマッハ数十のレベルを超えた速度でぶつかったことで、衝撃波を辺りに齎す。
一見互いの拳の威力は相殺されたに見えたが、数種運遅れて碧の拳が嫌な音を立て、骨が砕け、肉が裂けた。
一方で、カナリーの拳には傷一つついていない上に、その表情には余裕すら浮かんでいる。
「っ……」
「ふふ……やはり、私の方が上のようね」
自慢げに微笑むカナリーに対して碧は反論できないで居た。
速度も威力も同じとは言えず、圧倒的にカナリーの方が上だ。
現在の碧の重量が数十トン程度であるのに対し、恐らくカナリーの重量は百トン近くある。
それに加えて、速度の面でも数倍の差があり、結果として破壊力の差は圧倒的なものとなってしまう。
この力の差をどうにかしなければ、彼女は絶対にカナリーには勝てない。
だが、体重、速度、攻撃力の全ての面において負けている状態で勝つことは不可能に近かった。
一年前、八尾程度にしか覚醒できていなかった一鬼が紫鬼に一方的に負けたように、大き過ぎる差が二人の間にはある。
勿論当時の一鬼達の差に比べれば可愛いものだが、しかしその差は大きい。
カナリーも規格外だと思いながらも、同時に碧は紫鬼の恐ろしい程の強大さを再認識した。
今の彼女ならばカナリーとの力の差をある程度認識できるが、しかし未だに紫鬼との力の差をはっきりと認識することはできないのだ。
十尾でありながらも、未だに紫鬼の足もとにすら及ばない……その事実を改めて彼女はつきつけられた。
それと比べれば、カナリーなど可愛いものである……そう信じて彼女は拳を再び握る。
「私達の傷は一瞬で回復するわ。だから、心臓さえ潰さない限り何度でも立ち上がれる……まぁ、そもそも私達を殺せるのは私達だけなのだけれども」
「そうみたいね……私の修復は、十数秒必要なようだけれど……十分速いわ」
「腕一本程度に十数秒かかるようようでは、やはり高が知れているわね。でも、手加減はしないわよ?」
「……望む処よ」
ゆっくりと治癒していく腕の具合を確かめながら、碧は眼を細めた。
彼女の治癒速度は脳と心臓以外を十数秒で完全に再生させる程度のものだが、超越者はやはり違うようだ。
一瞬で腕一本が再生する程の速度ならば、もはやその速度は途方もないものなのだろう。
肉体の欠損も数瞬で再生し、すぐさま反撃に移ることができてしまうのだから、恐ろしいことだ。
しかも、実際に傷を負わせることができる者がまず殆ど居ない。
人間にとっての最終兵器と言える核兵器に耐える時点で、その耐久性は半端なものではない。
実際に何もせずに核兵器の威力に耐えている訳ではないのだろうが、どのような手段にしろ、耐える方法があることは脅威だ。
碧もまた耐える手段がない訳ではないが、しかしその手段は彼女にとって酷く不安定なものであった。
他の超越者のように自由自在に力を扱えれば良いのだが、残念ながらそうはいかない。
一鬼の贔屓で不完全な超越をした碧と、資格を持ち試練を乗り越え続けた結果超越した正当な越者達の違いが、そこにはある。
資格があるだけでは、白雪のように超越できずに九尾止まりになってしまう。
しかし、彼ら超越者はそうならずに各々がその心身を高め、光との会合から覚醒した。
彼女と超越者では、血統などという生易しいレベルではなく、存在そのものの格が違のだ。
それでも、碧は絶望しない。
愛する男との繋がりがある限り、彼女もまた超越者であれる。
「それじゃあ……再開しましょうか」
「っ!」
一瞬で距離を詰めたカナリーに、碧は驚愕した。
速度だけで言えば彼女の最高速度の倍以上……マッハ百にすら達するだろう。
彼女では反応しきることなど叶わず、ただその勢いに呑まれるのを防ぐことしかできない。
眼で追うことすら危うく、カナリーの拳が繰り出されたことを辛うじて彼女は認識した。
回避が間に合わないことを悟り、咄嗟にカウンター気味に繰り出した右拳でその軌道を変える。
だが、その一瞬で皮も肉も一瞬で削がれ、逸らしきれない破壊力はそのまま碧の左腕を破壊した。
苦痛に顔を歪めながらも、彼女はその強大な威力が生み出した遠心力で回し蹴りを放つ。
しかし、カナリーはいとも簡単にそれを避け、そのままカウンター気味に足を蹴りあげる。
圧倒的な速度で繰り出されたその一撃は容易く碧の片足を太腿から両断し、怨念の循環を失った足がそのまま燃え尽きていく。
すぐさま始まる治癒が腕と足を復元していくのを感じながらも、碧は戦慄する。
単純な身体能力でさえも、彼女はカナリーに劣っている。美しさも、力も、何もかもが格上だ。
以前の彼女ならばそのことに関して嫉妬の炎を燃やしただろうが、今はそれもない。
寧ろ、その強さを吸収しようとするべきだと彼女は知っている。一鬼からそう教わった。
諦めずに立ち向かう心も、その強さを己がものにしようとする貪欲さも、彼女は生来備えている。
そこに一鬼という更なる希望が合わさった今、彼女は絶望もしないし、嫉妬に狂いもしない。
「センスは割とあるけれど……残念ながら能力値が低過ぎるわ。技術はそれを活かせる能力値があってこそ活きるもの。けれど、貴方は私の動きに全く追いつけていない。この程度では私には勝てないわよ」
「分かっているわ……けれど、そこで諦めたら私は一鬼の傍に居られなくなる。一年前、絶望的な力の差を前にしても紫鬼と敵対して命を賭けた一鬼の覚悟に……私も並ぶ。そこから初めて私はその資格を得られるの」
「……本当に、変わったわね。以前とは大違い。貴方は確かに私達とは違って、世界とは繋がっていない。一鬼様の寵愛で緑の席を得ただけ。だから、貴方は扉の向こうにあれから一度も来ることができていない。その力すらない。だけど―――貴方は一鬼様と繋がっている」
「……気付いていたの?」
碧はカナリーの言葉に目を見開いた。
超越者は一鬼のように鋭いが、そこまで理解しているとは彼女も予想だにしていなかったのだ。
一目で本質を見抜いてしまうのが超越者であり、そういう意味では十分にあり得る事態ではあっただろう。
だが、一鬼のみと繋がっている碧は超越者にとって酷く異質で未知な存在の筈だった。
空の超越者が生み出した歪である彼女は、明らかに他の超越者とは異なる。
どんなに超越者が一鬼の精神に惹かれても、繋がりの本質はその奥の世界にある。
紫鬼ですらもそれは例外ではなく、一鬼だけと絆を育もうとしてもそこには必ず世界が介入するのだ。
そのようなものなど彼らは少しも気にしないが、その介入を受けない碧という例外は酷く特異的だ。
彼らが望んだ繋がりは、世界ではなく一鬼という個に対するものであるのだから。
元々、超越者には世界との繋がりなど無くとも生きていける強さがある。
その強さ故の孤独を彼らは抱え、一鬼という光との会合によって孤独ではなくなったのだ。
彼らは一鬼という媒介を通して互いに繋がり、世界と繋がり、孤独から解放された。
しかし、彼らは孤独でも良い。超越者でなくとも良い。狂っていても良い。
ただ、一鬼という強者に惹かれたが故に、そこに生まれた繋がりを大切にしているのだ。
