第十一話
日が沈み、夕方から完全な夜へと向かう時頃というものは、妙な哀愁を感じさせる。
夕方という昼にも夜にもなりきれない中途半端な時間は、同じく中途半端さを抱く者の心を揺さぶるのだ。
かつて一人の男が化け物にも人間にもなりきれない己を自嘲し、その時間を己だと語った。中途半端さを苦痛に感じ、必死に元来の己を探そうとした男が居た。その命を賭けて、己の信念を示した男が居た。
その存在は一度ならず二度までも失われ、しかし蘇る。
何度でも、何度でも……朝が来れば光が降り注ぐように。夜が来れば、闇が世界を包むように。
「っあああああ!!」
「このっ……!!」
そんな時間の終わりを迎える中で、二つの影が空中でぶつかっていた。
どちらもが黄金を持ち、しかし同時に全く異なる色を併せ持っている。
片方は嫉妬の炎の如き新緑に彩られ、もう片方は深淵を司る黒に彩られ、その差異を示すが如く激しくぶつかり続けていた。
音の世界に容易く突入し、血と膨大な熱を大気にまき散らしながら、二つの影はただひたすらにぶつかる。
衝突が始まって早十数分、両者は抑えきれない感情をぶつかりかうことで解き放つことのみに集中していた。
「っ……一鬼の気配が!?」
「どうやら……時間が来たようね」
しかし、その空間を巨大な力の波動が通り過ぎた瞬間、両者―――碧とカナリーの衝突は止んだ。
両者は空の超越者の強大な力の波動を敏感に感じ取り、互いにぶつかるのを止めた。
互いに血だらけで、対抗意識が剥き出しであった筈だったというのに、それは一瞬で消えてしまう。
一鬼の気配が完全なものになったことで、彼女達は時間が来たということを悟ったのだ。
彼女達にとって最も優先すべきは一鬼であって、己達の闘争は二の次でしかない。
そもそも今までの戦いは一鬼への思いを確かめ合うものであって、その一鬼が蘇った今、彼女達はすぐにでも会いに行きたいという思いがある。
だからこそ、互いに殴り合って感情を解き放ったことなど忘れ、二人は光の塔の方を見遣ったのだ。
「一鬼が……遂に……目覚めたのね」
「ええ、そうよ。そして……これから一つの別れが始まるわ。行くわよ……私達も遅れないようにしなければ」
「ええ……分かっているわ」
つい先程まで殴り合っていたとは思えない程に衝突もなく両者は確認し合うと、そのまま光の塔目掛けて飛んだ。
こうなる筈ではなかった……そんな思いが彼女にはある。
元々彼女は二百余年前、全てを手に入れる筈だった。
母の愛も、超越者としての力も、光と触れあう権利も、全ては彼女が有する筈だったのだ。
だが、実際に母に強く期待され、愛されたのも、力を手に入れたのも、光に触れ合ったのも、全ては彼女の姉である。
母の愛より何よりも欲した光をいとも簡単に殺され、彼女を導いてくれる者は居なくなった。
光と共に眠りにつき、目覚めた時彼女は光を失っていたのだから。
そこから十年程で見つけられる妖を山吹とブルー・シャーマン以外全て滅ぼした。
結局そこから彼女は師に出会えず、唯一師になれたであろうブルー・シャーマンを彼女は恐怖故にその手で封印してしまった。
一鬼の代わりを務めた蒼炎の超越者は多くの何かを地球に残し、更には妖の怨念をその身に背負い続けていた。
更には、一鬼という光を失ったことで大きく弱体化した為に、その怨念は完全に制御されてはいなかったのだ。
だからこそ彼女はブルー・シャーマンを封印し光を己が手で、手段で、手に入れようとした。
その結果が一年前の碧と美空を残す皆殺しであり、今彼女に襲い掛かっている絶望である。
多くの者をその手で殺し、間接的に死なせ、怨恨と悲しみの輪を生み出しながらも、彼女は光を掴めなかった。
彼女は三度失敗したのだ。三度敗北し、絶望に出会うのだ。
一度目は光の死。二度目は紫の超越者との対峙。そして、三度目は―――今彼女の眼の前で広がっている蒼炎であった。
「う……あ……」
「どうした? 何を絶望している?……俺に会いたかったのだろう? 話がしたいのだろう? 向き合いたいのだろう? 対決したいのだろう? 俺はここに居る……さぁ、立ち向かえ」
「兄……さん……」
「そうだ。白雪という仮面など捨て去れ……例えどこまで堕ちようが、お前は神谷美空だ。俺の大事な、義妹だ」
白雪……否、美空は蒼炎の中で真っ直ぐ立っている一鬼を見、その近くで腕を組んでいるブルー・シャーマンに気付いた。
この蒼炎の世界を生み出した蒼炎の超越者は、彼女が十五年程前に遥か彼方に捨てた筈の肉体を取り戻し、今日戻って来た。
金虎という名の他の超越者がそれを可能にしたというのは、今ならば彼女も理解できる。
黄金の超越者が彼女にテレポートされたのは、ブルー・シャーマンを回収する為だったのだ。
それも、一鬼の覚醒する瞬間に立ち会える絶妙のタイミングで戻ってこられるように。
美空も裏があることは薄々感じていたが、しかし漸く理解できた。
彼女を最後の最後まで期待させ、後少しで届くという僅かな希望を見せ、遂には届いたと思わせ、そこから絶望に突き落とす為に彼らは動いていたのだ。
全てがこの瞬間の為にあり、白雪という仮面を被って逃げていた彼女の本心を暴くものである。
だからこそ、一鬼が今ここに居る。彼女が全てを明かし、対決したいと思った最愛の男が。
その血のように赤い眼を前にして怯みながらも、彼女は言葉を発しようとし……しかし、不意にその場に座り込んでしまった。
恐怖と絶望と焦り、そして光と出会えたという安堵が混ざり合い、彼女の力を奪ったのだ。
「兄……さん……本当に……兄さん……なの?」
「ああ、そうだ。俺が、お前が全てを犠牲にしてでも得ようとした光の持ち主だ。お前をそうさせた、愚かな兄だ。美空、今こそ俺はお前への贖罪を果たそう……避けて来た対決をここでしよう」
「兄さん……どうして、私を置いて死んだの? 碧さんの方が、私よりも大切だったの?」
「碧は俺の罪の証であり、償わなければならない相手だ。俺が何よりも優先すべき存在だ。お前よりもあいつが上であることは否定しない」
「そう……なんだ」
美空は事実を知ったことに絶望し、しかし同時に安堵した。
彼女は事実を兄の口から聞くことで、漸く超越者や碧の言葉が事実であったと理解できる。
どんなに超越者が嘘をつかないのだと知っていても、彼女は信じ切れないでいるが、一鬼の言葉ならば別だ。
他でもない本人の言葉なのだから、彼女はそれを嘘だとは思わない。思えない。
例え一鬼が超越者でなかったとしても、彼女はその言葉が事実だと信じるだろう。
兄はそういう男だと、彼女は誰よりも理解しているつもりだ。
誰よりも美空を傷つけたのも、愛してくれたのも、温もりを与えてくれたのも、一鬼だ。
たとえそれが、彼女が神谷明と夜空の娘であったからだったとしても、その愛は偽りではない。
ただ、その向いている先が彼女自身ではなく、二人の娘という立ち位置であっただけのことだ。
それを苦痛だと感じ、兄の真なる愛を求めようと彼女は何度も手を伸ばそうとしたが、できなかった。
嫌われたくないという不安が彼女の足をすくませ、兄に頼り切っていた過去が進む勇気を生み出せない状態では、己から動き出すことなどできなかったのだ。
弱過ぎる彼女は、ただ待つことしかできず、動き出そうと決意した頃には既に兄はこの世に居なかった。
しかし、その兄が今目の前に居る……そのことがひたすらに嬉しく、しかしその姿が完全なものであることが、彼女を絶望させる。
彼女の未来は既に決まってしまった。彼が完全に覚醒し、彼女と相対している今、完全に詰んだ。
だが、まだ終わってはいない……まだ、時間は残されている。
その時間を彼女は可能な限り有効に使いたかった。
「ねぇ……どうして、私がこんなことをしたか分かる?」
「俺の持つ光を手に入れる為だ。俺が甘やかした結果だ。俺が……一年前に死んだせいだ」
「そうだよ……私は兄さんの光が欲しかった! 兄さんが欲しかった! もっと甘やかして欲しかった! もっと触れて欲しかった! 抱きしめて欲しかった! 沢山……沢山したいことがあったの! して欲しいことがあったの! なのに……なのに兄さんは! 私の前から居なくなった!!」
だから、問うのだ―――兄の真意を。ぶつけるのだ―――彼女の真意を。苦痛を。
美空の持つ痛みの多くは、一鬼が齎したものだ。
彼女は何度もその格の違いに絶望しかけ、両親が二人にかける期待の差に苦悩した。
何故両親は己に期待してくれないのかという思いと、兄の大き過ぎる背中が暗示するその理由が、彼女を苦しめ続けたのだ。
一鬼が死んだ後のこの一年間ですら、父は彼女を己が娘としては見てはくれなかった。
父にとって、彼女は『一鬼が残した妹』でしかなかったのだ。
所詮神谷という血にとっては、己が血よりも強者が大切だったということなのだろう。
