第七話
太陽という火の星は、全てを焼き尽くさんとする圧倒的な火力を持つ。
しかし、実際にその圧倒的な火力を誇るのは太陽ではなく、その周りに渦巻くコロナである。
太陽の表面温度は一万度に達しはしないが、その周りにあるコロナは百万度にすら達する。
コロナとは即ち太陽の周りを渦巻く自由電子の散乱光であり、プラズマの一種だ。
何故それがそこまでの高熱に達するのかはまだ解明されていないが、驚異的な熱量であることに違いはない。
太陽核はそのコロナすらも上回る高温を誇るが、そこに到達する前にほぼ全ての物質は燃え尽きる。
しかし……そうではない物が存在するのも確かだ。
燃え盛る星の表面を食い破って、それは現れた。
深紅の炎で太陽の一部を焼き払い、コロナを突破し、そのまま太陽から脱出したそれは深紅の火の鳥だ。
太陽の火力を物ともせずに脱出したそれは無重力の中で羽ばたき、そのままはるか遠くにある青い星目掛けて飛んでいく。
深紅の炎はかつて同じ場所から飛び立った蒼の骸骨の何十倍もの速度で、その前方にある蒼い光に向かって、それは向かう。
そして、少ししてその二つが合流したかと思うと、それらはそれまで以上の速度で青い星―――地球目掛けて飛んで行った。
目を覚ました美空が最初に見たのは、憎らしい程に綺麗な夜空だった。
どんなに手を伸ばしても届かない空は、届かないと知りながらも美しさで彼女達を魅了する。
まるで一鬼のように、彼女の心を掴んで離さない。空の超越者の齎す光と雨によって育った彼女は、もうそれなしでは生きていけないのだ。
だから、光を守護する超越者達に立ち向かった。白雪と同化したことを喜んだ。
人間としての己と決別する為に、父を殺した。
「っ!……腕……治って……ない……んだ」
『美空、目が覚めたのね?』
美空は体を動かすことすら面倒に感じる程の疲労と共に感じる左腕の喪失感に、声を震わせた。
彼女が目覚めたことで白雪の良心が反応するが、しかし彼女はそれを黙殺する。
良心と向き合えば、彼女に迷いが生じる。白雪としての彼女と、神谷美空としての彼女が剥離する。
そうなれば、もう超越者には立ち向かえない。父を殺した事実に耐えられない。
進む為には、彼女は白雪であり続けるしかなかった。それしか、彼女の心が生き残る道はないのだから。
そっと美空は筋肉痛に似た怠さの残る右腕で左腕があった場所に触れる。
治癒しない左腕は綺麗に根本から切断されたままで、やはり治癒していない。
妖が皆持つ治癒能力は、脳と心臓以外の欠損を自己修復できる程のものだというのに、治癒していないのだ。
九尾である彼女ならば、肉体の欠損は数分あれば完全に修復できる。
だというのに、彼女が受けた傷は全く修復していなかった。
「……ここは……どこ?」
「ここは妖狐の集落の跡地よ……貴方、本当に白雪なの?」
「! 碧さん……いや、姉さん……」
美空は己の疑問に答えた存在に気付き、今までその気配を察知できなかったことに驚いた。
燃え盛る緑色の炎を焚火替わりにしながら、碧は地面に腰かけている。
その気配は全く感じられず、超越者のみが可能とする完全な気配の遮断を利用しているのだと、彼女はすぐに察した。
白雪としての記憶の中で、白雪が同じことを不完全ながらも行ったことがある。
この気配遮断があってこそ、白雪は一年前不完全な状態であった紫鬼達から身を隠せたのだ。
そうでなければ、いかに『虹色の肋骨』と化して紫鬼達が元来の何万分の一処か数十億分の一レベルまで弱体化していたとしても、白雪は隠れられなかっただろう。
『虹色の肋骨』はかつて死亡した妖を亡霊という形で蘇らせるものではあるが、同時にリミッターでもあり、超越者の能力を大いに削ったのだ。
だが、それも一鬼が宿主となれば簡単に無効化されてしまう為、実の処ブルー・シャーマンを『虹色の肋骨』に加えるのは賭けであった。
ブルー・シャーマンは純粋な戦闘力を七尾程度に留め、その代わりに残りを全て別の力に割いた超越者だ。
その能力はある意味白雪にとって最も脅威であり、紫鬼と並んで恐れるべき存在であった。
『虹色の肋骨』は宿主から摘出された途端に力を失う為、妖が宿主と一緒に捕食しない限りは、妖を生かしたまま他の誰かに移ることはない。
だが、ブルー・シャーマンならば『虹色の肋骨』を摘出し、別の誰かに移植できてしまうかもしれないのだ。
そんなブルー・シャーマンを『虹色の肋骨』に加えるのは賭けではあったが、しかし一鬼を覚醒させる為には、どうしても必要だった。
「貴方……もしかして、人格が混ざっているの?」
「だったらどうしたと言うの?……っ……あの黄金の超越者は?」
「私が貴方を抱えて離脱するのをただ見ていたわ。最初からまともに戦うつもりはなかったみたいね」
「そう……」
美空はゆっくりと体を起こして、近くにあった木にもたれかかった。
一年前に紫鬼に殺された時もそうだが、彼女は超越者には絶対に勝てない。
紅鴉を太陽に送ったのも、結局は深紅の超越者が彼女とまともに戦うつもりがなかったからであって、そうでなければとっくに殺されている。
超越者に格下と見られていることにイラつく彼女ではあるが、その油断が彼女を助けたのも事実。
紫鬼のように何の迷いもなく殺しに来られては、一年前のように何もできずに殺されるだけだ。
光の塔がある方向を見遣りながら、美空はいかに超越者が化け物であるかを改めて思い知った。
光の塔を作ったのも、一鬼のバックアップを取ったのも、恐らくはブルー・シャーマンであろう。
彼女の理解の及ばぬ領域に居る蒼炎の超越者は、戦闘力そのものは低いが、それ以外は圧倒的だ。
紫鬼を除けば、最も一鬼という空の超越者に近い超越者は間違いなくブルー・シャーマンだろう。
蒼炎の超越者には、他の超越者にはない別次元の強さがある。
そして、その強さが今一鬼を再生させているのだ。
「腕……治らないわね。金虎にやられたの?」
「金虎?……ああ、黄金の超越者ね。そうよ……あれを月の裏側まで飛ばしたと思ったら、ほんの数秒で戻って来てズバン!……笑えないわ」
「……一年前、紫鬼は私にこう言ったわ。光の領域に達しない限り、金虎も藍龍も殺せない、と。つまり、そういうことなんでしょうね」
「光……そんなもの……無理よ」
美空は絶望感に苛まれながら、残された右腕で己を抱いた。
彼女程度では超越者に刃向うことすらできないことを改めて思い知り、恐怖がぶり返したのだ。
紅鴉は彼女に殺気をぶつけはしなかったが、金虎は違った……その狂気を振りまく殺意だけで、彼女を降した。
例え左腕を失わなかったとしても、彼女はその殺意に気圧されて逃亡していただろう。
それ程に黄金の超越者の放った殺気は絶望的だった。圧倒的だった。
美空には、超越者の一人一人が本当に世界を滅ぼし得る力を持っていることを理解できる。
少なくとも、精神を持つ生命は全て消されるだろう。成す術もなく、怨念によって消滅する未来しか見えない。
人間が生み出した近代兵器をものともせず、おまけに存在するだけで周囲の生命を全て発狂死されられるのだ。
これ程に恐ろしい存在はいない。彼らは誰とも戦うことなく、ただ世界を回るだけで世界を滅ぼせるだろう。
このような生命をこの世界が生み出したということが信じられず、彼女はただ震える。
「美空……貴方は何故神谷明を殺したの? 貴方は白雪ではなく、美空でしょう? 混ざっているとはいえ、決断したのは貴方だった筈」
「……人間の世界を捨てる為よ。逃げ道があれば、私は逃げてしまう。あの光のない世界で、じわじわと死んでいく。だから、捨てたの。覚悟する為に。逃げない為に」
「そう……一鬼が誰よりも守ろうとした二人の人間の片方を殺して、一鬼に会いに行くなんて……本当に厚顔無恥ね。貴方はやはり私の妹だった。それ以外の何者にもなれなかった……私達妖狐は、この世界に生きていてはいけないゴミなのよ」
「なら、私を殺して貴方も死ねば良いじゃない。一鬼を二度死なせた貴方の説教なんて聞きたくないわ」
