第三話
一年前、碧の妹である白雪は死んだ。
超越者になる資格を持ちながらも超越することは叶わず、紫の超越者の手にかかって。
彼女にとって、確かに白雪は妹だった。愛すべき存在だった。
紫鬼が妹を殺した時になって、初めて彼女はそれを自覚したのだ。妹への家族愛を思い出せたのだ。
一鬼の言葉通りだった。彼が予言した通りだった。彼女は白雪をほんの少しだが、まだ愛していた。
いつだって彼女が真実に気付くのは、全てが終わった後だ。何もかもが手遅れになった後だ。
そんな妹の気配が、蘇った。いや、正確には非常に似通った気配が新たに誕生した。
故に、超越者達の言葉が意味するものに気付いた彼女は、そこに向かった……最悪の結果を予想して。
かくして、彼女はその最悪の予想かもしれない光景を今目の前で見せつけられている。
希望が見えた筈なのに、それを邪魔しようとする障害のように、その事実は彼女の眼の前で絶望を叩き付ける。
凍り付いた廃墟の中で、座り込んで顔を膝に埋めている少女が居た。
かつて碧の妹が死んだその場所で、その少女は駄々子のようにその場に蹲っている。
その少女は、彼女が守るべき存在だ。彼女が愛する男から託された存在だ。
だが、その頭から生えている二つの狐の耳はなんだ?その腰から生えている九つの尾は何だ?
何故、少女から彼女の妹に似通った気配を感じる?
何故―――彼女の愛する男が守ろうとした存在と、殺そうとした存在が、一つになっている?
「……美空、よね?」
「……碧……さん……私―――人間、辞めちゃった。白雪さんのせいで……こうなっちゃった……」
「……あの子が、そうしたの?」
「多分……そうだと思う。声が……聞こえるの。私の頭の中で……白雪さんが、囁くの」
碧は、ゆっくりと顔を上げた美空の顔を見て絶句する。
泣き腫らした眼の色は、今朝見た時は灰色と黒だった。
それが、今は完全な銀と黒に変わっているのだ。彼女の妹である白雪と同じ銀色の眼をしているのだ。
髪の毛は変わらず、黒と銀のコントラストを保っているが、何よりも腰から生えている九つの尾が事態の深刻さを示している。
今まで彼女は美空に妖の気配を感じたことはなかったというのに、たった一日で九尾に到達しているのだ。
今は精神に大きな影響はないが、恐らく翌朝美空は苦痛に泣き叫ぶ。
九尾に到達するだけの怨念を一回で抱えきることができるのは、無限の器を持つ超越者達だけだ。
そうでない美空では、確実に精神が崩壊することになっていただろう。
今は、一鬼の子守唄がここですら聞こえてくる。優しい子守唄が怨念の痛みを消し去る。
その唄が彼女を壊させない。最後まで守り切る。
故に、碧はその深刻さを理解できた。理解できてしまった。
美空が一鬼の元に行こうとするという未来しか、そこにはない。
「貴方も感じているの?……圧倒的な者達の気配を?」
「うん……あの怖い気配、だよね?……碧さんも似ているけど、ずっと弱い」
「……そうね。多分私は七人の超越者の中で一番弱いわ。私は所詮紛い物だから。一鬼の贔屓で超越した、偽物だから」
「でも、私は……もっと弱い。白雪さんから全部貰ったのに……九尾が限界なの」
「それが超越者でない者の限界よ。一年前の白雪も九尾だった。そこが、妖狐の限界なの」
美空は超越者達の気配を感じている……つまり、一鬼の気配も感じているということだ。
それを素直に教えてくれたことは最悪の事態を防いでくれただろうが、碧は素直に喜べない。
美空が己のことを良く思っていないことは、彼女も自覚している。
何せ、愛する男を死なせた元凶そのものなのだから、彼女も美空の気持ちは痛い程分かるのだ。
その憎しみも、遣り切れなさも彼女は受け止めねばならない……一鬼がそれを望んだのだから。
碧は生きねばならない……一鬼が生きろと言い続ける限り。
その理由は、一年前は分からなかったが、今の彼女ならば理解できる。あの塔と一鬼の気配が、それを教えてくれている。
彼はこの日が来るのと知っていた訳ではないだろうが、何処かで予感していたに違いない。