かつて紫鬼が言った『世界に愛されている』という言葉の真意は、一鬼と出会ったことにこそある。
彼らには世界との繋がりなど必要ない。必要なのは、彼らと手を取り合える一鬼という存在だけだ。
「気付かない筈がないわ。だからこそ、私達は一度貴方を見逃したのよ」
「……なんですって?」
「私達が一鬼様を通して世界と繋がっているのに対し、貴方は一鬼様だけと繋がっている。その特異性は、藍龍や紫鬼ですらも真似できないわ。貴方はそういう意味では確かに私達と同じく理を超越した者……超越者なのよ。だから、試したの。貴方が私達と共に守護者として在れるか否かを」
「……結果はどうだったの?」
「言った筈よ……良くやった方だと。既に私達は貴方を認めているわ。だから、この戦いは仲直りの握手でもあり、餌でもあるの―――貴方の妹さんに、儚い夢を見せる為のね」
カナリーは綺麗な笑みを浮かべて、はっきりと言った。
碧もその言葉を否定しはしないし、これから起こり得ることも既にある程度理解している。
彼女の心臓に宿った緑色の鬼火から痛い程に伝わって来る一鬼の怨念が、全てを理解させるのだ。
これから起こるのは、彼の復讐と贖罪と、怨念との決着である。彼女の妹の断罪と終焉である。
その為に彼女達は道化を演じているに過ぎない。超越者達すらも、舞台を整える役者でしかない。
既に舞台は整った……後は二人の主役が幕引きまで持っていくのを皆で手伝うだけだ。
「あの子ももうすぐ夢から覚めるわ……私はそれまでの道筋を整えているに過ぎない」
「その為にも、まだまだ付き合って貰うわよ……物語は主役だけでは成り立たないの」
「分かっているわ。私が始めた悲しみは……もう終わらせる」
カナリーの言葉に頷きながら、碧は修復した足と腕の具合を確かめた。
靴は闇によって更地になった地面に落ちてしまった為、片足が裸足になっているが、その程度のことは大した違いにならない。
超越者の前では、そのような差異は無に等しく、考慮する必要がないものだ。
彼女は戦いが終わった後に拾おうと考えながらも、ゆっくりと構えをとった。
これから後数少しの間だけ彼女達の戦い……否、カナリーの蹂躙と碧の抵抗は続く。
「さぁ、来なさい……貴方の本気を受け止めてあげるわ」
「行くわよ……カナリー」
全ては白雪と美空と一鬼が、その一方通行の思いを明らかにするその時の為に。
テクスチャーとは、視覚的なものでもあり、同時に触覚的なものでもある。
神谷美空は、専らその言葉を触覚的な側面に傾いたものとして使っていた。
彼女にそうさせる最大の要因は、やはり彼女の兄である神谷一鬼という存在であろう。
彼は、彼女が生れ落ちた瞬間からその傍に居てくれた存在であり、それから十七年の間見守り続けてくれた男だ。
優しく、強く、恐怖すら感じさせる程の圧倒的であった兄と触れ続け、彼女はその途方もない依存性を知った。
人は神谷一鬼を恐ろしいと言う。呆れる程の強靭さに嫉妬し、その明らかに異なる外見と鋭過ぎる空気故に恐れる。
美空もまた兄の強さに嫉妬し、そこに辿り着けぬことで幾度となく苦悩しはしたが、彼のテクスチャーを知っていた。
一鬼という男は他人の前では絶対に見えない笑顔を、彼女達にだけは向けてくれる。頭を撫で、その大きな腕で抱きしめてくれる。
そこには愛があった。繋がりがあった。決意があった。
確かに美空にとって一鬼は酷く苦痛を感じさせる存在ではあったものの、同時に絶対的な安堵感を抱ける存在なのだ。
彼は己が孤独であるなどという幻想を容易く破壊し、この世界は確かに常に傍に居てくれるのだと気付かせてくれる。
そこから彼女はテクスチャーというものは、視覚的なものでは不十分であると知った。
深く根底に関わるテクスチャーというものは、常に触覚的なものなのだと知った。
どんなに目で見ても、実際に触れなければ完全に理解することはできない……だからこそ、美空はテクスチャーをより触覚的なものとして扱うのだ。
「はぁ……はぁ……ゲホッ……」
夕日が沈んでいくのを視界の端で捉えながら、美空……否、白雪は黒い血を吐いた。
金虎との戦い……否、一方的な蹂躙の果てに敢えて与えられた逆転の末に彼女はここに居る。
遥か彼方に飛ばした為、黄金の超越者といえどもすぐに戻って来ることはできないだろう。
本当に金虎が光に達する速度で動けるのだとしても、数十分は戻ってこられない距離だ。
既に殆ど全ての力を使い切った彼女ではあるが、回復するだけの時間はもう残されていない。
今すぐに塔に向かわねば、間に合わない。
それ程に、切羽詰っているのだ。
「行かないと……」
『美空……もう諦めなさい……今の貴方では、絶対に辿り着けないわ』
「うるさい。亡霊は口出ししないで……」
震える手をそっと握り締めながら、白雪は立ち上がった。
金虎を転移させてから既に数分が経過しているが、漸く力の一分程が回復したといった処だ。
ほぼ全ての力を使い切った状態であったことを考慮すれば、彼女のその回復速度は非常に高いと言えるだろう。
しかし、彼女は知っている……超越者達の力は無限であり、尽きることはないことを。
いかに九尾と言えど、彼らと比べれば有象無象でしかないのだ。
九尾という概念的な限界を超え、十尾にすら達した碧でさえも、超越者の前では無力であった。
一年前、数億分の一程度の力しか震えなかった紫鬼を前にしても後れを取ったのだから、その力の差は絶望的だ。
勿論最強である紫鬼と比較すれば、それ以外の超越者達は明確に劣るだろう。
それでも彼女達の何千倍以上の力を有しているのだから、絶望的であることに変わりはない。
彼女は文字通り全力で金虎を宇宙の遥か彼方に飛ばしたが、それに利用したエネルギー量すらも、彼らにとっては他愛ないものなのだ。
そんな化け物達とまともに戦かって勝てる筈がない。
だからこそ、彼女は超越者を宇宙に飛ばし、その隙に光の塔の頂上に辿り着くことを選んだ。
「っ……」
不意に腹部に生じた痛みに顔を歪めながら、白雪は歯を食いしばった。
金虎の撫でるような攻撃ですらも、彼女にとっては致命傷足り得る。
完全に手加減されていたというにも関わらず、金虎の何気ない一撃は彼女の治癒能力を阻害するのだ。
黄金の超越者があそこまで露骨に手加減していなければ、彼女は胴体部分で真二つにされていただろう。
いや、そもそも遭遇したことに気付くことすら叶わない速度で殺された筈だ。
それだけの圧倒的な力が金虎にはあった。
十尾に達し、その全てのリソースを身体能力に割いた碧ですらも、黄金の超越者の動きには反応すらできないだろう。
先程の戦いで、黄金の超越者はご丁寧にも白雪に常に声をかけて、攻撃することを予め教えてくれていたのだ。
それが明らかな手加減であることも、彼女達を嘗めている証拠であることも、否定はできない。
一鬼が予め加減するように言っていなければ、白雪は紅鴉に一瞬で殺されていた。
飽くまでもしもの話ではあるが、一鬼が超越者に彼女を……美空を殺さないように告げなかったならば、既に彼女は死んでいたと断定できる。
超越者は遊ばずに一瞬で殺す……二百余年前、紫鬼が白雪以外の妖狐を一瞬で皆殺しにしたように、何の躊躇いもなく。
