第四話
一年前に息子である一鬼が死に、神谷明の時間はそこで止まった。
希望は残された娘のみで頼りなく、静かに壊れていくことしか彼にはできない
元来は娘を守ることに注力すべきなのだろうが、弱り切った今の彼にはそれはできなかった。
二十年前に彼が一鬼を遺跡から連れ出してしまった時から始まった悲劇は、彼の友人や妻だけでなく、一鬼すら彼から奪ったのだ。
もう今の彼には強い守護者であり続けることなどできない。一鬼のようにはあれない。
二十年前に彼が解き放ってしまった獣は、一鬼を求めて暗躍し、二年前に大事故を引き起こした。
そこから『虹色の肋骨』という化け物をこの町に解き放ち、それは暴れさせている。
しかも、その全てが一鬼の力を取り戻す為の茶番でしかなかったというのだから、明は益々己の過去の行動を悔いた。
彼は一鬼と出会うべきではなかったのだろう。遺跡から連れて帰るべきではなかったのだろう。
しかし、それを今更後悔しても遅いし、明はそのことを後悔していない。
一鬼との出会いは確実に彼の人生を変えた。多くの悲しみを齎しはしたが、同時にそれ以上の喜びも与えてくれた。
一鬼に入れ込み過ぎたのは彼も自覚している。夜空も自覚していた。
もっと美空に構ってやるべきだったのかもしれない。もっと強く育てるべきだったのかもしれない。
とはいえ、そういったことを後悔しても、もう遅い。
「……七時か。寝過ごしたな。ご飯は炊けているだろうが、それ以外の準備ができていない」
現在、明は親友である柿坂亮とその妻愛子が残した本の執筆に励んでいる。
二人が残した本の原稿は、端的に言えば娘である柿坂愛梨と一鬼に関する小説だ。
実際にはそれ以外の者も多く登場してはいるが、本質はその二人に関する物語である。
ノンフィクションと言うべきか微妙な処だが、概ね史実をなぞっているのは間違いない。
執筆を始めたのが四年程前らしいなので、恐らく一鬼と愛梨が出会った頃に書き始めたのだろう。
始めてその物語の原稿を呼んだ時、明は戦慄したものだ。
何せ、その小説には一鬼の多くの長点と欠点が事細かに書かれていたのだ。
恐らくは二人と娘の柿坂愛梨の三者の私見を元にしているのだろうが、それは彼以上に深く一鬼のことを理解した者だけが書ける文章であった。
愛梨と一鬼の出会い、そしてそこから二人が辿っていく道……それが百万字以上に渡って描かれている。
明が担当したのは、そこから二人が決めていたという『一鬼と愛梨の結婚』というゴールまでの補完である。
彼としては勝手に二人を結婚させるなと言いたいが、実際問題あのまま何もなければ二人は恐らく結婚していただろう。
その分岐の場合、一鬼が幸せになれるかは分からないが、少なくとも死ぬことはなかった。
彼はそのことが悔しかった。息子はもっと幸せに生きるべきだったのだ。
だからこそ、彼はその補完を書くことを決めた―――己の、そして親友たちの願いをそこに反映させる為に。
それも書き終わったも同然で、後は最後の推敲を終えれば出版は可能だ。
「っ……」
ゆっくりと立ち上がりながら、明は己の老いを如実に感じていた。
五年程前に既に男性としての機能は死んでおり、最近は老眼も酷い為、老眼鏡を用意している。
彼にとって、この一鬼を見つけてからの十九年は四十余りの人生の中で最も苦しかったが、同時に最も楽しい時間でもあった。
その苦楽が今の彼を生み出し、その老いを如実に感じさせているのだろう。
明にとって一鬼はまさしく鬼だった。
遺跡という一種の異世界に現れたその鬼に惹かれた彼は、連れ帰り、己が子として育てた。
そこから彼は一鬼という鬼の圧倒的なポテンシャルを何度も垣間見、それを伸ばすことに腐心する。
美空が生まれたのはまさしく夜空あってのもので、もしも夜空から求められなければ、彼は一生実子を得られなかったかもしれない。
それ程に彼は一鬼を成長させることに腐心していた。鬼が何処まで鬼として覚醒できるのかを知りたかった。
明は美空を普通の子として育てようとし、その世話は専ら夜空に任せていた。
娘にとって厳格な父であり続け、美空に多大な期待をしないように心がけもした。
何せ、鬼である一鬼とは違い、娘はただの人間なのだ……同じだけ期待するのは筋違いだ。
だからこそ、一鬼には多大な期待を、娘には人並みに期待するようにした。
それが余計に娘を苦しめるとは夢にも思わず、気付くこともなく、彼はただ一鬼に注力したのだ。
彼はどうしようもなく愚かな父親であった。
一鬼にばかり目が行って、実の娘を疎かにしていたのだから。
「……私もまだまだか」
一鬼は彼の望んだ以上に完全な鬼となり、その生き様を見せつけて死んだ。
愛する者を守る為に、己が罪を背負う為に、最後まで信念を貫き通した。
そんな息子の強さを彼は誇り、しかしそれが息子を殺したのだという自責の念に襲われる。
一鬼は生来責任感が強く、常に真摯であることを心情としていた。
それが彼の教育によるものだけではないことは明らかだったが、彼は確かにその成長に一役買ったのだ。
己が息子の思い出を振り返りながら、明は寝室を出て台所へと向かった。
そこで不意に漂ってくる食欲をそそる匂いに、彼は既に碧が料理を終えたのだろうと予想する。
あの化け物は、少しでも彼らの役に立とうとしているのだろうが、彼からすればその程度で意見を変えはしない。
彼女が息子を死なせたのは事実なのだから、今更その程度で赦せる筈もなかった。
そして、明は扉を開き……食卓に茶碗を置く美空を目にした。
「……美空? 今日はあれが料理した訳ではないのか?」
「うん。今日は私がすることにしたの。碧さんは、洗濯物を取り込んでるよ」
「何かあったのか? ここ最近は進んで料理などしなかったというのに」
「……うん。帰ってから話したいことがあるの……兄さんのことで。今日は四時半には帰るつもりだけど、その時間帯は大丈夫?」
「……分かった」
明は、ここ一年余り台所に立たなかった美空が料理をしていたということに驚く。
同時にその口から告げられた言葉に一つの覚悟を見出し、己も覚悟をして了承する。
一鬼に関することであるというのならば、彼には幾つも心当たりがあるのだ。
一つは美空と一鬼を比較すらしようとしなかったこと。一つは一鬼に対する美空の想い。
いくらでも息子に関わる話題はある。いくらでも、彼は語るだろう。
そして、明は美空の一鬼に対する想いも鈍感ながら気付いていた。
彼は知っている……一鬼と美空は血が繋がっていないことを教えた時、娘が安堵したことを。