それは美空すらも例外ではなく、一鬼という鬼に恐ろしいまでに魅了され、近親であると思っていた頃からその思慕は強かった。
何度も一鬼自身に嫉妬し、彼に近づく女性に嫉妬し、彼女はその中で緑色の業火を育み続ける。
今尚彼女の中でその業火は留まることなく燃え続け、一鬼を求めているのだ。
その想いの全てを今こそ、彼女は表現する。
「そうだ。俺は碧への贖罪を果たしたかった。兄の心臓を賭けた誓いを何としても果たしたかった。その結果、一年前俺は死に、お前がこうなることを許してしまった訳だ。お前もまた、俺が生み出した罪の証……ここで、俺が決着をつけるのが筋だ」
「碧さんは受け入れて、私は受け入れないの? 私を十七年間も甘やかして、惑わして、その果ての仕打ちが排除? ふざけないで……私を本当に愛していたというのなら、私以外の全てを敵に回してでも、私を抱きしめてよ! 愛してよ! 甘やかしてよ!!」
「碧は俺が心から大切だと思った者を誰一人殺してはいない。だが、美空……お前も白雪も俺の大切な者を傷つけた。特に、白雪への憎しみは止められるものではない。お前が白雪を名乗り続けるのならば、ここで俺はお前を殺す。そうでなくとも―――決着はつけねばならない。いや、つける」
「なんで……なんで私じゃダメなの!? 碧さんが隣に居られるのに!! あの狂った女が隣に居られるのに!! 私には兄さんしか居ないのに、どうして……どうして!?」
「言った筈だ。お前は俺の大切な存在を殺し、あまつさえ愛梨達を殺した白雪に成り下がった。たったこの数日間で、お前は敵となった。俺の憎むべき相手となった。だからここで終わらせる。お前との最後の対決をする」
美空は必死に一鬼の感情に訴えかけようとするも、彼には届かない。
否、届いてはいるが揺るがないのだ。
彼女の言葉などでは変えられない程の強い決意があるからこそ、一鬼は少しも動じない。
その赤い眼には一年前とは比べ物にならない力強さがあり、それまで彼が必死に続けて来た抑圧はもうなかった。
当然だ……既に彼は超越者という比較的己に近い領域に居る者達と出会い、力を抑える必要がないのだから。
既に人間の世界を離れ、己が力を開放することを邪魔する存在は彼の傍から居なくなっている。
今や、彼が力を抑える必要は何処にもないのだ。
かつてはその抑圧が一鬼を神谷一鬼という人間もどきにし、多大なストレスを与え続けてきた。
だが、元来ならばこの地球を容易く滅ぼせる程の力を持っていた生態が、人間のレベルに合わせ続けることには限界がある。
彼は二百余年前に一度死にかけ、力を捨てて生存を選んだ為、確かに力は衰えていただろう。
しかし、それでも人間と比較すればバカらしい程の力の差がある筈なのだ。
それを抑え続けることが生み出すストレスはそれこそ発狂するレベルのものであろう。
人間からすれば、体を自ら雁字搦めにして動けないようにし続けることそのものだ。
完全に静止し続けることなど人間にはほぼ不可能であり、筋肉もやがて衰えていく。
ただ動かないことは動き回るよりも膨大なストレスを生み出し、緩やかな死へと向かわせる。
子どもが捕まえたトンボを掌で握ったままでいるとすぐに衰弱してしまうように、動けないということは死に向かい得るストレスなのだ。
一鬼は十九年間その地獄に耐え、緩やかな死に向かいながらも生き続けた。
だが、今は違う。
「そんな……私は……」
「覚悟してここに来たのだろう? 俺や他の超越者と敵対してまで、手に入れたいものがあったのだろう? 今更絶望などするな。最後まで足掻いて、足掻いて―――その末に死ね。それが、俺の求める最後の願いであり、呪いだ」
「私は……私は……兄さんみたいに強く……な……い……どうじて……グスッ……ぞんなこと……ヒグッ……いうのぉ……」
「お前の弱さは理解できる。だが、俺はそれを見逃す訳にはいかない。その弱さが父さんを殺した。お前をそうした。全てはお前が選んだ結果だ。心して受け止めろ―――美空」
一鬼はもう自由で、何処へでも飛んで行ける。
様々な感情が入り乱れて混乱し、激情を己で処理しきれずにただ泣きだした美空などよりも、遥かに洗練された存在だ。
その赤い眼はその胸に流れる血そのものを示し、母の命を奪って誕生したことを表している。
多くの者に期待され、望まれ、彼は生まれた。誰かに存在を望まれるような生き方をし続けて来た。
そんな彼は彼女にとって自慢の兄であるのと同時に、忌々しい壁だ。
美空は父にすら真の意味では愛されていない。
唯一真なる愛を注いでくれた母は既に死んでおり、一年前最後の依存先であった一鬼までも彼女は失った。
ただ包まれることのみを求め、貪ることだけを欲し、誰かに必要とされたいと望んだ末に彼女が見たのは、弱い己と兄への執着だけである。
兄を強く憎み、しかし同時にその存在に強く惹かれ、焦がれ、求め続けたことだけが、彼女の中にある唯一変わらぬ真実だ。
両者の間には絶望的な差があって、その差は如何なる手段であっても埋められない。
だから、彼女は己が上がるのではく、一鬼を引き摺り落とすことで一緒になろうとしたのだ。
それこそが、この数日間の彼女の凶行の本質である。
「そこまで辛いのならば、覚悟しろとは言わない。その絶望に対する救いも与えない」
「ヒグッ……エグッ……」
「お前はそのまま……死ぬ」
ゆっくりと一鬼が振り上げた片手が握り拳をつくった瞬間、そこから虹色の炎が生じる。
その炎は、あらゆるものを終焉へと導く為の道標であり、世界が彼だけに与えた力だ。
超越者達さえもがそれを分け与えられた存在に過ぎず、彼の前では無力と言っても過言ではない。
一年前、紫鬼が一鬼を殺せたのは一鬼が不完全な状態であったからであって、後一日遅ければ一鬼が勝っていただろう。
だが、白雪が美空を餌に一鬼を誘き寄せたせいでそうはならず、全ては狂ってしまった。
これだけの情報では最初の絶対強者たる翡翠の娘である碧と白雪が全てを狂わせたかのようだが、実際全ての始まりは一鬼にある。
碧は一鬼に狂い、白雪は紫鬼達の死が生み出した苦痛で歪み、翡翠は紫鬼に殺された。
一鬼とさえ出会わなければ……紫鬼が碧を一鬼に会わせなければ、その苦痛はなかっただろう。悲劇はなかっただろう。
だが、同時に光との出会いが彼女達を救ったのも確かなのだ。
癒し、傷つけ、惹きつけるその歪みは確かに美空や妖狐達にとっての救いであった。
そんな歪みが今、遂に完全体となってその力を彼女に揮おうとしている。愚かな妖狐を再び孤独にしようとしている。
かつては白雪だけが残され、今度は碧だけが残るのだ。資格も持たなかった癖に、まんまと超越した女が、生き残るのだ。
そのことに抑えきれぬ怒りを抱きながらも、ただ美空は制御できない感情に任せて泣き、一鬼が振り上げた手を見上げる。
これから彼女が死ぬ……彼女が愛した男が、終わらせる。
「駄目よ、一鬼!!」
「……えっ?」
しかし、そんな瞬間を止める声があった。
一鬼は腕を振り下ろし、虹色の炎をかき消すと、その声がした方向を一瞥する。
それに合わせて美空もまた恐る恐る振り返り……そこに一人の女性を見出し、眼を見開いた。
胸に押し上げられた白いカッターシャツに、黒のタイトスカート、そしてその下から覗く、黒のストッキングで覆われた足の曲線に、彼女は既視感を抱く。
それもその筈、その女性は間違いなく彼女がかつて出会った者なのだ。
美空の頭の右半分と同じ銀色の髪の毛、そして銀色の瞳……同じ顔、同じ声。
頭から生える二つの狐の耳と、腰から生えている九つの尾すらもが全く同じで、まるで彼女の鏡写しのようだ。
しかし、決定的と言える大きな違いが二つ、両者の間にはあった。
一つは、その髪の毛の色である。半分が黒である美空とは違い、女性のそれは全てが銀色だ。
そしてもう一つの違いは……その眼に籠った意志の強さだ。
感情が爆発し、絶望の底に沈んでいる美空とは違い、女性の眼には力がある。
何かを守りたいという強い意思と、罪を償おうという罪悪感の同居したその眼は、彼女にはできないものだ。
それ程までに罪と向き合うだけの強さは彼女にはない……だが、その女性にはある。
鏡写しのように似ている筈なのに、両者の間に生じた差は大きく、埋めることは叶わない。
もはやその差は生まれながらに不変のものなのではないかと錯覚しそうになる程に、圧倒的だ。
だが、そんなことは彼女にはどうでも良かった。
ただ驚き、困惑し、涙を流しながらもその名を呼ぶ。
「じら……ゆぎ……グスッ……ざん……」
そう、そこに居たのは他でもない白雪であった。
しかも美空が同化している弱い白雪などではなく、一鬼を信じることができる『良心』だ。
かつて白雪が割り切る為に切り離し、白雪となった美空が封じ込めた筈の存在が、そこに居る。
何度も彼女に超越者に刃向うことを止めるように言い、ただ一鬼を信じて待てと言い続けた存在が、ここに存在しているのだ。
