第五話
碧は美空達を守るという一鬼との約束を守って来た。
まだ一年間しか経ってはいないが、今の処彼女が必要となる事態は起きていない。
ただ見守るだけの日々が続き、彼女は己がそこに居ても良いのかを何度も疑問に思った。
それでも、見守り続けた……一鬼との約束を守る為に。愛する男が与えた罰を甘んじて受ける為に。
彼が望んだことだ。彼が最後の最後に彼女に託した願いだ。
碧はその重さを理解しているからこそ、一鬼が傍に居ない痛みを感じながらも何とかやってくることができた。
神谷明が彼女に与えた部屋は一鬼のものであり、そこには彼の匂いや怨念が込められている。
既に一年間も経ったことでその匂いも怨念も薄まりつつあるが、それは仕方がないことだ。
流石に匂いを求めてずっと洗濯しないのも無理があるので、彼女は匂いについては妥協するしかなかった。
一鬼は程々に整った部屋で過ごしていたし、混沌は許容するが、しかし汚部屋は受け付けない。
碧はそのことを『虹色の肋骨』として彼と共に過ごした一年で学習しているし、彼女自身綺麗好きだ。
一鬼の匂いが失われていくのは彼女としては宜しくないことだが、流石に汚部屋にする訳にはいかなかった。
それに、彼女は既に一鬼が蘇りつつあることを知っている……一鬼が帰ってくる場所は大事にしておかねばなるまい。
だからこそ、年末の大掃除かと言われるような領域のまで彼女は毎月掃除し直しているのだ。
「……意外ね。まさか翌日来るとは思わなかったわ」
「鉄は……熱い内に打てって言いますから」
「確かにそうね」
碧は一鬼がいつも座っていた椅子に座りながら、来客者を見遣った。
彼女が勧めた椅子に座っている垢抜けない少女……荒木奈央は、それに対してゆっくりと返答する。
彼女からすれば見た目も中身も特筆すべき処はないただの小娘だが、一応美空の友人だ。
一鬼も生前はこの少女には気を遣っていた為、彼女もそれに倣うことにしている。
彼女は内心言葉通り荒木奈央が思いの外早く訪問してきたことに驚いていた。
碧は確かに神谷家を訪れれば良いと伝えはしたが、まさか翌日来るとは思っていなかったのだ。
余裕があるならばすぐに行動する一鬼や羽月ならばいざ知らず、この少女にはそのような思い切りの良さは感じられない。
それどころか、寧ろ引っ込み思案な部分が目立っているくらいであろうに、荒木奈央は今ここに居る。
それが彼女には不思議だった。そこまでして一鬼の情報を欲するには、少女の持つ理由は弱い
何かしらの強迫観念でもなければ、ここまですることはない筈だと彼女は考えている。
問題はその強迫観念が何かなのだが……それに関しては、聞けば素直に答えるだろう。
「確か昨日は一鬼の死因に関して話す前に話が中断してしまったわね……」
「はい」
「……そんな罪悪感を抱くようなら聞かなければ良かったのに。取り合えず、一鬼の死因は……焼死ね」
「焼死、ですか?」
「ええ、そうよ。一鬼は炎から私を庇って焼死したの。叫び声すら上げなかったのは、一鬼だったからなんでしょうね」
碧は嘘がつける……それは即ち、彼女が超越者ではないということの表れなのだろう。
彼女は確かに一年前に超越したが、それは一鬼の贔屓による無理やりのもので、ボロが出るのは仕方ない。
カナリーの一割分の力も得られなかったことは彼女も理解しているし、仕方ないことだと思っている。
本物の超越者達は、鬼火を与えられたことで元来のポテンシャルを開放されているに過ぎない。
しかし、彼女の場合は八尾が限界だったのを、無理やり十尾にまで引き上げたのだ。
一鬼が瀕死であったことを考えれば、寧ろ良くやったと言うべきであろう。
ただ鬼火を与えれば良い元来の超越者とは違い、彼女の場合は元来のポテンシャルを超えさせる必要があった。
つまり、彼がしたことは通常の超越者に対して行うものよりも高度なものだったのだ。
心臓の大部分を失い、もうすぐ死ぬであろう状態でそこまで持っていったのだから、それは凄いことに違いない。
嘘がつけるというのは、ある意味アドバンテージでもある。
時に嘘は誰かを救い得るものなのだから。
「そ、そうなんですか……すいません、こんなことを聞いちゃって」
「本当にその通りだわ。私は気にしないから良いけれど、その無神経さには気をつけなさいとダメよ。誰かを傷つけることになるし、しっぺ返しを食らう可能性も高いから」
「こ、心得ておきます」
「宜しい。それで、貴方は……どうしてこんな残酷なことを聞いたのかしら? その理由を聞かせてくれない?」
「で、ですから今まで全然知らなかったから―――」
「嘘ね。今更聞くのがまずおかしいわ。更に言えば……嫌いだった人間をそこまで知ろうとするのは不自然なのよ。昨日の説明では不十分だわ」
碧は答えてくれたら良い程度の期待を込めて、荒木奈央に問いかける。
昨夜は誤魔化されてやったが、少女が一鬼に関する情報を今になって聞こうとしているのはやはりおかしい。
そもそもが、美空ではなく彼女に一鬼のことを聞こうとする姿勢が、まず不可解だ。
美空の友人をそれなりに長い間やっているこの少女が、美空の限界を大きく見誤ることはない筈だった。
だというのに、何故美空ではなく彼女に話を聞こうとするのか……その判断基準が彼女には理解できない。
いったい何が少女にそうさせているのか……その本当の原因を聞いておかねばならないと彼女は感じていた。
「そ、その……私……美空のお兄さんのこと……本当はもっと知りたかったんです。あのひとが……本当に人間だったのかを知りたくて。私……本当は……あのひとに憧れていたんです」
「諦めなさい。貴方では手は届かないわ。それに、過去形ということは、今はそうではないのでしょう?」
「うっ……そ、そうです……あのひとは……もう、居ませんし」
「そう、鬼と人間の縁が交わることはないのよ。それが現実なの。それで良いじゃない」
「……分かっています。私はただ、知りたかっただけですから。諦めはついています」
碧からすれば、人間達が一鬼に淡い好意を抱いていようがいまいが関係ない。
彼は絶対に人間には振り向かない。友人としては共に居られるが、それ以外の関係にはなることはない。
彼女は知っている……今まで彼が深く関わって来た者達は皆二十年前の遺跡発掘に関わりがある者だと。
そうでない荒木奈央では、彼に手は届かない。ただの人間でしかない少女では無理だ。
一年前、白雪が『虹色の肋骨』を移植した者達は皆二十年前の遺跡発掘に携わった者、もしくはその関係者の子だ。
高橋一矢、佐藤羽月、柿坂愛梨、佐村優希、神谷美空、神谷一鬼……そして、インディゴに食われた名も分からないもう一人。
最後の一人は分からないが、それ以外の者達は間違いなく二十年前に一鬼を白雪から取り上げた者達の子だ。
だからこそ、彼らは『虹色の肋骨』の宿主として選ばれた。
白雪は間違いなく一鬼を奪った者達への復讐も込めて、七体の妖をこの世に解き放ったのだろう。
そうでなければ、妖側のようにもっとバラける筈だ。そこに法則が生じることはない筈だ。
妖側には白雪という共通項はあれども、全ての妖が互いの間に大きな相関関係を持つ訳ではない。
だが、宿主側は明らかに規則性があり、それは同時に一鬼にとって大切な者達でもあった。
そして、その中に荒木奈央は含まれていなかった……手が届く筈もないのだ。
「なら良いの。今後は一鬼のことを嗅ぎ回るのは止めなさい」
「はい……」
「もう十分でしょう? さっさと帰りなさい」
「はい。失礼しました」
一礼して部屋を出ていく荒木奈央を見送ることなく、碧はそのまま立ち上がる
扉が閉められた、気配が移動していくのを確認すると、彼女は鍵をかけてそのままベッドに横たわった。
こまめに洗濯している為、ふわりとした感触を齎すベッドの上でうつ伏せになりながら、彼女は一鬼の匂いを探す。
しかし、この部屋はこの一年間で既に何十回と大掃除している為、彼の匂いはもう残っていなかった。
彼が本当にこの部屋で十九年近い年月を過ごしたというのが信じられない程に、彼の匂いがない。