金虎が加減していたのは一鬼の言葉あってこそであり、それがなければとっくに勝敗は決している。
そこにつけこむのだ。その歪みを利用して、彼女は進むのだ。
明確に格下である彼女が抗うには、それ以外の術はない。
「もう……時間がない。急がないと……間に合わない」
白雪は遥か遠くにある光の塔を見ながら、そう呟いた。
金虎が未だに戻って来る気配を見せないことは幸いだが、彼女には時間がない。
現在光の塔から溢れ出している強大な気配は、後一時間もせずに完全なものになるだろう。
丁度夜明けの頃合いに、完全に空の超越者が……最後の鬼が蘇る。覚醒してしまう。
一年前、彼女は不完全な上にまだ格下であった彼と対峙できたが、今回はそうはいかない。
前回は美空をダシにして不完全な状態の時に誘き出せたが、人質となる存在が今回はいないのだ。
白雪は今美空そのものであり、その命をある意味人質にとれてはいる。
だが、果たして一鬼が彼女を他の超越者に殺させないのは美空の命を守る為なのかという疑問は拭えない。
もしかしたら、別の理由がそこにはあるのかもしれない。何か別の要素があるのかもしれない。
その何かがあるかもしれない可能性を否定できないからこそ、彼女は急ぐ。
可能な限り早く進まねばならない……そんな強迫観念を彼女は抱いていた。
「私は……伝える。一鬼に。兄さんに。だから……行かないと」
『美空……』
白雪はゆっくりと歩き出し、そのまま少しずつ加速を続ける。
やがて駆け出し、その左右非対称の色の髪を風に揺らしながら、遂には空に駆け上がった。
既に彼女の運命は決まったも同然ではあるが、まだ他の分岐は潰えていない。
だから、彼女はその僅かな可能性に賭ける。僅かな希望に縋り、それが崩れないことを祈る。
ここからが正念場であり、彼女の未来を大きく左右することになるのは明白だ。
全てを失って死ぬか、それとも愛する男を手に入れて生き残るか……それが今から決まる。
白雪は妖狐として、美空という人間として、これから光の塔の頂に居る一鬼に会いに行く。
そこで全てが終わるか、始まるのかは彼女には分からないが、少なくとも彼女は後者を望む。
彼女の欲する熱を、光を、触覚を、水分を、全て得るのだ。
光と水があってこそ命が育まれるように、白雪達は一鬼という存在なくして生きていけない。
己の持つ業火が生み出す渇き、飢え、そして砂漠化していく心……それらに耐え続けることは彼女にはできなかった。
完全な超越者達ならば、間違いなく耐えるだろう。その苦痛すらも強さの為に利用するだろう。
だが、彼女は超越者ではない……狂いきれない彼女では、超越はできない。
「……後一人。一人なのよ」
あと一人どうにかすれば、一鬼に辿り着ける……白雪は己にそう言い聞かせ、光の塔に向かう。
残る一人をどうにかできても、実際はカナリーもこの地球上に居る為邪魔をしてくる。
だが、今は幸いなことに碧と戦い続けており、碧が負けない限りはやっては来ないだろう。
戦いが始まってまだ十分も経過していないことに驚きながらも、彼女はこの状況をありがたく利用する。
罠である可能性は大いにあるが、しかし彼女に元々選択肢はない。
超越者は無限の力を持つが故に、永遠に戦い続けることができる。
そういう意味では十分あり得る事態なのだが、碧程度が完全な超越者に抗うことは不可能だ。
一年前、数億分の一の力すら揮えなかった紫鬼に圧倒されたように、碧は他の超越者にも勝てない。
勿論、他の超越者は紫鬼程の絶望的な力の持ち主ではないが、それでもその差は十分絶望するに足るものだ。
一年前、その超越者の中でも圧倒的であったブルー・シャーマンと紫鬼を甦らせたことを、素直に白雪は愚考であったと思っている。
一鬼を確実に覚醒させる為には前者が、絶対に死なせない為には後者が必要ではあったものの、彼女が望んだ結果は得られなかった。
最終的に彼女は紫鬼に殺され、紫鬼は宿主という枷によって力を十二分に発揮できず、碧を庇った一鬼を殺してしまったのだから。
全てが裏目に出てしまった一年前、彼女は全てを失った。
だからこそ、今度こそはそうならないように足掻くのだ。
「……!」
光の塔まで後数十キロという距離で、不意に白雪は停止した。
恐ろしい程に濃厚な怨念が辺りに充満していることを彼女は肌で感じ取り、無意識に止まったのだ。
今まで出会ったどの怨念とも異なる、圧倒的な異質さと吐き気を催す不気味な怨念が、彼光の塔の周囲を満たしていた。
それは一鬼の持つ圧倒的ではあるが暖かな力の奔流でもなく、紫鬼の持つ死の闇でもなく、ブルー・シャーマンの持つ全てを見透かす神秘でもない。
そこにあるのは……圧倒的な狂気だ。妄執と言える程の執着だ。
一鬼達とは方向性が違う、余りにも強過ぎる狂気が充満している為に、白雪は吐き気を催した。
何処までも深く、黒く、不快なテクスチャーを齎すその怨念に、彼女は全身が震えるのを自覚する。
今彼女が感じているのは、暖かさでもない。圧倒的な死の予感でもない。全てを見透かされている恐れでもない。
今彼女の胸中を支配しているのは……理解し難い狂気と向かい合ったことに対する恐怖だ。
「これは……この感覚は……いったい何なの? この……世界をゴミのように感じている、圧倒的な狂気は?」
「この世界には、絶対に変わらない理がいくつかあります」
「!?……うっ!?……うぇっ……」
『ありえ……ない。こんな……こんな強い狂気……』
不意に聞こえて来た声に横を向いた白雪は、見た……見てしまった。
どす黒い怨念が渦巻く中心に居る、一鬼や紫鬼と同じ藍色の髪の毛を持つ女性を。
その側頭部で自己主張している湾曲した二つの角と、尾骶骨がある筈の場所から生えている尾が、彼女に竜という種族を想起させる。
かつて彼女が滅ぼした妖の一族の一つであり、蒼雷を放つ青き竜が始祖であるという一族……その最後の生き残りが、底に居た。
圧倒的な狂気と、怨念と、絶望を彼女に突き付けて。
耐えがたい吐き気にその場で胃液のような何かを吐き出しながらも、白雪はその眼で女性を見る。
穏やかな表情をしており、今まで出会った超越者の中でも、紅鴉と同じ程に酷く柔らかさを感じさせる風貌だ。
だというのに、彼女は女性から圧倒的な狂気と不気味さと、妄執すら超える思慕を見出す。
その理解できない未知の存在に、抗いがたい吐き気を彼女は催すのだ。
そんな彼女を無視して、女性は言葉を紡いでいく……まるで彼女など有象無象だとでも言わんばかりに。
「一つは、死は覆らないこと。一つは、生きる意味は己で見出す解釈であって、事実ではないこと。一つは、世界は愛し方を一つしか知らないこと」
「……えぐっ……おえっ……」
「ブルー・シャーマンは超越で以て死を覆しました。紫鬼は己が命を賭けて、生きる意味を事実にしました。しかし、私は……一つの愛し方しか知りません」
「げほっ……はぁ……はぁ……」
訳の分からないことを話す女性を傍に、漸く白雪は嘔吐を終えて呼吸を整えた。
実際は呼吸など必要ないが、精神の揺らぎが齎した怨念の揺らぎを整える為に、彼女はそうする。