だからこそ、彼女に生きろと言ったのだ。己を食わせてまで、彼女を生かしたのだ。
せめて一言言って欲しかったというのが彼女の本心だが、今更それを言っても詮無いことである。
問題は、美空に一鬼のことを言うか否かだ。
言えば、美空は間違いなく兄を求めて塔に向かってしまう……超越者達が守護する、あの地獄に。
確かにその頂上には一鬼が待っているかもしれない。最愛の存在が居るかもしれない。
しかし、碧や美空ではそこに辿りつくことはできないのだ。
彼女達は弱い……一対一ですら超越者に圧倒されるのが目に見える程に。
その力の差がある已上は、ただ待つしかない……一鬼が来てくれるのを、ただ指をくわえて待つしかないのだ。
「違うの……私は……友達のことも、父さんのことも……要らないって思ったの。兄さんさえ居れば、全部要らないって……」
「美空……」
「私……こんな屑だったんだ。見下した?」
「いいえ。だって、私も同じだもの。一鬼さえ居てくれたならば、他なんてどうでも良いの。貴方も知っていたでしょう?」
「……うん」
碧にとって、一鬼以外など有象無象でしかない。
だから、本当は美空のことだってどうでも良いのだ。
一鬼が守れと言ったから彼女は美空を守っているのであって、そうでなければただの人間でしかない。
彼女は人間の為には動かない。美空を気にかけていたのは、一鬼の義妹だったからだ。
彼との約束があったからこそ、彼女は美空を守った。彼の義妹だからこそ、気にかけた。
碧は間違いなく屑だ……彼女自身も自覚している。
彼女は一鬼以外などどうでも良くて、かつては超越者すら出し抜こうとしたこともあるのだから。
彼女の中でも燃え盛っていた嫉妬の炎は、今も生きている。いつだって、彼女は本物の超越者に嫉妬してきた。
そして、今の彼女は優越感も抱いていた。一鬼に選ばれたという優越感が、彼女に余裕を齎しているのだ。
これを屑と言わずして何というのか、碧は知らない。
彼女は間違いなく屑で、生きている価値は殆ど皆無と言っても良い程だ。
それでも彼女は生きている……一鬼が最後に課した罰に従って。願いに従って。
美空も同じだ……一鬼がその生存を望んだからこそ、今も生きている。兄の後を追わずにもがき続けている。
彼女達は一鬼が残した怨念によって生かされているに過ぎないし、それ以外に己の生きる意味を見出すことはない。
だから、碧は己も同類だと言う。美空もそれを否定しない。
「私達は一鬼に依存してばかりの屑よ。でもね……今の私には、あの子に応える力があるわ。あの子に応える覚悟があるわ。貴方はどう?」
「私は……分からないよ。だって、私は……選ばれなかったから」
「そう……それなら、それで良いのよ。貴方には、貴方の道がある。私には私の道がある。それだけのことなの」
「でも……私……これから……どうすれば……こんな姿じゃ……学校もいけないし」
「大丈夫よ。幸い、妖狐は人間に姿を変えるのは得意な方でね。能力の方も、制御は難しくないわ。私が力の使い方を教えてあげる」
碧は美空に笑いかけながらも、内心一鬼のことを話さないことを決めた。
今の美空は不安定過ぎる……まずはそれを安定させなければ、日常生活にすら支障をきたすだろう。
混乱してしまった時は落ち着く時間が必要だ……今は美空の精神を揺さぶるような情報は与えない方が良い。
既に気付いてしまってはいるだろうが、それを事実だと知らせるのは良くない。
今の美空では、そのまま真っ先に塔に向かって超越者達に始末されるだけだ。
ここは抑えて、一鬼が来るのを待たねばならない。碧達にできるのはただ待つことだけ。
今は求めて進んでしまってはいけない。心の奥底では一鬼を求めながらも、耐えなければならない。
そうしなければ、彼女はまた間違う。一鬼を信じ切れなかった一年前のような結末は繰り返させない。
碧はただ一鬼を信じ切って待つのだ……信じ切れない美空をどうするかを考えながら。
金虎とカナリーが告げた『果たすべき誓い』のことなど忘れて、彼女はただ美空に手を伸ばした―――彼女が為すべきことに気付くこともなく。