「それができれば苦労はしないわ。でも、私は一鬼との誓いを守る義務があるの。決意があるの。どんなに苦しくても、辛くても……絶対に生きる。美空を守る。それが、一鬼が私の心臓に託した怨念だから」
悲しげな笑みを浮かべて一鬼のことを話す碧に、美空は苛立った。
そこまで一鬼を思える碧が彼女は羨ましかった。憎かった。
全ての始まりである姉の暴走さえなければ、例え妖狐が滅んでも彼女は……白雪は超越者になれただろう。
妖狐を滅ぼせるのは超越者だけであり、姉の暴走がなくとも間違いなく超越者が妖狐全滅の為に送り込まれた筈だ。
それ程に妖狐は憎まれていた。それ程に愚かで、空虚で、嫉妬深い一族だった。
妖狐は力のみで生きて生きた一族だからこそ、超越者というそれ以上の力によって滅ぼされたのだ。
例え碧の暴走がなくとも、紫鬼以外の超越者によって妖狐は滅ぼされ、白雪の存在を彼らは知っただろう。
そこから超越者としての生が始まる筈だった。一鬼と触れ合える日日が始まる筈だった。
だというのに、姉の暴走で全てはひっくり返され、何もかもが滅茶苦茶になったのだ。
そこまでしておき、更には一年前に再び一鬼を死なせておきながらも想い続けるその身勝手さに、彼女は苛立つ。
おまけに、その姉に緑の超越者の席を奪われたことも相まって、彼女はただ憎むことしかできない。
「ふん……流石殺戮者と呼ばれた女は一味違うわね。血の味しかしないわ」
「そうね……私は殺すことばかりで、結局誰も守れなかった。だというのに、白雪……貴方が座る筈だった緑の席を与えられて、こうして生きている。貴方の怒りも尤もよ」
「だったら、死になさいよ。今すぐに死んで、その鬼火を私に頂戴! そうすれば、私は超越者になれる! 一鬼の傍に居られる!」
「無理よ。もう貴方に超越する資格はないわ。寄生するだけのつもりでは、超越者の精神は生まれない。だから……貴方には無理なの」
「だったら、何で姉さんは超越したの!? 一鬼に贔屓されていたからでしょう!! 何で私じゃないの!? なんで貴方なんかが……選ばれたの……?」
美空は溢れ出て来る涙を見られぬように、膝を抱えて顔を伏せた。
白雪の精神と融合した為に白雪でもあり、神谷美空でもある彼女は、もう人間に戻れないことを理解している。
父を殺し、彼女は完全に白雪と融合した……甘いことしか言わない良心ではなく、燃え盛る執念と。
彼女の中には三つの精神があったのだ……神谷美空、『一鬼を信じられなかった白雪』、そして『一鬼を信じたいと思った白雪』の三つの精神が。
それによって今まで彼女の中で燃え盛っていた炎は益々火力を高め、彼女を焦がす。
美空も白雪も、碧が一鬼に選ばれたことに納得していないし、できない。
碧こそが鬼を滅ぼした原因であり、白雪を超越者にできなくした張本人でもあるのだ。
神谷明さえ居なければ別の道もあったかもしれないが、現実は彼らによって一鬼と白雪は別離を強要された。
遺跡発掘に関わった者を皆殺しにしたことで、既にその復讐を彼女は済ませてはいる。
だが、まだ憎しみの炎は消えない。空虚さは消えない。
美空を白雪がバックアップとして選んだのは、半分復讐であり、半分相性だった。
美空の精神は非常に白雪に似ており、精神のバックアップを取るのが比較的容易だったのだ。
更には、本物の白雪が失敗しても、美空として生きていくことで一鬼の傍に居ることができるというメリットも大きい。
精神が似ているということは、少しずつ変化していけばすり替わるのが簡単だということだ。
いずれ美空の振りをして白雪が完全に精神を乗っ取り、そこから一鬼と共に生きていくというプランもあったのである。
それら全てを無に帰したのは他ならぬ碧だ……憎くない筈がない。
「私が選ばれた理由は、私が一鬼の罪の証だから……それだけなの。それでも、あの子は私を愛すると誓ってくれた。守ると言ってくれた。だから、私はそれで良いの。大した理由なんてなくても」
「私は……納得できない。そんな理由で負けたなんて、納得できる筈がない。私だって罪の筈なのに。なんで……」
「……貴方は、一鬼の大切な者達を悉く殺しておきながら、まだその差を理解できていないの?」
「私は確かに高橋一矢も死なせた。佐藤羽月も、柿坂愛梨も、妖も皆殺した。だけど……姉さんだって、沢山殺したじゃない」
「数の問題じゃないわ。貴方が殺したのは、一鬼にとって大切な者達だった……だから、一鬼は受け入れるのではなく殺すことで終わらせることを選んだのよ」
そう、確かに数の問題ではないだろう。
殺した数ならば、間違いなく碧よりも白雪の方が遥かに多い。
碧が殺したのは精々二千程度の妖だが、白雪は残りの妖全てと数千人単位の人間を殺している。
人間と妖の殺害数を合わせれば、既に一万を超えているかもしれない程だ。
その中で一鬼にとって大切な者達を殺したのだから、彼に憎まれても仕方ない。
白雪にとっての復讐相手達は、彼にとっての親しい者達なのだから。
それでも白雪は復讐を実行し、二十年前の怨念で死ななかった者達を一人一人発狂死させていった。
更には、その次世代である一矢、羽月、愛梨達を『虹色の肋骨』の戦いに巻き込み、死なせている。
彼女が一鬼に憎まれない方が不思議な程に、彼女は一鬼の周りの人間の人生を狂わせたのだ。
その原因が己にあると知った一鬼が取る行動は、復讐を込めた決別しかない。
間違っても、大事な者達を殺した白雪を受け入れるなどあり得ないのだ。
それこそが白雪と碧の違いであり、選ばれたか否かの違いでもあった。
「分かってる。分かってるわ……だけど……納得できない。私だけ……なんで」
「私が言えたことではないことは承知しているけれど、言うわ。貴方がどんなに悲劇のヒロイン染みたことを言っても、一鬼を独占する為に多くの物の運命を捻じ曲げたのは変わらないの。私とあなたは屑なの……幸せを願うことすら許されない程にね」
「……貴方さえ居なければ、こんなことにはならなかったのに。碧さんさえ……姉さんさえ居なければ!!」
「そうね。私が貴方の未来を狂わせたのは確かよ。でも、貴方も多くの者達の運命を狂わせたわ……被害者であることは確かだけど、加害者であることから逃げないで」
「っ……私は……私は……!」
美空は己の逃げ場が何処にもないことを改めて実感し、そのまま押し黙った。
神谷美空としての己を捨て、白雪となることを選んだ彼女ではあるが、その決意は脆い。
常人よりも遥かに強い決意ではあるものの、しかしその程度では超越者に立ち向かうには脆過ぎた。
その点では、確実に美空も白雪も碧に劣っている。八尾の時ですら、自ら紫鬼達の元に赴いた碧は恐怖に負けていなかったのだから。
美空も白雪も、同じ状況になれば間違いなく真っ先に逃げていただろう。
当時は紫鬼もブルー・シャーマンも健在で、はっきり言って勝ち目は零だったのだから。
事実、一鬼が助けなければ、瞬きする間もなく碧は紫鬼に殺されていた筈だ。
それだけの力の差が超越者とそれ以外の存在の間にはあり、もはやその差は埋められない。
才能があるないという問題ではない……そもそもが、存在している次元自体が異なるのだ。
どんなに不平等だと泣き叫んでも、現実は変わらない。
超越者は圧倒的な力を得る代わりに、無限に等しい怨念を背負い、その重さに耐える者達だ。
今美空の前に居る碧は一鬼が様々な贔屓をした為にその必要はないようだが、その代りに十尾程度の力しか持たない。
重さに耐えている者達は、その遥か上を行っている。痛みと引き換えに、力を得ている。光と触れている。
例え彼女が超越者になれたとしても、碧のような形でない限りは、発狂してすぐに死ぬだけだろう。
結局は、精神力の格の差故に彼女達はこうして負け犬になっているのだ。
「超越者は逃げないわ。その強大な精神で以て立ち向かう。そこに収まりたければ、それらしいことをしたらどうなの? 超越者になるから、強くなるのではなく、強いから超越者になる……一鬼はそう言っていたわ。他でもない、強者達を選んだ一鬼が、ね」