周囲に渦巻く狂気と圧倒的な怨念を前にして、既に心が折れかけていることを自覚しながらも、必死に抗う。
心が負けた瞬間、彼女はもう二度と立ち上がれなくなると分かっているのだ。
この機を逃せば彼女は二度と一鬼を得ることはできないし、死の未来しか残されていない。
だから、必死に耐える……その恐怖をどうにかして抑えようとする。
「それは、私が一鬼様の世界の一部になること。一鬼様が私の世界になること。その心を何よりも守り抜くこと。その心の為に、誰よりも非情になること。慈愛に満ちた存在になること。圧倒的であり続けること。私は……傍に居続けることでしか、愛を示せません」
「はぁ……はぁ……だから……何だと言うの?」
「貴方の定義する、束縛と管理の末にある愛は私には理解できない。相手を貪ることを愛だと思うその考えも、全てが理解し難い。貴方が今私に対して感じているのと同じ、未知への疑問を感じています」
「……恐怖を感じることができない癖に」
「そう思っているのならば、貴方は本当にどうしようもなく愚鈍ですね。紫鬼が誰よりも一鬼様の死を恐れ、命を捨ててまでそれを止めたことを忘れましたか?」
余りにも理解し難い女性の思考についていけず、白雪はただ混乱と嫌悪を露わにした。
恐怖に震える体を己が手で抱き、精神が崩壊しないように必死に耐え続けることしか彼女にはできない。
少しでも敵意を見せたが最後、一瞬で塵も残さず消え去ることを理解したからだ。
彼女の命は今現在目の前の女性の掌の上にあり、抗うことすら許されていない。理解することもできない。
ただ怯え、嫌悪し、混乱することが今彼女にできることだった。
一鬼の持つ血のように赤い眼とは対照的な、深い藍色の眼を細めて語り続ける女性を前に、白雪はただ抗おうとする。
だが、何ともないと言わんばかりにその抵抗も跳ね除けられ、彼女は閉口するしかない。
紫鬼の死に様を彼女は見た訳ではないが、しかしその命を捨てて一鬼を生かしたことは理解している。
故に、彼女には超越者が恐怖を感じないとは言えない。恐れが無いとは言えない。痛みが無いとは言えない。
彼らの狂気は佐村優希のような麻痺ではなく、一鬼と同じ耐え続ける狂気だ。
だからこそ、彼らは超越者と呼ばれる。
「……怖いのに、どうして……立ち向かえるの?」
「怖いから立ち向かうのです。恐れるから、それが起きぬように対決するのです。貴方は一鬼様に捨てられることを恐れ、ただ抱かれるのではなく己が抱くことを決意したのでしょう? 手を伸ばされるのを待つのではなく、己が伸ばそうとしているのでしょう? それは、別離を恐れるが故の対決に他なりません」
「っ……私は……」
「ですが、貴方のやり方は私には賛同できないものです。故に、これから始まるのは決別……私闘です」
穏やかな笑顔のままそう言い切った女性から、その外見からは予想もつかない程の吐き気を催す狂気が発せられた。
紫鬼やブルー・シャーマンに対して白雪が感じたものとは全く異なる方向性のそれは、あらゆる妖を発狂死させ得るだろう。
元々、超越者の持つ怨念の量は無限であり、その存在感も圧迫感も怨念に敏感な妖にとっては致死性の高いものだ。
だが、今彼女の目の前に居る女性のそれは桁が違う……紫鬼達とは余りにも在り方が異なる。
二百余年前、この女性の狂気が『東』の一族を滅ぼさなかったのが不思議な程の、圧倒的な異質さが彼女を圧迫していた。
気を抜けばその瞬間完全に発狂し、怨念に負けて消滅するしか未来は残されていない。
だが、白雪は妖狐として、美空という人間として、これから一鬼に会いに行くと決めている。
どの道、一鬼が完全に覚醒すれば、愛梨達を死に至らしめた彼女の死は九割九分確定するのだ。
ここで倒れてしまうことも、逃げることももう彼女にはできなかった。
彼女は父も殺した。親友とも決別した。
残された兄を……一鬼という光を失うことはできない。諦めてしまえば、無に帰るしか道が無い。
「……もう……私は……逃げない!!」
「ふふ……では、始めましょうか。私の名前は藍龍―――最後の鬼の隣に居ることを紫鬼とブルー・シャーマンから許された、唯一の存在です」
「……っ……なんで……すって?」
「私だけが一鬼様の隣に居ることを紫鬼達に許された……そう言っているのですよ」
白雪は恐怖も吐き気も何もかもを忘れて、女性……藍龍の言葉を必死に理解しようとした。
だが、理解しようとすればする程に彼女の奥底で激情が溢れだし、嫉妬と怒りが、憎悪が……緑色の業火が彼女自身すらも焼いていく。
姉である碧と同じく激情を持ち、その制御をできずに苦しみ続ける定めにある彼女は、感情を御しきれない。
今彼女を襲っているのは、一鬼のように抑え続けた結果の苦痛ではなく、抑えきれないが故の苦痛だ。
目の前に居る女性が己よりもあらゆる面で勝り、その上世界にすらも愛されているということへの―――嫉妬だ。
白雪は……美空は誰よりも一鬼に愛されたい。一鬼に必要とされたい。一鬼を必要としている。
その暖かさを感じ、命を育む雨を浴び、その肌に触れ、抱かれたい。抱きしめたい。
確かに碧達に指摘された通り、彼女は結局の処一鬼の精神ではなく力を求めているに過ぎない。
だが、そうさせたのは一鬼の心なのだ。一鬼の持つ全てなのだ。
美空という少女を誰よりも魅惑し、溺れさせ、憎ませたのは、他ならぬその精神なのだ。
妖狐としての白雪が望んでいるのは、結局一鬼の持つ光だけだろう。
だが、美空としての彼女が欲しているのは、たった一つのものだ。たった一つの言葉だ。
それを手に入れたいからこそ、彼女は一鬼に会いに行く。全てと決別することで覚悟した。
他の誰かで代用するなど彼女には想像することすらできない……一鬼でなければ駄目なのだ。
彼女の飽くなき飢えも渇きも、その腕の中でなければ癒えない。心の砂漠化も止まらない。
彼女は一鬼のテクスチャーによってでしか、救われることはないのだ。
そんな彼女の前に今その居場所を与えられた者が居る……それは、途方もない嫉妬と怒りを彼女の奥底で湧き上がらせた。
「貴方が……こんな狂気が!! 一鬼の! 兄さんの! 傍に居ることを許される筈がない!!」
「良い機会ですから、はっきりと宣言しておきましょう……貴方達はどんなに頑張っても、私に勝てません。カナリーという同志も、碧という名の破壊者も、誰もが私よりも劣り、一鬼様にとっての一番にはなれません」
「なんで! なんで貴方みたいな女が兄さんの隣に居て、私が居ないのよ!! 貴方が超越者だから!? 私がかつてただの人間だったから!? 白雪という妖狐だから!?」
「いいえ、違います。貴方が―――弱いからです」
「っ!?」
藍龍は悲しげな笑みと共に、その手を一閃した。
速過ぎるその一閃の始点と終点のみを観測した瞬間に空気が弾け、白雪は吹き飛ばされてしまう。
だが、怒りと嫉妬、そして憎悪によって恐怖を超越した興奮状態にあった彼女はすぐさま体制を整える。
確かに一瞬の油断が死を招き得る程の濃密で異質過ぎる狂気ではあるが、同じ妄執に突き動かされている彼女はそれに耐えた。
