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虹色の炎  作者: 修羅場ーバリアン
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第十二話




 全ての悲しみの始まりを探すのは、いけないことなのだろうか?


 誰が悪い、あれが悪いとはっきりと断定することは、弱さなのだろうか?


 かつてその問いに否と応えた男が居る。それは必要なことだと言った男が居る。

そのどちらもが他者に大きな影響を与える男で、ある者はその能力に壊され、ある者はその能力に魅了された。

凡人が天才に勝つには努力するしかないが、しかし努力する天才には勝てない。

現在の力の上に胡坐をかくような輩ならば超えられないこともないいが、ただひたすらに昇り続けようとする天才は、もはや止められないのだ。


 そんな天才と言うべき者達に、かつて佐村敬吾は出会った。

神谷明と言う名の男は、その異常な精神力と覚悟、そして守護者の精神で以て、彼を守護者の道に進ませた男である。

誰かを守る為に他の誰かを傷つけることを厭わず、その行動が齎す結果を受け入れ、最後まで進み続ける不気味な程の真っ直ぐさに、彼は憧れた。

だからこそ彼は警察の道に進み、様々な者を助け、犯罪者を捕まえ続けてきたのだ。


 浅く広く、可能な限り多くを救うことを敬吾は心情としてきた。

深く狭く守ろうとする明の在り方では、それらを守れなかった時に心が崩壊してしまうからだ。

広く浅くはある意味の妥協点ではあったものの、しかし敬吾にとっては良い結果を産んだと言える。

実際、大切な者を多く失ってしまった明がボロボロになったにも関わらず、彼はまだ健在だ。


 どのような能力も、運に見放されたが最後、無意味なのだと明に起きた多くの悲劇が教えてくれている。




「……今年は厄年か何かか」


 早朝、敬吾は神谷家の墓を見下ろしながら、静かにそう呟いた。


 彼が親友とその愛する女性と共に眠る墓を見下ろすのは、この数日で既に三回目になる。

その全てが誰かの死によるものであり、彼に大きな打撃を与えたものであり、しかし壊さない程度のものだ。

既に彼は親友の死を乗り越え、娘の死も乗り越えつつあり、これから先その人生を守ることに費やすと決めている。

明から受け継いだその意思は確かに彼の中で形を変えて残っているのだ。

だから、彼は親友の死で壊れはしない。嘆きはしても、それを乗り越えられる。


 結局未だに化け物と美空の行方は見つかっておらず、敬吾達は手掛かりさえ見つけられていない。

無能と言われても仕方ないことではあるが、しかし超常なる存在の化け物相手では、簡単にはいかないものだ。

警察では捕捉することすらほぼ不可能で、それをどうこうしようとすれば軍が必要になる。

そんな化け物と戦っていた一鬼の異常性とその死を、彼は再認識した。


 全ての悲しみの始まりを探すことが必要なことだと彼に言った男は、確かに死んだのだ。

あらゆる事象には原因と結果があるが、原因というものは決して一つではない。

大抵の場合は二、三どころか何十、何百もの要因が重なって結果が生まれるものである。

その源を探すことがいかに苦痛で、詮無いものであるかは想像に難くない。

だが、それでも時に彼らはそれを探さねばならない。対症療法では決して終わらせられない悲しみを終わらせる為に。


 その途方もない労力を要する行為を、一鬼は無駄ではないと言った。必要なことだと言った。




「まったく……お前は昔から強過ぎるんだよ。だから、俺に利用されるんだ。責任を押し付けられちまうんだ」



 一鬼のその眼ならば、その感性ならば、確かに悲しみの源泉を見つけ出せるかもしれない。


 全ての悲しみを消し去ることなどできはしないが、その数を減らすことは不可能ではない。

例えどんなに不可能だと言える目標であったとしても、そこに辿り着こうと努力することは別の結果を生み出す。

全ての悲しみを消し去ろうとすれば、残る結果は多くの悲しみを消し去るというものではあるものの、決してすべてではない。

だが、悲しみを消し去ろうとさえしなくなれば、その全てがある日突然襲い掛かってくる。


 昇ろうとしなければ、現状維持すらもできないのが現実だ。

現状維持しようという精神は緩やかな下降を齎し、堕落は下落を生み出す。

信念というものは、例え完全に達成できないとしても捻じ曲げてはいけない。

部分的であっても実現できたならば、それは確かに他者を救い得る。何かを変え得る。

一鬼はそれを知っているからこそ、敬吾にそれが無駄なことではないと言った。必要なことだと言った。

皆がそうあれば、悲しみの数は更に減るが、それは酷な話だろうと苦笑しながら語ったのも、彼ははっきりと覚えている。


 弱者の気持ちを理解しようとする強者……それが真の強者だと一鬼は語った。

敬吾もその通りだと思う。弱さを受け入れ、しかし堕落させずに生かすことの難しさは、相手に強さを強いることの比ではない。

だから一部の強者は己に強さを強い、必死に高みに昇って多くのことを為そうとし、一部の者を引き付ける。

多くには理解されず、その行動によって助けられているとも認識されずに死んでいくのが、多くの偉人の末路というものだ。


 それでも、その偉人は他者の為に多くを為す。それが業だと言わんばかりに、時代を変えていく。


 一鬼はそうなることができる者達になれと、彼に言ったのだろう。




「……化け物め」


「その化け物の力がこの時代に必要だと言ったのは、貴方でしょうに」


「――!?」



 不意に背後から声をかけられて振り返った敬吾は、見た……そこに居てはいけない男の姿を。


 豊かな筋肉に彩られた百八十四センチの身長、そして血のように赤い眼と夜空のような澄んだ藍色の髪……そんなものを持つ者を、彼は一人しか知らない。

全てが異常で、異形で、その肉体から放たれる威圧感と存在感に、彼は冷や汗をかく。

以前にもまして強大になったことを彼は悟り、何故それがここに居るのかを疑問に思った。

ここに居てはいけない筈の存在が、死んだ筈の男が、今彼と向かい合っている。その異常さを見せつけている。


 一年前に死んだはずの神谷一鬼という異形が、そこには居た。




「おま……なんで……」


「あの世から帰って来た、と言うべきでしょうか……もはや化け物であることを否定できない程に、遠くまで来てしまいました」


「本当に……一鬼なのか?」


「はい。既に神谷一鬼は死にましたが、俺は俺です。この一年間はあの世に居ましたが、昨夜仲間達の助けによって蘇った次第です」



 笑いもせず、ただ思いつめた表情のままそう告げると、静かに一鬼はその身を虹色の炎で彩られた鬼に変えた。


 明らかに超常的なものであると理解できるその姿に敬吾は息を呑み、恐れる。

それがただのまやかしであるなどとは彼も考えない。狐に化かされていると考えることもない。

今彼の前に居る化け物が一鬼であると、彼は直感で理解できるのだ。できてしまうのだ。

圧倒的で、歪で、ここまで真っ直ぐな波動を彼は他に知らない。その声も、雰囲気も、全てが間違いなく明が愛した息子のそれだ。美空が欲した男のそれだ。優希が憧れ、望んだ存在のそれだ。


 いかなる精巧な幻でも、寸分の狂いが無い贋作でも、この本物を真似することは叶わない。

本物にしかないものがそこにはあり、それこそが一鬼という男の存在証明なのだ。本質なのだ。

その精神こそが、真に彼が恐れたものであり、力はその精神についてきたものに過ぎない。

枷も首輪も外し、解き放たれた猟犬はいつの間にか鬼に変わっていた。本当に、鬼になっていた。


 彼の親友の願いを……父の夢を叶え、そこに一鬼という鬼は居る。


 それが理解できてしまったが故に、敬吾は―――怒った。




「なんで……今更戻って来た?」


「遅過ぎたことは否定しません。貴方が今抱いている怒りは、理不尽ではあっても、醜くはない。必要なものです」


「お前にさえ会わなければ、明はこんなにも多くを失わずに済んだ。優希も、あんな風にならずに済んだ。お前が関わったせいで、俺の周りの人間は殆ど死んだ! 亮達も! その娘も! 皆死んだ! だというのに、今更のこのこと戻って来やがって!!」


「どうぞ、その怒りを吐き出してください。俺にはそれを受け止める義務がある。貴方には吐き出す権利がある。その拳で俺を殴るのは、貴方の腕が使い物にならなくなるだけなので、オススメしませんが」