「……私は貴方に劣る、と言いたいの? 神谷美空という私も? 白雪という私も?」
「そういう意味ではないわ。だけど……貴方は間違いなく超越者に劣る。その恐怖心を克服できない限りは、貴方は超越者にはなれない」
「一鬼の贔屓で超越した癖に偉そうに……そういう貴方は、他の超越者達が怖くないの?」
美空は顔を上げて、碧に問うた。
今まで一度たりとも超越者への恐怖に巻けなかった姉に、本当はどうだったのかを尋ねる為に。
本当は恐怖ですぐにでも発狂死しそうな程に恐ろしかったのではないか?……そんな言葉が出るのを、彼女は期待していた。
その言葉が出たならば、彼女も碧も実際はそこまでの差が無いと安心できるからだ。
非常に後ろ向きな希望ではあるものの、彼女は姉が弱さを曝け出すことを期待している。
そこにつけこんで、同じ場所まで引き摺り下ろしたかったからだ。
「勿論怖いわよ。でも、それに押し潰されはしないわ」
「……どうして?」
「押し潰されたら、もう一鬼に会えないじゃない。触れ合えないじゃない。そんなのは嫌なの。だから壊れない。私は一鬼さえ居てくれたなら、何度だって立ち上がれるから」
「っ……」
『姉さん……』
綺麗な笑顔で言い切った碧に、美空は強い嫉妬を覚えた。
ここまで強い想いを抱ける姉が眩しく、妬ましく、憎く、ただ彼女は己の中で燃え盛る嫉妬の炎に焼かれる。
その嫉妬の炎で姉を焼き尽くせればなど良いのだという願望を抱きながらも、彼女は苦しむ。
彼女では姉程強く一鬼を想えない。ただの依存愛であることに変わりはないが、その強さがまるで異なる。
同じ状況に立たされたならば、彼女は容易に諦めるであろうに、姉は突き進めるのだ。
その差に苦しみ、姉に嫉妬と憎しみを向けながらも、美空は己が酷く醜いと自覚した。
結局彼女は碧に嫉妬するだけで、何一つそこに追い縋ろうとする努力をしなかったのだ。
努力もせず、ただ文句だけを言うのは簡単だが、情けない。愚かで、実りが無い。
どんなに嫉妬しても、憎んでも、動き出さない限り現実は変わらないのだ。待っているだけでは、何一つ得られないのだ。
一年前、姉は行動した。彼女も行動した。だが、結果として一鬼は姉を受け入れ、彼女を拒絶している。
行動しても変えられない現実があるというのに、行動せずして何かを捻じ曲げようとするのはナンセンスなのだ。
「……なん……で……そんなに、強いの?」
「私は強くなんかないわ。ただ一鬼を―――愛しているだけよ」
「あ……い?……うっ……あ……」
美空は、碧が語ったことの意味に気付いてしまった。
碧は一鬼のことを愛している……ただそれだけで、何もかも乗り越えようとしている。
実際は碧も、何度も苦悩した筈だ。本当は、何度も一鬼に縋りたいと思った筈だ。
だが、それでも姉は今こうして生きている。その眼にはっきりとした意思を宿して、一鬼を待っている。
完全に覚醒した一鬼が己を捨てないという確信が、姉にはあるのだ。もし捨てられたならば、そこで終わるという覚悟も、姉は持っているのだ。
それに比べて、美空……白雪はただ一鬼を独占することしか考えていなかった。
独占さえできれば、それまでの過程などどうでも良かった。だから、大勢が死ぬであろう道を選んだ。
『虹色の肋骨』という一鬼をある程度まで再生させる為の駒達を用意し、結果として千人以上の人間が犠牲となっている。
だが、彼女には一鬼に全てを話すという選択肢もあった。全てを話して、向き合うという方法が確かにあったのだ。
碧ならば恐らくその道を選んだだろうが、白雪が選んだのは別の道である。
一鬼と向き合うのが怖いのはどちらも同じだが、碧は他人の心に入り込むのが巧かった。
それに、姉は一度受け入れられたという前例がある為、彼女に比べて自信はある筈だ。
だからこそ、姉は彼女とは違う、一鬼との対話を選べる。そこから、彼の心に入り込むだけの器用さがある。
それすらも持たない白雪には、その選択肢を選ぶ勇気はなかった。
結局、彼女はあらゆる面で姉に負けているのだ。
一鬼を信じ切れなかったのは同じ筈だが、信じていた度合は違ったようだ。
「そう……だったんだ……」
「……白雪?」
「放って……おいてよ……今は……話したく……ない」
『美空……』
良心が同情を多分に含む声音で語り掛けて来るのを無視しながら、美空は静かに泣いた。
美空も白雪も、結局は碧には勝てないのだ。
いつだって碧の方が巧くやる。いつだって、期待は彼女ではなく一鬼や碧にある。
翡翠は碧に多くを期待し、白雪を平凡として扱った。神谷明と夜空も一鬼に多くを求め、美空を平凡として扱った。
彼女はいつだって姉と兄よりも期待されず、ただ甘やかされるだけで、何一つ勝てない。
成績で勝った?……それを心の底から喜んだ兄の姿に、益々己が矮小に見えただけだ。力で姉に勝った?……その直後に、紫鬼に殺されて彼女は死んだ。
何一つ白雪と美空は彼女達の兄と姉に勝てていない。
何かしらの能力で勝っても、それを無に帰す程の人格面での差が、格の差が、彼女を苛む。
美空も白雪も完全に蘇った一鬼に受け入れられないという恐怖があるからこそ、完全に再生するまでにそれを止めようとしているのだ。
だが、碧は待ち続けることを選んだ。一鬼が帰って来るのを信じていたからだ。
それだけの差があって、彼女が己ではなく碧を選ばれた理由が何かを問うのはナンセンスであった。
「私って……本当に……バカ……」
その理由は、他でもない彼女自身にあったのだから。
煌々と燃え盛る虹色の炎をまき散らしながら、一鬼は空を見上げた。
高高度にある光の塔の頂上は成層圏の上部にあり、その高さは高度数百キロメートルを超える。
数百キロメートル以上に及ぶ高さの建造物を生み出せるブルー・シャーマンの能力は流石としか言いようがない。
ここまで馬鹿げたスケールの大きさを見せつけられては、誰もが認めざるを得ないだろう。
超越者は世界を滅ぼし得る程の能力を間違いなく所持している。
その能力を発揮するのは、一鬼を守護する為のみであるのが、ある意味救いであろう。
これ程の力を持つ者達が好き勝手に暴れたならば、地球は疎か、いくつの星が消えることになるか分かったものではない。
馬鹿げた話ではあるが、超越者達それぞれが星を破壊し得る力を持つのは事実なのだ。
最弱である碧ですらも、その鬼火を解き放てば緑色の炎で以て星を燃やし尽くせるだろう。
それだけの力が、全ての超越者にはある。
「さて……金虎、言い訳を聞こうか?」
一鬼は背筋をぴしりと伸ばして正座している金虎を直視すると、そのまま腕を組んだ。
彼は黄金の超越者が美空達に危害を加えないと信じて送り出したが、結果として美空は片腕を失った。
ただ失うだけならば再生能力を持つ妖にとっては大した問題ではないが、やり過ぎだ。
いかに白雪と融合していたとしても、美空では腕一本を失う恐怖に耐えるだけの胆力はない。
格下ばかりを相手にしてきた白雪も、はっきり言って惰弱だ。
金虎はそんな美空の片腕を何の躊躇いもなく奪った。
このまま行けば、確かに美空は光の塔を目指せなくなるだろうが、手荒過ぎる。
美空の心の弱さは一鬼も良く知っている為、今回の出来事で精神を更に病む恐れがあった。
今は碧が傍に居て何とかしてくれているだろうが、しかしそれでも安心はできない。
白雪という異物が存在する限り、美空の精神はいつ崩壊してもおかしくないのだ。
その一旦を担うことになったかもしれない金虎の行動は危険である。
故に、一鬼はこうして金虎と話し合う必要があった。
「どのような罰も甘んじて受けましょう。ですが、ああするのが最も速い方法です」
「それは分かっている。だがな……金虎、お前は俺にまだ言っていないことがあるのではないか?」
「……貴方の予想をお聞きしても?」
「俺からすれば、お前は本気を出してはいなかった筈だった。だというのに、攻撃一回で美空達が逃げ出すのは不自然だ。殺気を放っていたとしても、然程のものではなかった。つまり……あれを退却させたのはお前の攻撃だ。なぁ、金虎……お前の攻撃でできた傷は―――再生するのか?」
