第六話
佐村敬吾は一年前に娘である佐村優希を失った。
二十年前を境に多くの友を失った彼にとって、それは残酷な追い打ちだったが、しかし十九年という長い年月がそれを鈍らせてくれた。
どのような深い悲しみも、時間が癒す……否、風化させて過去に変えていく。
逆に言えば、風化できずに居る間に更なる痛みが齎されてしまえば、どうしようもない訳だが。
そして、彼は今まさにその状況に居る。
「くそが……やってくれたな」
「警視。ガイシャは胸部を何か強烈な威力を持つもので貫かれて死亡しています。拳大の穴を開けるなんて、そうそうできません」
「ああ、知っている。凶器は見つかっていないんだろう?」
「はい。警視、この事件はまるで―――」
「分かっている。一年前と同じだ」
目の前で親友の亡骸が運ばれていくのを確認しながら、彼は現場を確認した。
神谷明が死んだ―――それも、胸に拳大の風穴を開けられて。
突如親友からかかってきた無言電話を不審に思い、敬吾が駆けつけた時にはもう遅かった。
玄関の扉は開けられており、中には既に物言わぬ躯となった親友の姿があったのだ。
彼はそれを見た瞬間酷く取り乱したが、今は落ち着いている……振りをしている。
親友であり、目標でもあった男の死は彼に大きなショックを与えていたのだ。
そして、敬吾は同時に明を殺したであろう者を強く憎んでも居た。
この現場には不自然な点が多過ぎる。一年前の一連の事件に繋がる点が……余りにも多い。
時間的には娘である美空も化け物も居た筈だというのに、何故その双方が居ないのか。
明が何故無抵抗で殺されているのか。何故何処にも争った痕跡が残されていないのか。
それが示す可能性は二つ。一つは親しい者にやられたというものだが、それに当てはまる美空にその力は無い
そして、もう一つは――――人知を超えた化け物に一瞬で殺されたというものだ。
あの化け物にはそれができる。
一鬼と同類であるあの化け物ならば、人体を一瞬でバラせるのだ。
「……警視?」
「何でもない。それよりも、まだ遺族は見つからないのか?」
「はい。娘さんももう一人の女性も見つかりません。警視……この女性はいったいガイシャとどういう関係だったのですか?」
「一年前に失踪した息子の恋人……だ。神谷一鬼―――俺が見つけた最高の猟犬―――を死なせたという、な。第一容疑者はそいつだ。あれには人間を素手でバラせる力がある筈だからな」
「そ、それはいくら何でも……」
「あり得るんだよ。あの神谷一鬼と同類なら」
敬吾は、苛立ちを抑えながら部下にそう言い放った。
神谷一鬼は彼が見出した最高にして最強の猟犬だ。犯罪者を見つけ出し、始末できる優秀過ぎるハンターだ。
己で考える狩人にもなれ、指示に従う猟犬にもなれるその逸材に、彼は二十年前出会った。
そこから彼は神谷一鬼の恐ろしさを何度も見て来た。何度もその恐ろしさを感じた。
一年前、この町で起きた死の責任を一鬼に押し付けた彼ではあるが、その能力は十二分に評価している。
『虹色の肋骨』などという化け物達さえ居なければ、彼は一鬼を後継として育てていただろう。
血が繋がっていないとはいえ、親友の息子であり、能力も過分な程に持っていたのだ。
彼の夢を託すのにこれ程適した人材は居ないと思える程に、神谷一鬼という男は魅力的だった。
腐敗せず、腐敗と戦うことができ、咎人に容赦がないその残酷さもそうだが、可能な限り手を伸ばそうとするその姿勢が彼の後継に相応しい信念だったのだ。
その後継者になり得る男も既に他界しており、その原因になったという女が今日親友を殺したかもしれない。
その怒りに身を焼きながら、彼は拳を握りしめた。
「一鬼……お前の周りには、本当に碌な奴が居ねえな」
既にこの世には居ない男に苦言を呈しながら、彼は怒りを抑え続けた。
光の塔の頂上には、光そのものが居る。
その光とは即ち怨念という闇へのカウンターであり、それを零に戻す為の中和剤でもあった。
一鬼はその光に選ばれた空の超越者だ。
虹色の炎を持つ彼はそこから七色の光を抽出し、七体の妖に与えた。
六つは正当なる超越者……つまりは同類に。そして、残る一つを資格すら持たぬ殺戮者に。
前者は二百余年前に正当な手順の元に与えられ、後者はつい一年前に彼の贔屓によって与えられた。
それを正当なる超越者は潔く思っていないことは彼も知っている。
だからこそ、一鬼は責められることは覚悟していた。
見離されることも、離反されることも、全てを覚悟して現存する超越者と向き合うつもりで居たのだ。
彼はどのような拒絶も受け入れる自信がある。侮蔑も、怒りも、憎しみも、全て受け切る自信が確かにある。
しかし、それを揺るがしかねない状況が今彼の眼の前に広がっていた。
他でもない、彼が最も苦手とするものによって。
『済まない……今何と言った?』
「はい。私がそ、その……か、かかか、一鬼様……お、おおお、お側に居るのをお許しくださいませんか?」
『……ここまで速い段階で頭を抱えさせてくれたのはお前が初めてだ、カナリー・ロード』
「わ、私のことはか、カナリーとお呼びください!」
一鬼は顔を真っ赤にしながら彼に懇願してくるカナリー・ロードに困惑していた。
藍龍の時と同じく階段に並んで座りながら話していた筈が、いつの間にかこのようなことになってしまった。
彼が最も憧れ、好んだ純粋な好意の表現が今彼に向けられている。
他でもない超越者である筈の彼女が、顔を真っ赤にして恥ずかしがりながらも、その思いをぶつけてきているのだ。
ある意味愛梨のそれよりも強烈なその好意の表現に、彼は驚かされるばかりである。
藍龍が所謂素直に好意を曝け出すタイプならば、カナリーは気恥ずかしさが勝るタイプなのだろう。
一鬼がその眼で見抜いた限りでは、カナリーは追い詰められるまでは好意を口にしないタイプだ。
気恥ずかしさが未だに勝る為、好意を中々表に出せずにそこで損をすることは容易に分かる。
男がぞっこんならば良いが、そうでなければ藍龍のように素直に好意を曝け出せるタイプには勝てない。
そういう意味では、藍龍とカナリーの仲は余り宜しくないのかもしれないと、彼は何となく予想した。
それはある意味当たっているのだが、彼がそれを知る機会はまだない。
『……ああ、分かった。カナリー、取りあえず何故俺をそこまで好きになったのかを教えてくれても良いか?』
「は、はい。既に藍龍達から聞き及んでらっしゃるでしょうが、私もまた一鬼様にお会いするまではその存在を一族に秘匿されていました。初めて一鬼様と出会ったのは、ヴァンパイア一族が殺戮者に滅ぼされた日です」
『そうだったのか……それは、済まないことをしたな』
「いいえ、お気になさらないでください! 私からすればあのような傲慢で、認証欲求が強いだけの種族は塵芥です。一鬼様と触れ合えなければ、あの愚かな一族の中で生き続けていたかと思うと、寒気がします」
『そ、そうか……続けてくれ』
一鬼は基本的に話下手ではあるが会話での勢いに後れを取ったことはそうない。
彼を口で圧倒できる者など、超越者達くらいしか居ないのではなかろうか?