その表情を苦痛に歪めながらも、しかし銀の眼に強い意思を宿して、白雪は一鬼を止めた。
何故白雪が一鬼を止めたのか理解することもできず、美空はただ唖然としながら白雪を見る。
そんな彼女に悲しげな笑みを一瞬だけ向けると、白雪は一鬼と向き直った。
「白雪……何故ここに居る?」
「一鬼、こんなのは間違っているわ! 全ての元凶は私! 美空は関係ないわ! 私達『白雪』が多くの悲しみを生み出し、貴方を殺したの! この子をこんな姿にしたの! 罪を償うべきは私よ!」
「ふむ、悪くない意地だ。さぁ、どうする?」
「ブルー・シャーマン……態と入れたな」
「お前が対決するには、それは弱過ぎる。それに、纏めて終わらせた方が効率が良い」
悪びれる様子もなく、肩を竦めてそう言い放ったブルー・シャーマンに、一鬼は溜息をついた。
その様子から美空はブルー・シャーマンが態と白雪をこの空間に呼んだのだと理解する。
しかも、その理由が彼女では一鬼の相手にならなかったからだと言うのだから、余りにも惨めだ。
ブルー・シャーマンは態々彼女の死期をほんの少しだけ伸ばし、その上で一鬼にそれを潰せと言っている。
結局の処彼女の死の運命は変わらず、そこに至るまでの道筋が変わったに過ぎない。
だが、そこでふと美空は白雪と碧の言葉を思い出した。
例え辿り着く終着点が同じでも、そこに至るまでの道筋が異なれば、全体での結果も変わると彼女達は言った筈だ。
確かにその言葉は間違いではなく、同じ絶望であっても美空は一鬼と向き合う時間を与えられた。
超越者に容易く屠られ、再会することもなく死ぬのではなく、こうして向き合う機会を得ることができた。
それは一鬼がその手で決着をつけようと動いたからだ。
そうでなければ、白雪に成り下がった美空などとっくに殺されていただろう。
ブルー・シャーマンはここで白雪の良心に動く機会を与え、その願いを一鬼にぶつけさせている。
いったい何が変わり、何が変わらないのかは定かではないが、彼女の運命もまた変わるかもしれない。
白雪の良心は、美空とは違い一鬼と向き合える。対決できる。
その差こそが何かを変えると知っているからこそ、ブルー・シャーマンはこの場を設けたのかもしれない。
「一鬼、お願い……貴方の復讐すべき相手は白雪であって、美空ではないわ。この子をこうしたのは私なの! 白雪という妖狐なの! その腕が貫くべきは私の心臓であって、この子のものではない筈……だから、この子は見逃して」
「できない相談だ。俺から兄貴分を、親友を、恋人を奪ったのはお前ではなく、今そこに居る『信じることができなかった』白雪だ。俺と向き合えなかった弱い白雪だ。こうして俺と向き合い、対決できるお前ではない」
「どうして!? 確かに私は白雪で、この子は美空なのよ!! 貴方の復讐すべき相手は白雪じゃない!? だったら、私を殺して!! この子は私の被害者よ!」
「被害者であろうがなかろうが、加害者になった時点でもう戻れない。父さんを……神谷明を殺すことを決意したのは、間違いなく美空だ。白雪に惑わされたか否かは関係ない……力があったから、憎い相手を殺した。居場所があれば立ち止まってしまうから、捨てた。その選択をしたのは美空だ。お前の片割れではない」
白雪は必至に美空の罪羽野が罪だと一鬼に訴えかけるが、しかしそれは功を為さない。
それもその筈、実際に全てを決断したのは一鬼の言う通り美空なのだ。
白雪との同化が生み出した変化があったのは確かだが、しかし最後に全てを決めたのは彼女である。
一鬼はそれを分かっているからこそ、彼女を殺すという決断を変えない。
父を殺し、今や白雪と同じに成り下がった今の彼女は、彼にとって憎むべき存在でしかないのだ。
愛することで彼女を救うという選択肢は彼にはなく、ただその罪のみがそこにあった。
一鬼は美空ではその罪を償えないことも、償う気が無いことも理解している。
白雪の良心が必死にまだ道があると言っても意見を変えないのは、そのことが大きく関係していた。
更には美空や白雪が知らない何かを彼は知っていて、その何かこそが決定的な要因になっている。
そうでなければ、いかに堕ちたとはいえ美空を殺そうと一鬼が判断するのは難しいことなのだ。
「この……この分からず屋!! どうして美空を掴もうとしないの!? 貴方の大切な妹でしょう!? 神谷明と夜空の愛の結晶を守ると決めたのでしょう!? 全てを滅ぼしてでも、守り切ると決めた筈でしょう!? どうしてそんな簡単に切り捨てられるの!?」
「白雪、お前は既に理解している筈だ。その理由が何処にあるのかも、何がそうさせるのかも。俺では美空の飢えも渇きも癒せない。溺れさせ、壊すことはできても、意識を完全に保ったまま救うことは叶わない―――それが、大き過ぎる力の代償だ」
「っ……それは……でも、それなら姉さんだって同じ筈よ!!」
「いや、碧は戻ってこられる。あいつが求めてくれたのはこの力ではなく、俺という存在だ。超越者達と同じ、ここに宿る精神だ。それがある限り、あいつは絶対に壊れない。俺が壊させない」
「そん……な……なんで……美空だけ……こんな……こんなことって……」
己が心臓を親指で示しながら揺るがぬ意思を語る一鬼を前に、白雪は両手で頭を押さえた。
その姿に美空は再び理解する……彼らが望んでいるものと、彼女が望んでいるものは違うのだと。
一鬼は、その力を彼女に向けることで、彼女の精神がそれに溺れて何も考えられなくなることを知っていたのだ。
だからこそ、『溺れる』『壊れる』という表現をした。殺すという決断をした。
彼にとって、最上の状態は完全なる意識があることであって、何かに溺れて意思を手放すことではない。
美空の精神は弱く、碧や超越者のように強くはなかった。
一鬼の持つ力と彼の愛が合わされば、彼女の精神は蕩け切り、その快楽故に意識は失われるだろう。
その果てに彼女は、ただ彼を求め、快楽を求めることしかできない人形に……彼にとってはゴミ同然の存在になる。
彼が見たいのは、そのような姿になった彼女ではなく、確かな意思を持って向き合える彼女だ。
確かな意思を持った状態で触れ合うことができてこそ、その個は成り立つと彼は考えている。
その信念こそが彼女を受け入れることは無理だと彼に感じさせているのだ。
だが、美空はそれでも良い。光と彼に溺れてしまって、その果てに狂い、壊れるのならば本望と言っても良い。
彼女にとっての最大の苦しみは彼と触れ合えないことであって、壊れることではない。
たとえ壊れてしまったとしても、彼女は彼の持つ暖かい怨念に触れ、癒され続けることができる。
どんなに壊れても、その暖かさを、テクスチャーを感じ取ることができる。愛されてさえ居れば、安心できる。
たった一つの願い―――もっと甘やかして欲しい―――それが彼女の本心なのだから。
「良いよ……壊れても。私が私でなくなっても」
「美空!? 何を言っているの!? 貴方が消えるのよ!! 美空という人格が消え、ただその愛と温もりを求めるだけの人形になるのよ!?」
「私はそれで良い。兄さんと一緒に居られるなら。愛してくれるなら。甘やかしてくれるなら。抱きしめてくれるなら。それで……それで良いの」
「貴方まで……どうして……」
美空はもはや諦めの境地に入りながらも、一鬼を真っ直ぐ見て思いを告げる。
彼女は何処まで行っても彼に依存するしか能がない、愚かで矮小な存在だ。
それすらもできなくなれば、もう彼女は存在する理由がなくなってしまう。生きる望みが持てなくなる。
一年前、一鬼を失っても彼女が幻に逃げなかったのは、本物でしか彼女を満たせないからだった。
偽物には本物のような温もりはない。喉を潤す清らかな恵みも、彼女を包み込んでくれるテクスチャーもない。
だが、本物の一鬼にはそれがある。
美空を癒し、安堵と快楽の果てに破壊し得る程の恵みが。熱が。テクスチャーが。
それを手に入れることさえできるのならば、それが彼女にとっての最善なのだ。正解なのだ。
壊れてしまうか否かなど、その温もりも恵みもテクスチャーも本物であるならば、彼女にとっては些細なことでしかない。
例えどんなに狂っていると言われようが、止められようが、彼女はその道を行く。
それが、彼女の願いなのだ。
「そうか。ならば猶更のこと、お前はこの手で殺さねばならない」
「っ!! 一鬼、駄目よ!! この子を殺すのなら、まず私から殺して!!」
「白雪……お前の言いたいことは分かるが、俺の意見は変わらない。ここで死んで全ての責任を取りたいと思うのなら、そのまま一緒に死ねば良い。だが、俺は止まらんぞ……」
ゆっくりと右腕を上げ、その掌に虹色の炎を発生させると、一鬼はゆっくりと腰を下げ、構えをとる。
それに対して、白雪は美空を守るように両手を広げて一鬼の前に立ち塞がった。