碧は確かにこの部屋で一鬼が過ごした日々を知っている。
たった一年間ではあったものの、彼女は彼に『虹色の肋骨』とし手宿り、その生き様を見て来た。
彼がどのような毎日を送っていたのかも知っているし、何をしていたかも細かく覚えている。
ストーカー紛いの行為ではあるが、『虹色の肋骨』はその性質上宿主から離れ辛い上に、彼女の場合は彼から五メートル以上は離れられなかった。
まぁ、仮に数十メートル内で活動できたとしても結果は同じであっただろうが。
「……一鬼に―――もうすぐ会える」
一鬼がもうすぐ蘇る……それは彼女にとって非常に嬉しいことだ。
一年前に失ってしまった時、彼女の時間は止まっていたが、今それが少しずつ動き始めている。
よもや光が蘇ろうとは彼女には予想することすらできなかったが、超越者達は理を超えた存在だ。
その中でも紫鬼に認められていたというブルー・シャーマンならば、確かにそれを為し得るだろう。
ブルー・シャーマン達は頑固ではあるが、一鬼の心も考慮していることを、碧は一年前に学んでいる。
だからこそ、彼女は昨夜殺されなかったのだろう。一対一ですら危ういというのに、三体一ではまさしく絶体絶命だ。
その状況でカナリー達が彼女を見逃したのは、ブルー・シャーマンによるものが大きい。
彼らが語っていた通り、紫鬼ならばあそこで確実に彼女を殺していただろう。
しかし、ブルー・シャーマンは違う……あの骸骨は別の道を見据えていた。
だからこそ、一年前何度も碧を見逃し、一鬼に一任したのだ。
「……私の役割を……果たさないと」
碧に与えられた役割……それはかつての紫鬼と一鬼とした誓いを果たすことである。
最初は理解できなかったが、死んだ筈の白雪と融合してしまった美空を前にして、彼女はそれを理解した。
彼女はかつて紫鬼と誓った……防波堤となり、妖狐が光を貪ろうとするのを防ぐと。
彼女はかつて一鬼と誓った……白雪を殺すと。その手で怨恨の連鎖に決着をつけると。
だが、そのどちらも彼女は為せなかった。前者は彼女自身の暴走が翡翠を行動させてしまい、後者は紫鬼が決着をつけている。
碧は守れなかった誓いを今果たせと超越者達に言われているのだ。
彼女は二百余年前、もっと早い段階で妖狐を滅ぼそうとするべきだったのかもしれない。
だが、そうなれば未来を見据える母、翡翠は結局同じ分岐を辿っていただろう。
では、どうすべきだったのか……簡単だ。紫鬼をぶつければ良かったのだ。
紫鬼ならば一瞬で妖狐を滅ぼせる。一呼吸で全てが終わる。世界すら滅ぼせる程の力がある。
勿論、翡翠はそれすらも見透かすだろうが、限界がある。
紫鬼は基本的に常に鬼の里に居たし、居ない場合は他の超越者がそこに居るのだ。
その状態を襲撃しようと画策しようとも、超越者は恐らく半径数十キロに渡る索敵範囲を持っている筈なので、近づき過ぎれば気付かれる。
碧も確証がある訳ではないが、一年前一鬼は半径数十キロ以内の気配を全て察知する領域にまで達していた。
まだ超越の片鱗すら見せずにいた状態で彼がそこまでできたのだ……他の超越者達にできない筈がない。
今更このようなことを考えても遅過ぎることではあるが。
「……覚悟を決めないと」
碧が白雪を殺そうとすれば、当然同化している美空も死亡することになる。
それは一鬼の願いに反することであり、彼女としても避けたい事態だ。
どうにかして美空から白雪を引き剥がせれば話は別なのだが、今回はそうもいかないだろう。
ブルー・シャーマンさえ居てくれたならば、恐らくその能力で引き剥がすことは可能だ。
だが、蒼炎の超越者はもう居ない。少なくとも彼女には、その存在は感じられなかった。
一年前、白雪はまたいつかブルー・シャーマンが戻って来ると言っていたが、それが真であったとしても、太陽から地球までは遠過ぎる。
一億五千万キロにも及ぶ距離では、いかに音速に達せたとしても戻るには非常に時間がかかる。
純粋な戦闘力が七尾相当であることを考慮すれば、ブルー・シャーマンの最高速度は凡そマッハ二であろう。
その場合は、秒速は約六百六十メートル、つまりは時速約二千四百キロメートルが限界だ。
この速度で地球に戻るには、概算で凡そ七年はかかる。
つまり、ブルー・シャーマンが今すぐに戻って来るのは不可能だ。
その状態でどうやって白雪を美空から引き剥がすかが問題になる訳だが、彼女に良い案は無い。
一鬼が居てくれさえしたならば、彼がその力で以てブルー・シャーマンに会いに行っただろう。
だが、彼はまだ再生の途中だ……恐らくあの塔から動けない。
この限られた手しか打てない状態でどうやって誓いを果たすべきか考えながら、彼女は静かにこれから先の不安に丸まる。
「一鬼……私を導いて」
一鬼に頼ることしかできない彼女は静かにそう呟いて、そっとその眼から涙をこぼした。
静寂が支配する塔の中で、一鬼はただ星空を見上げていたが、暫くして近づいてきた気配に顔を下げた。
近づいてきた気配は現存する完全な超越者の中では最も小さいが、しかし純粋さを感じさせる。
藍龍が純粋な愛を持つ者なのだとすれば、この気配は素直さを持つ者であろう。
それが何の素直さなのかは、今の不完全な彼には理解できないが、恐らく今近づいているのは最も素直な超越者だ。
彼が学ぶべきは水のように滑らかなその素直さであろう。
「紅鴉、参上いたしました」
『守護して貰っている身分で呼び出してしまって済まないな』
現れたのは、深紅の眼と髪を持つ青年だった。
紅鴉と呼ばれたこの青年は、紫鬼達とは違い酷く優しげな風貌をしている。
だが、その実黒い部分を持っているのではないかと邪推することすら許されない。
何せ、相手の本質を見抜く一鬼の眼には、その内部も澄み切っているのがはっきりと分かるからだ。
藍龍が深海の如き深みを持つ闇であるのならば、この超越者は透き通った水のようである。
純粋である点では似通っているが、その方向性が違うのだ。
具体的に何が違うのかまでは、今の彼では感じ取れないが、そこに大きな差異があるのは間違いない。
臣下の礼を取る紅鴉の顔は見えないが、その全身が良く鍛えられていることは容易に分かる。
しかし、その空気は戦士というには余りにも優し過ぎ、鋭さが足りない……というよりも存在しない。
恐らくは、それこそがこの超越者が持つ歪みであり、強みなのだろうと彼は即座に気付いた。
ある意味最も明鏡止水に近いこの超越者は、きっと彼に多くを教えてくれる。
「いいえ、私個人としても是非一鬼様とお話したいと思っておりましたので」
『そう言ってくれると助かる。紅鴉、面を上げてくれ。臣下の礼も必要ない。俺達は皆同じ超越者だ……そこに差異はあれども、位階は存在しない』
「はい、一鬼様。私の出自と、ここに至るまでの決意をお話すれば宜しいのですね?」
『話が早くて助かる』
一鬼の言葉に素直に立ち上がった紅鴉の姿は、傍から見れば好青年にしか見えない。
戦いとは無縁の者にしか見えないその雰囲気は、紫鬼とは正反対だ。
藍龍ですらも、その背景に血腥い殺しと戦いの匂いがこびり付いているというのに、紅鴉からはそれが感じられない。
一鬼はそのことをはっきりと認識しながらも、同時にこの深紅の超越者の奥に潜む残酷さを見抜いた。
この超越者はいったい何人を嫉妬させ、何人をその果てに発狂させたのだろうか?……そう彼は思う。
紅鴉の外見は確かに美丈夫と言えるだけのものだろうが、妖としては中堅程度のものでしかない。
良く言えば平均的、悪く言えば平凡なのだ。超越者でありながらも、平凡な容姿をしているのだ。
勿論人間などと比べるのもバカらしい程に美しい容姿をしてはいるが、純朴さが目立つ。
棘を持たない代わりに華も無い、というべきか。
しかし、だからこそこの超越者はある意味最も必要な存在なのだと彼は瞬時に納得できる。
「私は『南』の一族に生まれ、他の超越者同様十五の時に七尾に到達しました……とは言っても、私は一番若輩者でして、超越したのも最後の方だったのですが。取りあえず、私と他の三名の違いは迫害されなかったことです。私達の一族は甘さで有名でして……ご存じかとは思いますが、最も多くの一族と親交を持っていた一族です」