その安堵は一鬼という化け物と同じ血が流れていない、という消極的なものではなかった。
寧ろ、血が繋がっていないからこそ想いを遂げる邪魔が一つ消えたと、喜んでいるように彼は感じたのだ。
恐らく美空は一鬼を一人の男として見ていたのだと、彼は理解している。
だからこそ、娘は兄と血が繋がっていないことに安堵したのだ。内心喜んだのだ。
元来ショックを受けるべき時に安堵し、あまつさえ笑みを浮かべた娘を生み出したのも彼であることは違いない。
彼がもっとしっかりと娘のことも見ていれば、気付けたかもしれないのだ。
一鬼に対する異常な執着を持つ娘が内包していたその狂気に。
燃え盛る蒼炎が生み出す世界の中で、一鬼はブルー・シャーマンと向き合っていた。
藍龍に他の超越者の説得を頼み、その間にブルー・シャーマンと対話をしようとしたが故だ。
一年前に見た『扉』の向こう側でも同じことはできるが、その場合は他の超越者に聞かれる可能性がある。
万が一、碧がそこに入って来ることができた場合、彼女は再び彼の居る場所を訪れるかもしれない。
そうなれば、超越者は殺さない程度に手加減して彼女と戦うだろうが、その隙に美空に何が起こるかが分かるだけに、彼は不安だった。
美空と白雪の気配が同化しているのを、彼は感じ取っている。
今の処、それは白雪による乗っ取りに移行してはいないが、いつそうなるか分からない。
現在彼女が持っている力は九尾相当……超越者からすればゴミのような戦闘力かもしれないが、問題はその能力だ。
白雪の能力は瞬間移動……それも、己だけでなく他の者や物質も運べるものである。
その能力は超越者並の能力と言えるし、実際彼女は超越する筈だったのだから、そういった能力を得たこともおかしくはないだろう。
一鬼もその力の程度は気にしていない。
問題は、このままでは白雪を殺すことで美空が死んでしまうことだ。
白雪が美空を煽って、彼が居る場所に向かわせようとしている可能性は高いし、実際その通りだろう。
そうなれば、瞬間移動能力を持つ白雪を相手に超越者が侵入を防ぐ手立てはない。
だからこそ、ブルー・シャーマンと話をしておく必要があると彼は感じたのだ。
「ブルー・シャーマン、聞きたいことがある」
「分かっている。白雪をお前の義妹から引き剥がす方法はある……間に合うかは分からんが」
「……話が早いな。だが、どうやってだ? お前以外にそれができる者は今地球上に居ないぞ?」
「ああ、だから待っていろ。すぐに戻る」
「……まさか―――」
一鬼はブルー・シャーマンの言葉が意味することに気付き、同時に一つの気配を感じた。
彼が居る地球上ではない遠い場所から近づいてくる一つの気配が、確かにある。
現在彼が感じている気配は七つ……その内の二つが碧と白雪であるとしても、計算が合わない。
そう、計算が合わない筈なのだが……目の前に居る蒼炎の超越者を含めれば話は別だ。
白雪が一年前に言っていた言葉を思い出した一鬼は、驚きながらも同時に確信する。
ブルー・シャーマンは死んでいなかった。
一年前に白雪が言った通り、その肉体は遥か遠くに投棄されたようだが、死んではいなかったのだ。
完全なる不死身とはまさしくブルー・シャーマンのことを言うのかもしれない。
愛梨が死亡し、完全に消滅した筈のブルー・シャーマンの精神が、肉体に戻ったということなのだろう。
一鬼はその頼もしさに思わず笑みを浮かべながら、ブルー・シャーマンを見遣った。
「お前の想像通りだ。私が来るまでは追い返すだけにしておけと金虎達には伝えてある」
「成程な。だが、白雪の能力は強力だ。簡単に塔内部に侵入できるだろう」
「いいや、それはさせん。それに、残念ながら九尾如きでは、それが出来ても無意味だ。藍龍も金虎も一瞬で殺す。奴らに対抗したければ、十五の尾を手に入れて、リソースを全て戦闘力に振るくらいはせねばな」
「……そこまでの差があるのか?」
「ああ。それだけの差がある。そもそもが、妖狐を基準に超越者を測ろうとするのが間違っているのだ」
一鬼はブルー・シャーマンの言葉に驚いた。
確かに彼も碧達と藍龍達の間にある能力の隔たりは理解しているが、流石にそこまでとは思っていなかったのだ。
彼としてはブルー・シャーマンの言葉を疑いたくはないが、今現在の彼女達からはそれ程の力を感じない。
だが、それが元来の力であるということはないだろう。
そもそもが、彼らは一鬼が居てこそ本領を発揮する存在であるのだから。
「まあ、今はお前が不在なこともあって力は半減処か十分の一程度しかないがな」
「……また俺のせいか。益々愚かしい男だな、俺は」
「それを止められなかった我々もな。兎に角、白雪のことは任せろ。私が必ず引きずり出してやる。その後は、お前の好きにするが良い」
「ああ、任せるぞ。蒼炎の超越者ブルー・シャーマン」
「確かに承ったぞ。空の超越者よ」
ブルー・シャーマンは、一鬼の名を呼ばない。
それが蒼炎の超越者なりのけじめであることを、一鬼は知っている。
二百余年前、彼を守れなかったことを悔いているのだろう。彼と親しくなり過ぎず、観測者であり続けることを決めているのだろう。
彼は碧を紫鬼から庇ったことで自滅したに過ぎないというのに。蒼炎の超越者は既に彼に深く関わり過ぎているというのに。
彼ら超越者に責などない……全て彼が勝手にやって勝手に死んだだけのことなのだ。
責を負うべきは一鬼一人であり、他の超越者がそれをする必要はない。
「しかし、藍龍や金虎は全てのリソースを戦闘力に割いている訳ではないのだろう? 本来ならどれだけのポテンシャルを有しているんだ?」
「妖狐を基準にしたならば、金虎が十五尾程度。藍龍は十六尾程度だな」
「……それ程までの力があるというのか?」
「ああ、ある。ちなみに、紅鴉が十二尾。カナリーが十三尾になる。私は……十八尾だな。そして、紫鬼は二十尾。そして、お前は―――二十四尾だ」
「……は?」
ブルー・シャーマンの口から語られた言葉に、一鬼は思わず固まってしまった。
紫鬼達の能力値が圧倒的であることは彼も理解していたが、そこまでの力を持っているとは予想していなかったのだ。
何よりも、彼自身のポテンシャルが二十四尾などという、もはや考慮するのもバカらしくなる程に圧倒的なものであるなど、彼には信じられなかった。
それ程のポテンシャルを持っていたのならば、何故彼は一年前一分すら能力を使えなかった紫鬼に殺されたのだろうか?