一鬼の心配は正しくそこにあった。
いかに金虎と美空の間に埋められない絶望的な差があるとしても、怯え過ぎなのだ。
月の裏側に一度飛ばされにも関わらず、そこから数秒で戻ってきたというのも関係はしているだろうが、問題はそこではない。
結局一鬼の願いを守っている超越者は、彼女を殺さない。それでも、美空は怯えた。
はっきりと気配に怯えが出てしまう程に、何かに絶望したのだ。
「超越者ならば可能でしょう。私の能力の一つ―――再生殺しは超越者以外の再生能力を完全に無効化しますので」
「……それを美空に使ったのか?」
「はい。再生するという大きな保険を失えば、腕一本すら大き過ぎる損失。それを知ってしまえば、恐怖は倍増し、あの程度の殺気でも屈します」
「そうか……お前も腕一本失う覚悟はできているのだろうな?」
「勿論です」
何の迷いもなく覚悟を示す金虎に、一鬼は呆れた。
金虎は最初から腕一本を対価にすることを覚悟して、美空の腕を奪ったのだ。
その頑なな信念と覚悟は確かに紫鬼に似ている。どんなに弟に憎まれても、その命を脅かす者を全て排除しようとした兄に。
ブルー・シャーマンの言ったことは間違いではなかったのだと改めて気づかされ、彼は内心溜息をつく。
彼は確かに金虎に対立できる者であることを求めてはいるが、一回目から中々にキツイものを持ち込んでくれた。
そもそも、金虎を送り出したのは彼であって、この件に関しては責任があるので怒るに怒れない。
「ならば良い。お前の判断は間違ってはいない……もう少し平和的な方法でやって欲しかったものだが」
「……罰をお与えになられないのですか?」
「ああ、与えない。お前が自分で自分に罰を与えるのも禁ずる。次は、同じことをするな」
「何故かお聞きしても?」
「お前は俺との約束を破ってはいない。ただ、その方法が行き過ぎただけだ。今回に限っては俺の詰めの甘さも関係している。よって、お前だけの責任ではない」
金虎がどのような手段を取るか、一鬼はしっかりと予想していなかった。
例え、実質初対面であり、まだ多くを知っていた訳ではなかったとはいえ、それが今回の問題を引き起こしたのは事実だ。
一鬼は金虎がどういう傾向にあるかは既に理解していたし、腕一本くらいを奪うことも予想していなかった訳ではない。
だが、その一撃がまさか不治の傷になるとは思ってもいなかった。
己の詰めの甘さを悔いながら、一鬼は燃え盛る虹色の炎を歪ませる。
「甘い……その甘さに妖狐がつけこんだことをお忘れか?」
「何とでも言え。俺は、お前の言う通りに生きる人形ではない。お前達から多くを学びはするが、お前達の模造品にはならない。俺は俺だ。お前はお前だ。いかに似ている部分があれども、違う存在であることを忘れるな」
「承知しています。ですが……本当に宜しいのですか?」
「何度も言わせるな。この件ではお前を罰しはしない」
「……分かりました」
渋々頷いた金虎に内心呆れながらも、一鬼は溜息をついた。
金虎は美空を傷つけたことに対して、一切の罪悪感を抱いていない。
黄金の超越者が感じている罪悪感は一鬼に対するものだけで、美空に対してのものではないのだ。
だからこそ、彼は罰を与えない。形のある罰を与えるよりも、何も与えない方が罰になると分かっているからだ。
結局金虎も藍龍と同じく、光以外はどうでも良い典型的な超越者でしかない。
かつて碧が言った言葉は本当だったのだと気付かされ、一鬼は複雑な気持ちになった。
妖も超越者も己の関心のない者には無頓着で、その犠牲を少しも顧みない嫌いがある。
超越者は醜いと判断した者を間引くこともあると、かつて碧は忌々しそうに語った。
今回はまさしく美空と白雪がこれに当て嵌まり、光に寄生する屑だと認定されたのだろう。
そうでなければ、弱者相手に態々恐怖を植え付けるような真似をする筈がないのだ。
「金虎、白雪は再びここに来ると思うか?」
「今回で恐怖に負けたようですが……来るでしょう。妖狐は一度味わった蜜を容易く捨てられない。それは、厚顔無恥な殺戮者を守った貴方が一番ご存じの筈だ」
「……そうだな。金虎、そこで頼みがある」
「何でしょうか?」
金虎の言った通り、間違いなく美空……否、白雪は再びやって来る。
ただ追い返すのは簡単だが、それでは根本的な解決にならない。
このままの速度ならば、一鬼が完全に再生するのには後五日は必要だ。恐らくその五日の間に再び白雪は来るだろう。
その時まで、ただ無防備に待ち続ける必要はない。こちらから動いて驚かせるのも良いだろう。
瞬間移動が可能な白雪を拘束しておくのは不可能だが、殺すのは一瞬あれば十分だ。
美空を傷つけず、しかし白雪を始末する為に、彼は動こうと決めた。
「良いか? よく聞いてくれ―――」
燃え盛る虹色の炎が憎悪によって揺れるのを自覚しながらも、一鬼は金虎に一連の流れを説明するのだった。
美空……否、美空なのか白雪なのかも分からない少女が寝入ったのを確認すると、碧は空を見上げた。
藍色の空に浮かぶ星々は残酷なまでに美しい輝きを放ち、彼女に一年前を思い出させる。
一年前、丁度星空が同じように残酷な美しさを見せつけている下で、彼女は一鬼に裏切りを提案した。
ブルー・シャーマン達ではなく、己を選んで欲しいと言った結果、結果的に彼を激怒させたのはまだ記憶に新しい。
超越者を尊敬し、目指していた彼にとっては、この上ない侮辱だったのだろう。
実際、碧も誰かに一鬼を捨てて他の誰かを選べなどと言われたならば、その者を間違いなく殺している。
一鬼を捨てても、得られるものは彼よりも遥かに矮小で、醜いものだけだ。
選択肢は最初から一つしかなく、それ以外のものを選択肢として提案するのは、ただの雑音でしかない。
一年前に一鬼が彼女を殺さなかったのは本当に運が良かったのだろう。
「……貴方が思っている程、私は世界に愛されてはいないのよ?」
寝入っている美空にそっと呟きながら、碧は己の胸に手を当てた。
そこにある緑色の炎は、一鬼が贔屓で与えてくれたに過ぎず、元来の爆発的な力はない。
他の超越者との差は最低でも百倍……紫鬼達とは比べるのもバカらしくなる程に、彼女は弱かった。
ただの妖ならば一瞬で殺せるだけの力を得はしたが、所詮超越者には勝てない立ち位置は以前と変わらない。
白雪が羨ましがっている程、彼女は恵まれてはいないのだ。
他の超越者も恵まれているかと言われたならば難しい処だが、光に正当な超越者として選ばれた点はそう言えるだろう。
碧とは違い、彼らは元来の鬼火の爆発的なエネルギーを余すことなく発揮できる。
量だけで言えば、全ての鬼火は無限に等しいエネルギーを供給するが、瞬間的に得られる量はそれぞれ異なるのだ。
その差はまさしく生まれ持ったポテンシャルの差であり、超越者の間には隔絶した差があることを彼女は知っている。
それでも文句一つ言わずに超越者達はその差を受け入れているのだろう。
彼らには、彼女達にはない精神的な強さがある。負荷に対する圧倒的な耐性がある。
だからこそ、壊れない。どんなに苦しくとも逃げずに向き合い、その果てに勝利するのだ。
妖狐は所詮空虚な一族であり、元々超越者になる資格などなかったのかもしれない。
そんな一族から白雪という候補者が現れ、しかし実際に超越したのは碧であったのだから、何とも皮肉なものである。
しかも、その超越の方法も一鬼の贔屓による不完全なものなのだから、益々滑稽だ。
「……一鬼」
一鬼の名前を呼びながら、碧は光の塔がある方向を見遣った。
彼が完全に復活するのにはまだ暫く時間が掛かるだろう。
いかに超越者達でも、それよりも格上の存在である空の超越者を甦らせるのは簡単ではない。
完全に復活するまでは、少なくとも後数日は掛かる筈だ。
それまでに美空が再び光の塔に向かおうとしているのは明らかで、その間は眼を離さない方が良いだろう。