『ああ、知っているぞ。妖狐とまともに交流していた唯一の種族だったのだろう?』
「そうです。私達は優しさこそが強さという信念の元生きてきました。その信念が当時妖狐と戦う時期を遅らせたのは、非常に皮肉なことですが」
『……そうか。『南』の一族が戦いに否定的であったことも、関係していたのか』
「はい。私達は火の鳥を目指しはしましたが、それは力を求めてではありません。ただ、始祖がどのようなお姿をしていたのかを実際にこの眼にしたかったが故です。『南』の一族は争いを極端に嫌い、結果滅びの結末を迎えたのです。愚かではありますが、きっと彼らはその決断を後悔していないでしょう」
紅鴉は、その深紅の眼を細めて一鬼の赤い眼を見据えた。
その後悔の無さはある意味開き直りであり、同時に悲しみを乗り越えた者の眼だ。
紅鴉は一族の死を苦痛に感じてはいるが、それに振り回されまいとしている。
そういう一面は紫鬼と同じで、一族に対しても愛を抱いていたことが分かる要素だ。
藍龍にはそれがなかった……彼女の愛は一鬼に対してのみ向けられており、それ以外には向いていない。
彼女は残酷だ……他者に対しての憎しみがない代わりに愛も存在しないのだから。
恐らく、金虎もカナリーも藍龍と同じく一族への愛はないのだろう。
実際、二百余年前にカナリーは碧と相対した際に復讐をしようとはしなかった。
義務的に復讐を果たそうと思うくらいには愛していたのかもしれないが、それも碧の弱さに呆れて止めている。
あったのは愛ではなく、寧ろただ育てられた借りを返そうという少しばかりの義務感だけだったのかもしれない。
そんな他の超越者とは違い、紅鴉は間違いなく一族の死に重さを見出している。
『お前は、己が一族の滅亡に重さを見出しているのだな』
「はい。元々唯一の存在であるブルー・シャーマンや嫌な思い出しかない者達ならばいざ知らず、私や紫鬼さんは一族に愛を与えられました。確かにその生を望まれました。この存在を認められました。それ程に多くを与えてくれた仲間達のことを大切にできない筈がありません」
『ほぅ……お前とは気があいそうだ。一体感を感じるぞ』
「光栄です。皆私の考え方に賛同してくださらないので、少しばかり寂しかったので」
苦笑しながら他の超越者との意見の相違を告げる紅鴉に、一鬼は全ての超越者は別々の方面に向かっていると再確認した。
紫鬼は一鬼を守る為に、それ以外を滅ぼすことを選ぶ。ブルー・シャーマンは一鬼を守る為に、それ以外を味方にする術を探す。
藍龍は一鬼を守る為に、その隣で苦楽を分け合う。金虎は一鬼を守る為に、他者を敵と見做せば容赦なく排除する。時に己が敵となる。
カナリーは一鬼を守る為に、他者に光に触れるなと忠告する。そして紅鴉は……それら全ての超越者を繋ぐ役割を担っている。
だからこそ、殺しや戦闘の気配が感じられないのだろう。
しかし、超越者は守護者であり、戦士だ……殺しと戦いから逃げることはできない。
勿論超越者達が望むのならば一鬼は戦いをしない道を皆が選ぶことに反対しないし、寧ろ賛成するだろう。
実際は誰もそのような考えすら持っておらず、ただ彼の為に生きて死のうとしている訳だが。
そのある種の重さすら感じさせる誓いに、彼は感謝していた。
『なぁ、紅鴉……お前は、今まで何を生き甲斐としてきた?』
「皆の笑顔です。私達には多くのことを為せる力があります。それで皆が笑ってくれるのならば、それは素晴らしいことです」
『だが、その力を利用しようとする者も居る。復讐に利用する者も居るし、誰かを陥れようとする者も居る』
「はい。私達はそういった方々にはお帰り願います。生憎、超越者はそういったものには鋭いものでして」
『確かにそうだな……』
超越者は弱さを嫌ういはしないし、それを受け入れることで新たな強さを得られることを知っている。
だが、その弱さに付け入る者達を彼らは赦さない。一鬼もそうだ。
化け物でしかない彼らではあるが、ただの化け物などではない。化け物は化け物でも、信念を持つ化け物だ。
それ故に、傲慢なことに、彼らは気に入らない者を間引く。害悪だと断じた者を滅ぼす。
世界と繋がっているという彼らには見えるのだ……害悪か否かが。
彼らは神などという大それた存在ではないが、この世界の中で最も強い者達だ。
その能力が如何程かはまだ一鬼も全てを知っている訳ではないが、垣間見たものだけでも恐ろしく強大であった。
超越者は基本的に他者に無関心だが、しかし彼らの関係する部分であれば話は別だ。
紫鬼が二十年以上の間鬼の里を守り続けたように、身近な場所に現れる脅威は排除する。
だからこそ、今一鬼の目の前に居る紅鴉も、それとは無関係ではない。
それでも、深紅の超越者はそれを感じさせず、その爪を隠し続ける。
「私は一鬼様より賜った深紅の鬼火を有しています。そして……これが私の力です」
『これは……火の鳥、か』
紅鴉の肉体が一瞬で深紅の業火に変わり、その形を鳥のそれへと変えた。
燃え盛る業火が一気に塔内の温度を上げるが、一鬼に対しては大した影響はない。
手加減してくれているのだろう……恐らくは、最大火力を出せばこの塔は融解を始めている筈だ。
それ程に超越者の力は強大で、個々がこの地球を破壊し得る程の力を持っている。
かく言う一鬼も、その虹色の炎を以てすれば地球を灰に変えることは難しくない。
しかし、一鬼達は地球を増え過ぎた怨念から救う為に生まれたのだ。
矛盾してはいるが、怨念に耐えきれなくなった地球が無限の怨念を背負う彼らを生んだのである。
彼らの持つ怨念は他の妖が持つ怨念とは違い、この世界に多大な負荷を齎しはしない。
正確には、その怨念が彼らの内側にある間は、であるが。
鬼火と同じように、燃え盛る深紅の炎は空気を媒介に萌えてはいない。怨念を糧にそれは燃えている。
そこで、ふと一鬼は今目の前に居る火の鳥が鬼火そのものであることに気付いた。
ブルー・シャーマンは蒼の鬼火を『境界』へと繋ぐ力に変えた。碧は純粋な戦闘力に変えた。
恐らく、同じように他の超越者達も何かしらの力に鬼火を変換しているに違いない。
だが、目の前に居る深紅の超越者は違う……鬼火をそのまま力として使っている。何にも変換していない。
紅鴉は、一鬼がかつて与えた鬼火をそのまま使っている。
そう……与えられた力に手を加えることなく、そのままで使っているのだ。
「お気づきになられたと思いますが、私のこの力は鬼火そのものです。一切手は加えておりません。具現化する形は変わっているかもしれませんが、本質は同じです」
『ああ、分かるぞ。お前は……俺の与えた力をそのまま使っていたのか。別にブルー・シャーマンのように変換してしまっても良かったんだぞ?』
「私はこういう性分ですので、このままで居るつもりです」
『そうか。ならば、これ以上は言うまい。お前の好きにしてくれ』
「はい。ありがとうございます」
一瞬で深紅の業火は消え去り、紅鴉はそこに姿を現す。
綺麗な笑みで感謝を告げるその姿に、一鬼は微笑んだ。その微笑みが実際に表現されることはないが、確かに微笑んだのだ。
仮初の肉体でしかない今の虹色の鬼は、彼の鬼火だけが健在である証なのだろう。
しかし、鬼火を内包している筈の肉体は今ここにはない。何処にあるのかは、彼には分からない。
彼自身の肉体が何処で再生されているのかすら、彼は知らなかった。
それが何を意味するのかは、一鬼も気付いている。理解している。
ブルー・シャーマンは滑稽さすら感じさせる程に慎重な面と迂闊な面があった。
前者は遺憾なく一鬼の覚醒に発揮され、後者はその際の程度の問題、更には愛梨の死に繋がっている。
一年前、ブルー・シャーマンがたった二度で一鬼を覚醒させようとしなければ、愛梨は白雪に殺されなかっただろう。
超越者が怖い白雪は、ブルー・シャーマンを一瞬出すことすら厳しい状況に愛梨があったからこそ、殺したのだ。
愛梨の死はブルー・シャーマンが間接的に齎したと言っても良い。
だが、殺したのは白雪だ。『虹色の肋骨』の始まりとなったのは彼女だ。彼女にそうさせたのは一鬼だ。