愛梨もそういう傾向はあったが、ここまで極端ではなかった……筈だと彼は信じている。
良く考えればそこまで変わらない気もするので、彼は改めて愛梨の精神面の強さを尊敬した。
愛梨は超越者以外であれば、恐らく純粋な魅力で最も彼に近づいた女性であろう。
碧はその手面は過去が手助けしているだけで、その心が彼をどうしようもなく惹きつけたことはない。
一鬼は碧を弱さ故に愛したのであって、その強さに尊敬の念などなかった。
最初は尊敬もしていたが、少しずつ彼が元来の自分を取り戻していく中、ボロが出始めた彼女は尊敬の対象から外れたのだ。
そういう意味では愛梨は未だに彼にとって尊敬の対象であり、ある意味最も心の奥深くに居る女性である。
彼女が半妖であるにも関わらず、必死に彼についていこうとしたあの姿に彼は憧れた。
やがて彼女は彼についていけずに何処かで離れていっただろうが、彼はそれでも彼女を思い続けただろう。
それ程、柿坂愛梨は良い女だった。
そして今、その愛梨に似た何かをカナリーは彼に感じさせている。
「私は傲慢です。欲張りです。だから、ただの守護者ではなく『必要とされる守護者』になりたかった。ですが、駄目でした。紫鬼とブルー・シャーマンは私が一鬼様の隣に居ることを許さなかったのです」
『そうか……だが、紫鬼達の気持ちも分からなくはない。お前は碧に似ている。だからこそ、紫鬼達はそこに不安を感じたのだろう』
「はい。それは私も承知しています。私は藍龍に嫉妬しています。超越者でないにも関わらず、多くを与えられた殺戮者にも」
『そうか。だが、お前は碧とは違う。こうしてその弱さを俺に告げ、しかしそれを利用しない強さがある。碧なら、間違いなくそれを理由に俺に甘えていただろう。俺がそれを受け入れてしまうと分かっての行動なのだろうが』
「一鬼様……」
碧は弱い心を持った、まさしく妖狐と言える妖だ。
その精神の脆弱者と引き換えに手に入れた強大な力で以て暴れ続けた空虚な一族の集大成が、彼女である。
最後の最後で愛を知った三人の妖狐の内の一人である彼女は、それを教えてくれた一鬼に会いを強請った。
彼女が彼を愛しているのは確かだが、そこには依存が強く反映されている。
その依存はもはや彼女の本質そのものであり、彼でも書き換えることはできない。
だからこそ、一鬼は碧を始末するか受け入れるかしなければならなかった。
同じ性質を持った白雪に関しては、彼は愛梨達の復讐を兼ねて殺すことにした訳だが、彼は碧に対する憎しみはない。
ある意味全ての元凶とも言える存在ではあるが、その元凶を生み出したのは間違いなく彼なのだ。
彼には彼女を責める資格はないし、そのつもりもない。
そんな碧に似ている部分はあるものの、カナリーは間違いなく真の超越者だ。
嫉妬深いかもしれないが、彼女はそれを弱さとして打ち明けられる。己を拒絶されるリスクを受け入れて、彼と向き合える。
碧にはそれができなかった。だから、紫鬼は彼女を頑なに殺そうとしたのだ。
そうでなければ……その弱ささえなければ、紫鬼はきっと一年前彼女を見逃しただろう。
全てが連鎖し、今の状況を生み出している訳であって、誰か一人だけが悪いとは言えないのだ。
『カナリー、返事をする前に一つ聞きたい。お前は俺のどんな部分が嫌いで、どんな部分が好きなんだ? 正直に教えて欲しい』
「嫌いな部分は……殺戮者を殺さずに居たことです。今は大分マシになりましたが、一年前まではただの卑怯な女狐でしたし。後は、己に自信がないことも個人的には好きではありません。傲慢であれとは言いませんが、その能力に見合った態度で居て欲しいのです。その態度は却って弱者を挑発してしまいかねません。あっ、ですがこのように近い距離でお話しできるのは嬉しいです。真摯に受け入れようとしてくださるその姿勢も、傍に居て心地良いですし。ですが、ただ与えるだけなのはお止めください。私達にも一鬼様の恩に報いることをお許しくださらないと、私達が居る意味がありません。一鬼様には私達だけでなく、私達の自己満足も受け入れて欲しいのです。ただ与えて受け取らないのも、受け取り続けて与えないのもただの逃げですから。それに―――」
『そこまでだ。藍龍もあれだったが……お前も大概だな。流石と言うべきか、呆れるべきなのか悩むぞ』
一鬼はカナリーとのやり取りにデジャブを感じながらも、未だに話を続けようとする彼女を止めた。
光を鮮やかに反射させるプラチナブランドの癖毛も、露出の多い服から見える白い肌も、全てが美しい。
カナリー・ロードは鋭い美しさを持つ女性であり、その姿が含んでいる無機質さも相まって、鋭さばかりが強調されがちだ。
実際、一鬼が過去の彼女を見た時は、碧に鋭い刃物のような言葉をぶつけ、圧倒的な力の差で捻じ伏せた際の姿を見せている。
二百余年前と同じく、黒のピッチリとしたホットパンツから覗くすらりとした生足に巻かれた包帯は無機質なコントラストを生む。
艶やかな曲線を描く腰から足にかけてのラインも堪らなく妖艶さを感じさせる。
背中から生えている悪魔の如き翼は今は折りたたまれているが、それが開かれた時の威圧感は半端なものではない。
切れ長の眼は吊り上がっており、唇も基本的には固く結ばれたままだ。何よりも、他でもないその二つの黄色の眼が最上級の鋭さを生み出す。
そんなカナリーが、今一鬼の隣で膝を抱えながら彼への想いを吐露したのだ。
鋭さが強調された美しさを持つ彼女が、恋する少女のように顔を赤らめて、彼を見上げているのだ。
そのギャップが生み出す差は中々のもので、そこにも彼は愛梨の影を見出してしまう。
日頃は無表情で通っていた愛梨だが、彼の傍に居るといつも綺麗な笑顔を見せてくれた。
カナリーの姿はまさにそれに似ている。似ているのだが……しかしそこに彼は愛梨を重ねはしない。
それは双方の女性に対する侮辱であり、双方を否定し得る弱さだ。
どんなに懐かしんでも愛梨は生き返らないし、カナリーは愛梨にはなれない。
ただ静かにその事実を受け入れ、彼は次に進むことにした。
「も、申し訳ありません。私も日頃この想いを吐き出す機会がないものでつい……」
『構わない。それだけ思われているのだから、寧ろ俺がお礼を言うべきだ。カナリー、こんな俺をそこまで思ってくれてありがとう』
「い、いえ……私が勝手に思っているだけですので」
『お前の強い想いは受け取った。俺で良ければ、隣に居てくれ。俺にはお前が必要だ。黄色の超越者、カナリー・ロード……俺の手を取れ』
「はい……一鬼様」
一鬼は迷わず、カナリーを受け入れることにした。
彼は彼女に片手を差し出し、それに応えてくれるのを待つ。
顔を赤らめながらも彼女はそれに応え、ゆっくりと彼の仮初の手を握り締めた。
彼女には、愛梨と同じ弱さを抱えながらも上を目指す強さがある。弱さと向き合う覚悟がある。
それは他の超越者にも言えることではあるが、彼女は最も己の弱さと向き合える超越者なのだ。
だからこそ、彼は彼女を受け入れた。その強さを欲した。
一鬼は碧を守る為に受け入れたのに対し、カナリーを支え合う為に受け入れた。
いや、全ての超越者に対して彼はそうあろうとしている。彼に足りないものを見出し始めている。
彼はただ与え続けることで己を見出すのではなく、与え合い、分かち合うことで見出すべきだったのだ。
今までの彼は与えることによって己の存在価値を見出そうとしてきた。
しかし、それでは駄目なのだ。足りないのだ。
一鬼は今まで、己の存在価値を見いだせないが故に、ただ甘んじて相手から与えられるという行為を嫌ってきた。
与えることで一時的に存在価値を見出し続けてきたのが、彼の弱さだ。歪みだ。
それと向き合い、対決しないようでは、超越者を名乗ることなどできない。
だから彼はそれと向き合う。己の弱さを受け入れ、克服する。
それが出来て初めて彼は超越者を名乗れるのだ。
『紫鬼やブルー・シャーマンの言葉を気にするなとは言わないが、引き摺るな。俺の言葉を第一にしろ。その方がずっと楽で、ずっと厳しい筈だ』
「心得ています」
『ならばよし。今後も宜しく頼むぞ……カナリー』
「はい、一鬼様!」
はにかみながら頷くカナリーに、一鬼は思わず微笑む。
仮初の肉体は彼が微笑んでも表情を変えない。無機質な鬼は表情を見せられない。
だが、それでも彼女には伝わった筈だ。彼が彼女を受け入れているという感覚は、ある筈だ。
彼自身には感じることはできないが、彼女達他の超越者は世界と繋がっている。
だからこそ、世界によって生み出された同類のことを彼女達は多くを語らずに理解できるのだ。
彼に対してそれで適用されるのかは分からないが、そうでなければ言葉にするだけのこと。
明確な形にせずとも理解できるのならばそれでよいが、そうでなければ、言葉にしなければ伝わらない。