その背中に見える強い意思を肌で感じながらも、美空はただ二人の対峙を見る。
今彼女が生き残る為にできることなど何一つなく、ただ死を待つことだけが許されていた。
超越者達との戦いで衰弱し、更には一鬼達に絶望をつきつけられたことで四肢の力は抜けきり、彼女に逃げる術はない。
いや、そもそもブルー・シャーマンのみに与えられたこの空間から逃げ切ることなどできよう筈が無いのだ。
『境界』と呼ばれるこの世界において、ブルー・シャーマンは紫鬼と一鬼を除けば正しく最強である。
この世界の何処に居ようが一瞬で蒼炎によって燃やし尽くされ、死へと還るのだ。
今一鬼達の対決を見ている蒼炎の超越者は不気味な程に静かだが、その気になれば美空など一瞬で殺せる。
超越者でありながらも強者にしか強い興味を持たないその不死の存在は、彼女をゴミ程度にしか思っていないだろう。
気が変われば、彼女は一瞬で殺される。
逃げる術など、何処にもないのだ。
「白雪……さん……」
「ごめんなさいね、美空。私のせいで、貴方の人生は大きく狂ってしまった。こんなことで私の罪が消えるとは思っていないわ。でも……」
「?」
「貴方は一人ではないわ。私が……私が一緒に―――死んであげる」
「……どうして……そんなこと……」
「私にできる贖罪は……これくらいだから」
顔だけ振り向いた白雪の顔に浮かんでいたのは、酷く悲しげな笑みである。
その悲しみはこの状況に対するものであり、美空に対するものであり、一鬼達に対するものだ。
こうなる道しか選べなかった美空、そしてこの道しか選ばない一鬼に、それを止めない超越者達。
そこに白雪は悲しみを感じ、それを招いたのが他でもない己が半身であることに苦悩する。
白雪の良心にとっては、元来関係ないことである筈だというのに、罪悪感を禁じ得ない。
美空はそんな白雪の姿に、全てを一鬼や白雪、そして碧のせいだと言ったかつての己を恥じる。
同じ穴の狢でしかない筈の三者……否、四者は綺麗に半々に分かれてしまった。
美空と一年前彼女が出会った白雪の二人は結局変われず、碧と白雪の良心は上へと昇った。
その差こそが今彼女を殺そうとしている。一鬼にその決断をさせている。
だというのに、白雪はそれを必死に止めようとしていた。
変わらないと分かっている筈なのに、それを変えようと必死に足掻いている。
「駄目……無理だよ……何も変わらないの……」
「いいえ、変わるわ。最後の結果は変わらなくても―――それまでの過程は」
「そうだ。ほんの少しだけ未来は変わる―――お前の死によって」
美空は見た……強い意思を込めた言葉を告げた白雪の胸を、一鬼の腕が貫いたのを。
貫く瞬間など、速過ぎて彼女如きでは見ることすらできない。
彼女が今見ているのはただの結果であり、それまでの過程はまるで見えないのだ。
まるで過程を変えることなどできないとでも言わんばかりに圧倒的な速度で以て、一鬼は白雪の心臓を貫いた。
その言葉は過程の変化を肯定しながらも、しかし行動が否定しているように見える。
いや、一鬼は信念と力が伴えばできることは多くあると言う信念の持ち主だ。
詰まる所、彼が伝えたいのは信念も力もない美空では何一つ変えられないということなのだろう。
白雪が、貫かれた胸の部分から虹色の炎によって燃えていくのを眺めながら、ただ彼女はそう考える。
己を守ろうとしてくれた女性が眼の前で死んでいくのを、ただ見ていることしかできない。
それは元来酷く悔しいものでなければならない筈なのだが……彼女はそう感じなかった。
ただ片割れが死んだ……彼女には、それだけしか感じることができなかった。
「か……ず……き……おね……が……い……」
「案ずるな。お前の願いなど、最初から叶い入れるつもりはない。そのまま……消えろ」
「あ……」
心臓を破壊され、死に向かいつつある状況ですら、必死に美空の助命を願った白雪を、一鬼は振り払った。
瞬間、その肉体は虹色の炎によってあっという間に燃えつき、次の句を放つことすらできずに白雪は消滅した。
余りにもあっけない幕引きに美空は驚愕し、次はその虹色の炎が己に振るわれるのだと自覚する。
もう彼女を守ってくれる者など何処にもいない。誰も彼女の傍には居ない。
唯一最後まで守ってくれたであろう一鬼を敵に回した時点で、この結末は決まっていたのかもしれない。
美空は絶望の終わりがもうすぐ来るのだと考えながら、力の籠っていない眼で一鬼を見た。
「目の前で片割れが死んでも反応しないとは……やはり、もう手遅れか」
「……兄さん」
「美空、お前と白雪には、素晴らしい師が居なかった。お前達の人生を変え得る偉大なる師に出会うことができなかった。俺は、その存在になってやれなかった。それは俺が背負うべき罪だ。俺がその存在になってやるべきだったのかもしれない。だが、師の居ない状態でも尚進もうとした男を俺は知っている。誰よりも必死に師を求め、俺に追いつこうとした男を」
「羽月さんの……こと?」
「そうだ。あいつは、最後の最後まで気高くあり続けた。俺にとっての師の一人であり続けた。あいつが俺に追いつこうと必死になってくれたからこそ、俺は誰かに憧れ、その背を負い続けることを改めて知った。父さんだけでは、ここまで誰かに憧れることはできなかっただろう」
悲しみを隠せない表情のまま、一鬼はかつて彼を追いかけ続けた男のことを語る。
美空も良く知る、彼にとっての親友であり続けた人間にして、彼と白雪の犠牲者の一人である佐藤羽月を。
美空も、羽月も、愛梨も、二十年前に彼を神谷明が遺跡で見つけたことによって運命を捻じ曲げられた存在だ。
それでも、愛梨と羽月は強くあろうとした。美空とは違い、一鬼との繋がりの中でその心を成長させ続けた。
三者の中で誰よりも早く熟し、真っ直ぐであり続けたのが羽月であり、その姿勢こそが一鬼の親友で居られた理由である。
愛梨もまた、数年遅れはしたものの、最終的には羽月と同じラインに並んだ。
一鬼に憧れ、その背を追いかけ続けることによって生じる苦痛も何もかもを受け入れ、行ける処まで行こうとした。
彼らの姿勢こそが、強者のそれなのだと一鬼は信じているのだろう。疑ってもいないのだろう。
実際問題、真なる強者はそうして階段を駆け上がっていく。昇る為の苦痛を苦にも思わず、己が望みの為に昇り続ける。
弱者でありながらも、強き心を持っていたからこそ、彼を必要としてくれたからこそ、二人は一鬼に気に入られたのだ。
言うなれば、二人は一鬼の弱さである存在理由の希薄さがまやかしだと思わせてくれる存在であった。
彼が人間達の中で感じていた、力を出してはいけないことへの不快感と、皆の為に抑え続けなければならないという使命感の衝突が生み出す苦痛を、二人は癒し続けていたのだ。
同じように高橋一矢もまた一鬼にとっての大切な存在であり続け、そして……美空もそうだった。
「一矢さんは、俺に兄の在り方を教えてくれた。羽月は、憧れることを教えてくれた。愛梨は、俺でも必要としてくれる誰かが居るのだと教えてくれた。父さんは、俺に守ることを、背負いきることを、大切な者の為に他者を排する非情さを教えてくれた。母さんが、愛することを、暖かく包み込むことを教えてくれた。皆が皆、超越者が俺に教えようとしたことを教えてくれた、大切な者達だ」
「なら、私は……私は……いったい……何なの?」
「お前と過ごした日々が、俺が碧を理解することを助けてくれた。あいつの弱さの全てを、お前の助けで以て俺は理解したんだ。だからこそ、俺はあいつを受け入れることができた。その未来を見通すことができた」
「南なの、それ……私は……碧さんの為の踏み台だったって……言うの?」
「そう思いたければ、そう思えば良い。だが、俺は何度でも違うと言うぞ。俺は、お前を踏み台などと思ったことは一度たりともない。お前は俺にとって、誰よりも大切な義妹だ。誰よりも、何よりも憎むべき―――妖狐だ」
一鬼は右手を握り締め、怒りを灯した赤い眼で美空の眼を見遣った。
元来の黒色である左眼、そして二年間に渡る白雪との融合によって銀に変色した左目……その外見が彼女の状態を物語っている。
何故左半分ではなく、右半分のみが白雪と同じになり、もう半分が以前のままなのか……その答えは、彼女の願いにあった。
彼女が本当に求めたものは白雪とは違ったが、しかしその手段は何一つ変わらなかった。
本能が求めるものが違ったが、しかしそこに至るまでの過程の計算式は全く同一だったのだ。
白雪は美空の右脳ではなく、左脳に強く働きかけた。
描く未来は違えども、そこまでの過程を描く為の計算が同じであったが故に、彼女の右半分は白雪となったのだ。
左脳は右半身を、右脳は左半身を制御するものであり、美空と白雪の差異の大部分は右脳にあった。
それを見抜いていたからこそ、金虎は白雪という仮面を砕く為に左腕を奪ったのだ。