愛する男の隣に居ることを紫鬼達に許されたという女を憎悪し、その存在を消したい…その願望が、怨念が今彼女を強くしている。
妖狐としての白雪ではなく、人間の美空としての部分が、その嫉妬に狂うのだ。
義理とはいえ、兄である一鬼を表立って愛することはできず、ただ彼女は想いを誤魔化し続けた。
かつて、愛梨はそれを批判した。碧はそれを笑った。二人は、彼女を容易く上回り、一鬼の懐に入り込んだ。
十七年間の間、彼女のものであった筈の男を二人は容易く奪い、碧に至ってはその命すらも奪った。
そして今、また別の女性が彼女から一鬼を遠ざけようとしている。
傲慢にも、誰よりも己が一鬼に相応しいのだと宣言し、彼女達はその劣化でしかないと嘲笑い、彼女を見下す。脅かす。
藍龍という名の龍は、何の悪意もなく鬼の隣に居られることを自慢し、彼女を見下したのだ。
藍龍は愉悦もなく、見下そうという悪意もなく、己を慰めたいという弱さもなく、ただ事実を述べるように、淡々と白雪を有象無象だと切り捨てた。
それが彼女の中の業火を今までになく活性化させている。
美空という少女は、今この瞬間その激情を全て吐き出す相手を見つけたのだ。
「っ……」
「力の差は歴然。貴方など、私にとってはこの地球にとっての蟻一匹と同じ程度の大きさでしかありません。これを見ても、まだ抗おうとするその心意気は認めますが、はっきり言って無意味です。もう一度言います。貴方は――――弱い」
「だから……弱いから……弱いから、私は兄さんが欲しい! もっと甘やかして欲しい! 抱きしめて欲しい! 触れて欲しい! 触れたい! 愛されたい! だから―――諦めない」
「良いでしょう。では、始めましょうか……女同士の醜い争いを」
諦めずに戦うことを声高々に宣言し、白雪はその力を解き放った。
藍龍は、そんな彼女の姿に嬉しさ半分悲しさ半分と言える曖昧な笑みを浮かべると、そのまま両手を広げる。
かつて緋蓮という下級妖が所有していた鎧を完全な状態で纏っているその姿は、しかし酷く無防備だ。
最低限の部分にすらも鎧は施されておらず、どのような状態からでも復元するという特性がなければ、超越者にとってはゴミであろう。
だが、そのようなものの質云々は藍龍には関係ないのだ。
今白雪はその証拠を目撃している。彼女を迎えた最後の守護者の恐怖の一部が確かに今そこにある。
大地に深々と刻まれた、遥か彼方にまで続く巨大な割れ目。そして消滅した山……その全てが何気ない一振りで為された破壊だ。
金虎達がそうであったように、超越者は個々が地球を単独で滅ぼし得る力を持っている。
その力の差は絶望的としか言えない程のものだが、白雪は諦めない。
美空という人間として、白雪という妖狐として、彼女は一鬼に伝えねばならないことがある。
伝えたい思いがある。確認したい思いがある。聞きたい言葉がある。もう一度会いたいという思いがある。
その希望と、藍龍への憎悪を糧に、彼女は恐怖を振り払い、立ち向かう。
たとえその先に死という未来があったとしても、彼女は良かった。
「私は……神谷美空として、貴方を倒す!」
『! 駄目よ、美空!!』
愛する男の胸の中で死ねるのならば、美空は本望だ。
忌避すべき未来は一鬼という彼女にとっての光に、雨に、愛に辿り着けないことである。
白雪という名の妖狐の部分は一鬼を不完全なままで独占することを望んでいるが、彼女は違う。
同じ目的だと思い込んでいただけで、実際に両者が欲していたものはまるで違ったのだ。
白雪が欲したのは飽くまで一鬼の持っている光だけであって、光ならば誰でも良かった。
だが、美空は違う……彼女は兄の持つ光と、それを扱う精神の全てが欲しい。
今ここに居る白雪は、美空と白雪の混ざり合った新しい精神ではあるが、似通った二つの精神では全く異なる第三の精神には達しない。
結局の処、現在の彼女の精神は今までの二人とそれと大差ないものでしかない訳だ。
だが、その僅かな違いが超越者に立ち向かう勇気を与えた。両者の激しい憎悪と嫉妬が相まって、漸く立ち向かう勇気が生まれた。
その差異は、かつての碧と白雪の差異のように、小さいながらもその後の結果に大きな変化を齎したのだ。
「おかしなことを言いますね。貴方にはできませんよ……一生」
「やってみなければ―――」
「分かりませんか。愚鈍ですね」
「がっ!?」
だが、白雪はすぐさまその覚悟も超越者にとってはちっぽけなものでしかないことを思い知らされた。
突然生じた衝撃によって、白雪の体は地面に叩き付けられ、一瞬で意識を刈り取られそうになる。
砂の味と激痛によってそれは辛うじて避けられたが、反応は愚か何をされたかも理解できずに白雪はそのまま何とか上を見た。
空に浮かぶ藍龍に見下ろされていることに気付きながらも、彼女は何とかここから起死回生する術を探す。
だが、絶望的な力の差と己の疲労を考慮した彼女は、その手段がないことを理解してしまう。
憎悪と嫉妬がなければ、この一撃で完全に白雪の心は折れていただろう。
金虎と同じように、藍龍も手加減はしてくれているようだが、それでも強過ぎる。
どれ程の差があるのから判断するのもバカらしい程に彼女と藍龍の間にある差は絶対的だ。
金虎とのそれに値すると言って良い程に絶望的で、美空だけでも白雪だけでも立ち向かえない。
激情を一瞬でかき消す程の絶望を超越者は片手間で与えて来るのだから、一人で挑める筈がないのだ。
碧ですらも、一鬼という心の拠り所がなければ挑むことはできないだろう。
どす黒い血を口から吐き出しながら、情けなさと恐怖に、彼女は必死に抗った。
「ごふっ……おぇっ……」
「金虎を追い出す為に、相当無理をしたようですね。これ以上無理をすれば、いくら九尾でも死にますよ? 今度はバックアップもない……貴方は完全に死ぬ」
「ゲホッ、ゴホッ………」
「諦めないのは勝手ですが、不相応な信念は無い方が良いです。信念だけでは、力と信念がある者には勝てません」
「っ……」
ゆっくりと地面に降り立った藍龍の言葉が、白雪の心に突き刺さる。
確かに超越者は力も信念もあり、信念も力も中途半端な彼女などでは勝てないだろう。
一鬼が止めていなければ、金虎も紅鴉も彼女を最初の一合で殺していたであろうし、実際彼らにはそれができる能力がある。
飽くまでも一鬼との間にあるやりとりが邪魔をしただけであり、彼らが白雪に負ける可能性は零だ。
どんなに彼女が策謀を張り巡らせても、彼らは容易くそれを読み、破壊する。
まるで物語に出て来る超人のように、超越者は無力な者達を嘲笑う。
言葉にせずとも、その強靭さと揺るぎない信念と、圧倒的な生態で以て全てを見下す。
彼らからすれば事実を言っているに過ぎず、それを受け入れられないことを弱さと言うのだろう。
だが、白雪達からすれば、その強さは恐怖の対象でしかない。憧れることなどない、狂気でしかない。
事実を受け入れ、それでも足掻くことができる者など彼女達には理解できないのだ。
物語の中の登場人物ならばまだ理解できる。
だが、今白雪の前で彼女を見下している藍龍も、超越者達も、実在する存在だ。