「いっ!?」



 静かに鬼の形から人の形に戻った一鬼の頬を殴った瞬間、敬吾の腕に激痛が走った。


 乾いた音と共に鈍痛と激痛が混ざり合って、彼の腕の骨が折れ、砕け、肉が引き裂かれたことを知らせる。

対して、一鬼は一切その場から動いておらず、頭部すらも微動だにしていない。

痛みを感じている様子もなく、ただ敬吾の腕の心配をしているその姿に、彼は益々怒った。

まるでコンクリートの壁を殴った時のような重さと硬さによって苦しんでいる彼との対比のように、全く痛みを感じていない一鬼……それが両者の間にある絶対的な差を意味している。


 そんな存在が全て終わった今になって戻って来たことが、敬吾には耐えがたい。

これ程までに強靭で、誰かの為に在れる存在が、今更になって戻って来ても、それに救われたいと思った者達はもう居ないのだ。救って欲しかった者達はもう居ないのだ。

彼の娘も、彼の親友も、その実の娘も、皆居なくなった。多くが死に、彼に痛みと思い出を残した。

それを受け入れ、これから漸く新たな人生を歩んでいけると思い始めた刹那に、一鬼が戻ってきたのだ。


 皆を救える力があった筈の化け物が、のこのこと戻ってきたのだ。


 それが彼にはどうしようもなく理不尽で、怒りを抑えることができなかった。




「佐村さん、貴方に素直に殴られてやれたらどんなに良かったか……ですが、この身が完全になった今は、それすらもできない。俺はもう貴方達の手が届かない存在になってしまった。正真正銘の化け物に、遂に戻ってしまったのです」


「くそ……くそっ!」


「貴方の怒りを受け止めることができないのは悔しいことですが、しかしこれが今の俺の生態です。俺という存在です」


「お前は……何で……そこまで信念を貫ける? 何故明の教えに従い、そこまで化け物としてあれる? お前の信念の支えなど、何処にも在りはしない筈だ」



 敬吾は怒りと激痛によって苦悶の表情を浮かべながらも、一鬼に問う。


 昔から一鬼は信念というものを持ち、それに従って生きて来た。明がそうさせた。

信念を貫き通す子どもなど気持ち悪いと言われても仕方ないというのに。その歪さは他者を恐怖させるものでしかないというのに。

弱さを受け入れられないようならば、それはただ力に憧れるだけの者に過ぎず、そこを慰めにできる。

だが、もしも弱さすらも受け入れることができるのならば、完全に共感できない化け物の誕生しか待っていない。


敬吾の親友である明がしたことはまさにそれだった。

一鬼に弱さも強さも教え、その双方を活かすこと、そして受け入れることを教え込んだ。

それ故に、鬼は生まれた。強さも弱さも受け入れ、果てにそれを守ろうとする修羅と言うべき存在が。

鬼の異常性はいったいどれだけの数の者達を恐怖させたのだろうか。どれ程に怯えさせたのだろうか。嫉妬させたのだろうか。

いったい何人がその強さに壊され、憧れ、求めたのだろうか。


 敬吾はその力を恐れ、だが世界が必要とすると確信していた。

だからこそ分かるのだ……一鬼という存在が人間として生き続けてくれたならば、多くの命が助かったことが。

その能力と信念で以て、多くの人間を感化し、壊し、救い、新たな秩序を齎すと言う確信が彼にはあった。

彼の夢である、悲しみの源泉を飛躍的に減らすことを、一鬼は可能とする筈だった。


 だが、それも今は叶わない夢でしかない。


 人間という枷を捨ててしまった化け物は、もうその世界に戻っては来ないのだ。




「俺の信念の源は……ここにあります。ここに、皆居る。父さんも母さんも、美空も愛梨も羽月も一矢さんも……皆ここに怨念として残っています。俺の一部であり続けます」


「なん……だと? 美空はまだ生きている筈だ! まさか、お前――!」


「はい……俺がこの手で殺しました」


「何故だ!? あいつはお前が誰よりも優先して守ると決めた存在だった筈だ!」



 心臓のある場所を親指で示しながら言う一鬼に、敬吾は吠えた。


 明達への恩返しの為、延いては己が信念の為に、一鬼は美空を守り続けていた。

それが美空の為ではなく、明達の為であることは、近くでそれを見ていた彼も良く知っている。

だが、それでも一鬼は義妹を守り続けた。背負い続けた。

それが余計に義妹の依存心と嫉妬心を強めるとも知らずに、守り続けていた。


 一鬼が美空を殺すことなど、出来る筈がない。

だが、一鬼の言葉には嘘がまるで見えないのだ。長年警官として働き、嘘かどうかを見抜く勘を養った敬吾でも、そこに嘘の気配は感じられない。

それが事実であるということを認めるのは余りにも難しいことだが、嘘だと考えることはできなかった。

何かが一鬼を変えてしまった。美空という守るべき存在を殺させる程に、劇的に。


 それをこれから敬吾は知らねばならない。


 彼が誰よりもこの世界に必要だと感じた男の信念を捻じ曲げさせた、その原因を。




「美空は……一年前にこの町に、父の周りに、貴方達に、悲しみを齎した化け物となりました。同じカテゴリーという意味ではありません。正真正銘、その個体になったのです」


「……信じられるか。全ては一年前、お前が終わらせた筈だろう!!」


「俺もそう思っていました。ですが、終わっていなかった。あいつは美空の中で生き続け、美空はその存在と化した……だから殺したのです。その苦痛から救う為に。その虚しい生を終わらせる為に。美空は笑顔で死にました……俺に全ての思いと苦痛と憎しみを伝えて。俺にありがとうと言って。神谷の血は今日絶えました……もう、誰一人として生きていない」


「死神かよ……お前は。お前に関わった奴の何人が死んだ!? 明の親友も、その子ども達も俺を残して皆殺し! 明自身もつい先日化け物に殺された! そして、お前は美空すら殺した! いったい何人死なせれば気が済むんだ!!」



 敬吾は力の限り叫んだ。


 広い墓地に響き渡る怒声は、彼の苦痛と嘆きを余すところなく表現し、一鬼に伝える。

全ては二十年前に明が遺跡で一鬼と出会い、それを連れ帰ってしまったことから始まった。

鬼に憧れ、その成長を見たいと思った一人の男によって、別の化け物が目を覚ましたのだ。

それが二年前の事故を引き起こし、一年前の多くの死を生み出し、敬吾の周りから多くのものを奪い去った。

全ては一鬼と明に収束する。そこから化け物の怨念が人間にまで伝染してしまったのだ。


 だからこそ、敬吾がこうして一鬼を責めることは自然なことだった。

人間側からすれば、多くの悲劇を生んだ元凶は間違いなく化け物達なのだ。それを呼び起した明なのだ。

彼では一鬼を断罪することはできない。圧倒的過ぎるその存在を前にしては、軍隊ですらも止めることは叶わない。

それでも、その化け物には言葉が届くのだ。怒りや憎しみが理解できるのだ。愛や慈しむ心があるのだ。


 だから、彼は言葉で断罪する。否定する。


 それだけが、力の無い弱者に許された道だった。




「貴方の言う通り、俺が全ての悲しみの源泉です。俺が全てを狂わせた。貴方には断罪する権利がある。俺にはそれを受け入れる義務がある。貴方の心で以て、俺の心を傷つけてください。その言葉の刃で、俺の心臓に痛みを与えてください。それだけが、俺にできる購いです」


「ふざけるな……そうやって全てを受け入れる強さがお前を孤独にしたんだよ! 優希を間違わせ、美空の自己嫌悪を呼び起し、その人生を狂わせたんだ! お前が少しでも弱ければ! 傲慢であったならば! 信念がなかったならば! あいつらにとってお前はこうも大きな存在ではなかった! お前さえ……お前さえ居なければ、こうはならなかった!!」