いかに融合して白雪になりきろうとも、その根底は美空だ。
右脳に強く働きかければ簡単にボロが出る。美空という弱い少女が、白雪という仮面を砕かれて現れる。
いかに彼女が白雪という仮面で己を隠そうとも、黄金の超越者は全ての決断を彼女がしていると理解していた。
故に、真っ先に彼女自身を叩いたのだ。右腕ではなく、左腕を奪って多大な喪失感を抱かせたのだ。
左腕を奪った時の金虎の冷たく、道端の石ころを見るような眼をしていた理由も、彼女は今ならば理解できる。
黄金の超越者は、仮面を被ることでしか決断できない彼女の弱さに失望していたのだ。
「兄さん……私……」
「良い。俺達を理解しようとする必要はない。同じ領域に昇ろうとする必要も、立ち向かおうとする必要もない。激情を制御できずに泣き続けろ。お前のその激情こそが、俺がどうにかしてやるべきものだった。それを止めるつもりは無い……最後の最後まで業に従え」
「私を……愛して」
「ああ、愛しているとも。だから、頼む―――お前はお前のまま、死んでくれ」
苦悩に彩られた表情で、声音で告げると一鬼は遂に、その手で―――美空の心臓を貫いた。
美空はそんな彼の顔を見つめ、ただ微笑み……制御しきれない激情故に大粒の涙をこぼす。
溢れだす兄への依存心、その愛に対する感謝、もっと欲しいと思う貪欲な飢えと渇き。
その愛をほんの一時だけ完全に独占できた碧と、兄の傍に居ることができる藍龍達への嫉妬。
様々な感情が彼女の中で渦巻き、洗練されることない荒削りの状態で表出していく。
彼女の体を熱が襲い、眼を涙が濡らし、弛緩しきった筈の手で必死に兄に手を伸ばす。
今美空は一鬼と触れ合ってはいるが、しかしそのテクスチャーを完全に感じるには、彼女が手を伸ばさねばならない。
残された右手に必死に力を籠め、愛しい兄の頬にそっと触れることで、彼女は漸くそれを感じ取ることができる。
兄の肌のテクスチャーに、そこから伝わる熱、そして彼女に伝わる力強い光の波動。
その全てが間違いなく彼女が求めた男のものだ。何より求め、全てを犠牲にしてまでも得ようとした光だ。
この十八年間で、美空は様々なことを体験し、その傍にはいつも一鬼が居てくれた。
その記憶の数々が彼女の脳裏に浮かび上がり、消えていく。楽しかったことも、苦しかったことも、全てが彼女の中で想起されていく。
いつだって彼女は兄に手を伸ばして負んぶを要求した。抱っこを求めた。その肌に触れたいと願った。
兄に甘やかして欲しかった。彼にとって己は必要な存在なのだと実感したかった。
いつだって彼女が求めていたのは彼だけで、その愛だけで……それ以外はどうでも良かった。
その彼女の全てと言っても良い男に、漸く今再び触れることができたのだ。
「愛して……くれて……ありが……とう」
だから、美空は笑う。
己の命が嫉妬の炎と共に消えていくのを自覚しながらも、闇に沈んでいく。
今まで彼女を愛してくれた男への感謝と、己が願いを受け入れてくれなかったという怨念を彼に向ける。
彼女を愛してはくれたものの、決して彼女が望んだ形の愛を向けてくれなかったことを皮肉る。
愛も、嫉妬も、憎悪も、悲しみも、あらゆる激情を怨念に変えて彼に託す。押し付ける。
かつて白雪が生き延びる為に、ブルー・シャーマンに紫鬼達の怨念を押し付けたように。
一矢はイエロー・レディーの誘惑に負け、その力を己が欲望の為に使い、罪を自刃で償った。
羽月は、緋蓮がインディゴの怨念によって変質して生まれた新たな妖に食われ、己が願いで一鬼に介錯された。
愛梨は、ブルー・シャーマンが力を使い果たした処を白雪に襲われ、一鬼の為にあらゆる怨念を白雪に向けて死んだ。
その全てが酷く独善的で、己の判断によるもので、執着によるもので、しかし必死に生きた者達の生き様であった。
美空もまた、その生き様の終着点である今、最後の大きな花火を打ち上げる。
一鬼という空に、彼女の激情をぶちまけ、その想いの強さも、歪さも、苦悩も、憎しみも、全てをぶつける。
感情を洗練させ、明確に伝える術を忘れてしまった今の彼女にできることは、感情をぶつけることだけだ。
だから、最後の最後で全ての力を振り絞り、愛する男に彼女の全てをぶつける。
超越者たる兄ならば、その全てを感じ取れると彼女は信じていた。理解すると願っていた。
呪いの言葉を兄に残し、彼女は虹色の炎に包まれていく。
あらゆる渇きと飢えが消えていくことに安堵しながらも、彼女は遂にその意識を手放し――――消えた。
碧とカナリーが光の塔の頂上についたのは、一鬼が覚醒してほんの十秒経ったか否かの時間であった。
既にそこには金虎、紅鴉、ブルー・シャーマンの三者が待っており、遅れてやって来た二人を一瞥するも、すぐにその視線を奥に戻した。
金虎はその背を向けたまま、静かに殺気を向けて来るものの、碧はそれに屈しはしない。
碧はその奥で何が起きたのかを薄々理解しながらも、ゆっくりと歩み寄って他の超越者達と並んだ。
そんな彼女に紅鴉は軽く会釈をし、金虎は肩を竦めて応えたが、ブルー・シャーマンは少しも反応しない。
その眼はただ奥にのみ向けられており、視線が揺らぐことは一瞬たりともなかった。
碧はその視線をなぞるように目を奥に向け、そこに愛する男の背中を見る。
彼女がほんの少しだけ愛した妹であり、その男の義妹でもある少女が、横たわったまま動かなくなった光景を、その眼に焼き付ける。
何が起きたかは明白で、その結末は最初から決まっていた。彼女の妹が二度目の暴走を試みた時点で、全てはこの終末へと向かっていたのだ。
碧は愛する男の元へと、ゆっくりと歩み寄っていく。
彼女のその行為を咎めるように、金虎の殺気が強まるが、彼女はそれを黙殺した。
愛する男が……一鬼が義妹の死を受け入れ、白雪への復讐を遂げ、己の苦悩に向き合う時間を邪魔するなと黄金の超越者は言いたいのだ。
だが、例え彼女が傍にいようが居まいが一鬼はそれを静かに、確実に為す。
彼女が邪魔になるなどあり得なかった。
「……一鬼」
「……碧。お前の妹は……白雪は、確かに超越者の資格を持っていた。それに比べて、俺の義妹は……美空は、白雪の弱い部分ばかりを引き継ぎ、こうなってしまった。俺がこうするしかなかった」
「白雪は……最後になんて言ったの?」
「美空を助けてくれと、最後まで言い続けた……だから、俺は救ったんだ。この手で殺すことで。その上も渇きも、嫉妬の炎も全てを消し去ることで」
振り向かずに告げる一鬼の声は冷静なようで、熱が籠っている。
碧は彼が様々な感情をその胸に抱き、今それを整理しようとしているのだと悟った。
感情を押し留め抑圧するのではなく、解き放つことこそが、一鬼にとっての真なる強者であり続けるには必要だ。
抑えるのではなく、向かい合い、対決し、その果てに制御できるようになってこそ、感情を鈍らせずに痛みに立ち向かえると彼は信じていた。
まさしく彼は今それを行っており、静かに膨大な感情を処理している。
一年前も、一鬼は羽月と愛梨を一日で失い、感情を抑えきれなくなった時静かに泣いた。
碧は昨日のように覚えている……その時彼が白雪に対して抱いた途方もない憎悪を。
白雪へと彼を導こうと己が怨念を利用した愛梨の健気さが、もっと彼と共に居たかったという怨念が、彼の憎悪を強めた。
守れなかったことの後悔、無力感、そして全ての元凶たる己が存在……それらを噛みしめ、胸に抱きながらも彼は最後の決戦に挑んだ。
今彼は、それと同じことをしている。
「そう……美空は……どうだった?」
「……愛してくれてありがとう、と……言った。俺に全ての苦悩と喜びと、憎しみと、あらゆる激情を押し付けて、笑顔で死んだ」
「なら、あの子は覚悟したのね。今の状況で貴方は最善の道を選んだ……ただそれだけのこと」
「分かっている。碧、今度は何も言うなとは言わない。今度も、俺は割り切る……だが、思いは捨てない。この痛みも、憎しみも、喪失感も、全ては俺が覚悟した末のものだ。俺の贖罪の果てにあるべきものだ。罪の証との対決の終末だ。後は、お前達しか残っていない……俺が背負うべき罪は、お前達だけだ」
「ええ、そうね……私達は貴方の罪の証であり続けるわ。貴方の生きる理由であり続けるわ。私達は死なない……貴方の為に生き続ける」
一年前、碧はただ見ていることしかできなかったが、今は違う
今の彼女ならば、一鬼と向き合える。愛する男の為にあることができる。
彼に必要なのは慰めや労いの言葉ではなく、ただ待ち続ける者だ。共にその背を追う者だ。
待ち続ける物達は、他の超越者達で事足りる。彼女の役割は共にその背を追う者であり、彼の隣に居続ける者であることだった。
カナリー達のように何かを教える役割ではなく、共に苦しみ、喜び、その全てを分かち合って生きることこそが、彼女の存在理由。
規模は比べるのもおこがましい程に異なるが、碧と一鬼が虚無を宿しているのは同じだ。