天に向かって聳え立つ塔を見上げながら、黄金の虎は静かに佇んでいた。
金虎という名を両親から与えられた彼は、『西』の一族の末裔である。
二百三十余年前、『西』の一族の戦士の子として彼は生まれ、その強さを幼少時から遺憾なく発揮していた。
結果として、僅か十五にして彼は七尾に相当する力を手に入れ、しかしその存在を秘匿される。
元来『西』の一族の限界は六尾相当であり、七尾に到達する者があってはならないのだ。
もしもそれが露見すれば、間違いなく妖狐が攻めてくる……故に、一族は彼を隠した。
『西』の一族と妖狐は対立関係にあり、『南』の一族が仲介していなければとっくの昔に激突していただろう。
そして、その際に滅びるのは間違いなく戦力で劣る『西』の一族だ。
戦士の半数が六尾に到達する妖狐とは違い、『西』の一族で六尾に到達する者は一割程度しかいないのだ。
それは『東』も『南』も同じことで、故に彼らは妖狐と表だって敵対はできなかった。
翡翠という七尾相当の妖狐さえ居なければ、まだ勝算はあった。
動くことなく未来を見通す不気味な能力を持っている妖狐の族長の存在こそが、不安要素だったのだ。
彼女の機動力は他の妖狐の比ではなく、まさしく音を超えた速度で空を駆ける。
彼女を金虎が一対一で相手取れば勝算はあっただろうが、それを素直に許す彼女ではない。
『西』の一族は何度かそれを画策したこともあるが、全て失敗に終わっていた。
「……ふん」
しかし、二百年程前にその状況は大きく変わった。
その頃には、十五年間秘匿され続けた金虎の力は九尾と言える位階にまで達していたのだ。
更には、『東』と『南』……そしてヴァンパイア一族にも、九尾に達する力を得た者達が現れ、総合戦力が妖狐を圧倒的に上回った。
だからこそ、密かに彼らは妖狐を攻め滅ぼす算段を立て……時を同じくして、金虎達は紫鬼という鬼と出会う。
そこから金虎にとっての全てが始まった。世界が色鮮やかなものへと変化した。
翡翠にぶつける為以外の時間は幽閉され、秘匿され続けた彼が初めて己が生の実感を得た時間はそこから始まったのだ。
同じ境遇の者達と出会い、光と出会い、そして彼は超越した……光に選ばれた。
幽閉され続け、しかしそれでも強さを求めて鍛錬し続けた彼の努力が、その時初めて報われたのである。
しかし、その幸せな時間も碧という一人の妖狐のせいで終わった。
妖狐を滅ぼし、鬼を滅ぼし、挙句の果てには光すら殺したその妖狐さえ居なければ、全ては上手くいっていただろう。
紫鬼は光の為に死に、最後の席を与えられる筈だった者は狂い、光はそれを守る為に彼らすら立ち入れない場所を生み出した。
それを知ったブルー・シャーマンは光の代わりに世界の怨念を背負い、金虎達を来るべき時まで眠らせたのだ。
だから彼はここに居る。ここで、二度も主を守れなかった己の情けなさを悔いている。
「……藍龍か。何故塔から出て来た?」
「愚問ですね。一鬼様の願い以外に何があると言うのですか?」
しかし、その後悔に浸る時間を彼の仲間は許さなかったようだ。
視界の端に現れた同類に、金虎は内心溜息をついて、その方向を向く。
藍龍と言う名の『東』の一族に生まれた超越者は、金虎にとって同じ主を守護する同志であり、同時に方向性が違う相容れぬ存在である。
彼が光の盾となり、剣となる従者たらんとするならば、彼女は光の隣を歩く番いを目指している。
ただそれを宣言しただけならば彼は滑稽さに笑っていただろうが、実際に彼女は結果を出していた。
藍龍は、ブルー・シャーマンと紫鬼の双方から光の隣に立つことを許された唯一の女だ。
カナリーですら紫鬼とブルー・シャーマンにダメ出しされたと言うのに、彼女は受け入れられた。
金虎はそこを切り口にして生まれた女達の確執を面倒に思ってはいるが、口には出さない。
その程度のことで役割を果たすことに支障を来すようならば、どちらも彼が殺すだけのことなのだから。
超越者には、不安定な者は必要ない。
他者の意見を聞き入れ、決断を変更することは許されるが、それによって光に危害を加えることは禁忌だ。