かつて白雪は不完全な一鬼を独占することを望み、碧は完全な一鬼を独占することを望んだ。
それこそが両者の大きな違いであることを、美空も白雪も分かっていない。その差が彼女達の未来を変えたのだと理解できないのだ。
彼女は一鬼が完全になった時に拒絶されることを恐れたが、しかしある程度覚悟はしていた。
酷く脆い覚悟であり、もしも一鬼に否定されていたならば、間違いなく精神は崩壊していただろうが、それでも覚悟はあったのだ。
白雪には、その覚悟すらもなかった。
だから一鬼と向き合うことも拒絶されることも恐れ、『虹色の肋骨』を利用したのだ。
そのようなことなどせずとも、一鬼は正直に全てを話せば受け入れてくれたというのに、白雪は彼を信じ切れなかった。
結果として千人を超える死者を出し、一鬼が白雪を拒絶する結果に繋がってしまう。
愚かな妹ではあるが、そうさせた原因の一旦は間違いなく碧にもある。
同じ過ちを繰り返すしか道が残されていない妹を彼女は監視せねばならない。
「……本当に、バカな子」
碧は寝ている美空に触れはしない……その資格も義務も彼女にはないからだ。
彼女の役割は憎まれながらも守ることであり、一鬼のように受け入れてやることではない。
白雪と美空の双方に憎まれていることは彼女も自覚しているし、その関係を修復するつもりはなかった。
彼女は二人に憎まれていても構わない。相容れなくとも良い。
結局彼女にとっては一鬼が絶対なのであって、それ以外はどうでも良かったのだ。
一鬼が指摘した通り、白雪に対する愛はある。
だが、それも一鬼に対するものと比べればゴミ同然であることを彼女は自覚していた。
確かに妹に対する愛はあるが、彼女にとっての光と比べれば塵芥でしかない。
彼女が真実に気付くのはいつだって全てが手遅れになった時だけで、覚悟ができなかった。
だが、今はそれをせねばならない。白雪を殺す覚悟も、一鬼達に白雪が殺される覚悟も、改めてしなければならない。
白雪はやり過ぎた……もう超越者の中に味方をしてくれる者は居ない。
美空と切り離されてしまえば最後、間違いなく白雪は八つ裂きにされるだろう。
それを可能とするブルー・シャーマンは今この地球上には居ないが、もしかしたら白雪が言った通り太陽の近くに居るのかもしれない。
そして、その程度の距離ならば恐らくは藍龍と金虎が何とかしてしまう。
再び光の塔に赴いた時が、白雪の終焉の時であろう。
「……私が言えた義理じゃないわね」
全ての元凶は己にあると、碧も自覚している。
彼女の暴走が妖狐の死期を早め、一鬼を殺した。
紫鬼はいずれ妖狐を滅ぼすつもりであった為、どの道妖狐は滅んでいただろう。
だが、少なくとも鬼の一族を道連れにするような結末にはならなかった筈だ。一鬼を死なせることにはならなかった筈だ。
いかに翡翠が未来を見通せる力を持っていたとしても、紫鬼の圧倒的な戦闘力の前では有象無象に過ぎない。
碧の暴走がなくとも、いずれ彼女も紫鬼に殺されていた可能性はある。
だが、少なくとも白雪が超越する資格を有していることを超越者の誰かが知り、保護した筈だ。
白雪にとってはそれが幸せな分岐であったことは間違いなく、彼女はその分岐を破壊しつくした元凶だった。
だから憎まれるのが当たり前であって、それを無理やりどうこうすることは彼女にはできない。
ただ憎まれ、嫉妬される……それだけが彼女に許された妹との絆だった。
星空を見上げながら、カナリーは溜息をついた。
既に白雪と碧を追い返して数時間が経過しており、夜が訪れている。
彼女が遊んでいた碧も金虎の一撃でダウンした白雪を連れて離脱しており、光の塔に踏み入ろうとする外敵は今の処居ない。
夜空に浮かぶ星々の中で動き続けているものがある。それを人々は流星だと思うかもしれないが、違う。
恐らく明日にでも人間達はニュースで知るだろう……動いている光の正体を。
「やれやれ……まさか、本当に腕一本を持っていくとはね。金虎にも困ったものだわ」
「それよりも、まんまと太陽まで飛ばされた紅鴉の方が問題です」
「別に良いじゃない? 元々誰かが行く必要があったのだから」
「私か金虎で事足ります……と言うよりも、貴方方では足手纏いです」
「……まぁ、否定はできないわね」
藍色の超越者、藍龍の言葉に苦笑しながら、カナリーは同志と向き合った。
彼女は一鬼が気に入るような美貌をしているという自信がある。
だが、それは飽くまでも藍龍を除いた場合であり、含めた場合は二番手になる可能性を否定できない。
鋭さの目立つ彼女とは違い、藍龍は非常に穏やかで柔らかさを感じさせる美貌の持ち主だ。
方向性が違う為、はっきりと比較することはできないが、彼女は藍色の超越者にだけは勝てる気がしなかった。
二百余年前と比べて格段に美しくなった碧ですらも、カナリーと比べれば美しさは劣るだろう。
しかし、藍龍だけは何かが異なり、カナリーが光を守る超越者であるならば、藍龍は一鬼の為の超越者であるかのようだった。
一鬼以外に対しては基本的に無関心で残酷な癖に、柔らかな笑みと包容力を感じさせる容姿が、その歪さを表している。
紫鬼も極端ではあったが、藍龍はある意味それ以上に極端だ。
藍龍は一鬼さえ望めば、他の超越者を何の躊躇もなく殺すだろう。
カナリー達も同じことをできはするが、藍龍程すぐに割り切れない。他の超越者を同志と認めているが故に、数瞬の迷いが生まれる。
だが、藍色の超越者にはそれがない。一鬼以外は本当にどうでも良いのだ。
そういう意味では、藍龍は紫鬼と同じと言える。
そういった一面があったからこそ紫鬼も藍龍を認めたのだろう。
「それよりも、実際に戦ってみてどうでしたか?」
「弱かったわ。半減した今の力でも手加減できるくらいに」
「そうですか……では、私も殺さないように気を付けないといけませんね。恐らく次は、私も出ることになるでしょうし」
「つまり……一鬼様は、金虎を動かすつもりなのね?」
「そうなるでしょうね。殺すだけならば貴方だけでも十分過ぎますが……塔を核で崩そうとするのは目に見えています。その処分は私がしましょう」
カナリーは藍龍の言葉に頷いて、その察知能力に素直に感心した。
藍龍は一鬼が次にどうするかを予想し、そこからどう動くべきかを考えているのだ。
サトリが人間の心を読むのとは違い、妖には妖の思考は読めないが、予想はできる。
藍龍はその部分で一鬼の九割以上の思考を予想しており、結果として二手三手先を考慮できる訳だ。
カナリー達では精々五割程度しか予想できないことを考えると、その精度は異常であった。
藍龍が一鬼の為だけに存在していると公言しているのも、伊達ではない。
カナリーからすれば羨ましいものだが、しかし全てが分かるのもダメだ。
超越者は互いの本質を見抜き、思考もある程度見抜けるが、それは同志であるからこそ機能する。
一鬼の思考の全てを知りたいという思いは彼女にもあるが、しかしそれを知りたくないという思いもあった。
全てを知ってしまえば、彼女は何一つ驚けなくなる。一鬼が不意に見せてくれる笑みさえ予想できてしまえば、その重さも価値も下落するのだ。
だから、分からない部分は今のままでも構わない……それが彼女の考えだった。
「分かったわ。それで……貴方は妹の方は受け入れられると思う?」
「滑稽ですね。答えの分かった問いでしょうに。貴方の予想通り、拒絶されるでしょう。私もそう願っています」
「……理由を聞いても良いかしら?」
「貴方も私も本質は尽くすことにあります。殺戮者は、一鬼様に必要な重さです。ですが……あの紛い物は既に振り切った過去。今更受け入れられる筈がありません。それに―――もう手遅れでしょうから」
綺麗な笑顔で言い切った藍龍に、カナリーは内心同意した。
碧は一鬼にとって必要な存在だ……背負うべき罪として、その心に深く刻み込まれている。
だが、白雪は罪の証ではあるのと同時に、彼にとって大切な者達を殺した憎しみの対象であった。
彼女達超越者からすればどちらも一鬼を死なせた原因であり、赦せない相手ではあるが、飽くまで彼らは一鬼の意思を尊重する。