彼女はそれを一鬼で埋めることができたが、彼は永遠にそれを埋めることはできない。
完全に覚醒してしまった今、その命は死に向かうことすら容易ではなく、ここから彼の永遠の地獄が始まる。
その途方もない時間を共に生きることこそが、彼女の生まれた意味だ。彼女にとっての、生きる理由だ。
碧が守りたいのは、今世界を包み込んでいる子守唄ではない。その源である光でもない。
その力を扱う一鬼という男だ。彼女にとって唯一の存在たる男だ。その心だ。その命だ。
力など彼の精神さえあれば必要ない。彼女の全てを受け入れ、対決しようとしたその真摯さと、恐ろしい程の包容力を前にすれば、唄などどうでも良くなる。
白雪はそれを理解できなかったが故に、彼を信じ切れずに悲劇を重ね、紫鬼に殺された。
美空はそれをほんの少ししか理解していなかったが故に、白雪と同じ道を辿り、一鬼に殺された。
碧も二百余年はそれを理解できなかったが故に悲劇を起こし、紫鬼に殺されている。
妖狐はつくづく愚かで、救いようがないが、一年前、彼女は母が願った次の段階に進んだ。
愛を知った妖狐は変わる。超越者には届かずとも、強くなる。
「私達は貴方にとっての呪いよ。死ぬことを永遠に禁ずる呪縛よ。一鬼、生きなさい……どんなに血を這いつくばることになったとしても、逃げずに前に進み続けなさい。貴方は紫鬼の心臓に誓った筈よ……私を最後まで見捨てないと。最後まで受け止めると。お願い……私を捨てて、壊れないで」
「碧……案ずるな。俺はお前を見捨てはしない。金虎も、ブルー・シャーマンも、紅鴉も、カナリーも、藍龍も最後まで背負い続ける。向き合い続ける。俺はお前に誓った……最後まで背負い続けると。それを曲げるつもりは無い。だが、今は―――美空の死と向き合いたい。たった一人の義妹の死と……」
「……分かったわ。でも、今度は私も傍に居る。貴方の痛みを、私も背負う。それが、私の役目だから」
「好きにしろ……」
美空の死を受け入れることを何よりも優先したい一鬼の隣に座ると、碧はそっとその頬に触れた。
碧の手に触れた暖かい感触と湿り気が、鬼が涙を流している事実を明らかにする。
だが、そのような外的な証拠がなくとも、彼女は彼が泣いていることを理解できていた。
その心が大切な存在の喪失に震え、痛み、それを己が手で為したことの苦悩を受け入れているのが、彼女には手に取るように分かる。
光ではなく、一鬼そのものと繋がっている彼女だけが、その苦悩を誰よりも理解できるのだ。
碧は一鬼の考えの全てを理解できる訳ではないが、しかしその筋は見える。
彼が悲しんでいるのか、喜んでいるのか、苦しんでいるのか、憎んでいるのか……その方向性が分かるだけで彼女には十分だった。
彼女もまた彼と同じ虚無を宿す者であり、それは彼無しでは埋めることはできないものだ。
だが、彼には埋める為のものが存在しない。縋ることのできる存在が居ない。
彼女も、他の超越者も所詮は彼にとって格下であって、彼の上位存在にはなれないのだから。
それでも一鬼は生きねばならない。苦痛と空虚の中で生き続けなければならない。
超越者達は彼の為だけに生み出された異形であり、彼が選んだ存在だ。彼が生きろと言った者達だ。
碧は知らないが、既に彼は己が為に死ぬのではなく生きることしか許さないと藍龍に宣言してしまった。
更には空の超越者としての役割も相まって、彼は死という安易な終焉に向かうことができない。
雁字搦めで、自由などないと言っても良い状態に彼はいるのだ。
その苦痛の中でも彼は麻痺せずに耐え、乗り越え、生き続ける。
碧はそんな彼に寄り添い、その苦痛を共有する者であり続ける―――それが、彼女が見つけた存在理由だ。
「悲しいから泣く……それは当たり前のことよ。慟哭を禁ずる必要はないの。声を上げて泣いて良いのよ」
「分かっている……分かっているとも……全て分かっている!!」
「―――!!」
一鬼は大声をあげ、美空の亡骸を抱きかかえたまま立ち上がると、その力の波動を全方位に放った。
その波動は碧と超越者に強い悲しみと苦悩を感じさせ、彼がこれからしようとしていることを予知させる。
波動が外壁を消し去り、完全に露わになった光の塔の最上階で、一鬼は静かに息を吸い込んだ。
その腕に抱いた美空の亡骸を一瞬だけ見遣り、すぐさま視線を空へと向けると、彼は更に息を吸う。
彼の呼吸に合わせて膨らんでいく力は途方もないもので、碧はその強大さにただ圧倒される。
一鬼はその力で以て地球に渦巻く怨念をかき消す為に、この世界が生み出した子だ。
世界そのものと同化し、世界の血を持つ者と言っても良い程に、その存在は遥か高みにある。
だが、彼は人間の中で育ち、人間達と触れ合い、妖とぶつかり、そこから全てを知った。
その胸中に居るのは、今まで彼が関わってしまったが為に壊れてしまった者達の姿であろう。
世界などどうでも良く、ただ彼が今まで出会った全ての者にその力は捧げられる。
彼はそういう男だ。そういう存在だ。
そして、まさしくそれを為し遂げる為に今息を吸い終えた彼は――――それを解き放った。
「ああああああああああああああ!」
一鬼の叫び声が体に、心に、鬼火に凄まじい共鳴を齎すのを感じながら、碧は無意識の内に立ち上がる。
その心臓に宿った緑色の鬼火が彼女の意識の興奮と共に解き放たれていき、周囲の怨念を吸収し始めたのだ。
超越者はその強靭な精神と膨大な怨念で以て周囲の怨念を食らい、吸収していく。
空の超越者が速やかに世界の怨念を浄化できるように中継点となるのが、超越者の役割である。
不完全な超越者である碧ですらもが、その役割を担っているのだ。彼に求められているのだ。
碧はその事実に涙を流しながら、己が心臓に宿る緑色の鬼火を開放した。
母翡翠の願い通りに愛を知り、十の尾を持つ最終段階に至った妖狐たる彼女は、今その身を緑の炎で構成された巨大な狐で包み込んだ。
彼女の感動に、その心の震えに共鳴して狐は空に向かって咆哮する。
それは彼女の感動であり、一鬼に対する愛の証明であり、彼女の周りで起きた全ての事象への哀しみそのものだ。
元来妹が具現化させる筈だった緑色の狐を、今碧は呼び出している。
ここに来るまで多くの出会いがあり、別れがあり、哀しみがあり、喜びがあった。
翡翠、白雪、美空、羽月、緋蓮、愛梨、優希、一矢、明……他にも多くの者達が死んでいった。
全ては彼女が始めた悲しみであり、一鬼が始めた悲しみであり、その報いを彼らは一度受けた。
しかし、何度死んでも、苦しんでも、その罪は消えない。消えたと思った瞬間、彼女達は強者で居られなくなる。
最後まで背負い、苦しみ、逃げずに生き続けることこそが、彼女達に許された道だ。
今、彼女はその為の大きな分岐点に立っている。
世界は変わり、多くの哀しみを齎したものも、守護を齎したものも、あらゆる怨念が消えていくのだ。
「遂に来たか……我らの役目が一つ終わり、第二の役目を果たす時が。金虎、カナリー、紅鴉、今日は最初で最後の特別な日だ……鬼火を開放しろ」
「今こそ、我が雷を!」
「今こそ、光を彩る闇を!」
「今こそ、この業火を!!」
ブルー・シャーマン達もまた一鬼の力の波動に呼応して、その鬼火を開放していく。
一鬼が完全に覚醒していなかったが為に不完全であった状態を脱し、遂に力の全てを取り戻した彼らの力は、瞬く間に世界を包み込んでいった。
紅鴉はその身を巨大な火の鳥へと変え、深紅の業火で夜を照らしていく。光の覚醒を世界に告げる。
カナリーはその身を闇へと変え、一鬼の放つ光を包みように闇を拡大していく。光を他者から覆い隠す。
金虎はその身を雷の虎へと変え、雷鳴と共に世界に慟哭を告げる。
そんな禍々しさすら感じさせる彼らを他所に、ブルー・シャーマンはその神秘性を際立たせていた。
体から溢れ出す蒼炎が変質し、まるで後光のようにその肉体を彩っていく。
他の超越者とは違い、蒼炎の超越者と藍龍だけが一鬼の代わりになることができる。
その異質さを示すように、彼は他の超越者程外的な変化をせず、ただ力の面では圧倒的な変化を見せた。
そんな彼らに対抗するかのように、遥か彼方で巨大な―――地球の数割を占める程に巨大な、藍色の光竜が生まれる。
恐ろしいまでに純粋な光を放ち、周囲に狂気をばら撒きながらその竜は咆哮し、藍色の光を世界にふりまく。
それはあらゆる時間帯も考慮することなく、無差別に光を振りまいて闇を引き裂いてしまう。
カナリーとは対極に位置するその行為によって、世界の全てを五体の超越者、そして一体の準超越者の怨念が駆けていく。
この瞬間、世界から夜が消え、ただ光の塔の周囲にだけ穏やかな闇が存在する状況が生まれた。
そう、夜明けが来たのだ……妖の時間が終わり、怨念が消え去る時が遂に来たのだ。
「―――!」
それを察したのだろうか?