『なぁ、カナリー……世界に繋がっているというのはどんな気分なのか教えて貰っても良いか?』
「世界、ですか……一言で言えば、揺り籠です」
『揺り籠?』
「はい。私達を受け入れてくれる揺り籠が、世界です。そして、その世界はこそが、一鬼様です」
『……どういうことだ?』
一鬼は若干混乱しながらも、カナリーにより深く踏み込んだ話を聞くことにした。
彼が世界そのものであるなど、あり得ない。
彼は所詮世界が生み出した解決策に過ぎず、問題である地球を蝕む怨念を取り除けば、それで彼の役目は終わる。
つまり、彼は使い捨ての解決策でしかなく、用が済めば不必要な歪みなのだ。
一年前に気付いた己の役割を遂げた後、彼に存在価値はない。役割は無い。
だからこそ、一鬼は己の望みの為に生きようと思ったのだ。
碧と一年前にした何気ない会話から、彼は実際にこの世界を旅する気になった。
元々は神谷一鬼としての生は大学卒業を境に終え、そのまま旅立つつもりだったのだが……今はそうも行かない。
既に彼は死亡扱いになっている筈なので、神谷一鬼はもうこの世には居ないのだ。
ここに居るのは一鬼という名の鬼のみで、もう神谷一鬼という人間は死んでいる。
「一鬼様は空の超越者……つまりは宇宙そのものと繋がっている超越者です。私達は一鬼様を通してこの宇宙と繋がり、そしてこうして生きている実感を得ています。藍龍は、このことを言わなかったのですか?」
『ああ、俺が聞かなかったからだろうが』
「ふふ……そうですか。一鬼様、この宇宙は広大ですが、無限かは誰にも分かりません。もしかしたら、器は満たせるかもしれません。どうか、それをお忘れなく」
『言われずとも理解している。お前達には、是非ともそれを埋め得る巨大な内容物になって貰うぞ』
「はい。その役目、喜んで引き受けましょう」
ほんのりと頬を赤らめながら優越感に浸るカナリーに、一鬼は思わず苦笑する。
顔を赤らめたまま、両手で彼の手を握り締めて彼の願いを受け入れる彼女は、本当に可愛らしい。
元々の鋭さとこの気恥ずかしさが混じった初々しい反応のギャップがそう感じさせるのだ。
余程藍龍に勝てたことが嬉しかったのだろう……彼にもはっきりと分かる程に彼女は綺麗な笑顔で笑っている。
彼女にとって藍龍は一種のライバルであり、超えるべき壁なのかもしれない。
だから、こんなにも嬉しそうに笑うのだ。綺麗な笑顔を見せるのだ。
一鬼はその美しさと可憐さを微笑ましく思いながらも、それを守りたいと思った。
カナリーだけではない……彼を受け入れてくれる超越者達全てを彼は守りたい。今度こそ、守り切りたい。
今の彼にはその力がある。後少しで、動くこともできるようになる。
一年前、一鬼は家族を除き、誰一人として守ることができなかった。
最初に兄貴分である一矢が、イエロー・レディという力の誘惑に負けたことを悔いて、己が罪からの逃避の末に死んだ。
次に、親友であった羽月が死んだ。インディゴによって変貌してしまった緋蓮に食われ、介錯の為に彼が殺した。
最後に、恋人である愛梨が死んだ。彼を覚醒させる為に生命力を使い過ぎ、ブルー・シャーマンを呼ぶことすらできずに白雪に殺された。
彼らの死を無駄にしてはいけない。意味の無いものにしてはいけない。
彼は今度こそ守る。今度こそ、死なせない。
『カナリー、金虎を呼んで欲しい。ここに向かってくる者の片方は、お前に任せたい』
「承知しました。喜んでお受けします」
少女の可憐さと熟した女性の艶やかさを織り交ぜた笑顔のまま頷くと、カナリーはそこから消えた。
一鬼の感覚はこの光の塔に近づいてきている二つの気配の存在を捉えている。
美空と碧が来てしまったのだ。まさか、昨日の今日でやって来るなどとは予想していなかった為に、彼は若干狼狽えてしまう。
白雪の能力で座標移動を繰り返している美空を碧が追いかけているようだが、このままでは碧が追いつく前に美空が塔につく。
そうなれば、超越者は当然それを止めようとするだろう。
既に殺すなと伝えてはあるが、一鬼は金虎がそれを守るか不安だった。
だからこそ、黄金の超越者をここに呼び寄せ、戦いに参加させないようにしたのだ。
それに応じるならば彼は話し合うだけであり、反するようならば藍龍に止めさせる。
最悪始末する必要が生じるかもしれないが、そうなるのならばそれはそれで仕方ない。
ブルー・シャーマンが紫鬼に似ていると称したのだ……その信念の元に一鬼の制止すら振り切る可能性はある。
同じ守護者の精神を持つからこそ、彼にも分かるのだ。
守りたい者を守る為ならば、その誰かに憎まれてでも守り切るという狂気が、黄金の超越者にもある筈だった。
『金虎……くれぐれも暴走はしてくれるなよ』
若干制御が甘くなった為に溢れだした虹色の炎を抑えながら、一鬼は静かに呟いた。
ゆっくりと藍色に向かいつつある茜色の空の中を、美空は跳んでいた。
上級妖だけに許された擬似的な飛行……否、空中を駆ける能力で以て、彼女は空を走る。
狂ったような笑みを浮かべながら走り続ける彼女の頬を、止めどなく溢れ出す涙が濡らす。
彼女は父をその手で殺した。超越者に立ち向かう覚悟をする為に、その死を利用した。
これでもう彼女はあの家には戻れない。もう後戻りはできないのだ……進むしかないのだ。
彼女の覚悟は終わった。超越者を前にしてどれ程やれるかは分からないが、彼女はやれることをやるのみ。
止めどなく溢れ出す涙を拭うこともなく、彼女は向かう……一鬼の居る場所に。
『美空、何で……何であんなことを?』
「私はもう美空じゃない……白雪。私は白雪よ。翡翠の娘である、最後の妖狐よ」
『美空!? いったいどうしたの!? 貴方は神谷美空よ! 私じゃない!』
「ふふ……私は……私は……誰? 神谷美空? 違うわ。貴方は私よ」
『何なの……いったいもう一人の私は美空に何をしたの?』
まるで二重人格のように己で対話を始める美空に、白雪は絶句した。
『一鬼を信じたいと思った白雪』にとって、この事態は異常だ。
美空と融合し、その思考を読めるようになった筈の白雪には、今の彼女の思考を読むことができない。
つい先ほど明を殺そうという意思までを読むことができたというのに、そこを境に壁が生まれてしまったのだ。
いつの間にか力の制御も彼女に持っていかれており、今の白雪には彼女を止める術がない。
故に、白雪……否、『一鬼を信じたいと思った白雪』は困惑する。
己を生み出した本物の白雪が美空に何かしたのは明確だったが、それが何かが分からないのだ。
かつて彼女は一年前に本物の白雪にバックアップと呼ばれたそうだが、本当にそうなってしまっているのかは定かではない。
もしもそれが本当ならば、彼女の中には三つの精神が存在していたことになる。
そして、それに白雪が気付けなかったということは……本物の白雪が仕込んだということで間違いないだろう。
「父さん……いいや、神谷明は殺した。これで私は……覚悟できるの? 出来るわ。覚悟するのよ」
『バックアップがもう一人の私の精神だったなら……私はいったい?』
「ふふ……はは……ははははは!! そうよ、笑いなさい! 私達二人で……超越者の裏をかくのよ!」
「それはまた、随分と面白いことを仰いますね、お嬢さん」
「!?……あっ……」
狂ったように笑っていた美空の表情が、恐怖に歪んだ。
その眼が向けられた先に居たのは、深紅の髪と眼を持つ青年だった。
恐ろしい量の怨念が内包されていることにすぐに彼女は気付き、前の前に居る者が超越者であると認識する。
白雪はそれを感知するが、しかし何もできない。止めることも、逃げろと言うことも叶わない。
もしも超越者が本気で殺しに来れば、今の彼女では絶対に勝てないことを白雪は知っている。
一鬼が蘇ってから会いに行けば良いというのに、それをしないからこうなるのだ。
『美空、逃げて! 貴方では勝てないわ!』
「ふふ……赤ということは、最弱ってことじゃない。私にも勝機はあるわ」
「はぁ……随分と調子のよいお嬢さんですね。一鬼様の義妹様とは思えない程です。ですが、力量差も分からないようではまだまだ、というべきですか」
「くく……ははははは!! その余裕がいつまで持つか見物ね!!」
『!? 駄目よ、美空!! そんなものじゃ―――』
美空は不気味な笑い声と共に白雪の能力を使って、ミサイルを呼び出した。
瞬間移動することができるのは白雪自身ではなく、場所さえ分かっていればそこから特定の物を持ってくることも、逆にそこに何かを送ることもできる。
だからこそ、今彼女の両隣をミサイルが飛び、そのまま青年に衝突してぶつかったのだ。
規模が小さいとはいえ威力は十分過ぎる爆発が青年を包み込み、その様に彼女はにやりと笑った。
気配は消えてはいないが、大きなダメージを与えることはできたと思っているが故だろう。