それが再び彼に死を齎さない限りは、彼女達は彼の意思を優先する。
一年前、紫鬼がその信念に則った結果、一鬼を死なせたというのは皮肉なものだが、それが彼女達の基本的な姿勢だ。
「それはつまり……そういうことで良いのね?」
「はい。あれはもう癒着しています。引き剥がすのは無理でしょう」
「淡々と言ってくれるわね……一応は一鬼様の義妹さんなのよ?」
「所詮両親との絆を守るだけ為に守っていた存在……今となっては不必要な存在でしょう」
「それはそうだけど……貴方、本当に容赦がないわね」
カナリーは藍龍の物言いに呆れながら、翼を広げた。
藍龍の言葉は紛れもない事実ではあるが、しかし冷た過ぎる。
超越者は確かに一鬼以外に対しては冷徹ではあるが、中でも藍龍は極端に冷徹だ。
こうして並んで話しているのも、飽くまで一鬼が皆を必要としているからであって、もしもそれが不必要になれば、一鬼は全ての超越者を殺すだろう。
実際に一鬼が不必要だと判断したならば、彼女達は自ら鬼火を返上して死ぬ為、戦いには発展しない。
だが、もしも……もしも裏切り者が現れたならば、藍龍は容赦なく殺す。
それが白雪だ。妖狐として生まれ、資格を与えられながらも超越できなかった紛い物だ。
確かにカナリー達は白雪と碧のことを排除すべきだと考えてはいるし、憎んでも居る。
それに対して、藍龍は純粋に怒りも憎しみもなく、ただ白雪が一鬼にとって不必要だから、殺すのだ。
藍龍の感情はそこには介入しない。あるのは、一鬼にとってどうか否かだけだ。
その冷たさこそが、紫鬼と藍龍の共通点であろう。
ただ一つ違う点は……藍龍が本当に一鬼以外をゴミのように思っていることであった。
「貴方の言いたいことは分かります。ですが、そうでもなければ守れないものもあるのです。現に、二百余年前、紫鬼は甘さ故に殺戮者の暴走を許してしまいました。私ならば、すぐさま妖狐を滅ぼしていたというのに」
「紫鬼は悩んで、苦しんで、その上に決断したわ。故に、確かに貴方よりも決断の速度は遅かった。だけど……悩みも苦しみもないのは、強さとは言わないのよ?」
「はい。分かっています。ですが……その苦悩が一鬼様を殺したことは事実です。私は、それを許さない為に居ます。紫鬼が選んだ、誰よりも一鬼様を愛し、それ以外を切り落とせる者が私です。誰よりも一鬼様に強さを強い、それ以外を踏み台にさせるのがブルー・シャーマンです」
そう、紫鬼が藍龍を一鬼の隣に居ることができる資格者と認めた理由は、そこにある。
紫鬼以上の冷徹さで一鬼以外を切り落とし、同じかそれ以上と言える程に一鬼を愛するのが藍龍なのだ。
カナリー達が与えられた役割は一鬼の人格形成に携わることだが、紫鬼達は違う。
純粋な強さと身の安全を齎す為に上位三者は存在し、結果として酷く歪な者ばかりが揃った。
だが、紫鬼は一鬼以外を愛することができる。ブルー・シャーマンは一鬼に強さを押し付け、もしもそれを為せなければ見離せる。
そこが藍龍と二者の違いであり、同時に認められた部分でもあった。
紫鬼は一鬼の為にそれ以外の全てを滅ぼすことを決断できるが、藍龍はその何倍もの速さで同じことを決断する。
ブルー・シャーマンがもしも一鬼を切り捨てようとすれば、彼女は即座にブルー・シャーマンを切り捨てる。
三者がそれぞれ微妙に異なる立場から睨みあい、ぶつかり合うことで足りない要素を補っているのだ。
ブルー・シャーマンは一鬼ではなく、一鬼の強さにこそ興味を抱く変わり種だ。
他の超越者とは違い、蒼炎の超越者は一鬼を常に試し続け、それで以て己が観察するに値するかを判断する。
他の超越者からすれば傲慢さすら感じる在り方だが、しかしそれを紫鬼は有難がった。
一鬼も一年前の時点でそれに気付き、それを受け入れた為、今となってはカナリー達が口を挟めることではない。
ブルー・シャーマンが強いた強さにしっかりと応えた一鬼を前に、今更口を挟むのは無粋であった。
「ええ、分かっているわ……私達は皆それぞれ役割を与えられた。だから、私達は相容れない。結局、私達は一鬼様が成熟すればお役御免の使い捨ての守護者なのだから」
「そうですね。ですが貴方は―――その更に上の段階に行ったのでしょう?」
「っ……」
不意に藍龍が紡いだ言葉に、カナリーの時間は止まった。
藍龍は確かに笑っている。笑っている筈だというのに……空気が重い。
カナリーはそこに殺意も憎しみも何も見いだせなかったが、それが当然であると知っていた。
藍龍は他の超越者を偶々同じ男を守ろうとして集った者達としか思っていない。
それぞれの超越者が持つ独自の強さを評価してはいるが、それだけである。
その無関心さは世界の狭さを表しており、藍龍にとっての世界は一鬼一人なのだろう。
他者との関わりの中で様々なものを吸収し、己自身を高めることをしながらも、その心は常に一鬼に対してしか向いていない。
だからこそ、他の超越者は藍龍が狂っていると認識しているし、本人もそれを否定はしなかった。
そう……否定もしなければ肯定もしていないのだ。他者の評価などどうでも良いのだ。
その心は一鬼唯一人に向けられているのであって、他者が介入する余地はない。
ある意味、誰よりも洗練された殺戮マシーンがそこに居る。
殺戮者と呼ばれた妖狐などよりもずっと完成された、冷徹な殺戮マシーンが。
「……ええ、そうよ。私は『使い捨ての守護者』から『望まれる守護者』になったわ。貴方と同じ、隣を歩く者として」
「そうですか……では、私と同じですね。一鬼様ご本人のお言葉ならば、ブルー・シャーマンも否定はしないでしょう。私もそれを受け入れます」
「そう……揺らがないのね」
「私は一鬼様のご意思に従うまでのこと。一鬼様が望むのならば、五人や十人程度のおまけには目を瞑りましょう」
「おまけって……貴方ねぇ……」
藍龍の物言いにカナリーは眉を顰めた。
彼女は藍龍が言わんとしていることを理解したが、それは酷く傲慢な考えである。
藍色の超越者は己が一鬼の一番だと言いたいのだ。他はそれ以下でしかないと言っているのだ。
遊びだと言わなかっただけまだマシではあるものの、しかしそれが傲慢なことに変わりはない。
これが碧だったならば、彼女はそれをただの願望だと笑い飛ばしただろうが、藍龍相手では無理だ。
藍龍は一鬼の心に関しては、嘘はつかない。
分からない時は分からないと言うし、確証がなければここまではっきりと断言できないだろう。
つまり、その言葉は偽りではなく、事実であるということになる訳だが、カナリーにはそこまで一鬼の奥底に藍龍が入り込んでいるようには思えなかった。
いかに互いの本質を一目で見抜き、はっきりとその意見を言い合い超越者であっても……いや、超越者だからこそ、そう簡単に互いを想い合えない。
超越者は強い信念を持つ者達であり、それを捻じ曲げることはできない。
互いの意見をぶつけあい、その果てに妥協することはあっても、信念そのものは揺らがないのだ。
だからこそ、彼らは互いが互いに迎合することなくぶつかり合い、一鬼に必要な様々な要素を捨てずに居る。
紅鴉は優しさを、カナリーは憧れを、金虎は恩に報いること、信念を貫くこと、更にはそれに必要な非情さを学ばせる為に居た。
親しい者への愛と、それ以外への非情さを教える藍龍が結果的に一番になるのは分からなくはないが、しかしそれでも早過ぎる。
まだ一鬼と接触して一日経ったか否かだというのに、そこまで深い関係になるのはおかしいのだ。
「カナリーを疎かにしている訳ではありませんが、一鬼様は明確な順位分けをするお方です。一番でなかったとしても、決して驚かないでください」
「今更ね。それで……貴方も覚悟はできているのね?」
「勿論です。仮にこの読みが外れていたとしても、私は構いません。一鬼様に愛されることではなく、私が一鬼様を愛することが重要なのですから。独善的だと言われても構いません。どのような言葉であろうとも、私は愛することを止めません……それが私の生そのものですから。私の生きる理由ですから」