「そうかもしれません。俺が全てを狂わせたのは変わらない事実です」


「お前がもっと弱ければ! もっと狡ければ! あいつらはお前に大きく依存せずに済んだというのに! どうしてお前はそんなに強いんだ!! 愚直なんだ!!」


「それが、俺の在り方だからです。父の願いだからです。俺の願いだからです」



 何の迷いもなくそう言い切った一鬼に、敬吾はただ怒る。


 その強さこそが全てを捻じ曲げてしまったことを知っているが故に。

全ての悲しみの原因がそこにあることは元来あってはいけないことだ。強さが悲しみを産んではいけない筈だ。

だが、実際にそこから多くの悲しみが生まれ、敬吾達は多くを失った。大切な者を殺され、己すらも死んでしまった者達が居た。

そんな悲しみの源泉に、一鬼は居る。明が居る。化け物達が居る。


 しかし、敬吾達にとって幸せだった時間を与えたのも一鬼なのだ。

彼が居たからこそ明と夜空はその意思を継がせる相手を……生贄とも言うべき存在を見つけた。

ただの人間では務まらない程に酷く窮屈で歪な存在になれる者に、二人は出会ってしまった。

優希は一鬼が居たからこそ、その異常な容姿に対する苛めによって崩壊せずに済んだ。

一鬼が居なければ、恐らく優希は苛めによって不登校になっていただろう。


他にも多くの者が今目の前に居る鬼によって救われたのを、彼は知っている。共に事件を解決してきた彼だけが知っている。


 その事実が、彼を苦しめるのだ。




「お前のその在り方が多くの人間を救ったのを、俺は知っている! だが、それは俺の周りの人間ではない! 俺の大切な者達ではなかった! 何故だ……何故、お前は俺達ばかりに悲しみを背負わせる!? 全部背負える強さがあるのだろう!? 覚悟があるのだろう!? なら、全部お前が背負え! お前が全ての悲しみを持っていけ!」


「できればそうしたいと思ってはいます。ですが、貴方の感情は貴方のものだ。皆の感情は皆のものだ。その苦痛を分け合うことはできても、全てを代わりに背負うことなど、不可能です」


「なら、悲しみを消し去れ! 優希を返せ! 明も、夜空も、亮達も! 皆を生き返らせろ!! 化け物ならできるだろう! そうだと言え!!」


「無理です。人間の死は覆りません。真なる化け物だけが……超越者だけが、その垣根を超えることができるのです。人間には無理です」



 敬吾の望みを、一鬼は悲しげに一蹴する。


 それも当然のことだ……元来死というものは不可逆のものであって、どうこうできるものではない。

だが、一鬼は生き返った。一年前確かに死んだ筈だというのに、今ここに居る。

それを前にして、敬吾が一鬼の言葉に納得することなどできる筈が無かった。例外を前にして、受け入れられる筈が無かった。

生き返ることができた例外にそれを無理だと言われ、微かに抱いていた希望も消え失せ、ただ敬吾は歯ぎしりする。


 化け物が生き、人間が死ぬというある意味当然の結果だけが、そこに残った。

人間が化け物を打倒して全てが終わるのではなく、化け物の為に人間達が狂って死んだ。

物語に出て来るような人間側に都合の良い終わり方ではなく、力の差が示す当然の帰結のみが、ここにある。

殺しても生き返るような化け物を相手に人間が勝利するには、封印するしか道はない。

だが、それを簡単に許す程化け物達は弱くなく、人間側でその存在を知っている者も多くなかった。


 もしもその存在が人類に明らかになったならば、結果は違っただろう。

化け物の大部分は近代兵器で滅ぼせたかもしれない。悲しみが始まる前に全てを終わらせることができたかもしれない。

だが、実際にそうはならなかった訳で、人間側は多くの傷を負ってしまった。人類という規模ならば千や二千など些細な数だが、それだけの数の死を齎したのがたった数体の化け物であったなどと、誰が予想できただろうか。


 敬吾はその化け物の筆頭である一鬼を殺せる機会があった。


 そこで彼が刺し違えてでもその生を終わらせていれば全て変わったかもしれない。




「何故だ……何故お前のような化け物がのうのうと生き返って、人間側がこんなにも深い傷を負わねばならない!? 何故弱者にばかり悲しみが向かう!? 全てを受け入れるのだろう!? 弱さを背負うのだろう!? なら、弱者の苦痛を受け入れろ! 人間の悲しみを全て背負え!! お前が代わりに全部持っていけ!!」


「……良いでしょう。悲しみの源泉を断つのが貴方の望みならば、俺は全ての人間の記憶から悲しみを取り除きましょう。その精神を捻じ曲げ、悲しみを完全に消し去りましょう。ですが、その果てにあるのは全ての忘却……それだけです。それでも良いですか?」


「なっ!?……良い筈がない!! お前は死すら捻じ曲げた化け物だろう!! それができて、人間の弱さ一つ取り除けないのか!? 背負えないのか!? 痛みを忘れるなど、優希と同じだ!! 強さではない!!」


「化け物が人間に都合の良い結果ばかりを齎すと思っているのですか? 人間同士ですらそれをできていないというのに? 人間同士ですらできないことが、どうして化け物にできるのでしょうか? 」


「それは人間が弱いからだ! お前ならそれができる!! お前は人間を変えていく存在であれた筈だ! その力で以て多くの者を恐怖させ、嫉妬させ、壊し、しかし救った筈だ!! そんなお前だからこそ、俺は頼んでいる! 求めている!」



 敬吾は懐にしまっていた一冊の本を取り出すと、それを一鬼に突き付けた。


 見せつけるように、目を逸らすのを許さないと言わんばかりに示されたその存在に一鬼は目を向け、驚く。

ただ驚き、しかし瞬時にその表情は悲しみと喜びの混ざったものへと変わる。

そしてそのまま、たった今己を糾弾している敬吾に対して、多大なる感謝のみを映し、静かに一鬼は微笑んだ。

一鬼は今まで彼に見せたことがない美しい笑顔を浮かべ、多くの感情を瞳に宿し、静かに彼の次の言葉を待つ。


 敬吾はそれに導かれるように言葉を紡いでいく。言霊で以てその心を切り裂いていく為に。傷つける為に。己を慰める為に。




「この小説は、亮達がお前と柿坂愛梨の生き様を記したものだ! 明が最後に重みを加えた、お前と俺達皆の絆の証だ! ここに記された過去は全て事実で、未来だけが俺達の願望となっている! そこでお前は俺の後を継ぎ、多くの命を救っている! お前の隣には柿坂愛梨が居る! 美空も明も、亮達も皆生きている!! 笑ってお前の圧倒的な生を見守っている!」


「柿坂さん達が書いていたあの本を父さんが受け継ぎ、今貴方が受け継いだ……そういうことなのですね。ありがとうございます……父さん達の遺志を継いでくれて。ですが、その本は飽くまでもフィクションです。俺が実際に辿った道はそれとは大いに異なるものです」


「違う!! この本は、お前のこれまでの生き様から俺達大人が導き出した予言だ! 望みだ!! お前はあのまま生きればこうなっていただろう……こう生きただろう……そんな俺達の望みと予感がここにはある! お前は俺達全員が太鼓判を押す程に強い! お前は確かに誰かを救い得る存在になれる!」


「では、何故俺はここに居るのですか? 愛梨も羽月も、一矢さんも美空も、父さんも義母さんも……皆居ないここに」


「俺が聞きたいよ! 俺が苦しみたいよ! お前を誰よりも強く、優しいハンターにしたかったんだよ!! だが、できなかった!! 何故明はお前に全ての意思を託せたというのに、俺はお前に意思を託せなかった!? 何故……何故、お前は……優希の隣に居てくれなかった……んだ……」



 痛みを吐き出せば吐き出す程に溢れ出す悲しみに、遂に敬吾はその場に膝をついた。


 年甲斐もなく、感情を露わにして涙を流し、彼はただ己が苦痛の源泉を辿る。

彼の本心は……悲しみの源泉の全ては、彼の大切なものを救えなかったことにあった。彼の信念を貫き通せなかったことにあった。

娘が生まれた日、彼はその小さな体を腕に抱いて守ると誓ったのだ。一鬼と出会った時、そこに運命を感じたのだ。

最強にして最優の猟犬を見つけ、そこに彼の多くの経験を加えることで、最強のハンターを生み出すつもりだった。


 そう、敬吾は己が夢の為に一鬼を利用したのだ。知らず知らずの内に同化してしまったのだ。

親にとって息子は己が分身そのものであり、いかに違いがあってもそこには断ち切れない血肉の呪縛がある。

それに似たものを敬吾は一鬼に感じ、内心同化し、己が意思を継がせようとしていた。

彼がそんな己に気付いたのは、全てが終わった後だ。一鬼が死に、優希が死に、彼にとって本当に大切だったものが明らかになった時だ。


 娘の幸せ、そして己が意思を継ぐ継承者を得ること―――それが彼の夢だった。

一鬼はその双方を満たせる存在だった。誰よりも娘を間違わせたのも一鬼だ。間違って尚揺らがせたのも一鬼だ。

そんな男が、彼の信念を受け継ぎ得る器の持ち主だった。それを容易く行う力があった。

これが僥倖であると言わず、何と言うのだろう?それを失ったことを絶望と言わずして、何と評するのだろう?