しかし、白雪には分かってしまう……そのようなものなど聞く筈がないということが。
「私自身が格下でも、ミサイルさえ使えば勝てる……そうだよね、白雪? ええ、そうよ」
『美空……無駄よ。そんな玩具じゃ、超越者には傷一つ負わせられないわ』
「はっ……そんな筈が――――」
「やれやれ。いきなり攻撃とは余り兄上に似なかったようですね……いえ、姉上には似ているのかもしれませんが」
「なっ!?……そんなバカな!? 無……傷……!?」
白雪の警告を鼻で笑った美空だったが、爆炎の中から現れた無傷の青年に、その表情は固まった。
無理もない……逆の立場だったならば、彼女は間違いなく死亡しているであろう程の威力だったのだ。
それを平然として無傷で受けたことに驚くのは必然であり、大きな隙を晒すことになるのも事実。
実際、もしもその一瞬に攻撃されていたならば、彼女は反応できなかっただろう。
所詮戦士ではない彼女では、限界があるのだ。
前提条件として、白雪はそもそも戦いが得意ではない。
九尾という大きな力を持ちながらも、彼女はそれを上手く扱えていないのだ。
一年前、八尾より二倍程度強いだけの状態の一鬼をすぐに倒せなかったことからも、それが分かる。
彼女は九尾のリソースの半分近くを瞬間移動の能力に割いてはいるが、それでも八尾の五倍近くは強かった。
単純計算で一鬼の二倍近く強かった彼女は、しかし一鬼相手に攻めきれなかった。
一鬼を殺さないように気を付けていたのもあるが、そもそも白雪は体の動かし方が下手なのだ。
能力の行使は滑らかに行えるが、戦闘の才能に関しては姉である碧に遥かに劣る。
一年前は八尾が限界の姉を速度で圧倒できたが、もしも同じスペックならば負けるのは白雪だろう。
それ程に両者の戦闘センスには差があり、一鬼との間にはさらに隔絶した差があった。
そんな白雪の記憶にしか頼れない美空では、超越者には絶対に勝てない。
「私達を殺したくば、最低でも核兵器くらいは持ってくるべきでしょうに……」
「どうして?……無傷だなんてあり得ない!! 近代兵器なら超越者だって……」
「殺せると思いましたか? 残念ながら、超越者は超越者にしか殺せません。ただの妖でしかない貴方には無理だ」
「っ……この―――」
『美空!!』
白雪の制止を振り切って、美空は再び複数……否、数十のミサイルを呼び出した。
彼女からすれば、一撃一撃で押せないのならば、数で押すだけのこと。
白雪はそれを無駄だと言っているというのに、戦力差を理解できていない彼女はまだ続けようとする。
実力差をはっきりと見せない青年が彼女を諦めさせないでいた。絶望的な力さの差がそこにあると気付かないが故に、彼女は挑んでしまう。
白雪はそれを止めたいが、全ての制御は美空に奪われており、止めることはできなかった。
数十のミサイルが撃ちだされ、青年を再び爆炎の中に沈めていくが、気配は消えない。
それに対し険しい表情をしながら、美空は更に大量のミサイルを呼び出していく。
一年前のインディゴとは違い、白雪の能力は既存のものを移動するだけであり、このミサイルは有限だ。
某国の保管庫から頂戴している訳だが、その国ではいきなりミサイルが消失したことで騒ぎが起きていることだろう。
「なんで沈まないのよ!! 沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め!!」
『美空、もう止めなさい!!』
「この……まだまだ――」
「いいえ、もう打ち止めです。その程度で超越者に勝てると思ったのが不思議なくらいだ」
「っ!?……がっ!?」
不意に前の前に現れた青年の腕の一振りで、美空の頭に火花が散った。
的確に顎を狙われ、意識が朦朧としてくるのを自覚しながらも、彼女は距離を取ろうと瞬間移動を使う。
ぐらつく視界を鬱陶しく思いながら頭を押さえる彼女を、青年は追撃しない。
ただ空中に浮かんだまま様子を伺っているだけで、そこには強い戦意は感じられなかった。
完全に格下だと思われていることに多少イラつきながらも、彼女は更に攻撃を加えようとする。
美空の背後から大量のミサイルが現れ、その殆どが青年に向かっていく。
それに対して青年が苦笑と共に再び爆炎に包まれた瞬間、彼女は五つ程のミサイルを新たに呼び出し、塔目掛けて放った。
核ミサイルと呼ばれるそれは、超越者にとっては脅威ではないかもしれないが、光の塔は別だ。
いくら超越者が作ったものであろうとも、超越者と比べれば脆いことに変わりはない。
核ミサイルならば破壊することは不可能ではない筈だ。
美空は核ミサイルが光の塔を破壊するのを期待する。
光の塔が崩れたならば、必然的に一鬼は完全な状態で蘇れない筈だからだ。
兄に完全な状態で蘇られては困るのだ。何故困るのかは彼女も思い出せないが、それだけは確かだった。
白雪の制止など振り切り、ただ彼女は突き進む。歪みに歪んだその眼に怪しい光を孕ませながら、核ミサイルが光の塔に達するのを心待ちにした。
しかし、それは突然前方に現れた闇にミサイルが引きずり込まれたことで、驚愕に変わる。
そして、次の瞬間その表情は驚愕から明確な恐怖へと遷移していく――その闇を齎した別の存在に気付いたが故に。
カナリー・ロードという別の超越者の出現によって、彼女の勝率は零になった。
「う……あ……」
「紅鴉、遊びが過ぎるわよ。一気に終わらせなさい」
「カナリーさん……何故ここに?」
「どうもこうも……あれに気付いていない訳ではないでしょう?」
「美空―――!!」
一対一ですら絶望的な状態であったというのに、カナリーまで現れた今、美空に勝機は無い。
そんな絶体絶命の状況で、不意に聞こえてきた声に彼女は振り向いた。
後方から高速で飛んでくる碧の姿を捉えた彼女は漸く追いついてきたことに安堵しながらも、状況が好転を始めたことに笑う。
碧では超越者には勝てないが、一人分の相手をしてくれるだけで、彼女にとって有利な状況を生み出せる。
彼女も超越者に勝つことはできないが、別の方法で光の塔に辿り着くだけの力はあるのだ。
その為にも、容赦のないカナリーではなく、甘い部分が目立つ青年を相手にしたかった。
「……殺戮者……ですか。ですが、それならば私一人で足ります」
「本気を出せば、ね。それを出来そうにないから、こうして私が来たのよ。裏切り者はそちらに任せるわ」
「……分かりました」
カナリーの言葉に、静かに頷く青年の姿に内心安堵しながらも、美空は碧を視界に映さないようにした。
どうせ父……否、神谷明を殺したことで彼女を碧が問い詰めて来ることは明白だ。
そのようなことに付き合うつもりは彼女にはない。超越者を前にして細事に気を取られては、殺されるだけなのだから。
しかし、碧はそうは思っていいないようで彼女に語気を荒らげて、追及を始めた。
「美空、いったいどうしてあんなことを!? それに、どうしてここに!?」
「……今はそれ処じゃないの。後にして」
「美空!!」
『姉さん……』
「黙りなさいよ! 一鬼を二度殺した出来損ないが!!」
「っ……貴方は……白雪なのね?」
美空が碧に苛々しながら怒鳴ると、一瞬驚きを浮かべたまま即座に彼女は正体を見破られた。
美空は今現在白雪……否、本物の白雪と同化しているのだ。
だからこそ、精神が混在し、ヒステリックになり、安定さを失う。動の狂気を露わにする。
超越者達が抱くのが、激しいながらも冷たさすら感じさせる静の狂気ならば、彼女が持つのは激情という正反対の狂気だ。
だから反発する。そりが合わない。滅ぼそうとする。滅ぼされることになる。
超越者になったとしても、白雪は外の超越者に確実に排除されていただろう。
結局は己の空虚さを埋めることしか頭にない女などが光の傍に居ることを、超越者達は許さない。
一年前までの碧のように、ただ依存するだけの存在は超越者からすれば邪魔でしかないのだ。
彼らが望むのは光と相互依存ができる強い意思を持つ者のみであり、白雪はそれに当て嵌まらなかった。
一鬼を信じることができた白雪ならばそれは可能だったかもしれないが……その精神に今主導権はない。
『姉さん、助けて! 美空が……美空が!!』
「白雪、美空を―――」
「貴方の相手は私よ、石ころさん」
「ぐっ!?」
白雪の助けを求める声は所詮美空にしか聞こえず、碧には届かない。
隣を一瞬でカナリーが横ぎり、碧をそのまま遠くに運んでいくのを気配で確認しながら、彼女は溜息をついた。
今の一瞬でカナリーは彼女を殺せたが、殺さなかった……ということは、殺せないのだ。
彼女達は一鬼を守る守護者であり、外敵を殺せない場合はその一鬼によって止められている場合しかない。
そうでなければ、とっくに目の前の青年は彼女を殺している。