「……貴方は確かにどうしようもない歪みだわ」
「心得ています」
綺麗な笑顔で肯定する藍龍に呆れながら、カナリーは肩を竦めた。
こうして互いに腹を割って話し合ってはいるものの、両者の間にある確執は消えない。
カナリーと藍龍は今でこそ戦ってはいないが、二百余年前は何度もぶつかり合った犬猿の仲だ。
今は一鬼の再生こそが最優先であり、それ以外の細事にかまけている暇はない。
確かに互いに分かり合えずにぶつかり合うことはあるが、それは飽くまで一鬼に関してのことだ。
他でもない一鬼の為ならば、彼女達はそのようなものを投げ捨てて協力できる。
それ故に紫鬼とブルー・シャーマンは二人の確執を解決しようとしなかった。
結局二人の衝突は一鬼に関してのことばかりであり、それだけ彼女達にとって大切であるという証である。
彼女達の確執が一鬼を殺し得るのならば、とっくの昔に紫鬼の紫炎によってカナリーは排除されていただろう。
片方が消えることになれば、藍龍よりも劣ると見做されていたカナリーが生き残る分岐はない。
そうならなかったということは、この衝突にも意味があると紫鬼達が見做したということだ。
カナリーにはその真意は理解できなかったが、しかしそれで良かった。
「でも……貴方と同じ男を好きになったという意味では、私もどうしようもない女ね」
「そうですね。横恋慕というものですね。私は一鬼様に二号三号が居ても構いませんが、一鬼様も良く納得されたものです」
「貴方ねぇ……―――!」
「……金虎が行きましたか。やはり、予想通りですね」
空を駆け抜けていく黄金の光を見上げながら、カナリーは微笑む。
これから紡がれる物語のシナリオは、超越者側が描いた通りのものになるだろう。
二百余年前とは違い、今の一鬼にははっきりとした分別も、超越者達を動かせる判断力もある。超越者の誰かが、光の傍に必ず居る。
もう以前のようにはならない。彼女達が光以外に振り回されることを甘受してしまった結果は、繰り返させない。
三度目の死を齎すことがないように、彼女達は今ここに居るのだ。
二百余年前、妖狐の里を訪れた時に皆殺しにしておけば良かったという後悔は今でもカナリーの胸の奥底にある。
碧にヴァンパイア一族を滅ぼされ、その程度を確認しに行った結果、妖狐は酷く脆弱であることを彼女は知った。
だからこそ、いつでも滅ぼせると思ってしまった。実際そうであった。
紫鬼が文字通り一瞬で皆殺しにしたのだから、弱かった訳だ。
翡翠と碧というイレギュラーさえいなければ、悲劇は起こらなかっただろう。
そして、今翡翠の娘であり、碧の妹である白雪が再び一鬼に危害を加えようとしている。
「藍龍……貴方は、どちらと戦いたい?」
「どちらでも。手加減できないことを考慮すれば―――殺しても問題なさそうな妹の方ですね」
「……なんですって?」
「一鬼様もいずれ己の本心に気付くでしょう……白は虹には不必要だということを」
怪しく光る藍色の眼を細めながら、そう告げた藍龍は世界の誰よりも美しかった。
カナリーはその様に己が永遠に勝てないであろうことを改めて悟り、心の奥底にしまう。
一鬼は確かに藍龍を最も近くに置くかもしれないが、彼女はまだ諦めていない。
今は二番目でも三番目でも良い。彼女が諦めない限り、一鬼は彼女を見続けてくれる。
一鬼が好きなのは、強者だ。どんなに弱くとも立ち向かおうとする強い心の持ち主だ。
だからこそ、彼の心に強く刻み込まれた少女が居る。半妖でありながら、彼が好きだと言いきった少女が居る。
カナリーもまた、そうありたかった。
例え一番になれなくとも、いつか彼女のその在り方が彼の心の奥深くにまで浸透したならば、それで幸せだった。
無限の怨念の塊である鬼火を持つ超越者は確かに感じているのだ……彼の傍に寄り添う幼い怨念の存在を。
彼女もそのような存在になりたい。死の間際にすら一鬼の為にその怨念を白雪に繋げた柿坂愛梨という少女のように、彼の心で生きたい。
その感情はただの守護者が持って良い感情ではないが、カナリーはもう次の段階に進んだ。
一鬼の隣に居ることを許された今、彼女は今まで以上に彼の為に生きることを誓う。
彼女には、金虎のように対立することで好敵手として認められることはできない。
紫鬼やブルー・シャーマンのように、彼が尊敬する目標となることも、藍龍のように狂気に到達した愛を教えることもできない。
だが、彼女の想いは本物だ。迷い、悩み、苦悩し、その果てに得た超越者という席は、幻ではないのだ。
光の塔に居る鬼は、まさしく彼女にとっての全てだった。
その鬼の為に彼女は生きる。己の為に、鬼に寄り添う。
「いいえ、あれは不必要ではないわ……だって―――光が決着をつけるべき試練なのだから」
黄色の眼を細めながら、カナリーは微笑んだ。
もうすぐ光は目覚め、その果てに白を赤に染めるだろう。
一鬼という名に恥じぬ覚悟と冷徹さで以て、空虚な白に最初で最後の安らぎを与えるだろう。
彼にはそれしかできない。そうさせたのは、紛れもない白だ。彼には義妹は殺せない。そうさせたのは、紛れもない絆だ。
これから先に待ち受ける苦悩の末に、どのような判断を彼が下すのかは、彼女には分からない。
だが、たった一つだけ確かなことがある。
最後の鬼は――――白雪を殺す。
蒼炎の中に悠然と浮かぶブルー・シャーマンの姿を見ながら、一鬼は思わず溜息をついた。
超越者は皆それぞれが独自の信念を持って行動している為、妥協させるのは難しい。
だからこそ、金虎との衝突は避けられず、彼はいかにして妥協点を見つけるかを考える必要があった。
片方の意見を押し通すべき時はそのままに、しかし妥協点が必要な場合はそうする。
信念を簡単に捻じ曲げるのも、逆に信念に固執し過ぎるのも良くない為、彼はその境界線を見極めなければならない。
他者と共に生きることはやはり簡単なものではないという思いから、思わず溜息が出たのだ。
「この程度で疲れるようでは、今後が大変だぞ。何せ、藍龍もカナリーもお前を好いている。そこに殺戮者が加われば、後は分かるな?」
「……分かりたくないものだな。だが、それも受け入れると決めた。彼女達には、生きて貰いたい」
「くっくっ……男というものは中々に大変だな。私には無縁で助かる」
「ということは……お前も金虎と同じ状態なのか?」
「そういうことになるな。紫鬼からは、私が女であれば間違いなくお前に宛がっていたと言われたこともあるが、その時は流石に困ったぞ」
くっくっと笑いながらさらりと言い放ったブルー・シャーマンに、一鬼は思わず頭を抱えたくなった。
そもそも紫鬼が藍龍という存在が一鬼の隣に居るに値すると判断したことが、酷く傲慢なのだ。
彼は彼自身で己の隣に立つ者を決めるし、兄に決められる筋合いはない。
兄の真意は、もしも超越者がただの守護者から別の立場になりたいと望んだ場合、それを許可するという意味合いなのだろう。
しかし、それでも彼には頭が痛い。まるで兄に見合いを強制させられたような気分になるのだ。
実際に会った藍龍とカナリーは少々好意が行き過ぎてはいるが、確かに非常に素晴らしい女性であった。
一鬼からすれば、彼女達の間で明確な優劣をつけることができるのは、その力だけだ。
そして、その力こそが紫鬼に最終的な決定をさせたものなのだろう。恐らくは、カナリーも藍龍に匹敵する力さえあれば受け入れられている。
兄が望んだのは三すくみであり、己とブルー・シャーマンとぶつかり合えるだけの力を持つ者だ。
それ程の力がなければ弟を任せる気になれないという、紫鬼の自己満足なのだろう。
彼は兄のその気持ちを否定するつもりはないが、しかし素直に受け入れるつもりもなかった。
「紫鬼は……兄は、思ったよりも非情ではなかったんだな。お前に見せて貰った過去の中でも、鬼の里で小さな子と遊んでやったりしていた。藍龍のように、光以外に対しては酷く非情なのだと思っていたが……どうやら、俺は兄のことを少しも理解していなかったようだ」