だからこそ、金虎はブルー・シャーマンと共に光の再来を待ち続けるのではなく、眠りにつくことになった。
ブルー・シャーマンが、『裏切り者』が出た場合のハンターとして用意したのが、彼だ。
いや、正確にはハンターは彼と藍龍の二者であると言うべきか。
「貴様……あのお方のお名前を気安く―――」
「全て、一鬼様ご本人からの願いです。故に、私は貴方に伝えます―――妖狐達は生かしておいてください」
「何だと?……一年前のあの悲劇を繰り返させるつもりか?」
「いいえ、逆です。二度と起こさせない為です。私達が一鬼様の大切な者を傷つけることが、再び一鬼様を殺し得るのです。本質は、私達と一鬼様の信念のぶつかり合い。私達が折れるしか道はありません」
「……確かにそうだが、その甘さが一年前にあのお方を殺したのだぞ?」
金虎は彼らにとっての光である一鬼の名を連呼する藍龍に苛立ちと狂気を感じながらも、反論する。
凛とした表情で彼と向き合う藍龍の眼の奥に潜む歓喜は、恐らく彼女が一鬼の名を呼ぶことを許されたが故のものであろう。
その喜びは純粋過ぎ、その混じりけのない想いが、ブルー・シャーマンと紫鬼に彼女を認めさせた。
金虎にとって、藍龍はある意味尊敬できる存在だ。
一鬼への思いの強さは、その実の兄である紫鬼にすら及ぶか、下手をすればそれを大きく上回る程だ。
もしも一年前、一鬼と紫鬼がこの地で敵対した時に彼女が居たのならば、彼女は間違いなく一鬼の側についていただろう。
それこそが、紫鬼と藍龍の大きな相違点だ。
藍龍は一鬼の心を何よりも優先したい。例え光が失われることになろうとも、その心が守れたならばそれで良い。
紫鬼は一鬼の命を何よりも優先したい。例え光に憎まれることになっても、その命が守れたならばそれで良い。
紫鬼にとって、藍龍は恐らくブルー・シャーマンと同じく、己とは方向性が違うが信頼できる存在だったのだろう。
しかし、彼女では紫鬼に対するカウンターにはなれない。
紫鬼に届き得るのはブルー・シャーマンだけなのだ。
「それも確かですが、しかし紫鬼の頑なな信念が一鬼様を殺したのも事実です」
「……平行線だな。一先ず、お前の言いたいことは理解した。もしまたここに来たとしても、殺しはせん。だが……撤退させる程度には痛めつけるぞ」
「構いません。その程度で諦めるようならば、一鬼様には必要のない存在ですから」
「……そこは否定すべきではないのか? 何故敢えて肯定する?」
「一鬼様は既に、命をかけてまでその覚悟を示しました。今度はあの二人が示す番です。その思いの強さを証明する時です。それでできないようならば、一鬼様のお側に居ても苦しいだけでしょうから」
何の躊躇いもなく恐ろしいことを言う藍龍に、金虎は思わず絶句した。
藍龍が言っていることは、一鬼の願いにある意味反することであろうに、それを彼女は当然のように言っている。
半端ながらも超越した碧はまだしも、もう一人はそれすらできなかった未熟な存在だ。
そんな者に思いの強さを示せと強いるのは残酷過ぎる。依存するしか能がない者に、それを強いても結果は分かっている。
だから、彼はそのようなことを言う彼女が理解できない。
金虎は真意を確かめる為に藍龍の眼を見るが、そこにあるのは底なしの狂気のみ。
彼も本当は分かっている……一鬼の心に強く刻み込まれている二人が弱かったことが全ての原因なのだと。
藍龍はそれが気に入らない。その覚悟に応えられない弱さを甘受できない。
それでも、彼女は自ら碧達を殺しにいくことはない。それが一鬼を悲しませると分かっているからだ。
そもそも、藍龍が抱いている感情は嫉妬の類ではない。
彼女に残酷な決断をさせる原因は、碧達の覚悟の無さにある。一鬼の覚悟に応えなかった、その依存癖にある。
彼女は依存するしかできない者を理解できないのだ。その弱さを一鬼の傍に存在させることが許せないのだ。
与えられただけ自分も何かしらの形で応える……それができない者は一鬼の傍に居てはいけないと彼女は考えている。