全ては二百余年前、赤子でしかなかった頃の彼の愚かな選択によって始まった。
彼はその責任を背負い続けなければならない。力に伴う義務と向き合わねばならない。
それができないようならば、彼は超越者失格だ。己の責任も背負えぬ、弱者だ。
けじめをつけなければならない。全てを終わらせなければならない。
二百余年前に彼が始めた悲しみは、彼がその手で終わらせる。
『中々に良い気分だ。一つ……聞いて良いか?』
「はい。何なりと」
『全てが終わった後、俺は旅に出る。ついてきてくれるか?』
「勿論です。私達は例え一鬼様が覚醒した後でも、お傍に居ます。それが私達超越者です。役割であり、望みであるが故に、最後までお供します。私達はただの守護者ではなく、『求められる守護者』なのですから」
『そうか……ありがとう。これからも頼むぞ、深紅の超越者紅鴉』
「はい!」
一鬼は紅鴉に本心からの感謝の言葉を告げると、歩み寄ってその肩を軽く叩いた。
それに無邪気な笑顔で答える深紅の超越者の姿に、彼は益々微笑ましい気持ちになる。優しい気持ちになれる。
争いを好まないこの超越者が居てこそ、彼はこの気持ちを学ぶことができたのだ。
彼らはまさしく彼を成長させてくれる師であり、同時に共に孤独の道を歩む同志なのだろう。
世界は一鬼とは繋がっていないのかもしれない。彼はずっと孤独なのかもしれない。
だが、それでも構わないと彼は思っていた。この仲間達が居るのならば、それで良いと思えた。
彼は孤独ではあるが、一人ではない。空虚ではあるが、彼だけではない。
超越者達が傍に居る。彼が背負うべき罪がある。心の中に生き続ける物達が居る。
彼は独りだが、一人ではない。孤独だが、仲間がいる。
一鬼の持つ虹色の炎は、即ち七人の超越者に与えた七つの鬼火の集合体だ。
それこそが鬼火の元来あるべき姿であり、同時に彼と超越者の関係を表している。
彼は七人の同志が居てこそ満たされる器だ。七つの色が混ざり合って初めて虹となるように、彼は七人の同志を必要としているのだ。
彼の為に二度死んだ紫鬼はここには居ない。だが、その鬼火は彼の中で生きている。
だから、彼は大丈夫だ。どんなに苦しんでも、その果てに答えを出せる。生きていける。
『紅鴉、俺の気に入らない場所をいくつか挙げてみてくれ』
「はい。そうですね……私は、その自嘲癖が嫌いです。力がありながら己を卑下するのはそれ以下の弱者からすれば皮肉にしか聞こえませんので。私としては、卑下の介入しない純粋な評価をお聞きしたいのです。貴方は少なくとも望まれて生まれた……それだけで十分ではありませんか」
『ふむ……成程な』
「ブルー・シャーマンは強さを強いたがりますが、私達はそれを求めはしません。貴方が生きているだけで、良いのです。普通で良いのです。紫鬼さんが貴方に望んだのは、そういう生き方なのですから」
『分かっている。だが……俺はその道は選ばない。俺は俺の生きたいように生きる。だから、お前達のように強くなることを選んだ。超越者たらんとした。それだけのこと』
一鬼は一年前、ブルー・シャーマンという超越者に触れて変わった。
その強さに惹かれ、彼自身もそうなろうと決めた。その圧倒的な強さに近づこうとした。
いったい何を以て超越者とするのかは、個々で異なるだろうが、彼の場合は圧倒的な力と精神力だ。
理すら捻じ曲げる力と、それをどう扱うかを決める精神力……それこそが、超越者が超越者たる証であると彼は思っている。
強い精神の定義もまた個々によって異なるが、彼の定義は麻痺しないことだ。
佐村優希は一鬼の真似をしようとして失敗した。
麻痺することが彼の強さだと思っていた彼女は、それを模倣したのだ。
結果として彼女は強さを手に入れはしたが、それは彼の持つ強さとは別のものでしかない。
彼にとって、麻痺することは弱さだ。痛みに耐えられないが故の逃避だ。
だからこそ、二人は決別した。優希は彼を不必要と振り切り、彼も彼女を道が交わらないと振り切った。
一鬼が求める強さは、どのような痛みにも耐えられる強さであって、痛みを感じない強さではない。
相手を受け入れる覚悟も、拒絶する覚悟も彼はできる。相手に判断を委ねることも、自分が相手の未来を決めることも受け入れる。
どんなにバカにされようとも、屑だガキだと言われても、己の信念を貫き通す。
それもできない状態で超越者を名乗るなど、彼にはできない。
超越者とは強者であり、狂者なのだから。
「はい、分かっています。ですが……相手に決断させる覚悟だけでなく、己自身が決断する覚悟はおありですか?」
『勿論だ。俺が相手に決めさせるのが逃げだとでも思っていたか? 違う。俺は、相手の覚悟を問うているに過ぎない。それができないようならば、俺が決断を下す。俺が未来を捻じ曲げる。良いか? 俺は己の覚悟もなく、相手に覚悟を強いることはしない。それは不公平だ。俺を試すとは、中々面白いことをしてくれるな』
一鬼は内心苦笑しながら紅鴉にそう告げると、その手を肩から退けた。
彼は愚かではあるが、愚鈍ではない。紅鴉が彼を試そうとしていたのは理解できた。
超越者は勘が良いというよりも、ほぼ勘が百発百中なのでまず相手の思惑を勘違いすることはない。
不完全である今の彼や、そもそも元来超越者ではない碧はその部分にも不安が残るが、他の超越者は別だ。
特にブルー・シャーマンともなれば、相手の思考など透けて見えているに等しいだろう。
飽くまで戦闘に特化しているであろう他の超越者とは違い、ブルー・シャーマンはリソースほぼ全てを『境界』に割いている。
相手の魂とも呼ぶべきものを抜き取り、そこで全てを見透かす。過去も未来も、見抜いてしまう。
一年前の『虹色の肋骨』の戦いも、宿主が一鬼であったならばそれを遺憾なく発揮できた筈だ。
実際は愛梨に宿ってしまった上に、既に過ぎたことなので今更ではあるが、やはりあの時彼にとって最善の相棒はブルー・シャーマンだった。
そして、今彼が最も必要としているのもまた蒼炎の超越者なのだ。
義妹から白雪を引き剥がす……それを為せるのはブルー・シャーマンだけなのだから。
「ふふ……その言葉をお待ちしていました。主を試そうとしたことについては、どんな罰も受けましょう」
『ならば、生きろ。どんなに苦しかろうが、絶望しようが、俺の為に生きろ。俺の為に死ぬことは許さない。俺が死んでも良いと許すまで、生き続けろ』
「言われずとも、私達は皆その覚悟を背負ってここに居ます。今更、そのようなお言葉は不要かと」
『ならば良し。今後も宜しく頼むぞ、紅鴉』
「はい、一鬼様」
笑顔で頷く紅鴉を真っ直ぐ見据え、一鬼はその深紅の眼に宿る光を見出す。
紅鴉は恐らく七人の超越者の中で最も素直で、争いが嫌いで、大人しい性格なのだろう。
ブルー・シャーマンは戦闘こそ好まないが、それを嫌ってはいなかった。戦うことに否定的ではなかった。
蒼炎の超越者は、何の努力もせずに戦いに発展するのが嫌なだけで、殺しに抵抗はないのだ。
その一方で、紅鴉は可能な限り戦いを避けようとする。殺しを忌避する。
個々で見れば危うい面は多くあるが、彼らは独りではあっても、一人ではない。
だからこそ、バランスが取れるのだ。
方向性の違う者達が互いの意見をぶつけ、最終的に妥協案が生まれるからこそ、彼らは極端な方向に向かわない。
個々は極端過ぎる程だが、それぞれが相互作用によってその価値観を曝け出し、互いの視野を広げている。
それで良い。それが良い。孤独なままでは、視野は狭まるばかりなのだから。
だから、一鬼もまた孤独であろうとしないように努める。
同志であり、仲間である超越者を失わない為、動く。
彼らこそが、彼の見出した生き甲斐の一つなのだから。
天に続く塔を見上げながら、金虎は一つ溜息をついた。
後数時間で塔が出現してから二十四時間が経過する訳だが、その間に塔に近づこうとした者達が多数居たからだ。
人間の世界で言うマスコミなるものがスクープとやらを求めてここに来たのは彼も理解している。
彼はそれを止めるつもりはないし、その結果何が起こるかを教えるつもりもない。