碧は見た―――吠える一鬼の肩にそっと手を置いて後押しをする紫炎の鬼の姿を。
かつて弟の為に二度生き、二度死んだ男が……最後の鬼を導く最強の守護者が、姿を現したのだ。
妖狐を殺し、翡翠を殺し、彼女を殺した最強の守護者……既に死んだ筈の紫の超越者、紫鬼。
その力の象徴たる紫炎の鬼が、一鬼の肩に手を置いて後押しをしている、見守っていると伝えている。
弟の為に生き、弟の為に死んだというのに、死して尚弟を守ろうとするその意思に、彼女は純粋な尊敬を抱いた。
かつて碧が憧れた戦士は酷くつまらない男であったが、一鬼を守ろうとしたその生き様は誰よりも美しかった。
紫鬼という男は、彼女が最も嫉妬し、憎んだ男だ。一鬼の最も傍に居た忌々しい存在だ。
一鬼と同じ血肉を受け継ぎ生まれ、誕生までの二十四年間待ち続け、守り続け、誰よりも傍に居続けた。その生も死も弟の為に捧げ、果てた。
紫鬼が居たからこそ彼女は一鬼と出会い、その覚悟を知り、果てに一鬼の愛を得ることができたのだ。
ある意味全ての始まりであるその鬼が、静かに弟の背中を押している。
今こそ、その全てを解き放てと告げている。
「消えろおおおおおおおおおおおお!!!」
そして、一鬼はその後押しに応えて遂に虹色の炎でその身を包み、鬼となった。
まやかしの肉体として彼が利用した鬼が、遂に完全な状態で呼び出された……地球に巣食う怨念を食らい尽す為に。
抱き上げていた美空の亡骸を燃やして灰にしていきながら、彼は力の限り叫ぶ。義妹の死に泣き叫ぶ。己が空虚さに慟哭する。
それでも彼は、空の超越者の役割を果たす為に地球という惑星を虹色の炎で包み込んでいく。
空の超越者に与えられた唯一の役目を果たし、ただの一鬼になる為に、力を解き放つ。
虹色の炎で漸く現れた真なる鬼は、涙を見せることができない。
碧がどんなにその涙を拭おうとしても、叶わないのだ。誰にもその涙を拭い去ることはできないのだ。
だが、それでも彼は生きる。その心臓に宿ったあらゆる者達の怨念と共に生き続ける。
静かに寄り添う愛梨の怨念が、背中を押す羽月と明の怨念が、彼に生きろと言う。
そして今、そこに新たに美空が加わった。笑顔のまま、そっとその背中に抱き着き、安らかな笑顔を浮かべている。
美空は死で以てでしか救えなかったが故に、一鬼はその手で殺した。
妹が己の光で壊れてしまうことを許せず、しかし不完全な状態で独占されてやることも彼にはできない。
彼は碧の為に生き、超越者の為に生きると決めた。償いの為だけに全てを消耗すると決意してしまった。
だから、彼は妹を殺す道でしか救えなかったのだ。己の意思で以て決断し、妹を殺す道を進んだのだ。
そんな彼に美空は全ての怨念を押し付け、今彼に途方もない悲しみを齎している。
何処まで行っても依存することしかできない少女は、怨念になってもそうあり続けるのだ。
「あっ……」
そして、地球中の怨念はほんの数秒で七人の超越者と、一人の準超越者によってこの世から消えた。
誰かを守る為の怨念も、憎む為の怨念も、あらゆる怨念を引き寄せ、消し去ったのだ。
完全に怨念が消失した世界は素晴らしいものであると碧は思っていた。だが、実際に今広がっている世界は余りにも空虚で、悲しい。
毒も薬も完全に消し去り、ただ全てを破滅へと導く闇と、全てを無へと返す光だけが残っている。
鬼火の共鳴が終わり、緑色の狐を消し去った碧は、超越者達も同じように力の解放を止めたのを確認した。
遥か遠くから地球を見下ろしていた巨大な竜も消え去り、世界は今まで通りになる。
いや、正確には超越者を除く全ての怨念が失われ、空虚と化した世界へと変化したと言うべきであろう。
世界が望んだことではあるものの、超越者達の力が齎したのは余りにも奇妙な結果だ。
地球に巣食う膨大な怨念は消え去り、超越者によって完全に制御された怨念だけが残った。
だが、それは彼らにとって余りにも空虚な世界を生み出す。
重みが失われ、軽さだけに支配されたこの世界は、彼らには軽過ぎた。
「これが……世界の望んだ結末なの? こんな世界……軽過ぎるわ」
「そうだ。これこそ世界が望んだ結末であり、我らの元来の役目の終わりなのだ。だが、我らの生はここで終わりはしない。我々の戦いはこれから始まる」
「ブルー・シャーマン……どういうことなの?」
「殺戮者よ、お前は世界と繋がっていないが故に知らなかったのだろうが、我々はこの虚無を受け入れた上でここに居る。軽過ぎる世界の中で生き続けると決めた上で、その役目を果たしたのだ」
「何故……そんなことを?」
碧はどのような答えが返って来るか理解しながらも、敢えて問うた。
この事態を前にしても、一切の迷いも困惑もないブルー・シャーマン達の答えなど、最初から決まっている。
それでも彼女は問う。改めてその答えを聞くことで、何が彼女に足りないのかを知る為に。
一鬼の傍に居ることこそが彼女が見出した存在理由であり、その為に彼女は更なる強さを得なければならない。
共に手を取り合い、歩み、昇り続けることこそが、彼女に与えられた役目なのだ。
空の超越者としての役目を果たした一鬼は、未だに虹色の炎の鬼から戻らず、静止したままで居る。
その炎だけが動的に揺らめき、彼が死んでいないことを告げているが、その状態は余りにも異常だ。
まるで彼だけ時間が止まってしまったかのようなその状態は、もはや死と変わらない。
いや、死んでいない分余計に苦しいのではないだろうか?
虚無とすら言える世界に、一鬼の完全な停止……その意味を彼女は知らねばならない。
「決まっている……更なる強さを得る為だ。更なる強さを強いる為だ。私は強さを強いる役割を与えられた存在……誰よりも強さを強いることで唯一無二の鬼を生み出すのが、私の夢だ。だからこそ、あの子にはより一層強くなって貰わねば困る」
「……そういうことだったの。だから貴方は……一年前、全てを見通していながらも敢えてあの道を選んだのね? 一鬼を追い込んで強さを強いる為に、敢えてインディゴに浸食された緋蓮を放置し、柿坂愛梨を……白雪に殺させたのね?」
「否定はしない。あの子もそれを既に理解している。私が必要とするのは、紫鬼の模造品などではなく、その上を行く唯一無二の鬼だ。あの子をそうする為に私はここに居る」
「成長する者を見るのが好き、という訳ね。でも、柿坂愛梨を一鬼の成長の為に利用したことは許されないことよ……貴方はその償いをどうやってするの? もしも私達が『虹色の肋骨』として目覚めなければ恐らくは今の私の位置に居た筈のあの子を、貴方は切り捨てたのよ?」
「それがどうした。私は紫鬼との誓いを果たす為に、あの子を最強にする為に、こうして存在している。そうでなければ、私はここに居ない。お前も見逃さなかった。あの小娘に宿った白雪も、放ってはおかなかっただろう」
ブルー・シャーマンの言葉に、碧は思わず目を見開いた。
散々己を守護者と言い、彼女を殺戮者と言い続けている蒼炎の超越者が、その実誰よりも殺戮を呼び込む者であったなどと、誰が予想できたであろうか?
神秘性を持つ存在であり、その力はある意味一鬼と似た性質を持っているというのに、神のような存在だというのに、それは力を他者の為に使わない。
二年前の事故も、一年前の戦いも、全ては白雪が引き起こしたものであり、堂々巡りで罪は碧に帰る。
確かに彼女が全てを狂わせた。紫鬼が彼女に光を与えてしまった。光が、彼女を狂わせてしまった。
だが、ブルー・シャーマンはそれによって引き起こされる悲劇も見えていた筈なのだ。
紫鬼がほんの三十分程だけ里を無防備にしてしまう時間のことも、そこを翡翠が狙うことも、結界が何故か貼られていなかったことも、全て理解していただろう。
ならば、何故紫鬼を止めなかったのだろうか?何故里に留まるように言わなかったのだろうか?
そうすれば、翡翠は手出しできなくなり、碧によって妖狐のみが滅ぼされて全ては終わった。
だというのに、蒼炎の超越者はそれを敢えて見逃した可能性があるのだ。
何故か?……鬼に強さを強いる為だ。紫鬼という最強の守護者を犠牲にすることで、一鬼は生き長らえる。
そして、その事実を本人が知れば、兄の心臓が枷になり、強さを強いる。全てを己が手で解決し、ひたすらに痛みと罪に向き合わせる。
枷があってこそ、喜びを捨て去る必要性が生まれ、ただひたすらに強さだけを求める鬼に一鬼はなることを、蒼炎の超越者は理解していた。
ブルー・シャーマンは紫鬼の命すらも一鬼に強さを強いる為に利用したのだ。
結局は全てがこの超越者の掌の上で繰り広げられたことに過ぎず、何もかもがその予想の範囲を逸することができなかったということである。
「どうして!? どうしてそんなことを……重さに耐えることだけが強さではない筈よ! 愛することが希望を産む! 愛されることが安らぎを産む! 義務だけでは生きることはできないわ! そこに権利があってこそ、守りたいものがあってこそ、義務は存在できるのよ! 重りに耐える為の力すら、貴方は見捨てたのよ!?」
「否、力の源はここに居る。ここにはあの子と敵対できる金虎が居る。その身を包み込み、誰からも隠してしまえるカナリーが居る。熱を与える紅鴉が居る。その心を守り、狂気を伝染させる藍龍が居る。そして―――償うべき罪の象徴たるお前が居る。お前達を愛することこそが、慰めになる。強さになる。枷になる。あの子を死なせない、外せぬ枷にな」
「貴方は……貴方は本当に―――超越者に相応しくない屑だわ」
「資格を持たず、あの子の命を犠牲にしてさえもまともに超越できなかったお前が言うと、滑稽に聞こえるぞ」
碧の言葉はブルー・シャーマンに届いてはいる。
だが、その全てをブルー・シャーマンは予め知ってしまっている。読めてしまっている。
だからこそ、蒼炎の超越者は全てを冷めた目で見ている節があるのだろう。強さのみを糧に生きているのだろう。
その予想を上回り得る存在のみを拠り所にし、己が業とし、蒼炎の超越者は生きて来たのだ。