「そうだな。お前は少しも紫鬼のことを理解していない。根本や本質ばかりに目を向けて、その上にある二十四年の歳月が与えた多くのものを見過ごした。表面しか見ないのは論外だが、その奥底に宿るものしか見ないのはお前の悪い癖だ。双方を吟味して初めて、理解は始まる」
「ああ、その通りだ……全く以てその通りだよ」
「愛梨とお前の関係は、まさしくそのまま表面と根本の双方をぶつけあうものだった。だからこそ、お前はあれを今も愛しているのだ。切り捨てられるなどとほざいて、その実何よりも大切にしているのだ」
一鬼は確かに守るべき者の順位は美空を最上位とし、その次程度に愛梨達を置いた。
だが、明と夜空に対する恩返しを考慮しなければ、一番に来るのは愛梨だ。
愛梨は結局の処彼の罪の証の一つなのだが、しかし彼の認識はそのようなものではない。
彼に追いつこうとし、必死にもがいたその姿をただの罪の証と言える筈がなかった。思える筈が無かった。
彼にとって、愛梨は弱者でありながらも眩しい存在で、確かにその強さに憧れたのだ。
半妖でありながらも、愛梨は一鬼の隣に居続けようと必死だった。
かつての弱さを考慮すれば、恐ろしい程の成長速度で、彼女は成長し続けていたのだ。
そこにブルー・シャーマンという存在が介入していたことは彼も理解しているが、それを考慮しても彼女の挑み続ける姿勢が好きだった。
死の間際ですら彼を白雪へと導いたその執念も、彼に最後まで寄り添おうとした怨念も、彼はしっかりと受け止める。
それこそが、彼女を守り切れなかった罰であり、けじめだ。
いつまでも彼は彼女を想い続ける。その死に様を眼に焼き付け続ける。
「分かっている。俺は、不誠実な男だ。愛梨が生きていたら、それはもう激怒していただろうな」
「違いない。あれは中々に嫉妬深かったからな。だが―――もう死んだ。私は、あれの死を予想しながらも、お前に告げなかった。だから、私を憎め。お前には、その権利がある」
「バカを言うな。殺したのは白雪だ……俺は愛梨のことに関して、あいつ以外を憎みはしない」
「そうか……分かった」
淡々とした口調で了承すると、ブルー・シャーマンはそのまま押し黙ってしまう。
そこから暫くの間沈黙が続き、一鬼はそれを甘受した。
ブルー・シャーマンにも何かしら思う処があるのは当然であるし、彼はそこに無理に踏み入るつもりはない。
本当の肉体を見下ろしながら、彼はゆっくりと両手を握り締めてみた。
確かに感覚はあるが、しかし今彼が居るこの空間は『境界』であり、肉体は存在できない場所だ。
こうしてここに居る一鬼という鬼は、実際は魂という名の形で存在している。
肉体は一年前に碧にくれてやった。彼女を生かす為に、紫鬼に抵抗する力を与える為に、食わせた。
だから、今彼は魂だけの存在であって、肉体は存在しない。
それをどうにかする為にブルー・シャーマンは光の塔を用意し、バックアップをそこに呼び出している訳だ。
それがいかに凄まじいことであるかは明らかであったが、しかしブルー・シャーマンならばできても不思議ではないという予感が一鬼にはある。
だから安心して任せているのだ。
「ブルー・シャーマン、実は以前から聞きたかったことがある」
「何だ?」
「お前と紫鬼は、何故宿主を食らって蘇らなかった? 紫鬼の肋骨には、それだけの力があるのだろう?」
「……何を聞くかと思えば、そのような細事か。何、簡単なことだ……単純にあの程度のエネルギーでは私達は蘇ることができなかっただけだ。所詮十本にも満たない肋骨程度では私達の圧倒的な生態を甦らせることはできない。私の場合は死んではいなかったが故に、そもそもする必要がなかったというのもある」
「そういうことか……」
一鬼はブルー・シャーマンの言葉に頷いて、赤い眼を細めた。
一年前、紫鬼がほんの少し力を揮うだけで優希はその寿命を削り続けていた。
元来が二十尾に値するのならば、一体何億分の一程度の力を発揮できているか分からない程に紫鬼は弱体化していた筈だ。
それでも、ほんの数十秒現れただけで優希の寿命を数年レベルで削っている。
それ程に圧倒的過ぎる生態を甦らせるには、九尾に届くか程度のエネルギーしか内包していない肋骨一本では厳しいだろう。
一年前の一鬼では、紫鬼を完全な状態で実体化させることはできなかった可能性がある程だ。
できても十分程度……それ以上は、いくら彼でも耐えられなかっただろう。
当時の彼は最終段階ですら八尾の数倍程度であって、それで二十尾に相当する紫鬼を完全に実体化させるのは難しい。
ブルー・シャーマンは一鬼が宿主ならば完全に力を揮えるなどと考えていたようだが、それは恐らく負荷による再生を考慮してのことであろう。
一鬼は飽くまで碧と共に過ごした二週間余りを前提に考えているが、ブルー・シャーマンは違う。
もしもブルー・シャーマンか紫鬼が『虹色の肋骨』として彼に宿ったならば、その実体化によって生じる負荷は彼を更に速く覚醒させていた筈だ。
碧を一日最低数時間は実体化させるように心がけたことが彼の中の妖を呼び起したように、負荷があってこそその力は蘇る。
つまり、碧とは比べ物にならない消耗を強いる紫鬼達ならば、更に速い段階で彼を目覚めさせることができた訳だ。
超越者を誰よりも恐れた白雪がそれを許す筈もない為、それは実現しなかったが……もしもそうなっていたならば、ほぼ確実に被害は最小限に抑えられただろう。
今更そのような仮定に悩んでも詮無いことではあるが、それを次に生かすことは忘れてはいけない。
「そうだ……過去を悔やむのは未来に生かす為だ。その姿勢を忘れてはいけない」
「絶対に忘れはしない。愛梨達を守れなかった今、俺は……碧達まで失う訳にはいかないんだ」
「そうか。だがな……一つ悪い知らせがある。お前の義妹についてだが……恐らくお前の父を殺しているぞ」
「……は?」
不意にブルー・シャーマンが告げた言葉に、一鬼の時間が止まった。
彼はブルー・シャーマンが言っていることの意味を理解できはしたが、納得できない。
それを受け入れてしまえば、彼が何よりも守ろうとした絆が消える。妖としての彼が持てなかった親との絆が。
いや、絆は消えないが……その形が変わってしまうのだ。そこに籠る怨念が変質するのだ。
彼が絶対に避けたかった変化が、起きてしまった……それを認めるのが、彼は苦しかった。
だが、ブルー・シャーマンの言葉に偽りはない。
だから、受け入れねばならない。受け入れ、そこからどうするかを決めねばならない。
「紅鴉と金虎からの報告だ。あれに、肉親のものと思われる怨念がこびりついていた……と言っていたぞ」
「白雪がやった訳では……ないのか?」
「今から確認しても良いが……どうする?」
「……聞くまでもない。頼めるか?」
「それこそ、聞くまでもないことであろう。任せろ……お前に残酷な事実を突きつけてやる」
もしもブルー・シャーマンの言うことが本当ならば、全てが引っくり返る。
事実が今まで一鬼が予想していたものとは異なるものに変わり、これから彼が取るべき行動も変化してしまう。
ブルー・シャーマンが告げた言葉はそれ程に強烈で、これから先の選択を左右し得るものだ。
彼は今まで己が取る行動を内心切り替え始め、別の分岐を考慮し始める。
それが現実にならないことを期待しつつも、だがそうなることも予感していた。
過去に誘うブルー・シャーマンの能力に逆らうことなく、一鬼は目を閉じる。
これから彼が見るであろう過去は、恐らく彼にとって心地の良いものではないだろう。
それでも向き合わねばならない。逃げずに、彼が生み出したであろう悲しみと対峙せねばならない。
己の罪と向き合うことすらできないようでは、超越者としては失格であるし、彼は一鬼ではなくなってしまう。
だから、これから見る過去が齎す変化を受け入れる覚悟を彼はする。
己が殺すべき相手が白雪ではなく、美空である可能性が―――第二の白雪の誕生がそこにあることを彼は予感していた。