彼らは酷くつまらない。頑固で、面白味もなく、ただその信念の為に進む愚直さしか持たない。
笑いもするし、怒りもする。悲しい時は泣きもする……感情は確かにそこにある。
だというのに、その一方で彼らは恐ろしい程に無機質で、感情というものを感じさせない。
確かに感情はある筈だというのに、異質さしか感じられない。
だから怖いのだ。恐ろしいのだ。
「諦めない……私は……兄さんに……会う」
「……そうですか。中々に懲りないですね。貴方が超越者になれていれば、このようなことをする必要はなかったのですが……残念です」
「……私のことなんか……塵芥でしかない癖に」
「塵芥でも、一鬼様のお役に立つのならば私は認めましょう。それが私の在り方です」
「傲慢……ね……」
ゆっくりと起き上がりながら、白雪は苦笑した。
藍龍の傲慢さは悪意あるものではなく、ただ一鬼の為に在り続けるという在り方に起因したものだ。
彼以外の全てを常に切り捨てることができるのが藍龍という超越者であり、それは他の超越者ですらも例外ではない。
白雪はそのことを知らないが、何となくそうなのだろうと感じ取っていた。
彼女が一鬼以外を切り捨てられるように、藍色の超越者もまた他者を切り捨てられる者なのだ。
これで己が一鬼に捨てられたならば絶望するのならば、まだ滑稽だと笑えただろう。
だが、白雪は痛い程に感じ取っている……藍龍という超越者は一鬼の為ならば、己すらも切り捨てると。
苦悩や迷いがない訳ではないだろうがそれも一瞬で処理し、一鬼の為に死ぬ筈だ。
彼がそれを望むことは永遠にあり得ないが、しかし藍龍にはそれが可能であることは確かであった。
つくづく気持ち悪いと思いながらも、白雪はゆっくりと藍龍の元に向かう。
今彼女の目の前に居る超越者さえどうにかすれば、一鬼に会える……それが彼女の希望だ。
「美空さん……貴方はここに来るべきではなかった。白雪という妖狐に惑わされず、一鬼様を待ち続けるべきでした。そうすれば、必ず一鬼様は貴方に会いに行ったでしょう」
「別れの挨拶をしに、でしょう……私は……絶対に離れたくない」
「ならば、その想いをぶつければ良かったのです。伝えれば良かったのです。一鬼様はその気持ちに向き合い、受け入れてくれるでしょう」
「神谷明と夜空の娘だからでしょう? 私は……そんなの……嫌」
「そうやって言い訳ばかり探して前に進まないのならば、それしか道はないでしょう。ですが、貴方がその気持ちを真剣に伝え、対決すれば……一鬼様は絶対にそれに応えます。美空さん……関係を変えるには、どちらかが動くしかないのです」
悲しげな笑みと共に残酷な事実を告げる藍龍に、白雪は更なる怒りを呼び起した。
確かに藍龍の言う通り、彼女は……美空は、その関係を変えようと努力したことがない。
だが、努力しようと思った時には、既に一鬼はこの世には居なかった。碧が死なせた。紫鬼が殺した。
一鬼が蘇るということを知ったのは数日前で、彼女には関係を変える努力をする機会すらなかったのだ。
だというのに、藍龍は彼女に努力しなかったのかと言う。
美空の内側で燃え盛る炎はその言葉に、態度により一層強く燃え上がっていく。
そして、それが白雪という新たな彼女の精神に力を与え、立ち向かう勇気を生み出す。
力も信念も覚悟もある超越者を前にしては、彼女など覚悟すらできない塵芥でしかない。
だが、それでも立ち向かう。抗う。その生き方に反発する。強過ぎる様に恐怖する。
一鬼もまた同じ存在でしかないのだと知っている筈なのに、彼女はそうする。
その態度が一鬼の在り方を否定しているとも知らず、彼女は抗うのだ。
「私は関係を変えようとした! だけど、もうその時には兄さんは居なかった……頑張ろうとしたのに、私の前から居なくなった……どうして……」
「一年前のことは仕方ないでしょう。ですが、数日前一鬼様の復活を知った時、何故貴方は待とうとしなかったのですか? あの殺戮者ですらも待ったというのに」
「……私は……」
「いいえ、愚問でしたね。貴方は己が本当に何を欲しているのかすらも理解していなかった。だから、白雪という妖狐に惑わされた……それだけのことです。強くないが故に、惑わされた。だから、ここに居る。我ながら無意味な質問でした」
「っ……化け物……」
藍龍は全てを見透かしたような口調で事実を語り、一つ溜息をついた。
その様に白雪は更なる怒りと憎悪を蓄積させ、しかし恐怖を覚える。
超越者は嘘を付けない為、その言葉は全てが事実であると言っても良いし、そのことは彼女も承知している
だが、その内容が彼女しか知り得ない筈のものならば、話は別だ。
もしも推測のみで語っているのだとすれば、それはもはやブルー・シャーマンと同じ領域に居ると言っても良い。
全てを見透かすブルー・シャーマンは、過去と現在を簡単に把握する。
それどころか一年前は未来すらも把握していたのだから、恐ろしいことこの上無い。
白雪が死ぬ未来も、愛梨が死ぬ未来も、蒼炎の超越者にはある程度分かっていたのだ。
分かっていながらも大した対策をしなかったことは愚かではあるが、しかしそれも仕方ないことではある。
ブルー・シャーマンは一鬼に保険をかけていたし、弱者に興味はないのだから。
しかし、その蒼炎の超越者のような能力は藍龍にはない筈だ。
いかに超越者が皆恐ろしい程に相手を見透かせるのだとしても、そこには限界がある。
神秘にほぼ全ての力を割いたブルー・シャーマンと比べれば、戦闘力にばかり力を割いている他の超越者はそこまで鋭くない筈であった。
だというのに、藍龍は平然とそれに似たことをやってのけ、断定する。
白雪はまるで藍龍を理解できないというのに、理解しているかのように振舞う。
それが演技であろうとなかろうと、ここまで全てを言い当てられては恐怖しか感じない。
白雪は奥底で鎌首をもたげる恐怖を憎悪と嫉妬で塗りつぶしながらも、吐き捨てた。
「残念ながら、一鬼様も同じ化け物です。貴方が知っているのは、力も感情も抑え続けたが故に弱った姿に過ぎません。一年前、急激に変化した一鬼様を前に、貴方は戸惑った筈です。ですが、あれが一鬼様の本質であり、業……貴方を救い、苦しめる元凶です」
「一鬼は……兄さんは違う! 私を愛してくれる! 光を与えてくれる! 貴方達みたいな暗闇なんかじゃない!」
白雪の言っていることは確かにその通りではあるが、しかしその全てが正しいとも言えない。
苦笑する藍龍の姿はまさしくその正しくない部分を知っているが故のものである。
彼女が知らないことを藍龍は知っていて、だからこそそうして彼女の無知を笑えるのだ。
それが余計に彼女を苛立たせ、憎悪と嫉妬を強めていくのを知っている筈だというのに、藍色の超越者はそれを平然と行う。
完全に彼女は見下されている。格下だと見做されている。
そして、それは紛うことなき事実であった。
「一鬼様から光を奪えば、貴方は見向きもしない。私はそれでも、一鬼様を求めるでしょう。カナリーも、他の超越者達も、そして……殺戮者ですらも。私達が求めているのは、一鬼様との絆です。あのお方が持つ光という力に対するものではありません」