 彼は一年前に、己が夢を二つも失ったのだ。




「佐村さん、貴方の怒りも嘆きも、至極尤もなものです。俺もその道を選んでみたかった。ですが、もう無理なのです。俺にも、やるべきことができたのです。やりたいことができたのです。俺はその道を進みます。だから、貴方の後を継ぐことはできません」


「ぐ……う……あ」


「どんなに憎んでくださっても構いません。俺に怨念を押し付けても構いません、ですが、この信念だけは譲れません。俺の道だけは変えられません。捻じ曲げたければ、貴方の人生全てを賭けてください。全てを失う覚悟をしてください。覚悟が無ければ、土俵にすら立てない。立ち向かうことすらできない」


「お前に……立ち向かえと言うのか? 挑めと言うのか? できるものか……俺はもう……このまま信念に己が人生を食わせていくしかできないんだ」


「貴方の後継は、俺以外にも居る筈です。俺などよりもずっと気高く、貴方の理想を継ぐに相応しい誰かが」



 一鬼は静かにそう告げると、敬吾に背を向けて歩き出した。


 敬吾はそれを追おうとするが、足に力が入らず進めない。

彼が己の後継者として最も相応しいと感じた男が行ってしまうというのに、何もできない。

娘の間違った進み方を正すこともできず、後継者を育てきることもできず、彼は多くを失った。

もう娘は居ない。親友達も居ない。残っているのは深い傷を負った彼と妻だけだ。

そんな空虚の中でも彼は生き、新たな後継者を探そうと決めた筈だった。


 だが、眼の前に死んだ筈の最高の猟犬が現れた時、それは揺らいだ。

新たに育て上げるよりも、既に必要以上に育った一鬼という猟犬をハンターに仕上げる方が、ずっと楽だ。

彼の人生ももう後三十年程であろうが、一鬼ならばその三十年で多くの結果を残すだろう。

今更新たな後継者を探そうにも、それは必ず劣化でしかない。


今から新たなハンターを育て上げるには、尋常ではない労力が必要で、その果てに生まれる後継者は一鬼よりも格下だと決まっている。

どんなに彼が全ての経験を活かし、新たなハンターを生み出したとしても、そのハンターには一鬼のような嗅覚がない。

どんなに彼が覚悟を教えても、そのハンターには一鬼のような狂気の領域に達した覚悟は無い。

それを分かっていながらも、彼は新たな後継者に妥協しなければならないのだ。


 己が信念に妥協というものを介入させてしまえば、それはもはや信念ではない。


 だからこそ、彼は苦しかった。悲しかった。




「待て!! せめて……せめて……これを持っていけ! 俺の親友達が! お前の父親達が! 明達がお前の過去と未来への希望を記した、これを!!」


「……ありがたく受け取らせていただきます。もう、会うこともないでしょうが……どうか、お元気で」


「その本は一巻だ!! 文章量から考えて、後四つは出る! 全て読め! そして知れ!!―――お前が俺達にとってどれ程大きな存在だったのかを!!」


「分かっています……貴方達の希望、確かに受け取りました」



 敬吾の言葉に頷いて承諾すると―――そのまま一鬼は消えた。


 彼から受け取った本を大切そうに抱え、その場から一瞬で消えてしまったのだ。

まるで狐に化かされたかのような状況ではあるが、しかし敬吾はそれが幻ではないと自覚している。

一鬼の持つ独特な気配はいかなる完全な幻で以てしても再現することは叶わない唯一無二ものだ。

その覚悟は誰もが妄執だと断ずる程のものであり、その力は誰もが化け物だという程であり、全てが規格外だった。


 だからこそ、明はその圧倒的な生態に惹かれ、その先を見ようとしたのだ。

それが多くの悲劇を生み出すとは夢にも思わず、人間の世界に化け物を引き込んでしまった。

二十年前に人間の悲しみの全てを明が始め、一年前に一鬼が終わらせた。親が始め、子がその責を負った。

だが、それでも悲しみは終わらず、全てが捻じ曲がった。美空が明を殺し、一鬼が美空を殺した。


 全ては神谷家が始めたことであったというのに、それは飛び火して多くの者が死んだ。

敬吾もまたその飛び火によって娘を失い、挙句の果てに後継者すらも失った。

後継者足る一鬼と出会えたのは明のお蔭ではあるが、それを奪ったのもまた明なのだ。

その事実が齎す苦痛と悲しみに苛まれながら、静かに敬吾は空を見上げた。




 そこでは―――朝焼けに彩られた青い空が憎らしい程に光り輝いていた。














 深い森の奥に、輝き続ける光の塔がある。


 それはかつて蒼炎の超越者が築き上げたものであり、たった一体の鬼の為に用意されたものだ。

数百キロの高さを誇るその建造物は、人間では建てることが困難なものであり、もし建てたとしてもそれを維持するのは不可能だった。

それをたった一体の存在が生み出したのだと知れば、人間はさぞ驚くだろう。

もしもその塔が使い捨てのものでしかないという事実を知れば、もはや驚きを通り越して呆れにすら達する。


 そんな建築物を前にして、佇む者達の姿がそこにはあった。

柔らかな風によってその衣服や髪をなびかせながら、山頂から光の塔を見上げる六体の妖……否、超越者がそこに居る。

妖という領域を超え、絶望することすらできない絶対的な存在になった、正真正銘の化け物達が、そこに居るのだ。

世界に愛され、その理を捻じ曲げることを許された彼らが得たのは絶対的な孤独と、たった一つの光。

その状態で壊れることも許されず、そうなるだけの弱さも持てず、強さの全てを発揮する場も得られず、彼らはただ耐え続けた。


 だが、もうそれも終わる……彼らにとっての光が完全に復活した今、彼らは漸く解放される。

その力を十全に揮い、己が生を捧げた者と触れ合い、共に生きることを彼らは許された。

強さを強い、憧れ、心を守り、尽くし、対峙し、共に進む……それを彼らは漸く許されたのだ。

世界などではなく、彼らが惹かれた者に報いることこそが至上であった。愛し、愛されることが、大切だった。

そこには憎しみがあり、執着があり、愛があり、葛藤がある。苦悩がある。安らぎがある。


 その全てを受け入れ、壊れることなく彼らはこれからも生きていく。


 強者であり、狂者であるが故に。




「全て終わりましたね……私達の超越者としての役目が」


「ああ。だが、我々個人の役目はまだ終わっていない。これから進む先にあるのは、この色を失った世界だ。一鬼様の虚無だ。何一つ終わっていない……我々の苦痛も、喜びも、まだまだこれからだ」


「分かっています、金虎さん。私達の願いは一鬼様と共に生きること……その生き様を見届け、最後まであの方の為に生きること。これは最大の絶望であり、名誉です。私は何の躊躇いもなくそれをお受けします。それこそが私達の生まれた意味なのですから」


「然り。だが、その前に一つ片付けなければならない問題がある……」


「私のことか?」



 光の塔……否、そこに居る者を見上げて、話していた金虎と紅鴉に、ブルー・シャーマンが声をかけた。


 その声には焦りも不安もなく、ただ全てが「当然のこと」だという自信しか感じられない。

蒼炎の超越者は悲しみの源泉を知りながらも放置し、それが一鬼に齎す強さを観察し続けた。

親友である紫鬼との誓いに従い、強さを強いる者として一鬼に多くの悲しみが降りかかり、そしてそこから成長していく様を見守り続けたのだ。

確かにそれは紫鬼との誓いを守ったが故のものであり、徒に悲しみを放置した訳ではない。


 だが、それを碧は屑だと糾弾し、一鬼の苦痛を表現するかのようにブルー・シャーマンにぶつかった。

金虎達からすればそのようなことでぶつかっている様は聊か滑稽だったが、しかしそれも仕方ないことである。

碧は一鬼としか繋がっておらず、他の超越者と真の意味で分かりあう日は永遠に来ない。

金虎はそれを理解しているが、しかし同時に碧がそれを知りながらもぶつかり続けることも予感していた。


 耳障りで意味の無い行為をするのではなく、もっと建設的なことをさせる為に、黄金の超越者は少しばかり動こうと決めたのだ。




「ブルー・シャーマン……今更な話ではあるが、あのような弱者に構うな。お前はただ一鬼様に強さを強いていれば良い。あのような塵芥のことなど無視しろ。あれの役割はお前とぶつかることではなく、一鬼様の隣に居続けることだ」