ただの有象無象などに彼は興味を持たないし、今後もそうあり続けるつもりだ。
既に、今日だけでこの塔を目指して来た者達の掃除は終えている。
正確には、この地に充満する怨念によって死亡しているだけなので、金虎達は何もしていない訳だが。
そもそもが、この地は二百余年前に起きた悲劇によって人間を容易に殺し得る怨念が渦巻いている。
一年前に一鬼がその大半を吸収しはしたが、その後碧の鬼火の一時的な暴走によって濃さは寧ろ増した。
結果として、塔に近づこうとしたヘリコプターや戦闘機は皆ここで墜落している。
勿論、他でもない搭乗者達の発狂死によって、だ。この一帯に充満している怨念は、人間を容易く発狂死させるのだから。
金虎からすれば、二十年間の間ここが封鎖されているにも関わらずのこのこやってきた報いとしか思えない。
ここが何十人もの人間を呪い殺した呪われた場所だと散々煽ったマスコミが、それを理解せずにここに人をやって死亡させたのは、非常に滑稽な話である。
金虎はいったい彼らは今まで何を見て来たのだろうかと、思わず頭を抱えたくなった頬だ。
「……愚かなものだな」
金虎は目の前に広がる惨状を見ながら、思わずそう呟いた。
落下して壊れてしまったヘリコプターと、その中で死んでいる人間達……どちらの状態も酷いものだ。
むせ返るような血の匂いと死臭に眉を顰めながらも、彼はそれを消し去ろうとし……止めた。
死体の始末は、彼に近付いてくる気配に任せた方が良いと判断したからだ。
案の定、彼の近くに降り立った者は、彼よりも始末に適した存在だった。
深紅の超越者、紅鴉……それが同志の名だ。
「紅鴉、一鬼様との話は終わったようだな。これを片付けてくれると助かる。私の能力だとどうにも綺麗に始末できないのでな」
「はい。分かりました」
金虎が始末を頼むと、紅鴉は頷いて軽く片手を振った。
たったそれだけでヘリコプターは業火に包まれ、融解していく。
その様を眺めながら、金虎は目を細める。今ヘリコプターを燃やしているのは千度を軽く超えるものではあるが、しかし周囲に影響を及ぼしはしない。
それこそが、鬼火の特性であり理を捻じ曲げた超越者の特権だ。彼らだけに許された権利だ。
鬼火は対象のみを燃やし尽くす、理を捻じ曲げるものだ。
それを直接利用している紅鴉の能力は、紫鬼や一鬼のように選択的に攻撃をすることができる。
だからこそ、元来ならば山火事に発展し得る程の火力が特定のものだけを燃やす。
この能力は圧倒的ではあるが、しかし限定的にもできるし、際限なく範囲を広げることも可能だ。
まさしく理を超えたからこそ、できる芸当であろう。
「一鬼様はどうだった?」
「心配はなさそうです。思ったよりも遥かにしっかりされてらっしゃる。自信さえどうにかできれば、もう文句はないのですが」
「そうか……今はカナリーが頂上に居る頃か。あいつのことだ。さぞ慌てていたのだろう?」
「はい。平静を装っていましたが、かなりソワソワしていました」
「やれやれ……困ったものだ」
苦笑する紅鴉に同意するように肩を竦めながら、金虎はこれからカナリーがどう動くかに意識をやった。
ブルー・シャーマンの言った通り、カナリーは藍龍に嫉妬してはいるが、果たして暴走する程かと言われたならば、微妙な処だ。
その危険性が零ではないことは確かだが、カナリーが自制心の強い戦士であることを彼は知っている。
彼女は暴走しはしない筈だし、万が一暴走するようならば彼が殺すだけのことである。
金虎はカナリーを信用してはいるが、信頼してはいない。
いかに同志であろうとも、一鬼を守る為には排除することを躊躇わないし、他の者もそうあるべきだ。
少なくともブルー・シャーマンと紫鬼はそうあった。互いが互いの抑止力となり得るように、心がけた。
恐らく皆がそう思っているだろうと彼は確信している。大人しい紅鴉ですらも、内心その覚悟をしていることを彼は知っている。
その覚悟こそが、光を守り得ると彼は信じていた。
「奴はどうすると思う?」
「どうと言われましても……素直になれないか、もしくはデレデレになるかの二択では?」
「……そういうものなのか?」
「そういうものだと思います。私も余り知らないのですが、多分そうでしょう」
肩を竦めて苦笑する紅鴉に首を傾げながらも、金虎は唸った。
彼には恋愛というものは分からない。愛は分かっているつもりだが、恋というものが理解し難い。
彼が求めたのは圧倒的な強さであり、守りたいものを受け入れるだけの度量のみだった。
そして、その対象になり得るのは光たる一鬼のみで、他の超越者すらそこには含まれない。
彼にとって愛とは執着の一種だ。他者に執着し、同時に相手にも己に執着して欲しいと求めることだ。
そういう意味では、金虎は愛を誰にも抱いたことはないのかもしれない。
彼は一鬼に仕えることを生き甲斐としてはいるが、それがなくとも生きてはいける。
ただ、彼は初めて己に存在理由を与えてくれた光への感謝から、こうして仕えているのだ。
彼は忠義という己が信念に従っているのであって、一鬼自身に従っている訳ではない。
だからこそ、時には一鬼の為に本人の意思に反することだって平然とやってのける。
それが歪みであることは彼自身自覚しているが、それで良いのだ。
紫鬼達ように愛によって動くのではなく、金虎は忠義によって動く。
ブルー・シャーマンが己が信念の為に一鬼に従っているように。紅鴉が笑顔の為に従っているように。
彼は一鬼にとって、一種の手本となるべき存在だ。恩に報いることを教える為に必要とされる筈だった、他者との誓いを守る者だ。
その必要が無い程に一鬼は恩に報いる傾向を持っているが、彼はそれでも手本であり続ける。
「私は忠義という信念の元に動くのみ。そういったものは理解できない」
「金虎さんの場合は仕方ありませんね。しかし……本当に一鬼様に言うつもりですか?」
「ああ。私は所詮己が信念で一鬼様に従っているに過ぎない。もしもブレるようなことがあれば、その時は鬼火を返上する。場合によっては処分されることも辞さん。私は、殺戮者のように一鬼様の重荷になるつもりはない」
「はは……そうですか。それはそうと、ブルー・シャーマンさんは迎えに行かなくて良いんですか?」
「……確かにその方が良いのだろうが、お前達が何をするか分からんからな」
藍龍だけでも他の超越者達へのカウンターとしての役割は十二分に果たせるが、藍龍に対するカウンターは金虎以外にはこなせない。
ブルー・シャーマンならばどうにかできるかもしれないが、純粋な力では藍龍には勝つことは不可能だ。
何せ、藍龍は単純な戦闘力ならば紫鬼の次に強いのだから。
金虎はその次に位置しており、純粋な戦闘力も、総合力でも彼女には僅差で負けている。
しかし、現存する超越者の中では金虎のみが藍龍を追うことができるのだ。
決して抜き去ることは叶わないが、藍龍が一鬼を害することさえなければ、彼はそれで良い。
彼自身が果たすべき役割は最強の位置を示すことではなく、恩に報いる姿勢を示すことだ。
紫鬼は一鬼に普通に生きて欲しいと願った。ブルー・シャーマンは一鬼に強くあれと願った。
彼が願うのは、一鬼が恩に報いることができる男になることであり、それはもう叶っているに等しい。
だからこそ、彼は残された役割をこなし、一鬼に己が不要さを申告するつもりで居た。
「いや、私は除外してくださいよ……いつも私は止める側なんですから」
「そんなことは分かっている。藍龍とカナリーが互いにぶつかる可能性を考慮してのことだ。一鬼様を差し置いて仲良く喧嘩されては堪らん」
「喧嘩の原因になりそうなのは、一鬼様くらいな気がするんですが……」
「然り。だからこそ、主の手を煩わせることになってしまう。その隙をついてくるのだ……奴らは」
「……妖狐、ですね」
金虎は紅鴉の言葉に静かに頷いて、その黄金の眼を歪めた。
ヘリコプターと死体を溶かした業火はもう消えており、そこに残ったのは融解した鉄のみ。
それも放っておけば大気による冷却によって冷やされ、固まるだろう。