それが滑稽で仕方なく、彼は自嘲を交えた苦笑を浮かべる。
「お前の虹色の炎は、お前が望むものを灰に変える。その虹色の炎こそがお前の持つ子守唄であり、最大の特徴だ。お前のその力は大き過ぎる……あの紫鬼の一万倍のポテンシャルを持つのだからな。そのポテンシャルの九割以上はその唄に注がれているが、それでもお前は紫鬼や私達よりも、遥かに強い」
「……いつから冗談を言えるようになったんだ?」
「はぁ……冗談は言っていないぞ。お前のポテンシャルの九割九分は唄に注がれている。それですら、紫鬼よりも上になる訳だが」
「正直な話、いきなりそのようなことを言われても眉唾物だ」
「そうだろうな。だが、これは事実だ。お前はこの世界に渦巻く怨念にバランスを齎す必要がある……その為には、それ程のポテンシャルが必要なのだ」
ブルー・シャーマンの言う通り、一鬼が己の使命を成し遂げるにはそのくらいの力は必要かもしれない。
一鬼は地球を覆う膨大な量の怨念を消し去る為に生まれた。
妖という独自の生命が生み出した膨大な怨念は、地球の許容範囲既に超え始めている。
それをどうにかする為に、彼は世界によって産み落とされた……母の命を食らって。
彼はこの地球を救う為に生まれたのだ。この地球を守る為に、産み落とされたのだ。
地球という大きなスケールを前にするならば、確かにその程度の力は必要かもしれない。
「……しかし、こんなものは所詮貰い物の力だ。俺は結局怨念に均衡を齎した後は用済みでしかない。その後はお前達の好きにしてくれ……俺は俺の役目を果たして、そこで終わる」
「……戯言を。お前のその力は、間違いなくお前自身のものだ。お前は虎の威を借る狐などではない。お前の心は強い。ただ力を得てはしゃいで、天狗になる未熟者ではない。私は一年前、お前のその精神に触れて改めて悟った……お前の本領はその心にこそあると」
「心だと?」
「そうだ。お前は死すら恐れずに、殺戮者を紫鬼から守った。己の力に増長することもなく、ただ真摯であり続けた。お前は強者だけを標的とし、弱者を虐げることもなかった。それは、凄いことなのだよ。そこまで己を律することができる者はそう居ない。況してや、人間として育てられたお前がそれを身に着けるとは……誰も想像できなかっただろう」
「だからどうだと言うんだ? 俺は……」
一鬼は与えられた役割を果たすことで、その生を終えるつもりだった。
大き過ぎる力を持つ彼の存在は、今後地球に大きな悪影響を齎す可能性がある。
そもそも、彼自身すらもが無限に等しい怨念の塊なのだから、生き残っていて良い筈がないのだ。
彼が己に与えられた役割を果たす為には、全てを終えた後に超越者達を皆殺しにして、自身の怨念を全て浄化した上で死亡せねばなるまい。
しかし、そこまでするのが果たして必要かどうかは、彼には疑問であった。
ブルー・シャーマン達からどうにかして怨念を抜き去り、鬼火が必要ない状態にまで持っていけば、彼らを殺す必要は生じないだろう。
一鬼という光がなくとも生きていけるようにすれば、彼は心置きなく死ねる。
何も彼らを道連れにする必要はないのだ。彼にそれ程の重さはない。
超越者達には、それぞれの生き様を歩んで欲しい……彼はそう願っていた。
「聞け、選ばれし子よ。私はお前のその低すぎる自己評価が嫌いだ。お前の考えているそれは自己犠牲ではなく自己満足だ。死にたければ、責任を取って私達全員を殺してから死ね。自己満足で私達を生かそうとするな。お前が思っている以上に、超越者はお前を必要としている。それも、ただの光としてのお前ではない……個としてのお前自身をだ」
「理解できない。俺にそのような引力はないと言った筈だ。所詮この虹色の炎がなければ、俺はただの戦闘狂なんだぞ?」
「だが、その戦闘すらお前はもう望めん。強くなり過ぎたお前に敵対できる者は居ないからな。その苦痛は一生背負い続けていろ。誰もお前と競うことはできない。その苦痛を受け入れ、生き続けろ。それが、私がお前に与える罰だ」
「……しかし……」
「全ての超越者と対話しろ。奴らの本心を問いただせ。そうすれば分かる。お前は、居なくても良い存在などではないのだとな」
一鬼には理解できない……そこまでして彼が生きる意味が何処にあるのかが分からない。
彼が見出した生きる理由は、この地球を蝕む怨念を浄化し、そこにバランスを齎すことだ。
それこそが光……つまりは空の超越者の存在理由であり、一鬼が見出した存在理由でもある。
逆に言えば、彼はそれ以外に存在理由を持たず、生ける屍同然であるということだ。
いや、正確に言えば彼には生きる理由はある。罪を背負い続けるという理由が。
碧という妖狐を狂わせた責任を一鬼は取らねばならないし、そうすると決めたのだ。
超越者のこともそうだ。一度受け入れたのだから、彼は最後まで背負い続ける。
彼らが皆それぞれの道を進むならば、彼はそれを止めるつもりはないし、それで良いと思っていた。
己の存在理由が消えていくことは悲しいが、それ以上に彼らの幸せを一鬼は望んでいる。
それが無理だと分かっているにも関わらず、それを望む。
本当は一鬼も分かっているのだ―――超越者は彼の為だけに生み出された存在だと。
「それはお前達の価値観でしかない。俺は……」
「そうだな。だが、今お前が抱えている問題も、お前の価値観によるものでしかない。自己完結するな。私達と話し合え。お前は一人ではない。その環境を無駄にするな」
「……そうだな。そうさせて貰おう。このようなことでは、超越者失格だ。俺が目指した超越者になるには、この弱さは邪魔だ」
「それで良い。お前はその弱さを捨て去れ。拾うべき弱さは別にある。お前はもっと多くを求めろ……それをしないから空虚なのだ」
「求めないから空虚、か……確かにその通りだな。全く以て情けない。もっと精進しなければ」
一鬼はブルー・シャーマンの言葉に頷くと、その眼を細めた。
ブルー・シャーマンの言う通り、この環境を無駄にすることはできない。
彼は未熟なのだから、他の超越者の在り方を参考にすべきだ。その生き様を学ぶべきだ。
拾うべき弱さは己が存在理由の希薄さではなく、他者に何かを求めることだ。期待することだ。
何も、彼が今まで全く他者に対して期待をしてこなかった訳ではない。一年前、ブルー・シャーマンに多くを期待したのは彼なのだから。
その期待を蒼炎の超越者だけでなく、他の超越者にもしようと一鬼は決めた。
ただ悩んでいるだけでは意味がない。ただ自己完結するだけでは、彼が嫌った優希と何も変わらない。
前に進めなくなった時は、誰かに話をすれば良い。人間として育てられた時彼はそうしてきた。
誰かの助けを借りることは弱さかもしれないが、その弱さがあってこそ成長がある。
自己完結に固執した果てにあるのは、優希のような捻じ曲がった存在だけだ。
彼女は一鬼のようになろうとして、感情を排除しようとした。それを求めることを止めた。
それは間違いで、彼の本質はどんなに地面を這いつくばっても進んでいくことであるというのに。
痛みを感じて、悩んで、それでも答えを出すのが彼であったというのに、彼女はそれを痛みを感じていないのだと誤解した。
そこで誰かがその考えを修正していれば良かったのだろうが、誰もそれをしなかった。
だが、今の一鬼はそうではない……彼には超越者という道標がある。
「!……藍龍が戻って来たようだ」