「分かっている。私はあれが求めたが故に答えたに過ぎない。私の役割の何たるかを見せたに過ぎない。もう今後は無駄な衝突はせぬ。私は紫鬼との誓い、そして私自身の業の為だけに生きる。あの程度のものに興味はない」


「分かっている。お前にとっては全てが舞台装置に過ぎない。成長する者達を見守ること、そして鬼を完成させること……それがお前の望みだ。呪いだ。私はそれが一鬼様を害しない限りは止めん。だが、もしもお前が一鬼様に能動的に悲しみを齎すようならば―――私が紫鬼の代わりにお前を殺す」


「やってみろ。お前如きにできるものならばな」


「ああ、やってやるとも。私はお前とも対決する。一鬼様へ報いることこそが、私が決めた信念―――妥協はしない」


「頼もしい限りだ……やはり、お前が全てのカウンターで良かった」



 未来でぶつかることを厭わないと告げた金虎に、ブルー・シャーマンは笑った。


 それは決して嘲笑の類ではなく、ただ純粋に言葉通りの安堵を示したものだ。

金虎はそれを理解しているが故に、静かに肩を竦めるのみで蒼炎の超越者の言葉に応える。

誰よりも一鬼に報いることを心情とした彼は、ただ一人光に敵対できる存在であろうとしていた。

だからこそ、彼は闇なのだ。元来紫鬼が果たす役目であった、一鬼に対するカウンターに彼がなるのだ。


 七人の守護者の中で紫鬼が最強であったことは疑いようがなく、その闇の濃さもまた最たるものであった。

純然たる光の為に、純然たる闇として紫鬼は生まれた。二十四年間をただ光の為……否、生まれて来る弟の為だけに費やし、同志を集め、その生を守ろうとした。

紫鬼こそが純然たる守護者だったと金虎は思っているし、誰よりも尊敬している。誰よりも憎んでいる。


 一鬼に普通に生きて欲しいなどと願いながらも、真っ先に死んだ紫鬼を彼は無責任だと思う。

紫鬼にそうさせた碧達妖狐も、それを止めることができた筈なのにしなかった己達も、彼にとっては憎むべき弱者だ。

だから彼はもっと強くありたい。一鬼と対峙し、ぶつかり、強さを教える為に存在し続けたい。

一鬼への、延いてはその兄である友への贖罪、そして己が夢の為に、彼はこれからも一鬼と共に生き続ける。


 その様をブルー・シャーマンは頼もしいと評した。全ての超越者のカウンターで良かったと言った。


 だが、彼はもっと上を目指す。友の為に、一鬼の為に、そして……彼の夢の為に。




「お二人共、仲が宜しいことで。女性陣は相変わらず競い合いの雰囲気が拭えないというのに」


「放っておけ。私はそんなものに興味はない。奴らが一鬼様に危害を加えん限りは、適度に助言するに留める」


「やっぱりそうなるんですか……私もあの雰囲気の中に突っ込むのは嫌ですが」


「我々とは別種の執着であるが故に、迂闊に触れることができないのも仕方ない。放っておけ」



 少しばかり離れた場所で向かい合っている碧達を見ながら、紅鴉は苦笑した。


 金虎とブルー・シャーマンはその方向を見向きもせずに一蹴して、再び塔の上を見上げる。

その様に紅鴉は静かに溜息をつくと、同じく塔の上に居る彼らの主の方を見上げた。

彼らは超越者であり、互いの決着は互いでつけることができる。誰かの手を借りねば何一つできない赤子ではないのだ。

だからこそ金虎もブルー・シャーマンも碧達のことを見向きもせずに、ただ上を見る。

碧達に漂う微かな衝突の気配を無視し、それ以上に彼らにとって重要な者を見据えることを最優先する。





「一鬼……」


「碧、いい加減にしなさい。共感するのが貴方の役目なのは私も理解したわ。だけど、貴方のそれは相手の為になる共感ではなく、ただの自己満足よ。非生産的な行動よ。それを分かりなさい」


「カナリー……でも、私は……」


「ブルー・シャーマンのことを気にしているのなら、それは貴方の役目ではないわ。あれがそういう役割なのは私達皆が理解していることよ。そのカウンターは藍龍と金虎が担う。貴方の感傷を一鬼様に押し付けないで。貴方の抱いている苦悩と一鬼様の苦悩を同一視しないで。貴方は誰よりも感じ取れている筈よ……一鬼様の心を。その苦悩を。それを真っ直ぐ受け止めなさい。貴方の都合の良いように捻じ曲げるのは止めなさい」



 カナリーは呆れながらも、碧の言葉に応えていく。


 それは酷く鋭い刃物となって碧に突き刺さっていくが、彼女はお構いなく続ける。

彼女にとって大切なのは一鬼の心であり、命であり、それを守れないようならば碧に価値などない。

もしも碧がそれを止める日が来たならば、彼女はその手で以て最後の妖狐を殺すだろう。

彼女がそうせずとも、金虎が報いることを止めた弱者として殺すだろう。藍龍が、一鬼に傷しかつけることができない害として殺すだろう。


 カナリーの言葉は鋭くはあるが、しかし碧を活かそうとしているものだ。

碧もそれを半分程度は理解できているようで、若干不満そうではあるものの、彼女の言葉に頷く。

彼女はそれに一先ず安心しながらも、静かに空を見上げている藍龍を見遣った。

彼女達同志など見向きもせず、ただ空だけを見つめ続けている最強の龍は、酷く残酷だ。

紫鬼や金虎が悩み、覚悟した上で決断するのならば、悩む暇もなく決断するのが藍龍である。


 そして、その判断が間違っていたことは二百年余前を除いては、一度たりともなかった。

一鬼に対しての理解においても碧を上回り、ただ純粋なる心の守護者として藍龍は存在し続ける。

愛する者の為に生き、死ぬことを至上の喜びとしているその狂気は、誰にも捻じ曲げることはできない。

彼女達超越者ですらそれを捻じ曲げられないというのに、どうして弱者達にそれができようか?いや、できまい。

誰にもその存在を曲げることはできない……一鬼ですらも、その狂気は変えられない。


 ただ最後の鬼の為だけに生まれ、生きていく狂気が、今そこに居る。




「藍龍……」


「カナリー……一鬼様は今多くの虚無を抱えています。傷をその身に負っています。そんな様をただ見守るしかできないなど、私の存在理由の否定です。私の存在価値の否定です。一鬼様は……本当に残酷です」


「安心しなさい。貴方は誰よりも感じている筈よ……私達は一鬼様にとっての呪いなのだと。罪の証なのだと。生きる理由そのものなのだと。愛することができる存在なのだと。そんな一人である貴方の存在理由を否定する筈がないわ。もしも、その日が来たならば―――それは私達が皆必要なくなった時よ」


「分かっています。私は、誰よりもそれを実感しています。誰よりも残酷であれます。ただ……一鬼様をこうさせてしまった己の無力さを噛みしめているのです。力があっても、それを使えなければ意味がないのだと、改めて気づかされたのです」



 カナリーは藍龍の言わんとしていることを瞬時に理解した。


 二百余年前、金虎の言葉通りに誰かが鬼の里に向かえば、一鬼は普通の鬼として生きることができただろう。

母も父も……兄も失わず、幸せに生きることができただろう。妖狐という存在を背負う必要もなかっただろう。

だが、現実はブルー・シャーマンが見据えていた『幸せではない』方の分岐通りに進み、その予想通りに一鬼は強くなってしまった。

一鬼にただの鬼として生きてい欲しいと願った紫鬼だったが、その願いは叶わなかったのだ。


 ブルー・シャーマンは紫鬼との誓い通り、一鬼に強さを齎した……多くの悲しみと血の雨の果てに。

紫鬼が一鬼の命を守り、藍龍が心を守り、ブルー・シャーマンが強さを守る……それで以てバランスは保たれる筈だった。

だが、実際は碧達の介入と一鬼の母、そして一鬼の思いがけない行動によって全ては無為に終わっている。

紫鬼は妖狐を寄せ付けぬ結界を作り出し、それを使えと母に告げたにも関わらず、母はそうしなかった。

一鬼は碧という存在を救おうとし、紫鬼達を行動不能にして自滅し、紫鬼はそれを救う為に己が心臓を弟に捧げた。


 全てが狂い、バランスが乱れてしまった原因は確かに一鬼達にある。


 だが、それで彼女達はこう思うのだ――――あの日彼女達の誰かが里に行くことができたなら、全ては変わっていた筈だと。




「詮無いことよ。あれはもう過ぎた過去でしかないわ。悔やむのは自由だけど、今後に生かす形で苦しみなさい。私はそうしたわ。もう、次は失敗しない……力しかない化け物ではなく、その力を必要な時に揮える化け物であろうと決めたのよ」