何の手も加えられず、ただ溶かされた鉄はその状況に応じて形を変え、歪なまま固まってしまうものだ。
だからこそ、鉄は熱い内に打つ。教育は、幼い頃のその大部分を行われる。
彼はその大切な時期に、一鬼の傍に居なかった。手本となることができなかった。
だからこそ、金虎は残された使命を全うせねばならない。
一鬼を外敵から守り、他の超越者に対するカウンターになり、その果てに彼は己が存在理由を消し去る。
教育の面で既に何もできることが無い已上、彼の役目は光が覚醒すれば終わりを迎えるのだ。
何もできない無能が傍に居る必要はない。光に依存するだけでは、存在価値はない。
だから、彼は己がそうなった時、鬼火を返上して己を殺す。
己の始末は己でつける……彼はそう決めたのだ。
「そうだ。奴らは狡猾だ。臆病で、抜け目がない。殺戮者はともかく、もう片方の出来損ないは仕掛けてくるだろう」
「その時は、私が相手をします」
「お前では無理だ。いくら力が上でも、躊躇ってしまうお前では、奴に裏をかかれるだけだ。出来損ないとはいえ、元来は緑の席に座る筈だったもの……能力だけは一級品だ」
「……確かにそうですね。ですが、本体の性能があれでは私でも……」
「お前が本気になれば一瞬で勝敗は決する。だが、お前はそこまで非情になりきれまい。一鬼様が守ろうとしたものを傷つけるなど、お前にはできない。だから、私がやる。他でもない、存在理由の大半を失った私が」
一鬼が守ろうとした存在……ただの人間であった筈が、昨夜九尾になった神谷美空という塵芥。
金虎はその存在を最も脅威に見ている。碧よりも、遥かに面倒な相手だと感じている。
彼が実際にぶつかれば、勝敗は一瞬で決する。何もさせずに彼が殺して終わるだけだ。
しかし、紅鴉では迷いが生じてしまう。一鬼の大切なものを傷つけてしまうことを躊躇してしまう。
その甘さに等しい優しさは超越者達のバランスを取るのには必要だが、非常時には邪魔だ。
金虎は神谷美空を殺すつもりはないが、再起不能程度には追い込むつもりだ。
間接的ではあるが、彼は一鬼に妖狐達を殺さないと誓っている為、殺しはしない。
だが、恐怖によって二度と塔に近づけなくなる程度に脅すくらいはする心積もりである。
その際に塵芥を守る為に再び訪れるであろう殺戮者は、カナリーが相手をするだろう。
紅鴉の能力とは違い圧倒的な火力を持たないカナリーだが、その能力は半殺しには最適だ。
殺傷する為ならば紅鴉の火力は非常に有力だが、今回は生かさねばならない。
そういう意味では、深紅の超越者は不向きなのだ。
「……分かりました。もしもの時以外はお任せします」
「それで良い。お前が戦うべきは、殺すべき相手だ。そうでない相手は私達に任せろ」
「それで、金虎さんはあれをどうするつもりなのですか?」
「言っただろう。適度に痛めつけて追い返すと。腕の一本くらいは貰うつもりだ」
金虎と紅鴉が戦えば、前者に軍配が上がる。
戦闘力、そして火力面でも実際は金虎が紅鴉を大きく上回っているからだ。
与えられた鬼火が違うというのもそこには起因しているが、最も大きな違いはその方向性の違いであろう。
金虎は光の外敵を排除する強さを求めた。紅鴉は力ではなく、永遠に光の傍に仕えることを求めた。
求めたものの違いが、その差を齎している。与えられた役割が違うからこそ、両者には差がある。
金虎は何かを滅ぼす為に存在し、紅鴉は光に多くを教える為に居る……それだけの違いなのだ。
「紅鴉、覚悟しておけ……これからが正念場だ」
「分かっていますよ。戦いが必至であることは承知しています」
間違いなく再び妖狐はここに来る。
金虎も紅鴉も……全ての超越者がそれを理解していた。予知していた。
それがいつになるのかは定かではないが、少なくとも光が完全に再生する前なのは間違いないだろう。
白雪という歪みが望んだのは光の独占であり、その為には光の完全な覚醒は好ましくない。
完全に覚醒してしまえば、もう光には手が届かないと理解しているからだ。
完全に覚醒した光は、間違いなくそれを殺す……そういうつもりで居る。
故に、この数日で間違いなく白雪はやってくる。
神谷美空を苗床にしている白雪を追って、碧という名の殺戮者もやってくる筈だ。
その時は前者を金虎が、後者をカナリーが相手することになるだろう。
藍龍が動いても良いが、彼女が殺戮者達と相対した時に何を言うかを考えれば、できれば動かさずに置いた方が互いの為だ。
金虎も一鬼に二度の死を齎した妖狐達のことは憎いが、殺しはしない。
だが、藍龍は精神的に殺しにかかる可能性がある。一鬼の傍に資格のない者を蹴り落とす可能性が、確かにあるのだ。
だからこそ、彼が動かねばならない……誰よりも光以外に無関心で、残酷な戦士を動かさない為に。
美空が家についたのは、朝父に告げた時間よりも一時間遅くなった五時半頃であった。
玄関の鍵を開け中に入っても誰も出迎えてはくれないが、彼女はそれを悲しくは思わない。
気配がここには無い為、碧は今頃買い物に行っているのだろう。
割と気まぐれな部分のあるあの妖狐は、食材を買う時間帯を時々変える。
一鬼が居ないこの世界はどうせ退屈なのだから、少しでも変化を見出そうという心積もりで居るのは容易に分かった。
美空は靴を脱いで並べると、そのまま二階にある自室に向かった。
父は一階の書斎に居るようなので、彼女は先に着替えて話をしに行くつもりだ。
妖狐となってまだ二十四時間も経っていないが、彼女は思いの外それに順応している。
一年前に関わった『虹色の肋骨』という化け物達のお蔭で、彼女はこうして容易く順応できているのだろう。
そうでなければ、一週間程は心の整理もできずに居る。
「……バカみたい」
美空は自嘲しながら、思わずそう呟いた。
一鬼を彼女から奪ったのは間違いなくその『虹色の肋骨』達なのだ。白雪なのだ。
憎みこそすれ、感謝することはない。感謝して良い筈がない。受け入れて良い筈がない。
彼女は『虹色の肋骨』を生み出した白雪が憎い。一鬼を死なせた碧が憎い。一鬼を殺した紫鬼が憎い。
偉そうにしていた癖に、結局碧は兄を守れなかった。兄を守ると言っていながら、紫鬼は結局兄を殺した。
一鬼も一鬼だ……碧などに現を抜かし、死んでまで守るなど、美空からすれば度し難い。
彼は碧のことを愛してはいない。ただ、己の罪であるから受け入れたに過ぎない。愛すると決めたに過ぎない。
確かに、元々好意がなかった訳ではないだろう。兄が何だかんだで世話好きなのは彼女も知っている。
世話をされるよりも世話をするのが好きだからこそ、駄目女に引っかかってしまうのだ。
碧は確かに家事も炊事もできるし、様々な面で非常に卓越した能力を持っている。
だが、その本質は依存することでしか生きられない寄生虫だ。美空と同じ、一鬼を食い潰す屑だ。
だというのに、彼女達の間には隔絶した差がある……縁があるか否かという、大き過ぎる差が。
一鬼は一年前碧を選んだ。美空の守護を碧に託して死んだということは、そういうことだ。
己の意思を託せる程に信頼しているのならば、彼女などでは勝つことは叶わない。
悲しいが、彼女はどの分野でも碧に負けている……兄から受け取っている愛ですらも。
「っ……本当に……バカ……みたい」
美空は己の中で燃え盛る嫉妬の炎に狂いそうになりながら、胸を押さえた。
彼女を苛む業火は、今の処精神を食い荒らすのを止めてはいるが、こうして彼女の激情に呼応して活動を開始する。
一鬼さえ傍に居てくれたならば、この渇きも飢えも消え去る……それのみを励みにして、彼女はそれを抑えていた。
もう少しで彼女の精神は崩壊してしまうかもしれない。だからこそ、今すぐにでも塔に向かわねばならない。
超越者の守護を掻い潜り、戦うことなく不完全な光に辿り着かねば。
「……あれ? なんで、不完全じゃないと……駄目なんだっけ……?」
美空は不意に己の思考に疑問を抱いた。
何故己が不完全な状態の一鬼を手に入れなければならないのかが、彼女自身にも分からないのだ。
しかし、彼女の中に渦巻く強迫観念にも似た何かがそうさせる。そうしろと言う。