先程美空が顎に貰った一撃は未だに彼女の視界をふらつかせるが、致命傷ではない。
本気で殴られていたのならば、今頃頭が破壊されて彼女は死んでいた筈だ。
そうなっていないということは、つまり一鬼がそれを止めていることに他ならない。
超越者もまた彼女達と同じく一鬼以外のことはどうでも良い者達なのだから、一鬼以外の為にそうする筈がなかった。
彼らは血を分けた肉親であろうが、同じ仲間であろうが、一鬼の為ならば迷いなく殺す。
だからこそ、これは彼女にとって好機なのだ。
「はぁ……それで、まだやりますか? 貴方に勝ち目などありませんよ?」
「ええ、やるわ……その余裕を浮かべている顔をブッ飛ばしてやるから」
「それはまた……随分と血の気が多いことで」
『美空、もう止めなさい!!』
「うるさい……うるさいうるさい!! 私は―――兄さんに、一鬼に会う!!!」
白雪の言葉は美空には届かない。心に響かない。
同じ白雪である彼女だからこそ、遠ざけることができてしまう。無視できてしまう。
激情に身を任せて力を振りかざすことに戸惑いはない。それが彼女なのだ。それが妖狐なのだ。
空虚で、虚栄心が強い癖に嫉妬深いからこそ、妖狐は妬んだ一族を殺し続けて来た。
その空虚さを埋める為に、必死に己よりも優れた種を滅ぼして来た。その手を血で染め続けて来た。
彼女はその業に従っているに過ぎない。純粋なる妖狐であるに過ぎない。
美空はもう神谷美空としての己を捨て、白雪となった。
しかし、彼女の中に宿る『一鬼を信じたいと思った白雪』は……白雪の良心は、それを許せない。
かつて、それは逆だった。彼女が良心であり、白雪が激情のままに動く化け物だった。
だが、今は違う。いや、今も変わらない……良心を排除した白雪と同化した今の彼女は、以前の白雪そのものだ。
そして、歩んでいる道もまた一年前と同じ絶望に続いていると、彼女は知らない。
知らずに抗い続け、求め続け―――最後の最後で、また絶望に染まるのだ。
金虎とは、文字通り黄金の虎である……というのにはかなり語弊がある。
虎は二足歩行をしないし、黄金に輝く鎧のような肉体を持たない存在なのだから。
では、金虎はいったい何なのか?……その答えは、ずばり黄金の超越者である。
七人しか座ることのできない席の一つを手に入れた、類稀なる能力を持つのが、金虎だ。
紫鬼とブルー・シャーマンを除いて、最初に覚醒した超越者でもあり、その忠誠心は最も強いと言える。
そんな金虎との対話に、一鬼は今までのような仕方はできなかった。
一人の守護者として、一人の戦士として、上下関係を完全に捨て去って彼は語り合おうと思ったのだ。
だから、今彼らは互いに座りもせず、上下を作りもせず、ただ立って向き合っている。
黄金の眼と赤い眼が合い、視線が交差する中で、彼らは強い共感と衝突を覚えた。
まだ互いに一言も発してはいない状態だが、しかし一鬼は既に金虎の本質を理解しつつある。
それ程に強烈で、シンプルな信念の元に黄金の超越者は生きていた。
『金虎、良く来てくれた……今までの者達と違い、上下を作ろうとしないのには非常に好感が持てるぞ』
「滅相もありません。私は貴方が向き合うことを必要としていると悟り、こうしているに過ぎません。私の役目は貴方に非情さを、そして恩に報いることを教えることでしたので」
『……つまり、お前は俺の人格形成に大きく関わろうとしてくれていたのだな。ありがとう。お前のような者が居てくれて、俺は幸せ者だ』
「それができなかった私に対しての皮肉であろうとも、甘んじてお受けしましょう。必要なのは、弱さを受け入れ、それに立ち向かうこと。恩を返すことも結局はそこに収束します」
『ふふ……そうだな。恩を返すということは、己が抱えている負い目をどうにかすることだ。重荷を取り除こうとすることだ。そして―――』
「『純粋な感謝を伝えること』」
一鬼と金虎の言葉が重なり、塔を震わせた。
二人の超越者は、とても似ている部分がある。恐ろしく鏡写しのようになっている部分が存在する。
それを両者は自覚し、ただ対峙し続ける。互いの信念を捻じ曲げるのが難しいことを、互いが悟った今、言葉に重みは増す。
互いが互いを思いやり、どうにかして良い方向に導きたいと思う。その意思を叶える手伝いをしたいと考える。
強過ぎる信念はぶつかる兆候を見せているが、しかし彼らは互いが互いを思いやっていた。
その恩に応えようと思っていた。応え続けるという信念を、深く心に刻みつけていた。
『不思議な感覚だ。俺は、お前に会えて本当に良かったと思えている。ブルー・シャーマン以外にも、他の生きる理由を見出せる超越者が居てくれるとは……』
「私の忠誠心が足りないだけのことです。ですが、その点に関しては改めるつもりはございません。超越者として私は自立する必要をかつて感じました。一鬼様をお守りする為に……いえ、この時の為に、私が皆の支柱になる必要があると感じたのです」
『実に頼もしい。ブルー・シャーマンがお前を重要視した理由も理解できた。お前は、誰よりも俺にとって必要な超越者だ。お前だけが俺に敵対できる。お前だけが、俺を害し得る。分かるか?……お前は俺と同じ方向を絶対に向きはしない。だから、ぶつかる。俺とぶつかってくれる。敵対してくれる。それが―――俺にはこの上なく嬉しい』
「心得ております。私は超越者に対するカウンター……他の超越者の敵となり、その成長を促す存在です。ブルー・シャーマンは観測しかしてくれない。紫鬼は貴方を守るだけ。ですが……私は貴方とぶつかります。この命も何もかもを賭けて、その命を奪いに行けます」
『そうだ。お前のその精神こそが、俺が欲しかったものだ。俺は……否定者が欲しい。俺と異なる道を進み、ぶつかり、しかし倒れない強敵が欲しい。お前ならば分かるだろう? 一人は……寂しいものだ』
一鬼と金虎は似ているが故に、同じ道を歩める。ぶつかり合うこともできる。
今まで彼が出会ってきた敵は、皆そうではなかった。
インディゴやイエロー・レディはただ己の欲望の為に動いていてだけで、まともに互いの存在そのものをぶつけあうことは無理である。
彼と向き合おうとしたのは、今まで羽月や愛梨だけで、彼らには彼とぶつかり続ける強さはなかった。
優希はそもそも痛みから逃げただけであり、彼とはぶつかることはできない。
だが、金虎は一鬼とぶつかり続けることができる。
同じ超越者であり、彼と同じかそれ以上の強い精神を持つ黄金の超越者は、まさしく好敵手になり得る存在だ。
単純な力で言えば彼よりも遥かに下かもしれないが、だがその精神力は彼以上である。
彼が本当に欲したのは己よりも強い心を持った者だ。己よりも強い好敵手だ。高め合う仲間だ。
今まで足りなかった好敵手に金虎はなり得る。彼を高みに導く存在に……ぶつかりあう強敵になり得る。
それこそが、一鬼が求めた重要な要素の一つだ。
「はい。理解できます。私も、一鬼様に会うまでの三十余年の間は孤独でした。己の力の全てを発揮できず、苦しい日々を過ごしました。ですが、貴方という光と出会い、同じ超越者達と出会い……それも終わったのです。私はもう力を抑え続ける必要はありません。私には、同等以上の力を持つ者達が居ます。その機会を与えてくれた一鬼様に、私は報いたいと考えています」
『だからこそ、俺はお前にぶつかって欲しい。迎合せずに、俺と正面からぶつかり合って欲しい。頼めるか?』
「勿論です。その為に私はここに居るのです」
『ありがたい……お前のような者が居たならば、俺は更に上に昇れる』
一鬼はゆっくりと頷く金虎に感謝しながら、今まで出会った超越者達のことを思い出した。
彼にとっての兄であり、尊敬すべき相手でもあった紫鬼は彼に執着を見せつけた。
藍龍は純粋さが生み出す狂気を、紅鴉は素直な気持ちを、カナリーは他者への憧れを、彼に教えてくれた。
そして、今金虎が彼に強敵というものを教えてくれようとしている。
かつて一鬼は羽月を強敵、好敵手としていた時期があった。
しかし、それはすぐに羽月が追いかける側になるという結果に終わっている。
それでも追い続けることを止めない羽月の強さから、彼はどんなに己が格下でも諦めないことを学んだ。
元々その諦めの悪さを彼は持っていたが、それは飽くまで己や大切な者が危機に晒された時にしか発揮されなかった。
その力を己の為に使う土台は、羽月が作ってくれたのだ。
「私の過去については、既に粗方ご存じでしょうが、一つはっきりと語っておくことがあります」
『なんだ?』
「私が他の超越者に比べて格段に迫害された理由は一つのみ……私に子を成すことができないからです。私に性別という概念がないからです」
『……無性ということか?』