「ふふ……言われずとも、そのような段階はとうに過ぎています。私は貴方よりもずっと上の段階に居るということを忘れてしまいましたか?」


「分かっているわ。それでも、私はこうして言い続けるのよ。それが私達の距離を示すわ。私が追うべき貴方の場所との距離をね。見ていなさい……いずれその位置に私が登り詰める様を。怯え続けなさい……私にその居場所を奪われる可能性に」


「精々頑張ってください。九割九分一生無理でしょうが、残り一分程度は可能性が残っていますよ」


「言われずともそうするわ」



 カナリーは藍龍の言葉に肩を竦めて応えると、内心そこに加われていない碧を心配した。


 一鬼に二度の死を齎した碧は憎むべき仇と言えるが、しかし今は共に一鬼を守ろうとする同志でもある。

彼女達と比べれば遥かに弱く、準超越者と言うのもおこがましい程に脆弱だが、しかしそれでも一鬼はその生を欲した。

罪の証として傍に置き、愛し続けることを決めた主の決意は、彼女では捻じ曲げられないだろう。

可能性があるとすれば、その対象である碧本人か、ぶつかることができる金虎のみだ。


 カナリーが抱いている藍龍への憧れも、その能力も確かなものではある。

一鬼に変化を齎すには十分過ぎる程に藍龍は強く、美しい。強靭で、狂気に満ちている。

だが、その信念を大きく曲げさせることは藍龍ではできない。超越者もまた碧と同じく一鬼にとっての罪の証であるが故に、それはできない。

金虎だけが一鬼と対決し、そのカウンターとなって共に苦しんで答えに導くことができる。

碧だけが、その言葉と本心を変化させることで一鬼に一つの決意の終わりを知らせることができる。


 碧が一鬼を拒否した瞬間、その贖罪の方法は愛することではなく別の形に変わるのだ。

しかし、そうなる可能性は万に一つもなく、実質零である。零を一に返ることができるのは、碧だけだ。

金虎は一鬼の考え方に大きな変化を齎し得るが、結局は碧が変わらねば、その贖罪は終わらない。

新緑の眼の最奥に、一鬼に愛して欲しいという願いが宿り続けている限りは終わらない。

そして、碧がそれを宿さない日が訪れることは―――ないだろう。


碧は何処まで行っても一鬼なしでは生きていけない依存者なのだ。




「悪くない表情ですね……殺戮者、貴方もこうなれるように頑張ってください」


「ええ……そのつもりよ」


「なら、大丈夫ですね……貴方にも、頑張って貰いますよ。私は一鬼様についていけない者は切り捨てますから、そのつもりで居てください」


「言われず、私は最後まで一鬼についていくわ。私は逃げない。眼を背けない。この全てで以て一鬼に応える……それが私の贖罪よ。生きる意味よ」


「結構。そのまま進み続けてください」



 藍龍の言葉に静かに頷いた碧の表情は真剣そのもので、嘘偽りは一切そこに介入しない。


カナリーはそんな表情を見て少しばかり安堵し、互いの間に漂う競い合いの空気に苦笑する。

彼女も碧も藍龍も、互いを一鬼の隣に居ても構わない者だと認識してはいるが、己が一番であろうとしていた。

互いが互いを認め合い、競い合い、ぶつかり合うことで彼女達は切磋琢磨していく。

たった一人の男の為にそこまでできることは異常であり、彼女達がまさしく狂者であるという証でもあった。


 一鬼の為のみに生まれた超越者たるカナリーと藍龍はそれで良い。

だが、碧はそうではない……資格も義務も持たずに生まれた、ただの強い妖狐だ。

それが紫鬼との出会いから一鬼の存在を知り、その精神に感応し、超越者の道を望んでしまった。

全てはそこから狂い、紫鬼が死に、一鬼は白雪と共に眠りにつき、未来が変わった。

碧という塵芥を一鬼が守ろうとし、触れ合おうとしたが故に紫鬼は二度死に、一鬼を二度死なせている。


 碧という不確定要素は一鬼に変化を齎し、その相互作用で以て紫鬼達の予想を超えたのだ。

結局は、唯一彼らの予想を超え得る一鬼が全てを捻じ曲げたということに他ならない。

碧だけでは何一つ変えられない。未来を捻じ曲げることはできない。ブルー・シャーマンは見向きもしない。

そんな妖狐が一鬼を変えた……これは驚くべきことであり、彼女達も学ぶべきことである。

同じく、半妖風情でありながらも一鬼に愛され、その根底にあり続けている柿坂愛梨という少女を、彼女は尊敬していた。


 彼女達は弱者が嫌いではない。


 嫌いなのは―――強くあろうとしない弱者だけだ。




「碧、私達は貴方を同胞として受け入れるわ。でも、忘れないで……貴方が捻じ曲げた多くの運命、奪った命……その全ての罪は帳消しにならないことを」


「今更ね。贖罪とは、罪を消すことではなく罪悪感を拭い去る行為よ。罪は心の中にしか生まれないし、存在し得ないわ。そして……一鬼の贖罪は、罪悪感を忘れずに向き合うこと。最後まで壊れずに苦しみ続けること。私はその贖罪の相手に選ばれた……一鬼から母も父も兄も、全てを奪ったのは私達妖狐だというのに。私こそが、憎むべき存在であるというのに。だから、私もこの罪悪感は捨てないわ。一鬼と同じ道を進むわ。それが―――私の贖罪よ」