不意に偏頭痛が蘇り、彼女の意識を覆おうとした。それに抗うようにかぶりを振ると深呼吸する。
頭痛はあっという間に消え去り、残されたのは解かれなかった疑問のみ。
その謎のことは確かに気になるが、美空が今優先すべきは父との対話だ。
はっきりと昨日己に起きたこと、己の意思を告げ、彼女は父と向き合う必要がある。
これから彼女は人間を捨て妖として生きていくつもりだということも、兄が生きていることも、全て話すつもりで居た。
そのことで父は大きくその精神を揺らがせるだろうが、これは飽くまで彼女のけじめである。
それによって父がどうなろうが、彼女の知ったことではない。
美空は己の覚悟を表明することが目的であり、それさえ果たせればそれで良いのだ。
確かに実の父親を悲しませることになるかもしれないが、彼女はそれも仕方ないことだと割り切っている。
己が屑であることは自覚しているが、それを改めるつもりは今の彼女にはない。
ただ兄にさえ会えればそれで良いのだ。兄さえ居てくれたならば、他などどうでも良かったのだ。
それこそが、この一年で彼女が気付いた己の本性だった。
「……力。力さえあれば、大丈夫」
美空は自室で着替えを終えると、ゆっくりと階段を降りて、父の気配がある書斎に向かった。
父はいったい何と言うだろう?……もしもここに居るのが一鬼で、死んだのが美空なら、何をバカなと一蹴しただろう。
息子に必死に先のことを言い聞かせ、速まるなと言う筈だ。そのようなことで人生を無駄にするなと言った筈だ。
どうせ兄はそれを振りきるのだろうが、しかし子に対する父の態度は必至になるに違いない。
己の場合はいったいどうなるのだろうか?……美空はそれを何度も考えたたが、答えは一つのみ。
父はきっと一鬼の生存……と言うよりも復活に対しては動揺するだろうが、彼女の決断に対してはそうではない筈だ。
彼女に対する愛が無い訳ではないないのだろうが、それは一鬼に対するけじめでしかない。
だから、彼女を止めることはしない。勝手にしろと言う筈だ。
彼女はそれで良い……その方が、振り切るのも簡単なのだから。
「父さん、入っても良い?」
「……入れ」
ノックと共に入室の許可を求めた美空に、数瞬の間をおいて内側から返事があった。
ゆっくりと扉を開けて中に入り、後ろ手で閉めながら、美空は書斎を一瞥した。
彼女が最後にここに入ったのは数年前になるが、その頃から様子は少しも変わっていない。
変わったのは、その部屋の主である父のみ。父は二年前の母の死で白髪が増え始め、一年前の一鬼の死によって完全に白髪になってしまった。
愛する妻の死に、二十年前に始まった悲しみの始まりにして癒しでもあった一鬼の死……それは父を限りなく追い込んだに違いない。
美空もまたそれに追い込まれはしたが、今は希望が持てている。
一鬼が光の塔で待っている……彼女が手を伸ばすのを。彼女が彼を手に入れるのを。
だから、彼女は絶望しない。超越者という絶対的な恐怖を前にしても、絶望しない。
高が九尾で超越者に勝つことはできないだろうが、しかしその裏をかくくらいはできる筈だ。
力では勝てないが、それ以外の部分で上回ることは不可能ではないと、彼女は信じたい。
疲れを隠した父と向き合いながらも、彼女はこれから先のことを既に考えていた。
「それで、話とは何だ。朝の口調から察するに、重要な話なのだろう?」
「うん。兄さんのことと……私のこと」
「一鬼の?……どういうことだ?」
「兄さんが生きているかもしれないって言ったら……どうする?」
「っ!! 生きているのか!? 何処だ!? 何処に居る!!」
美空の言葉に、父は声を荒げて立ち上がった。
それに対してやはり予想通りの反応をしたと思いながら、美空は内心溜息をついた。
結局父は美空よりも一鬼が大切なのだ。どんなに血が繋がっていようが、美空は彼にとって一鬼よりも下なのだ。
それは、即ち彼女が紛れもなく彼の娘であるという証だ。同じ穴の狢であるという、烙印だ。
実の娘よりも養子を優先する父と、実の親よりも義兄を優先する娘……そこには紛れもない血の繋がりがある。
確かに神谷明は強く、気高い精神を持っているのだろう。
その精神は一鬼に継承され、遺憾なく発揮された末に一鬼自身を自滅させた。
碧を背負おうという覚悟さえなければ、彼は一年前死ななかった筈だ。紫鬼が碧を殺して終わった筈だ。
父の教育が兄を殺したのだ。彼女とある意味では同類の父が、兄の終焉を齎してしまった。
それを責めるのは詮無いことではあるが、真実であることは間違いない。
一鬼は信念のせいで死んだ。
だが、その信念があってこそ美空は一鬼に受け入れられた……そのジレンマが彼女を苦しめる。
「今日ニュースでやっていた光の塔……あれを作ったのは、超越者なの」
「超越者……化け物の更に上位の化け物達か。そこに、一鬼が……居るんだな?」
「うん。私も同じ化け物になったから」
「……なん……だと?」
「私も父さんが憎んだ化け物になったんだよ……見て」
美空の声に応えて白雪が擬態を解き、隠されていた狐の耳と九つの尾が現れる。
その様に目を見開きながら、明は固まった。
娘が化け物になっているという事実を受け入れられずに、ただあんぐりと口を開けている。
その様子に内心苦笑しながらも、彼女は玄関に近づいてきた一つの気配に気付く。
碧が帰ってきたようだが、そんなものは後回しで良かった。
今美空が向き合うべきは神谷明という一人の人間であり、碧ではないのだ。
既に賽は投げられた。妖の姿を父に見せてしまった已上は、もう止まることはできない。
碧も気配からそのことを察している筈だ。彼女の決意も既に見抜いているのは想像に難くなかった。
彼女はすぐに動かなければならない……そうでなければ、碧は邪魔をしてくるだろう。
超越者と相対させるのが彼女を死の危険に巻き込むと分かっているからこそ、碧は止めようとする筈だ。
時間は残されていない……彼女では碧には勝てないのだから、邪魔される前に動く。
「お前は……本当に……化け物に、なったのか?」
「うん。だから分かるの。あの光の塔に兄さんは居る。私はあそこに行くよ……兄さんに会う為に」
『そうよ、会いに行くのよ……あそこに一鬼が居るわ』
『!? なっ……制御が……いったいどうして……?』
「……勿論、連れ戻すのだろう?」
父の言葉に、思わず美空は苦笑しそうになった。
散々碧を化け物と称して己が視界から排除し、遠ざけていたというのに、同じ化け物である筈の一鬼は別なのだ。
勿論、例えつが繋がっていなくとも一鬼を己が子であると彼は思っている。
碧のことも、一鬼を死なせさえしなければある程度は許容していたかもしれない。
しかし、化け物達を憎みながらも同類たる一鬼を贔屓するその姿が、彼女には滑稽だった。
父のこの考え方は、余りにも美空の考え方と似通っている。
山吹が屑だと称した彼女と父の思想は結局同じだ。大切な者以外はどうでも良いという、独善的なものでしかない。
彼女は今まで己を神谷家の血の恥じだと思っていたが、実際は違ったようだ。
彼女は間違いなく神谷の血を受け継ぎ、その特色を色濃く発現させている。
だから、こんなにも一鬼に執着するのだ。こんなにもそれ以外がどうでも良いのだ。
それが理解できたことで、彼女はまた一つ己を縛り付けていた枷が外れるのを自覚した。
「まさか。私達の居場所はここじゃないんだよ。だって、私達は―――父さんが嫌っていた化け物なんだから」
「だが、お前達は別だ! お前も、あいつも、私の子だ! お前達の居場所はここにある!」
「父さんにとっての特別は兄さんだけじゃない。神谷一鬼だけじゃない。神谷一鬼はもうこの世界には居ないんだよ?」
「バカな! お前自身が言っただろう!? 一鬼は生きていると!!」
「うん。言ったよ……一鬼という妖は生きているって。神谷一鬼という人間は、もうこの世には居ないんだよ」
美空はにやりと笑いながら、父に残酷な事実を告げた。
神谷一鬼は既に鬼籍に入っており、死亡扱いされている。
そして、碧から語られた言葉を考慮するに、兄がこの場所に戻って来ることはない。