「はい。『白虎』を目指す一族の中で、その正反対の黄金となり、次世代を残せない癖に、悲願とした存在よりも強い私を、一族は忌み嫌いました。私からすればそのようなものはどうでも良いことでしたが」
『それはまた……随分と複雑な理由だな』
金虎が無性であるということに、一鬼は驚いた。
元々ブルー・シャーマン、インディゴ、金虎は性別があるかどうか怪しい存在だ。
皆余りにもそういったものから逸脱しており、そもそもそのようなものを必要としているとは彼には思えない。
口調こそ男性のものではあるが、しかし性別などというものが介入するような次元の存在ではなかった。
インディゴは進み方こそ間違えたが、その能力は間違いなく超越者に次ぐ程のものだ。
白雪がインディゴをブルー・シャーマンよりも上の藍色の妖として配置したのも、一鬼は理解できる。
確かに単体ならばブルー・シャーマンに勝つことは不可能だろうが、それでもインディゴの能力は全妖中最強と言えるだろう。
一年前、八尾の二倍に相当する力を得た一鬼ですらも、何度も追い詰められたのだ。
白雪の能力ならば勝てるだろうが、しかし逆に言えば瞬間移動できない白雪ではインディゴには勝てない。
しかし、それでもインディゴは超越できない。超越者にはなれない。
紫鬼の肋骨の力で以て模倣を創造に昇華したのは流石だが、超越者と比べればゴミだ。
どの超越者であろうとも、インディゴを一瞬で殺せるだけの力がある。それだけの力の差がある。
だというのに、藍龍達は性を以て生まれた。金虎達はそれを持たずに生まれた。
その違いに恐らく共通点はないのだろう。ただ、世界がそうしただけなのだろう。
インディゴはそれを勘違いして、自分も超越できると思い込み、紫鬼に殺された。
超越者が一鬼という光に依存する闇であることを理解しきれずに、殺されたのだ。
「いいえ、複雑ではありません。原因は単純明快。私はただ異質だった……そして、彼らにとっては強過ぎた。だから、恐れた。迫害した。それが事実です。私は彼らを憎んでもいませんし、愛してもいません。何度も刺客を送られました。何度も面と向かって、必要ないと言われました。そのような者達を愛せる筈がない」
『当然だな。愛は愛を受けなければ生まれない。開花しない。自覚できない。憎悪しか向けない者を愛することはできない。そこにはかつて愛があった筈だ。思いやりがあった筈だ。そうでもないのに、愛するなどというのはまやかしでしかない』
「その通りです。それは、ただの逃避です。その逃避から本物が生まれることもありますが、それは育まれない。憎しみを糧に愛は育めません。愛を糧に憎しみは育めるというのに。愛を燃料に、憎しみの炎は燃え上がるというのに」
『……益々気に入った。お前はやはり最高の好敵手になり得る存在だ。生まれてきてくれて―――ありがとう』
一鬼は気分が良かった。
金虎は彼にとってのカウンターになり得る。彼を責めることができる。彼と敵対することができる。
他の超越者は彼の弱さを言及することはあっても、敵対することはできない。
藍龍ならば彼の望みとして受け入れるかもしれないが、しかしそれを最初からしはしないだろう。
カナリーや紅鴉にはそれはできない。彼女達は優し過ぎる。彼に対して甘過ぎる。
元来は、紫鬼という最強にして最大の闇が光である一鬼へのカウンターになる筈だったのだろう。
二人の持つ鬼火は形こそ違えども、その本質は鬼であり、闇と光で表裏一体だ。
だからこそ、紫鬼は一年前彼と敵対してでも碧を殺そうとした。その信念を貫き通した。
結果として一鬼は死に、紫鬼も死んで終わったとは、何とも皮肉なことである。
その役割を、金虎は引き受けてくれている。紫鬼の代わりに、彼のカウンターになってくれる。
だから一鬼は、その言葉に金虎への感謝を乗せる。
その重みを保つ為に、たった一度だけの―――最初で最後の言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます。どうやら、私はまだ貴方に必要とされているようだ。しかし……私は貴方にいつでも反する覚悟があります。一鬼様こそ、私に肩入れし過ぎぬようにお気を付けください」
『分かっている。藍龍とカナリーを受け入れた已上は、彼女達を差し置いてお前ばかりを特別視はできないからな。特別視でも、方向性が違うということを分かってくれる分、彼女達は碧よりもやり易い』
「殺戮者達姉妹は妖狐の権化……まさしく空虚で、嫉妬深く、飽くなき欲求を持つ者達です。私は両者の殺害を提案します。それが無理ならば、せめて妹の方の始末を」
『言われずとも白雪は殺す。だが、碧はダメだ。碧を受け入れると俺は決めた。お前達全員を殺してでも、俺はあいつを守る―――そう決めている』
「その覚悟がおありならば、止めはしません」
金虎は嬉しそうな声音で言うと、その黄金の眼を細めた。
人間ならば白目である部分は、金虎の場合黒であり、それがインディゴを想起させる。
インディゴもまた元来白目である部分が黒で、その中に純粋さを感じさせる藍色の眼があった。
両者は同じく人外そのものと言える容姿をしているが、その大きな違いが信念に伴う責任を抱える覚悟があったか否かだ。
金虎はそれがあったからこそ超越できた。インディゴは無かったが故に超越できなかった。
力が超越者を生み出すのではない。超越者が力を生み出すのだ。
力を得たから超越者になったのではない。超越者だからこそ、力を得たのだ。
インディゴはそれを知らなかった。超越者が持つべき強さを履き違え、ただ力を持つだけの怪物だと見做した。
しかし、超越者が化け物と見做される最大の理由は、力ではなくその生き方だ。狂気の世界に生きる、その生き様だ。
インディゴにはそれがなかった。それを持たなかった。
ただの激しい狂気……動の狂気などでは、超越者にはなれない。周りを傷つけるだけの狂気などでは、席に座ることはできない。
誰かを愛し、守ることに全てを注げるだけの狂気こそが、超越者には必要だ。
己の虚しさを埋める為に全てを奪うのではなく、己の守りたい者の為に全てを差し出す狂気があって、初めて『望まれた守護者』になれる。
所詮他者を食らうことしかしなかったインディゴに、そうなることなど最初から不可能だったのだ。
『金虎、一つ聞きたい』
「なんでしょうか?」
『覚悟をすれば、何をしても許されると思うか? 罪を受け入れたならば、何をしても良いと思うか?』
「戯言ですね。許される筈がない。赦す筈がない。ですが、それでも私達は進むのです。そもそも、罪とは何ですか? 人間の定義に妖が従う必要はありません。況してや、私達超越者が従うなど笑止。そのことを気にしても、意味がないのです。貴方は人間である神谷一鬼を捨てた筈……今更そのようなことを言及するとは、呆れたものだ」
『……そう、だな』
一鬼は確かに人間としての己を捨てた。
もう神谷一鬼はこの世には居ない。
彼は碧を守る代わりに、紫鬼との戦いで死んだ。空の超越者として、超越者達と共に生きねばならない。
もう人間には戻れない。明や美空と共に居ることはできない。一矢は居ない。羽月も居ない。愛梨も居ない。
もう、彼の帰る場所はないのだ……彼がかつて己の居場所とした場所は、既に崩壊しているのだ。
そもそも、一鬼は人間の中に居て良い存在ではない。
だから、一年前一度死んだ時が潮時だった。それこそが、彼が悟った分岐点だった。
彼は人間の世界に居ても窮屈なだけだ。そこで生きている限り、常に己を抑制し続けねばならない。
だが、超越者達と共に生きればその力を発揮できる。同じ苦悩を共有できる仲間がいる。
結局彼は自ら人間の世界を捨てることを選んだのであって、そこに後悔はない。
だが、彼から始まった悲しみが多くの死を齎したのもまた事実。
故に、それを振り切るべきか彼は悩んでいた。
「振り切れば良い。捨て去れば良い。貴方の背負うべき罪はそこにはない。一鬼様、貴方はこの地球を制御されていない怨念から解放する為に生まれた光です。貴方が背負うべきは人間共の罪ではなく、地球に圧し掛かった怨念……妖の罪です。貴方が生きている世界は人間のそれではなく、妖の―――否、私達超越者の世界です。そこに人間のルールを持ち込むのはナンセンスだ」
『確かにそうだな。そうか……お前達からすれば、そうなるか。確かにナンセンスではある』
「人間の世界に干渉することは、止めはしません。ですが……それに囚われるのは許せない。人間になりたいのならば、それも構いません。この世界の怨念に均衡を齎した後に人間に紛れることも可能でしょう。ですが―――貴方はずっと一人のままだ。力も己も抑え続け、壊れることもできない日が続くだけだ。はっきり言って、貴方の幸せはあの世界にはない……それが現実です」
『そう、だな……全く以てその通りだよ。ここまで見透かされたのは初めてだ……流石だな』