「それで良いのよ。苦しみなさい。喜びなさい。その心臓に宿る緑色の鬼火を元来得る筈だった貴方の妹の為に。貴方自身の為に」



 カナリーは碧にそう告げると、静かに光の塔を見上げた。


数百キロに及ぶ高さの遥か下部、高度数百メートルの場所にあるベランダに居る最後の鬼こそが、彼女の枷であり、希望であり、生きる意味そのものだ。

風で藍色の髪を揺らし、その手に大事そうに抱えた本を見遣る主の姿がそこにある。

悲しみの源泉が己にあることを理解し、そのことに苦しみ続ける定めにある男が居る。

全て己が意思で選び、苦しみ、それでも進み続ける狂気の世界に生きる鬼が、遂に目覚めた。


 狂気の渦巻く中で生まれ、自身もまた狂気を持つその鬼は、漸くその生を完全なものにしたのだ。

兄の願い通りに生きることもできず、義妹を守り切ることもできず、多くの失敗を繰り返してその鬼は今そこに居る。

これからも間違え続けるだろう。誰かを癒し、壊し、嫉妬させ、憧れさせ、魅惑し、その生を遺憾なく発揮し続けるだろう。

彼女達はそれを見守り、時に止め、時に導き、共に生きていく。


 それが彼女達の存在理由だ。




「一鬼様は―――誰よりもそれを望んでいるわ」



 他の誰でもない、彼女達自身が決めた存在理由―――それは誰かに強制されたものではなく、彼女達が悩み、苦しみ、その果てに出した不変の答えなのだから。















 全てはたった一体の鬼の誕生から……否、かつて最古の超越者が光に触れた時から始まった。


 真なる強者のみが持つ狂気……それは全てを狂わせる引力だ。

かつて最初の超越者は多くの仲間の死と引き換えに超越し、多くの悲しみと苦痛の果てに超越者となった。

生まれながらの超越者はその誕生の際に矮小な存在足る母の命を奪い、紫炎を宿して生まれた。

他の者達もまた、多くの悲しみを生み出し、多くを嫉妬させ、壊し、恐怖させ、ここまで来ている。

そして、その全ては光という存在が引き起こしたものに他ならない。


 そもそもの始まりは、地球が怨念という重荷に耐えられなくなったことだ。

妖という存在が生まれ、そこから始まった怨念の蓄積はやがて地球の許容量を超え始めた。

他の生物とは違い、怨念というエネルギーを膨大に所持し、殺した者が殺された者のそれを受け継ぐという事象が、ただでさえ膨大な怨念を蓄積し続ける。

そんな連鎖が何百年も、何千年も、何万年も続き、地球は遂に悲鳴を上げたのだ。


 そして、それをどうにかする為に世界は―――最後の鬼を産み落とした。




「……たったこれだけの為に、俺は―――この世界に産み落とされたのか」



 まさしくその最後の鬼である一鬼は光の塔の下部にあるベランダから景色を見渡しながら、静かに苦笑した。


 妖が蓄積し続けた怨念を世界から消し去るという役目も、蓋を開けてみればたったの数分で終わるようなものであった。

彼はその数分の為だけに産み落とされた存在であり、その後は世界にとって不要な存在なのだ。

彼が抱いている虚無はまさしくその為の時限爆弾なのだろう。彼が自殺する為に世界が用意した、引き金なのだろう。


 確かに世界が導いた通りに自殺するのは簡単なことだ。

一鬼は既に完全に再生してしまった為に、他の超越者達ですらも殺せない領域にある。

だが、彼自身の刃は通る。かつて紫鬼がその心臓を摘出して彼に移植した時のように、己が手ならば止めを刺せる。

世界はそれを望んでいる。超越者という巨大過ぎる力が暴走すれば、この地球から消え去った怨念の総量を超えるそれが世界を覆うのだ。


世界では彼らを殺すことはできない。

怨念をどうにかすることができなかったように、その塊である彼らを消すことなど、世界にはできないのだ。

世界ができるのは生み出すことだけであり、消し去ることはできない。

生態系を産むのは世界ではなく、世界が生み出した様々な要素の相互作用だ。偶然の産物だ。


 況してや、超越者達は世界が恣意的に生み出した特別な上位存在だ……消し去ることなどできない。


 だから、絶望を仕込むのだ。自殺という唯一彼らを殺せる道へと誘うのだ。




「紫鬼……貴方の言う通り、確かに俺達は世界に愛されているようだ。まだ俺達は選べる―――安らかな逃避ではなく、苦痛の伴う生を。世界の望みとは違う道を」



 一鬼は今は亡き兄に問いかけ、その手を握り締めた。


 確かに世界は彼らに……正確には一鬼という全ての超越者の根幹に毒を仕込んだが、それは絶対的なものではない。

苦しかろうが、生きていくという選択肢が彼らには与えられている。慈愛に満ちた死への扉ではなく、煉獄に続く生への扉も開け放たれている。

それを選ばせてくれるということは、世界が彼らを愛しているということだ。その意思を尊重しているということだ。


 親が子を見守り、やがてそれぞれが己が意思で決意し、選択肢、進んでいくのを望むように、世界は一鬼達に選べと言っている。

一年前、一鬼が碧に選ばせたように、世界は今彼に選択を迫っている。彼の意思が、決意が定まるのを望んでいる。

世界は間違いなく彼らを愛しているのだ。その意思を尊重し、逃げの道も用意しているのだ。

本当は己が為にその存在を消し去らねばならないと理解しつつ、彼らを信じているのだ。




「ありがとう、世界よ……俺は―――生きる」



だからこそ、一鬼は生の道を選ぶ。逃げることの許されない煉獄への道を進む。


 彼は死という安易な逃げ道を選ばない。そのような逃避を許さない。

彼のせいで多くの者が死んだ。彼にとって大切な者達が死んだ。彼が殺した。殺させた。

全てを狂わせたのは彼と世界だ。世界は彼を生み出し、それを守る為に超越者を生み出している。

碧が、白雪が、その存在に惹かれ、狂い、結果として多くの死を齎した。悲しみと憎しみをばら撒いた。


 それらの源泉たる彼は死んで償うべきなのかもしれない。

だが、彼からすればそのような簡単過ぎる終焉は望ましくない。不十分で、甘過ぎる。

もっともっと苦しんで、その胸に宿る殺した者達の怨念を、大切な者達の怨念を背負い続けて生きる方がずっと苦しい。

何よりも、安易に死んで逃げてしまえば、彼が生み出した悲しみの意味は何処にある?

彼らは無意味に死んだのか?―――そうだ。彼らは無価値だったのか?―――違う。


 一鬼が可能性を奪った。奪わせた。

ならば、彼の可能性もまた奪われるべきなのだろう。その心身を贖罪の為だけに壊すべきなのだろう。

それでも、彼はそうしない。壊れて全てを認識できなくなった状態がいかに悲しいかを知っているが故に。それがいかに苦痛が無い楽園であるかを知っているが故に。

苦痛が無ければ、それは救いだ。罰ではなく、救済だ。彼に与えられてはいけないものだ。


 彼は生きる。生きて、生きて、生きて―――最後まで地を這い続ける。




「心配しなくて良い。貴方が俺の為だけに産み落とした七体の超越者と悲しみへの贖罪が、俺を生かしてくれる。絶望することを許さない。苦痛を齎す。俺を必要だと言ってくれる者が居る。俺の敵になってくれる者が居る。俺に強さを強いる者が居る。俺を愛してくれる者が居る。俺を愛していると言ってくれた者がここに居る。俺を求めてくれた者達がここに居る。今も、俺の心臓に語り掛けてくれている。死ぬなと呪詛を吐き続けている。生きろと強いている。だというのに―――どうしてその全てを捨てて死ねるのだろうか?」



 一鬼は己が心臓の宿る胸に手を置きながら、眼を閉じた。


 その瞬間、彼はそこに宿る多くの大切な者達の姿を見る。

そこには愛梨が居る。一矢が、羽月が、佐藤綾子が、柿坂亮が、柿坂愛子が、神谷明が、神谷夜空が、美空が。

数えきれない程の多くの命がそこに宿っている。彼に生きろと言っている。彼に死ぬことを許さないと憎しみを向けている。

それに背いて逃げるのは簡単だ……その手で以て心臓を貫き、彼らとの繋がりを切り捨てれば良いのだから。


 だが、一鬼はそのようなことはしない。

最後まで受け止め、共に生き続ける。死者の怨念をその心臓に収め、重さを背負い、それを生きる糧とする。

何と言うことはない……彼は悲しみを背負うという理由で以て生き残るのだ。それを生きる理由にするのだ。

二度死に、ある意味死者と言える彼が生きたいと思う理由は、それしかない。贖罪しかない。憎しみしかない。約束しかない。呪いしかない。


 




『ある意味一鬼先輩は、死者なのかもしれません』


「愛梨、お前は正しかった。俺は死だ。望もうがそうでなかろうが、生まれた瞬間からそうだったんだ」


『先輩は、一度誰かの心に深く刻み込まれたならば、もうその人にとって途方もなく大切な存在なんです。それこそ、神格化された死者の如く、怖いくらいに』


「お前は正しかった……俺が碧を狂わせた。白雪を、美空を狂わせた。超越者という闇を産んだ。俺は―――死者を生み出し、この胸に収める為の器だった」



 一鬼はかつての愛梨の言葉を思い出しながら、静かに心臓に宿る彼女に語りかけた。


 彼が一連の悲しみの源泉であり、それを生み出したのはこの世界だ。

しかし、彼には世界を憎む気にはなれない。どんなに世界を憎もうとも、今まで結果を齎したのは彼らである。

彼らはそれを変え得る力があった。機会があった。意思があった。

それらのどれかが欠けた結果、このような事態を招いたのだ。彼らの怠慢が、この結果を産んだのだ。


 一鬼が碧を拒絶すれば、全てはそこで終わったのだろう。

紫鬼は碧を殺し、妖狐も全員殺し、六人の超越者が白雪を超越者として教育した筈だ。

そうすれば、一年前の多くの死も起きずに済んだ。白雪が他の妖を恐れて絶滅させずに済んだ。

だというのに、彼が選んだのは碧を守ることであり、触れ合うことだった。その歪みを救うことだった。

結果、紫鬼は碧の拳によって死亡し、紫鬼はそれを覆す為に己が命を捨てた。


 白雪は彼らの怨念を背負い、崩壊し、超越者になる道を閉ざされた。


 全てが彼から始まったことは変えられない事実であり、その責任を世界に転嫁するのは、彼には許容できない弱さであった。




「俺はこの世界に恣意的に生まれた存在だ。あのたった数分の為だけに生まれた……空っぽの器だ。全て俺が始めた。俺が終わらせた。お前達の命も、その未来も、可能性も、俺が奪った。だから、俺を憎め。それが俺という器を埋める。苦痛を与え、生きる力を齎す」