「行って来い。お前の我儘を言ってやれ。大層喜ぶぞ。あれはお前に狂った女だ―――責任を取って最後まで面倒を見ろ」
「……そうだな。可能な限りは応えよう。最初は過去について知らねばならないが」
「それも含めて、全てを聞け。殺戮者達だけに構っていられる時間は終わったのだ」
「……心には留めておこう」
くっくっと笑うブルー・シャーマンの言葉に苦笑しながらも、一鬼は頷いた。
既に碧と美空だけに集中できる時は終わりを迎えたのだ。
彼は空の超越者であり、七色の光を他の七人の超越者に与えた責任がある。
強過ぎたが故に孤独を強いられた者達を、彼の為だけに生まれ落ちた者達を、二百余年前に彼は受け入れたのだ。
そのことを覚えていないとはいえ、彼がそうした以上はそこに責任が生じるのが道理。
彼はそれを覆すつもりはないし、それを捨てずに碧達のことも守りたい。
だからこそ、彼はブルー・シャーマンに言われた通り、藍龍に碧達を殺さないように伝えたのだ。
今から一鬼はもっと多くの我儘を全ての超越者に告げる―――そこから新たな己が始まると信じて。
学校に通っている間は、それが酷く退屈に思える時がある。
毎週決まった時間に決まった授業を受け、決まった時期に試験があって、決まった時期に休みが始まる。
そのほぼ固定されてしまっているルーチンは酷く無機質さを感じさせ、虚無を刺激するものだ。
実際には、その日々の中で様々な差異を見出して人は生きているものだが、それを見出すことすらできない者も居た。
彼らにとっては、毎日は苦痛でしかなく、そこには喜びはない。ないと思い込んでいる。
実際はそこに様々な違いがあるというのに、虚無しかない者達はそれを全て同じものだと認識してしまう。
毎日が同じものに見え、希少価値を失い、己の中での価値が下落していく。そんな日々を過ごす己の価値すらもが、消えていく。
そんな虚無の中で生きることはとても難しいことで、そのまま生き抜くには強さが必要だ。
強さがなければ、どこかで躓いて二度と起き上がれなくなる。そのまま死に向かう。
美空の兄、神谷一鬼にはその強さがあった。
異形である己が人間の中で生きていくのは大層窮屈であったろうに、毎日に差異を見出していた。
実質同類と出会えたのは愛梨と出会った十七歳頃なのだから、彼は十六年間ずっと孤独であった筈だ。
いかに両親や美空が居たとしても、所詮彼女達は全く別の生物なのだから、孤独は癒せない。
それでも彼は生き続けた……恐ろしい程の強さを見せ続けた。
「美空、また考え事?」
「あっ……う、うん」
「美空はいつも考え事してるよね~」
荒木奈央の言葉に現実に引き戻され、美空は己が現在学校の中庭にあるベンチに座っていることに気付いた。
昨日降っていた雨は早朝には既に止んでいた為、五月の強い日差しが既に多くの水分を蒸発させている。
それが齎す熱気は中々に苦痛である筈なのだが、今の美空にはそうは感じられなかった。
今の彼女は妖狐……それも九尾になったことにより、熱耐性が大幅に上昇している。
恐らく、今の彼女ならば火炎に焼かれることになっても耐えることが可能だろう。
それ程までに彼女の肉体は変質した……いや、正確には二年という時を経て変質させられたのだ。
白雪が二年前に美空に何をしたのかは定かではないが、それが彼女を妖に変えたのは間違いない。
既に彼女を襲っていた偏頭痛は消え去り、今までの苦痛が嘘のように、彼女の思考はクリアになっている。
妖になったことで吹っ切れた部分があることも相まって、彼女は非常に気分が良かった。
これから先何が起こるかは分からないが、少なくとも彼女は今安定しているのだ。
この一年間は美空にとって最も苦しい時であったが、もうそれも終わる。
彼女はもうすぐ蘇るであろう一鬼と再会し、その胸に抱かれることを夢見ていた。
彼が彼女を受け入れてくれるという自信はないが、彼はそういう男だと彼女は知っている。
例え彼女に自信がなくとも、彼は神谷明と神谷夜空の間に生まれた彼女を見捨てはしない筈だ。
だから彼女はその可能性にかける……例え幻であろうとも、希望を持つ。
どの道それが偽りだったならば彼女は崩壊する……分の悪い賭けであろうとも、彼女は信じたかった。
「そうね。私も、最近増えちゃったけど……それをされちゃうと結構辛いわ。私達がここに居る必要なんかない気がしちゃうしね」
「ごめんね……最近考え事が増えちゃって」
「良いの良いの。何も考えなくなるよりは、考えて悩んだ方が良いからね!」
「……悩み過ぎもどうかと思うよ?」
友人達の言葉に笑いながらも、美空はこの大切な時間を平然と捨てようとしている己に自嘲する。
この時間は確かに大切なものではあるが、一鬼と比べれば些細なものでしかない。
彼女には彼が必要なのだ。彼に彼女が必要なのかは自信がないが、少なくとも彼女は彼を必要としている。
友人達にとって彼女は友人の一人でしかないが、彼女にとって一鬼は代替が存在しない絶対的存在だ。
失われてはいけない、何よりも大切な光だ。
生来美空は嫉妬深い傾向にあるが、その中でも一鬼は格別だった。
彼女は多くの人間と出会い、何度も嫉妬し、何度も憧れたが、一番はいつだって兄だ。
その強さに惹かれ、嫉妬し、その残酷さに何度も彼女は涙を流した。同じ領域に辿り着けない己の無力を嘆いた。
碧や白雪に対する嫉妬が女性としての嫉妬ならば、兄に対する嫉妬はまさしく彼女という個としての嫉妬であろう。
それ程に、本質的な部分で彼女は彼に嫉妬していた。憧れていた。愛していた。
だが、依存を愛とは呼ばない。それはただの依存だ。
だからこそ、美空は一年前苦しんでいた。事故のトラウマを利用して一鬼に甘えていた己の弱さを恥じていた。
それも今となっては、彼女にとってどうでも良いことだが、確かに当時は大きな問題だったのだ。
彼女は兄に何も返せていない……成長で以て応えているなど、彼女には詭弁でしかない。
だから苦しんだ。だから、何か別の形ではっきりと恩を返したかった。
結局彼女は兄に応えることはできなかったが、ただ甘えていた訳ではないのだ。
「う~ん……綺麗な青空。昨日の雨が嘘みたい。本当に、天気って気まぐれだよね」
「自然は人間の思い通りにはなってくれないものね。欧米では自然は敵って考え方もあるし」
「ああ……そういえばそんな話もあったわね。自然と共生するよりも、自然に打ち勝つことを選んだ、だっけ? 京子、良くそんなつまらない話を覚えているわね」
意外そうに驚く千夏と、さも当然だと言わんばかりに肩を竦める京子に美空は苦笑する。
京子は予習復習をしっかりすし、更には興味があることはすぐに調べるタイプなので、何かあった場合は基本的に覚えている。
逆に、千夏の場合は予習復習は余りせず、興味があった場合も中々調べない為、記憶に残り辛い。
要は、轍を熱い内に打ったか否かの違いである。
かく言う美空の場合は後者に近いが、記憶力は良い方なので覚えてはいるのだが。
「千夏と違って、私は成績良いから」
「バカって言うなー!」
「言ってない言ってない。私は成績が良いとしか言ってないから。千夏が自分で認めてるだけ」
「ぐぬぬ……」
「二人共、そのくらいにしておこう、ね?」
京子と千夏の仲裁に入った奈央に、美空は再び苦笑する。
いつだって彼女達の中で真っ先に仲裁に入るのは奈央だ。
喧嘩や口論が嫌いな彼女は、気弱である筈なのに積極的にそれを止めようとする。