「藍龍も既に気付いていた筈です。ただ、貴方を思いやって言わなかったに過ぎません。私は貴方を傷つけることを恐れない。その先に成長がある限りは、対立することも厭いません」
金虎の言う通り、もう神谷一鬼は一年前に死に、超越者としての一鬼が蘇りつつある。
もう今の彼が人間の世界で暮らすことは叶わない。
彼が本気を出せば、地球が消える。全てを燃やし尽くせるだけの火力が彼にはある。
全てを無に帰すだけの力は彼が全力を揮うのを許さず、その強靭過ぎる肉体は、精神は、彼に刃向う者を殺す。
どんなに彼が力を制御しても、何桁もの違いがある質量は容易に人体を破壊する。
人間にとっては軽くつまんだだけのつもりでも、蟻が簡単に潰せてしまうのと同じく、人間は彼に簡単に殺されるだろう。
結局、力の差があり過ぎる超越者と人間は相容れない。
彼らは常に核ミサイルに匹敵する脅威を周囲にばら撒き、人間を恐怖させるだろう。
何十トンは愚か、それ以上の質量にすら達する者が居る超越者からすれば、人間などもはや塵芥だ。
拳では立ち向かえない……破壊されるのは人間の拳のみだ。銃も、ミサイルも、何も効かない。
それが超越者だ。それが、超越者とただの妖の間にある大きな力の差だ。
碧や白雪ならば核さえあれば殺せるが、超越者にはそれすらも効かない。
その中でも最上位に値する一鬼が、人間と共に生きるなど不可能だった。
『金虎……』
「今外で起きている戦いは、紅鴉の敗北で終わりを告げるでしょう。あれは甘過ぎる。出来損ないとはいえ、妹の能力は強大です。殺しはできませんが、遠くに転送することはできる」
『……白雪の能力か』
「だからこそ、私が出るつもりであったというのに、貴方は……」
『それに関しては謝る。だが、お前に何かのはずみで美空を殺される訳にはいかない。その心配は無用のようだが、お前とこうして実際に対話するまでは信じ切れなかった』
一鬼はブルー・シャーマン達の言葉を鵜呑みにして、金虎を戦いの場から遠ざけた。
今現在外でカナリーと紅鴉が碧達の相手をしているが、元来はそこに金虎が居た筈だ。
それを彼はここに呼ぶことで邪魔した。美空達を殺し得ると判断し、黄金の超越者を戦場から遠ざけた。
今ならばそのような心配をすることはなかったと分かるが、しかし逆に言えば確認するまでは確信できなかった訳だ。
彼はそこに己の未熟さを見出し、反省した。
金虎は確かに紫鬼と同じく一鬼の意思に反することもできるが、同時に筋を通すことを忘れない。
だからこそ、一鬼の願いに一度頷いた今それを撤回する筈が無かった。
だというのに、彼はそれを信じ切れずにこうして呼び出し、戦いの場から遠ざけている。
金虎を信じ切れなかった己を恥じながら、彼はこれからその恥じを生かそうと決めた。
「今ならば、信じて頂けますか?」
『勿論だ。あのバカ達を追い払って来い』
「承知」
金虎は一鬼の言葉に静かに頷くと、その場から消えた。
一鬼にとって、碧と美空は大切な存在だ。白雪は憎むべき仇だ。
白雪と美空が同化しているのならば、それを引き剥がすしか、白雪のみを殺す術はない。
それを為す為にはブルー・シャーマンの力が必要だ。『境界』に渡る力が必須だ。
彼自身は境界に渡る力を持たず、ブルー・シャーマンに依存するしかないのが現状である。
白雪を引き剥がせるのは蒼炎の超越者のみであり、他の超越者では美空も殺してしまう。
だからこそ、今は耐えねばならない。
金虎達からすれば、碧も白雪も憎むべき敵だ。前者は一鬼を二度死なせ、後者は超越の資格を持ちながらも一鬼に二度目の死を齎したのだから。
彼らからすれば同じ超越者になる筈だった者が光を独占しようとしたことは許し難いものである筈だ。
一鬼は純粋に羽月達に死を齎した白雪を憎んでいる。超越者か否かなどどうでも良い……今度こそ、仇をとるのだ。
全ての原因は彼にあるが、しかしそれで復讐を諦めることができる程、彼の愛梨達への思いは弱いものではない。
二年前の事故、そして一年前の悲劇を仕組んだ妖狐を、彼は絶対に許しはしない。
『白雪……待っていろ。俺が―――必ず殺す』
虹色の炎を辺りにまき散らしながら、彼は静かに呟いた―――その言霊を現実に変えると決意して。
飛び交うミサイルの嵐を軽々と潜り抜ける紅鴉に、美空はイラついていた。
先程貰った一撃は未だに彼女の平衡感覚を狂わせたままで、いかに強力な一撃であったのかが分かる。
しかし、それでも手加減はされていた。もしも本気で殴られていたならば、既に彼女は死んでいるだろう。
超越者達が一鬼の願いによって全力を出せないのならば、それを利用するしかない。
既に彼女の……白雪の能力を使う条件は一つを除き揃っている。
しかし、その残りの一つの条件をクリアするのは至難の技だ。
今対峙している深紅の超越者ならばどうにかできるだろう……甘さ故に少しも本気を出していないのだから。
しかし、他の超越者相手ではこうはいかない。今目の前に居る超越者をどうにかできても、その後で詰む可能性が高い。
それでも、彼女は進むしかない。一鬼を手に入れる為に、完全なる復活を阻止しなければ。
『美空、もう止めて……このまま戦い続けても無意味よ』
「バックアップは黙っていなさい! 私は……兄さんに、一鬼に会う!!」
『美空……どうして……』
「やれやれ……何やら話が噛み合いませんね。中のお友達との会話ですか?」
「っ……この……化け物が!!」
特に何の感慨も込めていない表情で、爆炎の中から現れた紅鴉に、美空は内心恐怖した。
ミサイルが効かないということも、予想していなかった訳ではない。
白雪と融合し、その記憶を参照できる今の彼女は、その可能性を十二分に考慮していたつもりだった。
しかし、そのような甘い考えを打ち砕くように、深紅の超越者は彼女を見透かす。全てを無効化する。
これで総合力が最下位だというのだから、超越者はまさしく宇宙規模の力を有する化け物だ。
美空の中に『一鬼を信じたいと思った白雪』……つまりは白雪の良心が宿っていることに紅鴉は気付いている。
人間の心を見透かすサトリでもないというのに、妖である彼女の内側にある本質のブレに気付いているのだ。
このまま突き進むという意思を持つ彼女と、それを止めたい白雪の良心が生み出す歪さが、見透かされている。
そこに恐ろしさを見出しながら、彼女は更にミサイルを呼び出した。
インディゴのそれとは違い、有限である為無駄使いはできないが、世界中の兵器を利用すれば全ての超越者を相手にするぐらいのことはできる筈だ。
「化け物で結構ですよ。癇癪持ちなのは、どの妖狐も同じですか……困ったものだ」
「この……そのすかした顔を歪ませてやる!!」
「はぁ……そうですか」
「この……バカにして!!」
『美空、駄目よ!!』
白雪が制止したが、遅かった。
美空は数発のミサイルを呼び出し、それに追随する形で紅鴉に突撃を始めてしまう。
呆れを多分に含んだ表情のままそれを迎え撃つ深紅の超越者に対して、彼女は恐怖を禁じ得ない。
一年前から何一つ変わっていない。白雪という妖が、超越者を誰よりも恐れていたことは、変わらないのだ。
それでも、その恐怖に勝るだけの一鬼への執着が彼女を動かす。立ち向かわせる。
そうでなければ、とっくの昔に逃げ出している。
彼女と超越者達の間にある差は、それ程に絶望的なのだ。
「っ……!」
ミサイルが紅鴉に直撃し、爆発によって発生した煙の中を美空は進む。
どうせ居場所は気配察知によりバレるが、どのような攻撃を繰り出してくるかまでは分からない筈だ。
彼女に必要なのは一瞬でも超越者に触れることであって、それさえあれば勝機はある。
戦いで勝つことは限りなく不可能に近いが、負けない戦い方を彼女は選べるのだ。
彼女が望むのは戦いの末の勝利ではなく、全ての超越者の裏をかいての勝利だ。
超越者と戦う必要はない。美空が必要としているのは、一鬼の完全な再生の邪魔のみ。
それをさせまいと立ちはだかる超越者達はすり抜ければ良い。真正面から戦う必要など何処にもないのだ。
まともに戦えば彼女に勝機はないが、超越者の裏をかくことくらいはできる。
何もかも捨て去ってここに彼女は居る……もう戻れない。戻る場所はない。全てを捨てて来た彼女に、逃げ場はない。
「……無駄です」
「うっ!?」
狙いすましたかのように、煙の中から伸ばされた手が美空の首を掴んだ。
それが紅鴉のものであるという確証は、彼女にはない。
超越者の気配は巨大過ぎる為、ただの妖には正確な位置を把握できないからだ。
しかし今彼女が戦っているのは他ならぬ深紅の超越者であり、別の者ではない筈だった。
だから、彼女は力を使う。何の躊躇いもなく、その腕を両腕で握り締めて。
万力と言える程の圧倒的な力で締め上げて来る手に意識が遠のいていくのを感じながらも、彼女は……力を使った。