金虎もその意見には賛成だが、それを弱者に強いるのは聊かおかしい。
弱者はそういったことをできないからこそ、弱者なのだ。
「お前は……我々と同じ覚悟をあの弱者共に強いるのか? その未来は、あれらの別離でしかないぞ。お前の望みはそれか?」
「いいえ、私の望みは彼女達が覚悟を示すことです。途中で逃げ出すようならば、どの道強者の傍には居られないでしょうから。それに、彼女達から離れていけば、一鬼様も心残りはないでしょう」
「……成程な。お前の考えは分かった。カナリーと紅鴉にも伝えておいてくれ」
「勿論です。それでは」
凛とした表情のまま一礼すると、藍龍はそこから消えた。
彼女の速度は紫鬼と一鬼という例外を除けば超越者最速であり、その次点に居る金虎ですら彼女の八割の速度しか出せない。
真の超越者とは、一鬼や紫鬼のことを言うのだと彼は知っている。理解している。
彼らは理を部分的に捻じ曲げてはいるものの、物理法則を完全に超越している訳ではないのだ。
しかし、紫鬼は光すら超える速度で動き、それに伴う事象を捻じ曲げる。
元来質量を持った物質が光の速度で移動することで生じるエネルギーは膨大だ。
質量が無い光だからこそそれが生じないのであって、もしもそこに質量が生じれば、地球に与える被害は膨大であろう。
そして、紫鬼の質量は数百トンに匹敵し、その質量が光速を超えればもはや地球など消滅する。
だというのに、紫鬼はそれを捻じ曲げて己にかかるエネルギーを零にできる。
あらゆる物理法則を捻じ曲げ、最強の矛と盾を手に入れた最強の守護者……それが紫鬼だ。
そんな紫鬼ですら死は超越できなかったが、それはある意味仕方ないことであった。
紫鬼が望んだのは永遠ではなく、一鬼を守る為の最強の盾と、外敵を排除する為の最強の矛なのだから。
その紫炎は一鬼以外の全てを焼き尽す剣となり、全てから弟を守る為の盾となる筈だった。
その拳はあらゆるものを貫き、心臓を握り潰す不可避の刃であった。
だが、彼はその拳で守るべき弟を死に追いやっている。望んだのは守ることであったのに、傷つける結果になってしまったのだ。
強過ぎる信念のぶつかり合いがその結末を生んだ。二度目の死を一鬼に齎した。
故に、三度目をなくす為に金虎達は覚悟せねばならない。死にもの狂いでもがかねばならない。
「……ブルー・シャーマン、お前が焚き付けたのか?」
『然り。お前も少し頭を冷やせ。私が帰還するには、もう少しかかる……それまでは手を出すな』
金虎の意識は分裂し、片方は超越者達の居る世界へと、もう片方は肉体の制御を務める。
それは全ての超越者が可能としている業であり、同時に情報の共有を可能としているものでもあった。
現在そこに居るのは彼とブルー・シャーマンのみで、他の超越者の姿は見えない。
当然だ……そこを皆が訪れるのは、互いが会うことができない状態にある時だけなのだから。
そして、まさに現在その状態にあるブルー・シャーマンと、彼は会話をしている。
現在金虎の前に聳え立つ塔を生み出した、蒼炎の超越者と。
「成程。そういうことだったか。お前も意地が悪い……そういうことならば、最初からそう言ってくれたならば良かったものを。態々藍龍を動かした理由は何だ?」
『何、簡単なことだ。選ばれし子と藍龍を引き合わせることと、藍龍に他の超越者が殺戮者か略奪者を殺すことを阻害させることだ』
「つまり、お前は……藍龍に我々の監視をさせるつもりなのか?」
『そうなるな。金虎、くれぐれもカナリーを暴走させるな。あれは、藍龍に嫉妬している。本当は、光の隣に居たいと思っている。殺戮者に似た傾向を持つあれは、いずれ光に直訴するだろう。その時光が受け入れるならば良し。拒絶するならば……分かっているな?』
「ああ、そこからカナリーが暴走する可能性がある場合は―――私が殺す」
凍えるように冷たい声音でそう言いながら、金虎はその眼を細める。
彼の思い決意に応えるように、黄金の光が彼の体から放たれ―――彼はそれそのものになった。
美空は自室のベッドの上で膝を抱えて、椅子に座っている碧と向き合った。