そこには何かしらの強迫観念が絡んでいるのだろうが、その正体は彼女には分からなかった。
もしもここに居るのが一鬼ならば、その原因に凡その予想をして解決にあたるのだろうが、彼女にはできない。
そもそも、それをするだけの時間的余裕は今の彼女にはなかった。
たった一、二回のやりとりでどうにかなるならばまだしも、強迫観念はそうはいかない。
簡単に取り除けるものではないからこそ、苦しいのだ。簡単に取り除けないからこそ、強迫観念なのだ。
もしもそれが簡単に取り除けるのならば、それは強迫観念ではなく、ただの思い込みでしかない。
強迫観念は確かに思い込みの一種ではあるが、こびりついて離れないからこそ、強迫観念なのだ。
「……ふふ」
「美空?」
「二人共仲が良いね」
「そりゃあねぇ……仲が悪かったらこうして一緒に居ないし」
「そうね。腐れ縁って奴かな?」
美空には腐れ縁すら存在しないが、それを悲しく思ったことはない。
そもそも、彼女にはそのようなものは必要ないのだ。
確かに友人達は大切な存在ではあるが、彼女が己の全てを曝け出せる程ではない。
結局今こうしてここに居る彼女も一つのペルソナでしかなく、それ以外の仮面は見せていないのだから。
一鬼に対しては全てを曝け出せる。弱さも醜さも、全て明らかにして、それでも甘えられる。
それを彼女ができる程に、兄は強かった。
結局美空は一鬼に依存することができれば、それで良いのだ。
兄に何かしらの形で応えたいという思いはあるし、実際今まで何度も応えようとした。
だが、それは飽くまで依存している状態で成り立つ考えであり、依存する宿主を失えば、その余裕すら彼女にはなくなる。
ただいつもの己を演じ続け、本性を曝け出せなかったこの一年間は彼女にとって酷く苦しい時間であった。
だが、それももう終わる……一鬼と共に、彼女は妖の世界で生きるのだ。
静寂が支配する塔の中で、一鬼は静かに目を開いた。
ブルー・シャーマンの居る『境界』から再び現実に意識を戻した彼は、ゆっくりと下を見下ろし、そこに藍龍の姿があるのを確認する。
最初とは違い、彼女は顔を伏せてはいないようで、彼はその姿に安心して静かに玉座から立ち上がった。
どうやら仮初の肉体は必ずこの玉座に座った状態で出現するようで、彼は少しばかりそれを鬱陶しく思った。
一鬼には、誰かを見下ろして愉悦を得るような趣味は無い。
下も上も見なければ己の立ち位置は分からないものだが、それに拘り過ぎるのはナンセンスだ。
彼が望んでいるのは昇っていくことであり、己よりも下の存在を嘲笑うことではない。
彼は弱者を虐げるのではなく、強者に挑みたい。もっと己を高めていきたい。
その飽くなき欲求があってこそ、彼は父である神谷明が課した数々の試練を乗り越えてきたのだ。
そう……求めてきたからこそ彼はここまで来ることができたのである。
だからこそ、今立ち止まってしまっている彼は再び前に進むことを決意した。求めることにした。
超越者という彼を守護してくれる者達と向き合い、そこから多くを学ぶ。
元来空の超越者である彼が心身共に最高の超越者でなければならないのだから、どんな恥をかいてでも上り詰めねばならない。
それは義務であり、彼が求める権利でもある。
『藍龍、首尾はどうだ?』
「上々です、一鬼様。金虎、カナリー、紅鴉の三名の了解を得ました」
『ご苦労だった。少し話がしたいのだが、良いか?』
「はい。少しと言わず何日でも、何年でも、何十年でもお付き合いいたします。」
『……そうか』
一鬼は玉座から立ち上がると、藍龍が居る場所まで続く階段を降り始める。
藍龍の言葉は酷く重たいものだが、彼はそれを甘受した。
実際問題寿命というものがない彼らならば、何年でも何十年でも話し続けることは可能だろう。
だが、話題が途中で尽きるのは明白で、間違いなく話題が被ることになる。
そうなれば会話もつまらないものになるし、何より生産性が皆無となってしまう。
彼からすれば、永遠にループし続けるようならば、会話しない方がマシだ。
藍龍が内包している狂気は、まさしく純粋さ故のものである。
一鬼もそれに気付いてはいるが、その方向性は碧や白雪とは大きく異なっていた。
碧達が母性や父性を大きく欠いたが故に持つ幼さと甘えは、まだ分かり易い。
しかし、藍龍の歪みはいったいどのように生じたものなのかが、まるで見えてこないのだ。
ブルー・シャーマンは彼女が彼に狂っているとは言ったが、それ以前は狂っていなかったとは言っていない。
それも含めて、今から全て確認するのだ。
一鬼は超越者達の過去を何も知らない。何も受け止めていない。
だから、今からそれを知り、受け止めるのだ。
「……一鬼様?」
『お前も座れ。どうせ長くなるんだ。立ったままよりは、座った方が楽で良いぞ』
「しかし……宜しいのですか?」
『ああ、俺の隣に居たいのだろう? ならば、遠慮せずに座れ』
「そ、それでは……失礼します」
階段の終わりで座り込んだ一鬼は、それを訝しむ藍龍を隣に招いた。
一瞬躊躇った彼女も、一鬼の言葉に若干頬を赤らめながら隣に腰かける。
彼女の身長は女性としては大きめで、碧とほぼ同じ百七十五センチ程度のようだ。
一鬼の仮初の肉体は基本的なサイズは本体と変わらないが、二本の湾曲した角が四十センチ程高さを増している。
その角こそが彼が鬼である証なのだろう。彼が紫鬼と兄弟である証なのだろう。
紫鬼の鬼火は一本の角を持った鬼であり、その面は憤怒そのものだった。
兄の鬼火が憤怒の表情を想起させる面を持っていたのは、弟を害し得る者への怒りの具現なのだろう。
だが、恐らく今一鬼の仮初の肉体となっている虹色の炎が生み出した鬼は、何の表情も浮かべていない。
それこそ、虚無そのものとでも言わんばかりに、何もないのだ。
それに内心自嘲しながらも、彼は藍龍を見た。
『藍龍、お前のことが知りたい。お前がいつ生まれ、どのように育ったのかを。何故俺などの隣に居たいと思ったのか……聞きたいことが山程ある』
「分かりました。では、まず私の出生についてお話します。一鬼様のご想像通り、私は『東』の一族の一員として生まれました。最初は普通の子だったのですが……十五歳頃には七尾になっていました」
『それで?』
「既にご存知かと思いますが、『東』の一族の限界は六尾です。それを齢十五で超えてしまうのは明らかな異常。故に、私は妖狐に見つからないように、その存在を秘匿されました」
藍龍の言葉を聞きながらも、一鬼は当時の様子を振り返った。
全ての超越者が同時期に生まれた訳ではないが、彼が生まれた時には既に全員揃っていた筈だ。
つまり、彼女達が二十になる頃には既に妖狐に翡翠と碧が居たということになる。
碧に関しては時期によって力の程度は変化するが、翡翠は当時既に七尾に到達していた筈だ。
そうでなければ、態々藍龍達の存在を隠さずとも十分に勝機はあった筈なのだから。
『妖狐との争いの原因となるからか?』
「そうです。当時の妖狐の族長もまた七尾であり、その娘の能力もそれに追随する程であった為に、『東』の一族だけでは勝利はできませんでした。何せ、妖狐は多くの戦士が六尾であるのに対し、私達の一族は一部の者しか六尾に到達していませんでしたから。平均戦力が違い過ぎます」
『だが、それは『東』の一族だけで戦った場合だ。他の一族と同盟を結びはしなかったのか?』