「だったら、その超越者の座を私に譲ってよ! 私に光を頂戴!」
「私達を選んだのは光ではなく一鬼様です……貴方が光に触れられるかも、私達の代わりになれるかも、全ては一鬼様のご意思次第であって、貴方や私が決定できることではありません」
「どうして……兄さん一人説得できなくて何が超越者よ! 全てを思い通りにできるのが超越者じゃないの!?」
「美空さん……超越者は痛みに耐え続ける者です。その力を扱う理由を持つ者です。その信念の為に世界を敵に回せる者です。私達は貴方の為に居るのではありません。最後の鬼の心を守る―――それだけが私の生きる意味であり、戦う理由です。そのお心が貴方を拒絶しているというのに、どうして貴方の肩を持つことができましょうか?」
白雪の苦痛と渇望を込めた懇願は、簡単に藍龍に振り払われる。
柔らかさを感じさせる美貌をより一層美しくさせる笑顔と共に、藍色の超越者は首を横に振った。
その様に、白雪は絶望的な差は力だけではなかったのだと気付く。気付かされてしまう。
碧に対して感じた差が、ここでも彼女を苛む。想いの強さが違い過ぎるという事実が、彼女を見下ろす。
違い過ぎる精神力の差が、執着の差が、彼女をここでも敗者にしようとしている。
結局白雪は一鬼を碧達程想えていない。その存在そのものを強く望めていない。
美空はその全てを望んでいるが、しかしその癖彼を信じ切ることは一度たりともできなかった。
己が必要とされないことを恐れ、善意と言う名の免罪符を利用して一鬼に応えようとした。
そのようなものは必要ないのだと何度言われても信じ切れず、彼女はそうし続けた。
兄が彼女を必要としてくれているという実感が無かったが故に、それを止めることなど彼女にはできなかったのだ。
碧もかつてはそうだったが、しかし一年前変わった。
一鬼が文字通り命を賭けて証明した愛と覚悟の強さによって、碧は緑色の超越者となったのだ。
そこに至る際に本当に望んだものが何かを理解し、一鬼の言葉が真実であったことを知り、姉は変わった。
白雪と同じ穴の狢であった筈の姉は、一年前超越者達の世界に半歩だけ踏み込んだのだ。
誰もが彼女より上を行く。嘲笑う。見下す。
その全てが鏡像でしかないのだと理解できずに、彼女は苦しみ続ける。
「なんで……私ばかり……苦しまないといけないの? なんで貴方達ばかり……光を与えられるの?」
「苦しみ、ですか。ではこの怨念を貴方も背負ってみますか? そうすれば私達のことが少しだけ理解できるでしょう」
「ひっ!? 嫌っ!! 来ないで!! もうあんな痛みは嫌だ!! あんな苦しいのは嫌だ!!」
「はぁ……ブルー・シャーマンに殆どの怨念を押し付け逃げ出した貴方では、到底抱えきれないでしょう。貴方がその時感じた苦痛を常に私達は感じているのです。貴方の苦痛を理解できない訳ではありませんが、苦痛の度合いを他者と比べ合うのは無意味なことです」
「……そんなこと……」
白雪は思わず閉口した。
今すぐ目の前に居る超越者をどうにかしなければ、彼女の望んだ結末は訪れない。
一鬼の完全復活まで後二十分あるかないか……いや、更に加速度続ければ十分もない可能性すらある。
この状況でただ黙って藍龍の言葉に耳を傾けることは愚行だ。今までの覚悟に背く行いだ。
もう戻れない処まで来てしまった彼女には、ここで止まるという選択肢はない。
だからこそ、彼女はこの問答を終わらせる。
どうせこのまま続けても彼女自身の弱さと超越者の不気味な強さを再認識するだけなのだ。
一鬼は完全に空の超越者として覚醒し、その圧倒的過ぎる力で以て彼女を殺すだろう。
彼女はそのような結末は望んでいない。もっと彼女にとって都合が良い結末が望ましい。
一鬼を独占し、その愛を彼女だけが与えられる状況こそが至高なのだ。
だからこそ、彼女は白雪としてここに居る。
己自身の弱さを知る為にここに居る訳ではない。
「貴方も―――」
「っ!!」
白雪は瞬時に海の水をテレポートで呼び出し、藍龍に浴びせた。
その瞬間にすぐさま氷結能力を使い、氷の中に閉じ込めると白雪は更にテレポートを用いてその氷を南極に飛ばす。
たった三段階の作業で息が上がるのを自覚しながらも、彼女は確かに藍龍が南極に飛ばされたことを実感した。
あっという間に戻って来るのは確かだが、氷を砕いてからここに来るまでのほんの少しの時間で十分だ。
一鬼が光の塔から全く動けないという事実は、その肉体がまだ使用できないことを意味している。
残された時間はもはや僅かだが、それまでに肉体を破壊すれば白雪の勝ちだ。
適度に弱らせ、そのままその力を利用してはるか遠くに飛べば誰も彼女を邪魔できない。
二年前に紫鬼の肋骨を利用して『虹色の肋骨』を生み出したように、彼女が一鬼の肉体の一部を使えば良いのだ。
それが生み出す途方もない量のエネルギーは宇宙の彼女に遥か彼方まで飛んでいく力を与えてくれる。
今の一鬼はまだ戦えるような状態ではない筈だと信じ、白雪は光の塔の頂上にテレポートすることにした。
「ゲホッ……ぐっ……おぇっ……っ……」
しかし、白雪は無理をしたことによって再び吐血した。
口を手で押さえてそのまま十数秒程咳き込んだ末に漸く止んだ吐血を忌々しく思いながらも、彼女は今度こそ光の塔の頂上にテレポートしようとし……それが叶わないことに気付く。
程度を下げて上部にテレポートしようとするも、再び力が発動せずに、彼女を混乱させた。
テレポートするだけの力はまだ残っているというのに、飛べないのだ。
ブルー・シャーマンが何か細工をしたのだと数秒置いて理解すると、彼女は空を駆けた。
もう白雪に立ち止まる時間は残されてないのだから、ここでただ使えないテレポート能力を試し続けるだけ無駄だ。
手に付着したどす黒い血を服で拭いながらも、彼女はそのまま光の塔の頂上に向かって加速した。
数秒で音の壁を破り、更にほんの十秒程でその先の領域に辿り着いた彼女であったが、しかしその動きはぎこちない。
姉である碧ならば、もっと速く、更には巧く加速しただろう。
何処まで行っても、素の能力値や技術では白雪は碧には勝てない。
一年前はテレポート能力があったからこそ翻弄できたが、それがなければ碧は十分に動きに反応できただろう。
実際問題、当時八尾より数倍強い程度の状態であった一鬼は、倍近くの強さを持つ白雪を相手にほぼ互角に立ち回った。
それも、その動きについていけていなかった碧を庇いながらだ。
彼女はいつだって誰かに比べて劣っている。
それが苦痛で仕方なく、ただもがき続けるのが彼女の業であるのかもしれない。
「っ……見えたっ!!」
力を使い過ぎたことによって生じる苦痛に耐えながらも、数十秒の間昇り続けた果てに、白雪は遂に光の塔の頂上に達した。
無防備に開け放たれたそこに鎮座する巨大な水晶の中に眠る一鬼の姿を発見し、彼女はにやりと笑う。
漸く兄に辿り着いたという安堵と待ち侘びた存在との再会への歓喜と、超越者達への優越感に浸りながら、彼女はすぐさまそこに降り立った。