 一鬼はそっと心臓から手を離すと、敬吾から受け取った本を取り出した。


 そこに書かれている物語は、彼が壊してしまった者達の物語だ。彼が守りたかった者達の物語だ。

彼を除く登場人物の殆どは現実では死亡しており、生存しているのは敬吾達くらいである。

皆彼と関わってしまったが故に、二十年前に彼と出会ってしまったが故に白雪にその人生を狂わされ、殺されてしまった。

明達の世代と、その子達の人生を奪ったのは他でもない、一鬼達だ。


 敬吾が言ったように、確かにこの本には一鬼に対する多くの期待が込められている。

彼が愛梨を救ったことに対する柿坂亮と柿坂愛子の感謝、その力に対する敬吾の恐怖と期待、明の執着と後悔と贖罪……全てが混ざり合い、この本は生まれた。

切掛けは柿坂亮と愛子が彼と愛梨のことを物語にしたいと言い出した時で、それから既に二年程が経つ。

二十年以上の年月という余りにも長い道筋を記したものであるが故に、冗長とも言えるその丁寧さは、しかし彼の心に熱を持たせる。


 読めば読む程に、一鬼が人間として過ごした日々が思い出されるのだ。

そこにあったのは九割の窮屈さと苦痛、悲しみ、そして一割の喜びと暖かさだった。

人間の基準に沿って生きようとして何度も苦しみ続けた彼だが、それでも周りの者達との関係の中で、いくつもの色を見つけた。

たった少しの色ではあったが、それが彼に人間の世界で生きることを諦めさせなかったのだ。


 しかし、それももう過去の話だ……終わった物語だ。


 彼はもう人間ではなく、超越者なのだ。




「この本に込められた願いも、憎悪、望郷も……もう終わったものだ。終わってしまったんだ……俺は父さんの望んだ鬼にはなったが、美空が望んだ兄にはなれなかった。佐村さんの望んだハンターになる道も振り切った。柿坂さん達が望んだ未来も、潰えた。愛梨……お前が望んだ未来も、もう来ない。だが、俺はお前を忘れない。振り切らない。最後までこの心臓に抱き続けよう。それが、俺の選ぶ道だ。俺は―――生きる」



 大切な者達との思い出、そしてあったかもしれない未来への期待と願いが込められた本を閉じると、一鬼はその眼を細めた。


 その血のように赤い眼から止めどなく溢れ出す涙は、様々な感情が溢れだした結果だ。

大切な者達を失った悲しみ、その原因を生み出した己への憎しみと無力感、まだ生きている彼の生きる意味達。

彼が救った者達の存在。彼がその力で以て狂わせた存在。圧倒的な差で壊した存在。憧れさせた存在。

多くの繋がりがあって、今彼はここに居る。多くを得て、失って、奪い、傷つけ、ここに立っている。


 過去に戻ることなどできないし、それを望むのが愚かなことは一鬼も理解していた。

もしも戻れるのならば、彼は戻るだろう。次こそはその力で以て、意思で以て可能な限り拾う為に。救う為に。

だが、それは叶わない。それだけは……逆行だけはいかなる者にも成し遂げられないものなのだ。可能であってはいけないのだ。

世界が唯一あらゆる超越者に逆行を許さなかったことには意味がある。


 世界は進むことしか知らないのだ。

世界は前に進むことしかできないが故に、逆行という欲望を受け入れることができないのだ。

誰にも捻じ曲げることができないその理こそが、世界に一鬼を産み落とさせた理由でもある。

逆行できたならば、世界は一鬼など産み落とさずに妖の誕生の前に戻り、その存在を無かったことにしただろう。

妖が歩んだ全ての道も、紡いだ物語も、絆も全てを無に帰しただろう。


 だが、そうはならなかった。世界にそれは叶わなかった。


 何故ならば、世界は進むことしかできないから。




「見ていてくれ、皆―――俺は進む。この色を失った、軽い世界で……重さを求めて生き続ける。この―――」



 一鬼は涙を拭うと、片手を振り、虹色の炎で以て光の塔を焼き尽くした。


 数百キロに及ぶ高度を誇る建築物はほんの一瞬で燃え尽き、あっと言う間に彼は足場さえも失う。

だが、宙を浮くことも歩くことも可能である超越者にとって、それは些細なことでしかない。

一鬼の再生の為だけに容易されたその建築物は、既に十二分に役立った。

彼が完全に復活した今はもう必要のないものでしかないのだ。


 だから、一鬼はそれを滅ぼし、そのまま後ろを振り返った。

そこには蒼炎の超越者が居る。黄金の超越者が居る。黄色の超越者も、紅蓮の超越者も、藍色の超越者も、彼が受け入れた最後の妖狐も。

その全てが彼の罪の証であり、今は亡き兄もまた、彼という存在の為に生み出された被害者だ。

多くが彼によって狂わされ、壊れ、死んでいった。悲しみを背負い、憎しみに駆られた。

全てを受け入れ、彼は生きねばならない。苦痛にもがき、それでも生き続けねばならない


 それが、最後の最後で彼が見出した、義妹の怨念なのだから。




「――――仲間達と共に」



 世界を怨念から解き放った今、一鬼の生きる意味は彼の心臓に宿る怨念のみだ。

生者も死者も怨念を持ち、それが彼に心臓に向かっていく。その願いも苦悩も全てをぶつける。

彼はそれを心臓に抱き、言い続けていく。皆の残した呪いと願いを背負い、様々な色を見ていく。

贖罪は終わらない……彼の心から罪悪感は消えない。永遠の贖罪が、今から始まる。


幸い、一鬼は一人ではない……超越者という同類が居る。彼についていける強者が居る。

彼は静かに手を己が心臓に置き、彼らを見た。その行動を理解できると信じ、理解し、試した。

一瞬で彼らはそれに応え、同じように心臓に手を置く。その行動で以て誓いの強さを示す。

心臓を、そして命を賭けた誓いを示すその行為が破るのは、文字通り命を捨てることだ。

彼はその行為で以て、己が最後まで諦めずに生き続けることを誓う。逃げずに、最後まで彼らの存在理由であり続けることを、約束する。


 それは酷く悲しいことだ。元来覚悟しきれることではない、非情なものだ。

だが、一鬼に選択肢はない。それを拒絶する権利も、意思もない。それしか彼にはできない。

間違って、間違って、間違い続けた先に彼が辿り着いた場所がここなのだ。

壊して、魅了して、嫉妬させて、救って、その果てに彼が生み出したのがこの結果なのだ。




「行くぞ―――次のステージが俺達を待っている」



 皆が静かに頷き、進んでいくのを傍目に、ただ一人……碧だけが少しばかりの困惑と多大な悲しみを込めた新緑の眼で一鬼を見る。


 そこには、もっと弱くあっても良いのだという彼に対する妥協の提案が多分に含まれているが、彼はそれを笑顔と共に拒絶した。

彼には妥協など許されない。苦しんで、苦しんで、苦しみぬいた果てにこそ彼の贖罪は始まるのだ。

弱さに溺れた瞬間、彼の贖罪は贖罪ではなくなる。ただの贖罪というラベルだけが独り歩きする。

彼はそれを許せない。己がそうなることを許せない。


ただ、心配している碧の愛だけを静かに受け止め、一鬼はその手を伸ばした。

碧の眼がその手と彼の顔を交互に見、潤んでいるその新緑の眼に、その意味の予想を映す。

彼はそれが正解であることを静かに頷いて示すと、そのまま彼女がそれに応えるのを待つ。

若干の震えが見受けられる手でゆっくりと碧がそれに応えた瞬間、彼は向きを変えて歩き出した。


 そして、それについていく形で歩き出す碧の掌が、ほんの少しばかり握る力を強めた瞬間、彼は微笑んだ。




「行くぞ、碧」



若干遅れながらも彼の隣に立とうとする碧の行動に、彼を待っている他の超越者達に、彼は己が存在理由を押し付けている。


彼らもそうしている。彼を必要とし、生きる理由として利用している。己が信念の拠り所としている。

本当は皆一人で生きていけるというのに、それだけの強さがあるというのに、敢えて仲間と共に生きようとしている。

彼らは世界との繋がりなど望んでいない。彼という存在の精神にのみ繋がりを持ちたい。

皆が皆、己が信念と望みの為に生きている。その為にこうして集っている。


 その全てが一鬼という世界が産み落とした鬼の為に用意された存在だった。

彼に多くの強さと弱さを教え、導く為の布石であった。その成熟を見守る保護者であった。

共に生きていく仲間であった。傍に寄り添う家族であった。縛り続ける呪いであった。殺す為の毒であった。

その全ての事実を受け入れた上で、彼はこれから生きていく。その存在の拠り所となり、己も彼らを拠り所とする。


 彼の持つ虚無はそれでも埋まらない。何を以てしても、埋めることができない。


 だが、それでも良い。それでも彼は生きる。生きていける。




「ええ、行きましょう……一緒に、何処までも」







彼はもう―――孤独ではなかった。










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