個々の一族では妖狐には勝てないかもしれないが、協力すれば話は別だ。
現に、当時『東』『西』『南』とヴァンパイアの四つの一族には超越者が既に存在していてもおかしくない。
いかに碧と翡翠が強力であったとしても、その時点で既に個々の戦闘力は同等であった筈だ。
碧が八尾に到達する前ならば、四つの一族の内三つが手を組むことで妖狐は倒せたであろう。
実際はそうはならなかったからこそ、彼女達はここに居る訳だが。
「はい、結びました。『東』『西』『南』とヴァンパイアの四つの一族が同盟を結んだのです。奇しくも、その全ての一族には私と同じ扱いを受けた者達が居ました……私達超越者です」
『ん?……待ってくれ。ならば、何故攻めなかった? お前達四人が揃えば、戦力は十分過ぎる程だった筈だ。碧と紫鬼が出会う前には、既にお前達の内の誰かが超越していたと聞いている』
「それは恐らく金虎ですね。彼こそが、私達の中で最初に一鬼様に触れ、忠誠を誓った戦士です。そして、彼の超越こそが妖狐との戦いを避ける羽目になった理由でした」
『……今まで幽閉していた存在が全てを滅ぼせる力を得た為、外敵を滅ぼすことに戸惑いが生じたのか?』
一鬼に言葉に頷くと、藍龍は遠い眼をしながら、その手をそっと一鬼の偽りの手に重ねた。
柔らかく、暖かいその手が彼の偽りの手を撫でる……虹色の炎が生み出した、偽りの手を。
紫鬼の鬼火と同じく、鬼を模した鎧と言うべき今の彼の姿は、彼が目指した形の具現化なのだろう。
彼はひたすらに高みを目指し続け、鋼鉄の意思と強靭な肉体を求めた。
その理想形が、この虹色の鬼の姿なのだ。
恐らく、二百余年前に金虎もまた同じような状況に陥った筈だ。
金虎の黄金の肉体はまさしく鎧であり、中に何か居るのではないかと錯覚する程に無機質だ。
その鎧は何かを守る盾になることを意味しており、その拳は最強の盾で以て最強の矛を生み出そうとしたものであることが分かる。
結局金虎が目指したものは紫鬼と同じ、誰かを守る為の盾となり、傷つけようとする者を排除する剣になることだったのだろう。
故に、そこに生じた鋭さが当時の周囲を恐怖させたのかもしれない。
「そうです。金虎は強くなり過ぎました……抑圧された力を解き放たれた彼は、九尾から十五尾に変化し、まさしく世界を滅ぼせる力を得たのです」
『金虎は迫害されていたのか?』
「私も全てを知っている訳ではありませんが、恐らく。『西』の一族が目指したのは『白虎』です。金虎ではありません。彼は異質でした。亜種でした……悪い意味で、鳶が鷹を生んだ訳です」
『同族とは思えなかったが故に、迫害したというのか? 『西』の一族は力さえあれば、それだけで認める豪胆な一族ではないのか?』
「全ては堂々巡りです。力を恐れて迫害し、迫害をしたが故に憎まれていると思い込む。実際は、そのようなものなどありはしないというのに。金虎にとって、一族など有象無象でしかありませんでした。彼のその態度が、益々不気味さを齎し、新たな迫害を生む……愚かなループです。金虎か『西』の一族の態度が違えば、結果も変わったのでしょうが」
一鬼も金虎がどのような気持ちであったのかは分かる。
彼が人間の中で生きた十九年間も、結局は家族や仲間を守ることしか頭になかった。
恐らく金虎は一鬼よりも遥かに冷血で、己とは無関係な他者の死に痛みは感じないのだろう。
できる限り拾おうとする彼とは違い、黄金の超越者は最初から光しか眼中になかったのだろう。
だから、迫害など些細なことでしかなかったのだ。
一鬼は人間の中で生きていく上で、己を抑圧し続けた。
しかし、金虎の場合はそれをしようとしなかったのかもしれない。他者に無頓着過ぎたのかもしれない。
その態度が益々恐怖を煽るかもしれないことを、きっと金虎は考慮していなかった。
光しか見ていなかったが故に、一族のことなど考慮しなかった。
負の連鎖には金虎自身の態度も一役買っていた筈だ。
『外敵を失った時、金虎が敵対するかもしれないと思ったが故に、妖狐と戦えなかったという訳だな。実に面倒な話だ。その後、お前達が超越したことで益々それが悪化したといった処か?』
「そうです。紅鴉は秘匿されていただけで、寧ろ良くして貰っていたようですが、私達が問題になりまして……結果ああなりました」
『となると……俺が死んだあの日、お前達があの場所に居なかったのも……』
「はい。その関連で動けなかったからです。思えば、あの時金虎が言った通り、全ての柵を振り切って鬼の里に行けば、こうはならなかったのですが……今更ですね」
一瞬悲しげに微笑んだ藍龍であったが、すぐにその表情を元に戻してしまう。
それは一鬼が望んだ強さと同じだ。痛みを感じ、受け入れ、それでも進む強さだ。
優希が間違えて進んだ、痛みを感じない道ではない。麻痺して逃げる道ではない。
痛みを麻痺させず、受け入れ、耐え、その果てに決断することこそが、彼が望んだ強さだ。
そんな強さを彼女は持っている。きっと、他の超越者も持っているに違いない。
彼が憧れた超越者は己の強大さも矮小さも理解できる者達であった。
ブルー・シャーマンはそうだった。紫鬼もそうだった。藍龍達もそうである筈だ。
『藍龍……悔やむなとは言わないが、それを引き摺るな。俺は気にしていない。お前達は今俺を守ってくれたなら、それで良い』
「ですが―――」
『お前達に与える罰はただ一つ―――俺の為に生きろ。それで良い。それで、十分だ』
「……はい、一鬼様」
少しばかりの間苦悩を浮かべながらも、藍龍は最終的にはにかみながら一鬼の言葉に頷いた。
一鬼はそれに安堵しながらも、同時に少しばかり彼女が彼の手を握る力を強めたことに気付く。
そこに込められた思念は、恐らく感謝と戸惑いと僅かな非難だ。
赦されたことへの感謝、何故赦されたのかという戸惑い……そして、己を赦してしまった彼への非難。
彼の死は、彼自身が思っていたよりも超越者達にとって酷く重いのだろう。
だからこそ、彼女はこんなにも簡単に赦されて良い筈がないと思う。
一鬼も己が逆の立場ならば、このように簡単に赦されてはいけないと思う筈だ。
だが、彼は赦してはいない。だからこそ、罰するのだ。二度目が起きないように心得ろと言うのだ。
それを理解したのか、すぐに藍龍の手から力が抜け、最初と同じ状態に戻る。
表情も何かを悟ったものになっており、そこから彼は彼女が己の思惑を理解したことを察した。
「己が恥ずかしいです。一鬼様の意図を一瞬取り違えるなど……申し訳ありません。まだまだ未熟なようです」
『ならば、より一層励め。藍龍、全てを理解しようとする必要はない。分からなければ、聞けば良い。俺はいつでもお前を待っている』
「はい……心得ておきます」
微笑みながら頷く藍龍の姿は、酷く美しい。
純粋な美しさだけで言えば、彼女は碧よりも上だ。
ただ、その奥底に潜んでいる狂気と重さは弱者を容易く殺し得る。
超越者は強過ぎる……制御しきれなければ、それは容易く周囲を死に導き、滅ぼしていく。
実際、一年前碧は超越した直後に若干力を暴走させ、緑の鬼火が木々を焼き払っていた。
あれを人が居る場所でやっていたならば、その影響で死者が多数出ていただろう。
今の碧はそれが沈静化しているが、まだ完全に力を制御できたとは言えない。
だからこそ、一鬼は超越者に追撃をさせたくないのだ。人間が多く居る場所で戦えば、それだけ死人が出る。