兄は神谷一鬼という己を一年前殺したのだ。それを失うことで、碧を守ることを選んだのだ。
神谷一鬼のアイデンティティーは即ち家族を守る守護者であるということである。
それを碧に任せたということは、兄が神谷一鬼を辞めると表明したということだ。
実の処、一鬼が戻って来る可能性はない訳ではないが、しかし兄はそれをしないだろう。
美空にはその確信がある。兄は、一度死んだ今になって戻ってこられる程面の厚い男ではないのだ。
神谷一鬼は死んだという事実は兄にとって永遠不変であり、揺らがない。
兄には神谷一鬼として生きることはできない。他者が許しても、兄自身がそれを認めないからだ。
彼はただの一体の鬼としてこれから生きていくことになるだろう。
その際に人間と関わるか否かは分からないが、恐らくこの町には戻ってこない。
「お前は……私が憎いのか? 今までお前を散々放置して、一鬼にばかり構っていた私が?」
「うん、憎いよ……一鬼を奪った男だから。でも、そんなことはどうでも良いの。私は兄さんさえ居れば、他は要らないから」
「!?……そう、か。お前は……そこまで……歪んでいたのか。私が、そうさせたのか」
「勘違いしないで。私は生まれついてこうだったの。私をそうさせたのは父さんじゃなくて、神谷の血。だから、気にする必要はないんだよ?」
神谷家の血を穢す者として己を卑下していた神谷美空はもう死んだ。
今ここに居るのは、一鬼を手に入れることを第一に考えている美空のみ。
いや、もう彼女は美空ですらないと言えるかもしれない。白雪と同化し、それに大きく近づいた精神は元来の彼女のものではなくなっている。
二年前の彼女と今の彼女はまさしく別人だ。白雪と精神が融合した今の彼女は、神谷美空ではない。
神谷美空は二年前に死んだのだ……今ここに居るのは、白雪という妖狐のバックアップなのだ。
再び偏頭痛が彼女を襲い、その精神を蝕んでいく。
もう戻れないのだと彼女に訴えかけ、ここで決別するしかないという強迫観念を植え付ける。
彼女はそれを受け入れ、そして願う……一鬼を手に入れることを。その為の力を掴み取ることを。
ゆっくりと彼女の脳を浸食していく別の人格が、もう休んで良いのだと訴えかけた。
だから、彼女は微笑んで告げる。もう神谷美空は死んだのだと。
だから、彼女は狂気の世界に踏み込むのに必要な最期の引き金を引く。もう後戻りできなくなる為に。
「それに、私はもう神谷美空じゃないの。だって私は……」
『!? 駄目よ、美空!!』
『いいえ、それで良いのよ……貴方は―――』
「―――白雪だから」
だから、何もおかしくはないのだ。
父……否、神谷明の胸を美空の腕が貫いているこの光景は。
もう後戻りはできない。これを引き金にして、彼女は狂いきらねばならない。
白雪の声の制止を振り切った彼女の腕は容易く父と呼んだ人間の胸を貫き、その心臓を破壊した。
碧達のように心臓を握り潰すことはできない。それができる程彼女は殺しになれていない。
ここで殺さねば、彼女は誰も殺せない。殺す覚悟ができない。
脆弱な精神しか持たない彼女にできるのは、己の逃げ道をなくすことだけだ。
『あ、ああ……あああああああ!?』
「さようなら、神谷明……私から一鬼を奪った人間」
「ぐっ……がっ……み……そ……ら」
力を失い、そのまま脱力していく神谷明の胸部から腕を引き抜くと、美空は腕についた血を振り払った。
びしゃりと書斎の壁に張り付いた真っ赤な血から眼を離し、彼女はそのまま床に倒れ伏した明の気配を確認する。
この気配の薄さならば、もう後数秒で死ぬ。床に広がっていく血を踏まぬように気を付けて、彼女はそのまま部屋を後にしようとし……不意に碧の気配が一気に接近してきたことに気付いた。
邪魔されては堪らないと踏んだ彼女は、すぐさま白雪の能力を使用し、その場から離脱することを選んだ。
最後にかつて親だと思った人間の亡骸に目を向けると、彼女は静かに別れを告げて、その場から消えた。
その時、いつもとは違う時間帯に食材の買い出しに出かけた碧は、丁度神谷家に戻ってきた処だった。
家の前で美空が擬態を解いたことに気付いた彼女はそれを若干不安に思いながらも、まずは食材をしまうことから始める。
毎日掃除している台所に向かい、そこで食材を指定の場所に置いて、炊飯器のタイマーのタイマーが起動しているかを確認しておく。
見てみれば、既に炊き始めているようで、この調子ならば問題なく夕食に間に合うだろうと彼女は安堵した。
愛する男がもうすぐ帰ってくることで浮かれていた碧は、そのまま鼻歌交りに料理を始めようとし―――明の気配が消えたことに気付いた
「えっ?……ま、さ……か……」
美空の気配もまたそこにあり、何かあれば叫んでいる筈であろうに、何もない。
ここにある気配は彼女達のものだけで、何処かに余所者が隠れていることはあり得なかった。
となれば、明を殺した犯人は一人しか居ない。殺せるのは、美空だけしかあり得ない。
だが、何故?……その答えを彼女は知っている。美空が父を殺さねばならなかった理由が彼女には分かってしまう。
白雪は神谷明を憎んでいる。そして、その白雪が美空の中に居るのだ。
顔を真っ青にしながら彼女はすぐに書斎にかけつけ、開いたが……そこにあるのは明の死体のみ。
「……死んでいる……わね。どうして……こんなことを」
余りにもあっけない明の死に、碧は驚かざるを得ない。
一鬼との誓いに明を守ることは含まれていなかったが、しかしこの結末は突然過ぎる。
彼が守ろうとしたのはこの明という男と既に死んでいる夜空という女の二人の心だ。
美空を守っていたのはそれを守る為であって、純粋な愛から守っていた訳ではない。
その歪みに美空は気付いていたのだろう。だから、苦しかった。だから、己に自信を持てなかった。
結局兄は自分が家族だから守ったのではなく、二人の娘だから守ったのだと、美空は気付いてしまったのだ。
だが、それだけでは美空が明を殺す結末は生まれない。
そこに、白雪という二十年前に一鬼を神谷明達に奪われた存在が介入することで、初めて死の結末が生まれる。
今朝までの美空の様子からは白雪に乗っ取られた感じはなかったが、今先程乗っ取られたという可能性もあった。
だが、それならば彼女は気付けた筈だ。先程の気配は全く以て昨夜と変化がなかったというのに、その中身が変化しているとは考えにくい。
遥か遠くに現れているその気配はやはり美空と白雪が混ざり合ったものだ。
光の塔に向かっているその気配は白雪のものではない。ならば、何故明を殺した?
碧は混乱する頭で考えながらも、明の亡骸を回収して貰う為に敬吾に電話することを決めた。
明の携帯電話を取り出し、佐村敬吾に電話をかけると、碧はそのまま携帯電話を置いて走り出す。
玄関の扉を開けっ放しにして、敬吾が入ってこられるようにすると碧はそのまま空に飛び立った。
「一鬼……私はどうすれば良いの?」
碧は雲の上に一瞬で到達すると、そのまま加速して光の塔に向かう。
白雪を殺さねば、一鬼との誓いを果たせないが、その為には美空を殺さねばならない。
そもそも明を殺したのが美空であるという可能性が浮上してしまった今、彼女は迷っていた。
このままでは美空を守るという一鬼との誓いを守れない処か、白雪と決着をつけることもできない。
愛する男の恩人を彼女は守れなかった……彼が父と呼んだ男を、他でもない美空に殺させてしまったかもしれないのだ。
もう碧には何をどうすれば良いのかがまるで分からない。
だから、一鬼に無意識の内に助けを求めた。彼女が依存している男に、どうすれば良いのか聞きたかった。
彼が美空を殺せと言うのならば、彼女は喜んで殺すが、しかしその確認はできない。
確認できない已上は、彼女が己で判断するしかないが、彼女には彼が何を望んでいるか理解できなかった。
白雪を美空から引き離せるであろうブルー・シャーマンもここには居ない已上、どうしようもない
故に、彼女は不安を残したまま美空を追う……そこに待ち受ける巨大な存在と再び対峙することを予感しながら。