強さも弱さも受け入れ、最終的には克服してしまう超越者では、壊れることができない。
どんなに苦しかろうが、悲しかろうが、その全てを克服してしまうからこそ彼らは超越者なのだ。
それがある意味何にも代えがたい絶望であることを、碧はほんの少しだけ理解できる。
彼女が誰よりも愛し、心も命も守りたいと思った男もまた、同じ苦悩を抱える定めにあるからだ
一鬼という鬼は、今日遂にその力を完全に取り戻し、圧倒的な力で以てこの地球から一切の怨念を取り除いた。
もうあらゆる霊的な力がこの地上から失われ、これから先に残るのは生物が生み出す新たな怨念のみ。
その怨念も、妖が長い年月をかけて蓄積してきた膨大な怨念と比べれば、とるに足らない物だ。
妖以外の生物は、死んだ時その怨念の全てをあの世に持っていかれ、残っても精々何かを呪い殺せる程度のものだ。
それすらも先程の光は全てかき消してしまい、これから先の哀しみだけが怨念を少しずつ蓄積していく。
その量は地球にとっては余りにも微量で、もはや未地球がそれに押し潰されることは未来永劫ないだろう。
その凄まじい業を成し遂げた男は、今尚停止したままで動かない。
彼に悲しみを齎す存在を敢えて排除しなかった存在が、今彼女の眼の前に居る。
「ふざけないで! 今の一鬼の姿を見なさい! あれが貴方の望んだ鬼なの!?」
「そうだ。あれこそが、私が望んだ鬼の姿。あらゆる痛みに耐え、乗り越え、地を這い、それでも生き続ける存在だ。お前が愛する男は、そういう男に育ったのだ」
「貴方がそうしたのでしょう! 全てを知っていながらも、それを止めずに放置したのでしょう! 貴方が……貴方が!!」
「二人共、そこまでにしておけ。主を疎かにして意地の張り合いをするようでは、高が知れているぞ」
「!」
不意に割り込んで来た金虎の言葉に碧は振り返り、一鬼が動き出したのを視認した―――その隣で静かに寄り添う藍色の髪と目を持つ女性、藍龍の姿と共に。
狂気を振りまき、ただ一鬼以外の全てを無として扱うその超越者に、彼女は悲しみを覚える。
ブルー・シャーマンが言った、一鬼を生かす枷という意味が彼女にも理解できてしまったからだ。
藍龍は一鬼しか眼中になく、それ以外を容易く捨てることができる、まさしく彼の為だけに生まれた存在である。
そのような存在を前にして、彼がのうのうと生きることができる筈がない。況してや、無責任に死ぬことなど不可能だ。
かつて紫鬼は一鬼の為に死に、その信念と心臓で以て彼を縛った。
藍龍もまた同じく、その狂気で以て一鬼に贖罪という強迫観念を植え付け、育み、死を選べなくさせている。
その口で以て信念を貫けと伝え、その心のみを守ると全ての行動で示すことで、より一層彼を苦しめる。
だからこそ藍色の超越者は一番なのだ。ブルー・シャーマンはその存在を認めたのだ。
ブルー・シャーマンは一鬼を苦しめ、癒し、強さを引き出す為だけに藍龍を傍に置かせた。
紫鬼は純粋にその心を誰よりも守ることができると理解し、傍に居ることを許した。
両者の予想は違わず、誰よりも一鬼を理解し、その心を守ろうとする藍龍は一番一鬼にとっての力の源になり得る。
碧と同じ、罪のという強迫観念の源に。生を強いる枷に。愛を与える慰めの相手に。
紫鬼と藍龍の、一鬼に対する純粋な愛と、ブルー・シャーマンの一鬼への純粋な期待が憎らしい程に噛み合い、一鬼に多大なる苦痛と悲しみを齎したのだ。
それを理解し、碧は静かに涙を流した……誰よりも憧れた男の望んだ未来が来なかったことに。愛する男がその未来を一年前に、彼女を守る為に捨てたことに。
「これで終わったんだな……俺の超越者としての役割が」
「はい、終わりました。ここから始まるのは、超越者ではなく、最後の鬼が紡ぐ物語のみ。さぁ、行きましょう……貴方が一年前にした約束を果たす為に」
「……碧。来い」
「一鬼……」
一鬼は虹色の炎で生み出された鬼の姿から戻ることなく、静かに碧を呼んだ。
その声が余りにも悲しげで、しかし何処か喜びに満ちていることに若干戸惑いながら碧は彼の前に歩み寄った。
もしかしたら、彼は鬼の姿のまま戻らないのではなく、戻れないのではないかという不安が彼女の中で肥大化していく。
彼が鬼になっても彼女は愛することができる自信があるが、問題は彼の孤独の進行だ。
完全体と言っても良いその状態では、彼は超越者に触れる時ですら手加減が必要になる。
それが他者との触れ合いを余計に避けさせるのではないか、彼女は心配だった。
「そんな顔をするな。俺は元の姿に戻れるし、これから先触れ合うことを恐れはしない。その為のお前達だ。俺が触れ合うことを恐れずにいられる数少ない存在達……俺だけの為に生まれてしまった異形達。それがお前達だ。俺は償わねばならない」
「償いなんて必要ないわ! 私は貴方が生きていて、その心をしっかりと保っていてさえくれたなら、それで良いの!」
「それはお前の価値観でしかない。俺は俺の価値観に基づいて、俺の意思でそうすると決めたんだ。俺のこの我儘を押し通させてくれ」
「なら、私の我儘も押し通させて! 罪だけでなく、それ以外のものも受け取りなさい! 貴方に力を与えるのは重さだけではないのよ!!」
「勿論だ。俺が重さだけにしか目を向けないと思っているのか? お前の中の俺は、現実の俺よりも遥かに脆弱なようだな」
笑いながら碧の言葉を受け入れる一鬼ではあるが、その表情は見えない。
虹色の炎で彩られた鬼は表情も涙も覆い隠し、ただその声と仕草、そして雰囲気のみがその感情を伝える。
哀しみ、喜び、苦痛……それらが混ざり合った混沌としたものを彼から感じながら、碧は涙を流す。
彼は己を強いと言っているが、苦しくないとは一言も言っていない。辛くないとも、痛みはないとも言わない。
それが今彼の中で起こっている苦悩の全てを物語っている。
碧はそれを共有し、共にあり続ける為に存在しているのだ。
役割は藍龍と紫鬼のそれに大きく被るが、彼女は超越者としてではなく、一鬼が選んだ存在としてそれを担う。
強さを強いることもなく、ただ隣で共に進み続ける。彼が悲しみを受け入れる時、苦痛に苛まれる時、静かに寄り添い続ける。
だからこそ、彼女は弱さを曝け出して良いと言うのだ。その弱さこそが彼女の存在価値を高めるのだから。
一鬼が完全に弱さを捨てた瞬間、彼女の存在価値はもはや罪の証としてのみになる。
そして、そうなったが最後彼女はもはやただの枷なのだ。
「でも……でも!」
「案ずるな。俺は壊れない。逃げない。苦痛とも、悲しみとも、弱さとも向き合う。何度だってお前と向き合う。皆と向き合う。だから、そんな顔をするな」
「本当に壊れない?」
「本当だ。この心臓にかけて誓う。俺は絶対に壊れない。お前と向き合い、共に生き続ける。それこそが、俺が決めた道だ。苦痛も確かにあるだろう。だが、それだけではない。お前達と共に生き続ける日々は、きっと俺に様々な色を与えてくれる」
これから先待っているのは苦痛ばかりではないと、一鬼は落ち着いた声音で言う。
その声には既に悲しみも苦痛も感じられず、彼が全てを完全に受け入れたことを碧は悟る。
もはや一鬼を崩壊させ得るものはなく、ただ彼を揺らす痛みと悲しみだけが残った。
たった一人の義妹をその手で殺すことでしか救えなかったという彼の気持ちを、彼女は少しだけ理解できる。
例え彼が美空を真の意味では愛したことがなかったとしても、確かにそこに愛はあった。
人間としての彼にとっての生きる意味であったその存在を救う為とはいえ、己が手で殺したことの苦痛は計り知れない。
碧は白雪を少ししか愛しておらず、その死に揺らぐことはなかった。
一鬼という唯一無二の存在が彼女の中に存在する今、それ以外の全ては有象無象でしかない。
全てが彼にとってどうなのかが彼女には重要なのであって、それそのものに関しては然程の興味はないと言える。
そういう意味では、彼女は彼のその苦痛を共有することはできないのだろう。ただ傍に居続けることしかできないのだろう。
だが、一鬼はそれで良いと言う。それが良いと言う。
「お前達が持つ色を、生き様を、これからも俺に見せてくれ。俺という器を満たしてくれ」
「一鬼……」
不意に虹色の炎が消えていき、一鬼の姿が露わになっていく。
夜のように藍色の髪も、血のように赤い眼、そして奥底で波動を発し続ける圧倒的な光、それを扱う強靭過ぎる精神。
その全てが、一鬼が一鬼であるという証であり、光と精神は決して誰も真似することができない彼のみに与えられたものだ。
幻にはそれはない。例え姿形を真似できても、その奥底にある光と精神は、彼にしかないものである。
だから美空は幻に縋ることすらできなかった。そこに真なるテクスチャーがないと知っていたが故に、それをしなかった。
そんな彼が今碧に向かって微笑んでいる。
「俺は―――それだけで良いんだ」
余りにも悲しげなその笑みを前に、ただ碧は閉口し、静かにその体を抱きしめた。
逞しい肉体の胸元に顔を埋め、ただ涙を流した。
本来ならば、彼女は逆の立場になるべきだったのかもしれない。彼女が一鬼を受け止めるべきだったのかもしれない。
だが、彼女はそうすることしかできなかった。その悲しみを彼の胸の中で表現することしかできなかった。
もはや涙を流し終えてしまった鬼の為に、彼女は泣く。嗚咽する。
紫鬼が望んだのは、このような強さばかりを背負わされた一鬼の姿ではない。
ただ生きてさえくれたならば、空の超越者としての役割など果たさなくても良かった。
彼がただその心身を壊すことなく生きてさえくれたならば、それで良かったのだ。
それをブルー・シャーマンが捻じ曲げ、こんなにも強さばかりを与えられた鬼が生まれてしまった。
紫鬼の最上の望みは失われ、一鬼はブルー・シャーマンの示した強者の世界に向かってしまった。
それがこのような結果を招いたこと、そしてそれを選ばせた一因が己にあることに、彼女は泣く。
そして―――そんな碧をそっと抱きしめた一鬼の頬を一筋の雫が垂れたことに、彼女が気付くことはなかった。