他の超越者からすれば人間の命など大したものではないだろうが、無駄に犠牲を出す必要はない。
一年前、彼は力が及ばない為、インディゴに千人以上の人間を殺すのを許してしまった。
もしも十分な力さえあったならば、彼はそれをさせずに済んだだろう。
今ならば、彼にも力がある。超越者も居る。
今度は多くを失わずに済むようにしたかった。これ以上己のせいで悲しみを増やさないようにしたかった。
「話が逸れましたね……二百余年前のこと、今のこと……確かに了解しました。皆にも、そのように伝えておきます」
『ああ、頼む。それで、お前は俺の何処を好きになったんだ?』
「一言で言えば、その強さと弱さの組み合わせでしょうか。貴方はどのような痛みも受け入れ、悩みも振り切らず、その果てに決断します。貴方は痛みを麻痺させません。それを逃げだと信じ、痛みを麻痺させず、しかし引き摺りません。器が大き過ぎる為に、虚無であると勘違いしがちですが、その弱さも個人的には非常に良いです。強さと弱さを知っている為、弱者にも気を遣うことができるのもポイントが高いですね。あっ、でも大人数を抱え過ぎると個々に手が回らなくなることを分かっていても抱えようとするのはマイナスです。己の力に見合った範囲のみで手を伸ばさないと、一年前のように自滅するだけですから。そこまでして抱えようとする姿勢は素晴らしいのですが、やはり私個人としては一鬼様には生き延びた上で信念を貫き通して欲しいのです。ですから、抱えるのはできる限り少数に限っていただければ嬉しいのですが――――」
『そ、そのくらいで良いぞ……』
「そうですか……まだまだ沢山言いたいことがあるのですが、仕方有りませんね」
いきなり始まった長い台詞を一息で言い放った藍龍に若干引きながらも、一鬼はそれを中断させた。
もはや狂気の領域に辿りついている彼女の好意は、彼の想像以上に根強いもののようだ。
ここまで純粋な行為をぶつけられたのは愛梨以降であり、嬉しくない訳ではない。
彼はそういった純粋な好意をぶつけられることが嫌いではないし、寧ろそういったことができる者が好きだ。
彼は感情を表現するのが苦手で、淡々としてしまう為、熱の籠った感情表現をできる者に憧れる。
まさしく愛梨はそれだった。
一鬼にはできない感情表現を迷いなく行い、好意をぶつけてくれた。必死に彼の背を追い続けてくれた。
そんな彼女が、彼は好きだった。弱者でありながらも、強者に追い縋ろうと限界に挑戦する姿勢が好きだった。
彼は強くあろうとする者が好きなのだ。向上心がある者が好きなのだ。
そういう意味では碧達は好みから外れる訳だが、しかし一鬼はそのような理由で彼女達を拒絶しはしない。
彼女達は彼の罪の象徴だ。碧も、白雪も、美空も、彼が歪めてしまった者達だ。
受け入れるか始末するしかしなければ、彼はその責任を取れない。そして、責任を取らないのは、彼にとって逃げであった。
結果として碧と美空を受け入れ、白雪を始末する道を彼は選んだ訳だ。
白雪は彼の大切な者達を殺し過ぎた……彼には彼女を受け入れることなどできない。
彼は白雪が憎かった……だから、殺したのだ。
『藍龍、お前は……最初からそうだったのか? それとも、俺と出会ったせいで……そうなったのか?』
「元々だったのだと思います。私もまた、紫鬼と同じく生まれた時に一鬼様をお守りすることを悟ったクチですので」
『そうか……お前も紫鬼と同じなのか。なら、生まれてこの方己の存在理由で悩んだことはないのか?』
「そうですね……悩んだ頃もありましたが、私は一鬼様の為だけに生きると決めました。私にはそれしかありません。他者がどんなに違うと言っても、私はそれだけで良いのです。それでなければダメなのです。我が侭であることは分かっていますが、私は私の生き方を突き進むと決めました」
『そうか……お前は、強いな』
藍龍は一鬼の仮初の手に触れていた手とは違う、もう片方の手でそっと彼の頬に触れた。
二人の視線が交差し、しかし一鬼の仮初の眼はそこに揺れを映せずにいる。
虹色の鬼は涙を流さない。その赤い眼は母の血であり、彼が背負う死全てだ。彼が原因で流された他者の血だ。
彼は己が眼に感情を映せないことを悲しく思いながらも、しかし仕方ないと割り切る。
全ては彼が選んだことだ。彼が悩んだ末に決意し、行動した結果だ。
やり直したいと思う部分はあるが、それと今彼が感じている悲しみは別の部分である。
ただ藍龍と向き合って、一鬼はその深海のように深い闇を内包する藍色の眼を見た。
藍色が想起させるのは深い海であり、夜空であり、宇宙であり……インディゴという妖だ。
一年前、千人以上の犠牲者を出したその妖は紫鬼によっていとも簡単に殺されたが、彼はそれを止められなかった。
あの時彼にもっと力があったならば……インディゴと対峙した時の力を最初から得ていたならば、被害は最少に抑えられただろう。
だが、それはインディゴのポテンシャルを理解した上での思考であることを一鬼は理解している。
当時、彼にはインディゴがどれ程の力を有しており、どのような能力を駆使するのかを知らなかった。
そうなれば、例え力があったとしても結局美空達の守りを疎かにしない為に、彼は同じ道を選んでいただろう。
結果論だけで悔やむのは、次に繋げる時だけだ。次に繋がらないのならば、それはただの自己満足でしかない。
悩んで、悩んで、その末に割り切る。
「一鬼様、私達は決して強くはありません。確かに他の者達よりは強いかもしれませんが、所詮私達は人間が言う神ではありませんので。ただ、痛みに対する耐性が高いだけです。ただ、強過ぎるだけです。世界に愛されただけです」
『……世界に……愛された? 紫鬼もかつて同じことを言っていたが、それはどういう意味だ?』
「そのままの意味です。私達超越者はこの世界に、理を捻じ曲げることを許されました。ある者は太陽に、ある者は永遠に……様々な理を捻じ曲げ、私達はここに居ます。たった一人で世界を滅ぼせるだけの力が私達にはあります。それ程の力を与えたのは、間違いなくこの世界です」
『……だが、他の者達はこの世界に繋がっていない』
「はい。ですから、私達は狂気の世界に居ると言われるのです。世界に愛されながらも、他者に愛されないと称されるのです。ですが、構いません。私達はそれで良いのです。それが良いのです」
藍龍の言葉に、一鬼は紫鬼の言葉を思い出す。
二百余年前、兄は母に同じようなことを言った。
超越者はそれ以外の者に理解されず、愛されもしない。だが、超越者は世界に愛されている、と。
一鬼は世界がそのままの意味なのか、それとも何かの隠語なのかは知らない。
だが、確かに彼らは何かに贔屓されているのだろうとは思っていた。何処かで感じていた。
かつては七尾が限界であった妖の中に突如現れた超越者達は、桁違いの力を有している。
妖の世界ではあり得ない程に差が開くものだが、それを考慮しても超越者は強過ぎる。
個々が地球を死の星に変えてしまう程の力と怨念を有しているのは、もはや過剰な力とすら言える程だ。
その力を彼らは与えられた。一鬼が与えた……この世界の怨念を浄化する為に。
妖が生み出した膨大な怨念の蓄積が、地球という星を蝕んでいる。
だからこそ、一鬼が生まれたのだ。超越者がそれを守る為に選ばれたのだ。
どちらも与えられた使命を果たすだけの存在―――それを愛と呼べるのだろうか?