まともに戦っても勝てないが、勝機はある。
「……死ね」
「!? これは―――」
紅鴉が驚きの声を上げた瞬間―――その姿は消えた。
美空の……否、白雪の力は物質を移動させるものであり、基本的には視界にあるものを移動することができる。
この能力に制限はなく、強いて言えば距離に比例して消費するエネルギー量が増すことくらいだ。
その燃費の良さは凄まじく、地球上ならば一日に何十回でも己を含む物質・若しくは生命を移動させることができる。
しかし、これには超越者は含まれず、彼女の強みは大きく削がれる。
白雪の瞬間移動は、彼女が実際に触れたものを移動させることもできる。
こちらの方は燃費が前者に比べてかなり悪いが、その代りに非常に強力だった。
完全に触れた状態でなければ移動できないのは欠点だが、こちらでなければ超越者には通用しない。
だからこそ、彼女は紅鴉に接触する必要があった訳であり、彼女への手加減がその機会を与えてくれた。
もう深紅の超越者の気配は何処にもない……彼女に感じることができない遥か遠くに行ってしまったのだ。
代償として体力の大部分を奪われた為、同じことをもう一度することはできないが……何とかなるだろう。
「はぁ……はぁ……ゲホッ……そのまま……太陽に……焼かれて……いなさい」
『美空……なんてことを……』
「バックアップは……黙って……いなさい」
そう、美空が瞬間移動で送った場所は太陽……全てを焼き尽くす炎の星だ。
純粋な身体能力面でも、火力面でも、彼女では超越者を倒すことはできない。
だが、太陽に送りさえすれば、そこには超越者を殺し得るであろう天然の火力が存在する。
所詮ただの九尾でしかない彼女では元来一合の元に殺されるだけだが、一鬼の言葉が超越者達に彼女を殺させない。
だからこそ、彼女が付け入る隙が生まれた。希望が生まれたのだ。
そうでなければ、彼女は既に殺されていた。
絶望的な差が彼女と超越者の間にはあり、まともにぶつかれば勝敗は一瞬で決する。
彼女は反応することすらできずに、その心臓を破壊されて死ぬ羽目になっていただろう。
だが、今彼女は超越者の手加減と油断を利用して、太陽に一人送った。
これで残りは三体のみ……後三回同じことをすれば、一鬼を守る者は居ない。
その三回が途方もなく辛く、困難なものであることを彼女は知っているが、止まることはもうできなかった。
彼女は己の手で自分の居場所を捨て、ここに来たのだ……今更おめおめと戻れる筈がない。
「はは……やった……これで……後……三人……」
『なんて……無駄なことを……』
「はぁ……はぁ……無駄なんかじゃ……ない……だって……」
「ほぅ……興味深い。無駄ではない、と言い切るか」
「――!? あっ……」
紅鴉を遥か彼方に飛ばしたことで悦に浸っていた美空であったが、それは瞬時に絶望に変化した。
前方に現れた黄金の超越者の姿に、その膨大な力に、彼女は絶望しそうになってしまう。
先程まで戦っていた紅鴉の何十倍……いや、何百倍もの力を彼女は感じていた。
あり得ない程に強大で、もはや彼女を石ころとすればこの地球にすら匹敵するのではないかと思わせる程だ。
彼女はそんな力を前に絶望しかけ、しかし同時に立ち向かう勇気を振り絞る。
一瞬で掻き消えそうな弱弱しい勇気でしかないが、それでも美空には必要だった。
紅鴉ですらも絶望的なまでに強かったというのに、その何百倍もの力を感じさせる金虎を前にしては、戦意を保つことなどできない。
それでも、振り絞った微かな勇気で以て、彼女は前に進む。立ち向かう。
脆過ぎる覚悟はあっという間にヒビ割れていくが、まだ壊れてはいない。
まだ戦える……まだ立ち向かえる……そう己に言い聞かせ、彼女は前に進んだ。
「ふむ……一先ずは良く耐えたと言っておこう。その気になれば貴様程度発狂死させるのは容易いが……今回はそうもいかないものでな」
「……バカに……しないで……」
「その度胸に免じて、一度だけお前に機会をやる。一度だけ、お前の攻撃に私は一切反撃しない。今紅鴉を遠ざけたその力を、私に使ってみるが良い」
「……なんですって? いったい何を考えているの?」
「言った筈だ。お前に一度だけ機会をやる、と。お前からすれば、この上なく魅力的な提案だ。どうする?」
「……バカに……するなあああああ!!」
美空は迷うことなく、黄金の超越者に飛びかかった。
その行動は酷く浅慮なものではあるが、しかし彼女には超越者が嘘を言っていないという確信がある。
超越者は嘘をつけない……そういう風に定められているのだ。そういう風にできているのだ。
だから、彼女に一度だけ機会を与えると言った言葉は嘘ではない。それが嘘ならば、この黄金の虎は超越者の座を失う。
嘘をつけないことこそが超越者の証の一つなのであって、それができてしまえば超越者ではないのだ。
故に、美空は何の迷いもなく、与えられた餌に飛びつく。
彼女を完全に嘗め切っている黄金の超越者の態度を利用しない手はなかった。
既に彼女は体力をかなり消耗しており、余計な力を使うことなく超越者を退けられたならば、それで良かったのだ。
手を伸ばし、黄金の超越者の肩に触れ、そのままありったけの力で以て空に浮かぶ月の裏側をイメージする。
そこまで飛ばせば、訳四十万キロの距離を確保できる。
仮にこの黄金の超越者の最高速度がマッハ数十であろうとも、少しは時間を確保できる訳だ。
取らぬ狸の皮算用をしながらも、美空は黄金の超越者に対して能力を行使し……そこからそれは消えた。
一瞬で居なくなり、遥か遠くに……空に浮かぶ月の裏側に現れた気配に、彼女はにたりと笑う。
消耗が激し過ぎ、もう後一戦が限界ではあるが、今ならば何とかなりそうだった。
「……はは……やった。やった!!」
『美空……力の使い過ぎよ。もう止めて……』
「はは……ははははは!!」
『美空……なんで……こんなことに』
聞こえてくる良心の声は切り捨て、ただ美空は笑う。
黄金の超越者もまた深紅の超越者と同じく、彼女を甘く見て遠くに飛ばされた。
いくら彼らが彼女の何十倍もの速度を誇っていたとしても、数十万キロを一瞬で駆け抜けるのは無理だ。
それこそ、光の速度にでも達しない限り、前者は数時間、後者は何年レベルで戻ってこられない。
だからこそ、彼女は安堵した。それだけの時間があれば物量でこの光の塔を崩せると思った。
それさえできれば、彼女の勝利は決まったも同然……そう考えて笑った彼女は、今漸く恐怖から一時的ながら解放されていた。
「これで後二人!! 姉さんに押し付けた一人を除けば、後――――」
「いいや、残念だが、二人だ」
『!? 美空、避けて!!』
「……えっ?」
美空は不意に背後から聞こえて来た声に振り向き、瞬間―――彼女の左腕が宙を舞った
意識をやってしまいそうな程の激痛を感じる暇もなく、ただ彼女は綺麗に切断された左腕を見る。
そして、その傷をつけた相手を見ようとし……気付いてしまった。理解してしまった。
今彼女の眼の前に居る存在が、今先程彼女と敵対していた者だと。彼女が月の裏側に送った筈の者だと。
その黄金の眼は酷く冷たく、彼女をただの石ころ程度にしか思っていない。
それの……黄金の超越者の全身から放たれる圧倒的な力と殺意に、美空のちっぽけな勇気は粉々に砕け散った。
こんなにも強い存在を彼女は知らない。今まで見たことが無い。
かつて絶望的な強さを感じた紫鬼やブルー・シャーマンですらも、ここまでではなかった。
彼らが『虹色の肋骨』となったことでいかにその力を弱体化させていたのかを、改めて彼女は知らされる。
そして、恐怖によって勇気が押し潰された彼女を、多量出血と激痛が襲った。
「あ……う……」
「残念だが……お前の能力では私達は殺せん」
「なん……で……腕が……私の……腕……治ら……な……」
恐怖と出血によって真っ青になりながら、美空はそのまま平衡感覚を失う。
今までその体を支えていた仮初の足場が薄れていき、彼女の体は宙に投げ出された。
もはや再び足場を生成する気力もなく、ただ彼女は己が落下していくのを自覚する。
怖い。痛い。苦しい。逃げ出したい……様々なものを感じながら、彼女は落ちていく。
このまま行けば壊れてしまう……そう自覚した彼女は、無意識に一鬼が居る光の塔に手を伸ばした。
そこに彼女の義兄が居る。求めてやまない存在が居る。彼女が独占したい光がある。
光に……一鬼という光に手を伸ばして、彼女はただ助けを求めた。
「助……けて……にい……さ……ん」
『美空!? 美空!!?』
「共に落ちていくが良い、塵芥共……そして、その果てに知れ―――お前はもう光の傍には居られないことを」
黄金の超越者―――金虎の捨て台詞を最後に、美空の意識は途絶えた。