時間は既に八時半を過ぎており、外は静まり返っている。
余りにも静かな空間の中で、彼女は碧に言われたことをただ反芻していた。
彼女は既に人間を辞めており、もう戻ることはできない。白雪の残した何かが彼女をそうさせた。
彼女にとって、そのことはどうでも良かった……いや、寧ろ感謝すらしているくらいだが、問題は別のものだ。
この世界に突然現れた四体の超越者……それが意味することに薄々美空は気付いていた。
だが、それを口にして確かめることはできない。それが否定されるのが怖い。
「取りあえず、確認するわね。今夜、突然白雪の声が聞こえるようになって、妖狐の尾が一本、耳が一つ生えた。その声に導かれてあの場所まで言って、白い槍に貫かれた。結果、そうなった……それであっているわね?」
「うん……」
「見た処、既に質量を誤魔化す術はできているようね。貴方の代わりに白雪が制御しているということかしら?」
「分からないけれど……そうだと思う。私は何も使ってないから」
「はぁ……成程ね。能力は白雪が、体の制御は貴方が担っているのでしょう。白雪の声は、今は聞こえないの?」
美空は碧の言葉に首を横に振りながら、碧と会ってから一度も聞こえてこなくなった声を不思議に思う。
その声の主は白雪であり、恐らくは二年前の事故の際に彼女に何かを仕組んだのも白雪であることは間違いない。
彼女が偏頭痛に苦しむようになったのは事故の後からであったし、一年前に白雪は彼女をバックアップと呼んだ。
それが意味するのは、今の美空の状態そのものである。
白雪は紫鬼達に敗れることを半ば予想しており、己のバックアップを美空に仕込んでいたのだ。
恐らく精神が非常に似通っているからこそ、白雪は彼女を選んだのだろう。
実際、今現在の美空は白雪と同じか、それに似通った思考回路を有している。
少しずつ白雪の思考に染まって来たのも事実だろうが、それが彼女にとって違和感がないものであることも事実。
結局、彼女と白雪は非常によく似ているのだ。
「困ったわね……白雪の目的は何だったか聞いている?」
「兄さん……だって」
「一鬼? ということは……やっぱり、そうなのね。美空、貴方が感じている気配はいくつ?」
「えっ?……えっと……碧さんも含めて、六つ。五つが真っ暗で、一つが明るい気配」
「……そう」
顔を曇らせて静かに頷いた碧に、内心美空は己の感じたものが事実であると実感した。
しかし、それを口に出しはしない……碧がきっと彼女を止めるであろうからだ。
きっと、碧は暖かい気配が一鬼のものであると実感している。理解している。
それでも彼女にそれを話してはくれない。兄は生きているのだと安心させてはくれない。
その気配を守るように囲んでいる四つの気配が危険だと、碧は知っているのだ。
だが、彼女はそこに行かねばならない……兄を手に入れる為に。もう一度、愛しいひとと触れ合う為に。
「美空、今貴方が感じているのは私とは違う、本物の超越者達の気配よ。良い? 絶対に奴らに近づかないで。私や貴方では、絶対に勝てないわ」
「……うん。私も、もう一年前みたいな怖い思いはしたくないから」
「なら良いの。それよりも、まずはその耳と尻尾を隠せるようにしないといけないわね。自分でできる?」
「ん~……駄目みたい」
「なら、後で白雪に尋ねてみて。取りあえず、今はそれだけよ……時間をとって悪かったわね」
碧は、美空と白雪が現在対話できない状態にあると聞くと、そのまま話を終えた。
余りにも不自然なその話の切り方から、美空は容易に碧が一鬼の話題を避けていることを悟る。
碧は二年前、一鬼の『虹色の肋骨』として蘇り、そこからずっと彼と一緒だったのだ。
今彼女が感じている暖かい気配が彼の気配か否かを、碧は間違いなく知っている。
知っていて、そのことを言及するのを避けている。彼女に教えようとしないでいる。
それが意味するのは、即ち肯定であろう。
碧は、一鬼のこと以外はどうでも良いと思っている。
美空も同じ考えだからこそ分かる……碧が彼女に一鬼が戻って来たと告げないのは、彼女の為ではないと。