彼女が求めた光の波動に満ちたその空間の奥に、全ての元凶が眠っている。
一鬼という名の鬼は彼女にとっての兄であり、愛する男であり、最大の苦痛を齎す根源だ。
彼女に多くの喜びを与え、苦痛を齎し、果てに絶望を与えた男が、すぐ傍に居る。
歓喜の余り震える体を押さえながらも、白雪はただただ声も出さずに顔だけで笑った。
邪悪に歪んだその笑顔を崩すことなく、残された僅かな力でミサイルを一つだけ呼び出し―――そのまま彼女は放った。
瞬間、ミサイルは瞬きするか否かの時間で水晶に衝突し、数十メートルに及ぶ巨大な爆炎を生み出す。
水晶はバラバラに砕け散り、もはや跡形もなくなったと言えるレベルで破壊された。
いくら超越者であろうとも、まだ完全に目覚めていない不完全な状態では不死ではない。
一年前一鬼が紫鬼に殺されたように、ある程度の力さえあれば殺せる状態なのだ。
そして今、彼女は兄の覚醒を中断させることに成功した。
今まで世界を満たしていた波動が―――止んだのだ。
「ふふ……はは……勝った……これで……これで、兄さんは私のものだ!!」
白雪……否、美空は狂気の入り混じった笑みを浮かべ、握り拳を作って喜びを表現した。
空の超越者の力の波動は消えていないが、しかしそれはもはや増大していない。
いや、それどころか見る見る弱っていき、彼女と大差ないレベルにまであっという間に下落していく。
それが意味するのは、即ち不完全な復活による弊害だ。中途半端な覚醒による力の喪失だ。
二百余年前、赤子であった頃の一鬼が生きる為、そして白雪を生かす為だけにそれ以外を捨てたように、今命を繋ぐ為に一鬼は力を失っている筈なのだ。
再び膨大な怨念と触れ合えば、完全に覚醒することも不可能ではないが、その機会を与えるつもりは白雪にはない。
完全に隔離し、超越者ですらもすぐには辿り着けない光年レベルの遥か彼方に一緒に跳べば良いのだ。
そうすれば、いかに超越者が相手でも数年単位の猶予は確実に得られ、彼女も次の跳躍の準備ができる。
紫鬼の肋骨を利用した方法を応用すれば、一鬼の力のほんの一部だけではあるが、使えるであろう。
そして、その力はほんの一部でありながらも、無限とすら言える膨大な量である。
故に彼女は勝利を確信し、笑った。
「後は兄さんと一緒に跳べば――――」
「そうか……それで、何処に跳ぶつもりだ?」
「それは勿論超越者の手が届かない遥か……彼方……っ!?」
「面白い話だが、一つ大事な要素が抜けている。その話は、お前が本当に勝利した時だけにできるものだ」
「な……ん……で……ここ……に……」
不意に声をかけられ、振り返った白雪の表情は狂喜から一瞬で絶望へと変わった。
その絶望は、本来ならば今そこに居てはならない筈の者がそこに居るが故のものだ。
彼女の希望が絶望に変わる瞬間を生み出せる者は、超越者の他には居ないが、中でも格別な者が二人居る。
一人は言わずもがな最強の守護者にして、一鬼の実の兄である紫の超越者、紫鬼だ。
紫炎を扱い、一鬼以外の全てを滅ぼすその圧倒的な暴力は、争いを元来好まない性格の持ち主である彼でなければ、世界を既に滅ぼしていた程のものであろう。
一年前も、白雪は数億分の一の力すら使えなかった紫鬼を前に逃げることすらできなかった。
恐怖の余りすぐさま逃げようとした彼女であったが、速すぎる一撃は容易く彼女を殺したのだ。
美空にバックアップを仕込んでいなければ、そこで彼女の全ては終わっていた。
だが、もう紫鬼はこの世には居ない……二度も一鬼の為に命を投げ出し、今度こそ手の届かぬ場所に行ったのだ。
つまり、今白雪が出会うだけで絶望してしまう相手は一人しか残されていない。
彼女の視界の中央に悠然と佇んでいるその水色の骸骨は、ただ一人が持ちうる絶対に滅びぬ体だ。
その骸骨が纏う蒼炎は、紫鬼と一鬼以外の全てを容易く滅ぼし、全てを見透かす神秘である。
そして、その上にかかっている黒いもやは、かつて彼女が押し付けた……膨大な怨念だ。
何故ここにそれが居るのかは彼女には理解できないが、ただ一つはっきりしていることがある。
彼女はここで死ぬ―――それも、確実に。
「ブルー……シャーマン……」
「一年ぶりだな、愚か者め。やはりこの道を選んでしまったか……本当に、期待しようがない弱者だ」
「なんで……ここに居るの?……太陽で永遠に……破壊と再生を繰り返している筈じゃあ……?」
「お前が態々金虎を近くに飛ばしてくれて助かったぞ。奴の速度ならば、十数分あれば戻ってこられるからな」
「っ!? 嘘……でしょう?」
ブルー・シャーマンの隣に一瞬で現れた黄金の超越者、金虎の姿に、白雪は更なる絶望を見た。
彼女が九割以上の力を使って遠くに飛ばした筈の金虎が、たったの十分程度で戻ってきたのだから、無理もない。
彼女からすれば全力を出して、太陽より更に遠い遥か彼方に追放したつもりだった。
それを、散歩に行ったような感覚で戻ってこられては堪ったものではない。
しかも、静かに腕を組んで仁王立ちしている金虎の放つ威圧感は、十数分前のそれとは明らかに違った。
本気ではないのだろうが、しかし一瞬で白雪の心を折るには十分過ぎる程の殺意と威圧感を、黄金の超越者は放っていたのだ。
更に、その隣に突如火の鳥が現れ、そのまま深紅の超越者……紅鴉へと姿を変えた。
優しげな笑みを浮かべたまま彼はそこに立ち、彼女を一切気にすることなく横に避ける。
最初は、その笑みの意味を理解することは彼女にはできなかったが、すぐに理解した。
何故紅鴉がそのようなことをしたのか……その理由が奥からやって来たのだ。
彼女に更なる絶望を齎す存在が、そこからやって来る……その肉体を黒いスーツに包んで、強い意思を浮かべた赤い眼を彼女に向けて。
夜のような藍色の髪と、鮮血のように赤い眼を持つ者は……その恐ろしいまでの光の波動を持つ者は、この世にたった一人しか居ない。
『ああ……一鬼……』
「兄……さん……」
そう、そこに居たのは白雪が誰よりも求めた男―――神谷一鬼であった。
何故彼が全くの無傷で、それも力を失っていない完全な状態にあるのか、彼女には理解できない。
しかし、慌てて振り向き、すぐに彼女は己の認識と現実との間に生じた差異の理由を悟った。
そこにあったのは、先程彼女が破壊した水晶の残骸だけで、血の一滴も肉の一片もなかったのだ。
一鬼を半殺しにできたかと思ったミサイルは彼には直撃していなかったということであろう。
しかし、それでも白雪は納得できないでいた。
一鬼がまだ不完全な状態で水晶から出てきたのだとすれば、今彼から放たれている膨大な力の説明がつかない。
だが、今の一鬼は一年前のような不完全な状態ではなく、完全に覚醒した状態にある。
かつて白雪が触れた光そのものが今彼の奥底で力強い波動を放っているのだから、偽りである筈がなかった。
彼女は今までにない最大の絶望を前にしている。
彼女の敗北の証と、向き合っている。
「一年ぶりだな、白雪―――いや、美空」
「う……あ……」
「……ブルー・シャーマン」
「承知している」
そして―――白雪はそのまま蒼炎に飲み込まれた。