一鬼にはそうは思えなかった……世界と繋がっているという実感も今は無い。
『世界と繋がっている実感は俺にはない。再生すれば、俺にもその繋がりが分かるのか?』
「いいえ、残念ながら一鬼様にはその繋がりはありません。一鬼様自身はある意味世界と一体化した状態です。つまり、一鬼様の心に神は存在し得ません。貴方が依存できる存在は何処にもありません。より上位の者に依存することは、叶わないのです」
『……それも俺の……空の超越者の義務ということか。力には義務が伴うとは、良く言ったものだな。つまり、俺が抱えるこの虚無感は、どんなに剥がそうとしても剥がれない、と?』
「そうなります。だからこそ、その大き過ぎる器を……その虚無を埋める為に私達が居るのです。ですから、もっと私達に甘えてください。我が侭を言ってください。私達はそれに応えます。貴方に受け入れて頂いた御恩を、皆返したいのです」
藍龍はそっと両手を一鬼の仮初の頬に添えると、その眼を細めて微笑んだ。
一鬼はそんな彼女の姿に儚さと美しさを見出しながらも、素直に受け止めるべきか悩む。
彼女の言いたいことは、彼も理解している。虚無を埋める為に他の超越者に依存しろと彼女は言っているのだ。
実際、彼は今彼女達と話すことで、これからどうやって進んでいくかを決めようと考えている。
彼らに頼ることは確かに必要なことなのかもしれないが、それを素直にすることは彼にはできなかった。
一鬼は甘えるのが下手だ……と言うよりも、甘え方を知らない。
育ての親である神谷明と神谷夜空は、彼に愛し方を教えてはくれたが、甘え方は教えてくれなかった。
彼は甘えられた時にどうすれば良いのかは知っているが、どうやって甘えれば良いのかが理解できない。
美空や愛梨を散々甘やかしていたというのに、彼自身は甘えた経験がないのだ。
それもまた一鬼が抱えている歪さであろう。
『……だから、こうしてお前達の話を聞いているんだ。俺は、もっと上に行かねばならない。もっと強くありたい。だから、お前達からその強さを学ぶつもりだ』
「そうでしたか。では、一つご提案を―――旅はお好きですか?」
『旅?……悪くはないが、それがどうしたんだ?』
「一鬼様がこの地球と宇宙に渦巻く怨念に均衡を齎した後、義務は消えます。その時、是非ともこの地球を旅して回ってみませんか?」
『―――!! そう……だ……俺は……あいつと……』
一鬼は藍龍の言葉によって、一年前に碧とした会話を思い出した。
『虹色の肋骨』の問題が解決した後に世界を旅する準備を始めようと、二人は話したことがある。
実際はそうはならず、最後の最後で一鬼が紫鬼に殺されてしまった訳だが、その言葉に偽りはなかった。
一鬼は最後の最後で兄に殺されることになったが、それは彼が選んだ道の先に会った結果だ。
兄のことは頑固であるとは思っているが、憎んではいない。
果たして碧がその言葉を覚えているかは定かではないが、一鬼は忘れていても良いと思った。
忘れてしまったのならば、再び話せば良い。一緒に世界を回ろうと言えば良い。
彼には碧が必要だ。背負うべき罪を捨て去り逃げることなど、彼にはできないのだから。
彼女にも彼が必要だ。不完全な超越者でしかない彼女は、容易くその力を暴走させ得る。
本来ならば今すぐにここに呼ぶべきだが、しかしそれでは白雪への牽制にならない。
一鬼が完全に復活していない今、藍龍達を人が居る場所に向かわせることは危険だ。
彼女達が鬼火を制御しきっているのは明らかだが、その制御も一鬼が居てこそ完全になる。
彼が蘇っていない状態で超越者を人が居る場所に送れば、そこは墓場に変わるかもしれない。
そうなれば、彼の育ての親である神谷明は確実に死ぬ。それだけは避けたかった。
美空は既に白雪と融合したことで九尾に辿り着いているので、超越者が本気にならなければ発狂はしない筈だ。
可能ならば、向こう側から来てくれた方が良いのだが、果たして白雪が無謀な賭けに出るかは、彼にも分からなかった。
「一鬼様……?」
『藍龍、助かった。俺は大切なことを忘れていたようだ。全てが終わった後、この世界を見て回ろうと決めたことを、すっかり忘れていた。ありがとう、お前のお蔭で思い出せた』
「ふふ……お役に立てたようなら何よりです」
『全てが終わった後、俺は旅に出る。勿論、ついてきてくれるな?』
「ええ、喜んでお供いたします……どこまでも、いつまでも」
綺麗な笑顔のまま頷いた藍龍はそっと一鬼の体を抱きしめる。
それに一瞬驚きながらも、一鬼はゆっくりとその両腕で彼女の体を抱きしめた。
仮初の鋭い指で肉を切り裂かないように。その圧倒的過ぎる力で彼女を圧殺しないように。
いつだって彼は力を抑えなければならない。いつだって己を律しなければならない。
それは相手が超越者であろうとも変わらない……既に紫の鬼火を兄から返上された彼は、彼女よりも強いのだ。
力を出し切れぬことに悲しみを覚えながらも、彼は空を見上げた。
塔の頂上は大気圏内に収まらず、そこを逸脱した場所に存在しており、宇宙が良く見える。
広大過ぎるその宇宙は光の速さすらも矮小なものとする程に膨大で、地球など余りにもちっぽけだ。
そんな広大な世界の中ならば、彼はまだ矮小で居られる。
『……藍龍、紅鴉を呼んでくれ。俺は、全ての超越者と話をしたい』
「心得ています。暫しお待ちください」
名残惜しげに離れる藍龍は、しかしすぐに表情を引き締めてその場から消えた。
残るのは静寂のみで、その中で一鬼は空を見上げ続ける。そこにある星々を見つめ続ける。
星々は酷く遠くにある筈だというのに、手を伸ばせば掴めてしまいそうな感覚が、彼にはあった。
しかし、実際に掴むことはできないだろう。今の彼はこの塔から出ることすらできない。
それさえどうにかなれば、星々に手が届くかもしれないが……そのようなことはどうでも良かった。
彼に必要なのは、ただ光続ける星ではなく対話し、何かを学びうる仲間だ。超越者だ
『……そうやってただ光り続けていろ』
そう呟いた彼に応えるかのように、光り輝く星空の中を一筋の蒼い光が動いた。