それを彼女が知れば、間違いなくそこに向かうことになるだろうが、そこには超越者が居る。
彼らが彼女を素直に通す保証はなく、結果として美空は超越者に殺されることになるかもしれない。
そうなれば、碧は一鬼との誓いを果たせない訳だ。
「うん、分かった。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
己の中で燃え盛る炎を外に出すことなく、美空は力ない笑顔で碧に手を振った。
碧はその仕草が嘘であると気付いているのだろうが、彼女はそれでも構わない。
碧は一鬼の為に美空を守っているに過ぎないのだから、そこまで深く関わる気はないのだ。
それを利用して、適度に己を見せて、適度に誤魔化すことで、彼女は本心を覆い隠せる。
本当は今すぐ一鬼が居るであろう場所に行きたいが、超越者をどうにかせねば、それは叶わない。
ならば、それまでに白雪と共にそれを突破する方法を考えるだけのことである。
白雪は言った……超越者の裏をかく力が美空には必要だと。
まったくもってその通りだ。今彼女がはっきりと感じている四つの気配は余りにも強大で、彼女や碧では勝てそうもないのだから。
最も小さな気配でさえ、碧の十倍は力があるのだ。況してや、最も強大な気配ともなれば、恐らく碧の百倍は強い。
そんな者達を前にすれば、美空など簡単に殺されてしまう。
だから、欺くのだ。裏をかくのだ。
全ての超越者達の裏をかくのだ。
「……白雪さん」
『なにかしら?』
「どうして……碧さんの前で話をしなかったの?」
『姉さんを試したの。私と本気で対話するつもりがあるかどうかって。結果は……現状が物語っているけれど』
「……そう、だね」
碧は白雪と本気で対話するつもりなど無かった。
碧は一鬼のこと、そして彼の約束で頭が一杯で、白雪と本気で対話しようとはしなかったのだ。
無理に対話を求めても、それに白雪が応えてくれる保証がなかったというは事実だが、しかし姉としては余りにも薄情であろう。
碧と白雪の間にある確執は大きなものだが、それでも二人は互いを何処かでまだ愛している。家族だと思っている。
だからこそ、白雪は一年前の戦いに生き残った碧と共に一鬼を独占しようと考えた。
それも、一鬼を貪ったことを自慢した碧の言葉を聞いて、激情に流されてしまった訳だが。
今白雪と同化し、その記憶が混入している美空には分かる。
白雪は幼い頃から、姉である碧を力の面では尊敬し、しかし精神的な面では軽蔑していた。
己を誤魔化してばかりで、何一つ向き合おうとしないその脆弱さが白雪は嫌いだった。忌々しかった。
それでも、姉だと思っていた。大事な家族だと思っていた。所詮一鬼と比べればゴミでしかない姉だったが、そこに愛がなかった訳ではない。
ただ、一鬼の重さと姉の重さが余りにも異なり過ぎただけだ。差が大き過ぎただけだ。
それこそが、彼女が屑だと山吹に称された理由でもある訳だが。
『姉さんは、一鬼以外には興味が無いわ。そして、それは私も貴方も同じ……同じ穴の狢なのよ』
「うん、分かってる。でも……私は友達や父さんとしっかり別れを告げてからいきたい」
『そうね……それができるなら、その方が良いわ。恐らく一鬼の再生には最低でも三日はかかる筈……その間に別れは済ませておくことね』
「三日かぁ……あっという間だね」
たった三日で父とも友人達とも別れを告げるとなれば、かなり難しい。
だが、一年前の一鬼と比べればまだ彼女には時間がある。
彼には分かれを言う時間すら与えられなかった。最後に覚悟する時間すらも、与えられなかった。
それでも彼は覚悟していた。己の命を失う覚悟も、兄と敵対し、それを降す覚悟も。
彼は一日で羽月を失い、愛梨を失い、遂には己自身の命すらも失ったが、それでも覚悟していた。壊れることはなかった。
一鬼の強さは、美空では真似できない狂気の世界のものだ。
一度受け入れたものは最後まで背負おうとするその覚悟も、己を拒絶する者から学ぼうとする貪欲さも、彼女には真似できない。
多くの者が肯定されたがる中、彼はより高みに昇る為に否定を望む。狂信者ではなく、対立者を望む。
彼は狂気すら感じる覚悟の世界に居た。地を這いつくばって様々なものと出会い、その実優希のように優雅に全てを飛び越えていく者よりもずっと強かった。
美空はそんな一鬼の強さが怖かった。妬ましかった。
彼女は彼のようになりたいと何度も思ったが、その狂気の世界に彼女は至れない。
碧ならばそこに至れただろうか?―――否。白雪ならば?―――不可。
所詮彼女と同じ穴の狢でしかない彼女達では、一鬼達の居る世界に足を踏み入れることはできない。
だから、平凡な者達しか居ない人間の世界で彼は孤独だったのだ。だから、超越者が彼に必要なのだ。
狂気の世界に踏み込めるのは同じ住人のみ……だからこそ、超越者は彼の傍に居る。
『ええ、だから無理だと思ったらそのまま振り切りなさい……どうせ、貴方のことを本気で受け止めてくれている者なんて、一鬼以外に居ないんだから』
「……そう、だね。でも、私は……それでも、いろんな人と会えて楽しかったよ。幸せだったよ。今までの人生は無駄なんかじゃなかった……確かに、兄さんに甘えてばかりの、寄生人生だったけれど……白雪さんが全部滅茶苦茶にするまでは幸せだった」
『……そう。なら、私はさぞ貴方にとって憎らしい存在なのでしょうね。貴方が憎んでいるのは白雪という個であって、その一部である私もそれに該当するもの』
「……そう思っているのなら、私に力を貸して。兄さんに会いに行く時、超越者を欺く力を貸して」
『言われずともそのつもりよ。私は貴方を一鬼と再び会わせるわ……それが私の慰めになるのだから』
美空は所詮一鬼に依存している寄生虫に過ぎない。
しかし、それが分かっていても……それでも彼女は一鬼に会いたい。傍に居たい。愛されたい。
いかに己が浅ましい存在なのかは彼女も理解している。いかに神谷の血を穢しているのかも、理解している。
それでも、彼女は愛する男の傍に居たかった。再び触れ合いたかった。
どんなに屑だと言われても、超越者達に拒絶されようとも、一鬼の傍に居たい……それが彼女の願いだ。
だから、その為には白雪すら利用する。碧を欺き、父達を切り捨てる。
それまでの時間は決して無駄なものではなかったと口で言い、実際にそう思っていながらも、平気でそれを切り捨てることを選ぶ。
それが美空という存在だ。それが、彼女を山吹が屑だと言った理由そのものだ。
結局は彼女も、光を手に入れる為にそれ以外の全てを犠牲にしようとした碧や白雪と変わらない。
彼女はそれを理解しながらも、今己が進んでいる道を突き進むと決めた。
例えそれが山吹の最後の願いに反するとしても、彼女は己の望みの為にそうするのだ。
闇をかき消し、辺り一帯に光を齎す塔を見上げながら、カナリー・ロードは静かに溜息をついた。
降りしきる雨が肌に触れる前に蒸発していく程の熱気を放ちながらも、彼女は己の中で燃え盛る黄色の炎を感じている。
それを与えてくれた光……一鬼という鬼は、今彼女が見ている塔の最上階でその肉体を再生させている途中だ。
塔から出られるようになるまでは三日、完全に復活を遂げるには一週間を要すると、ブルー・シャーマンは皆に言った。
彼女はただそれを待つことしかできないことが、歯痒い。
そもそもは、二百年余前に碧が一鬼を殺したのがいけないのだ。
いや、それを言えばその切掛けを作ってしまった紫鬼にも、その責はある。
しかし、今更そのことを責めても、既に一鬼の糧となって二度死んだ紫鬼はここには居ない。
一度目はその心臓を捧げ、二度目はその紫の鬼火と全ての生命力を返上し、紫鬼は逝った。
圧倒的な強さと狂気と言える程の圧倒的な信念を持つ彼に、彼女達は憧れていたものだが、それが彼を殺した。彼に光を殺させた。
何とも皮肉なものだと思いながらも、カナリーは塔の頂上目掛けて手を伸ばす。
そこに彼女達が守るべき光が居る。一鬼という名の鬼が仮初の肉体を得て、本物の肉体の再生を待っている。
今ならば彼女は彼に会える。一切の超越者の介入なしでも立派に成長し、紫鬼と同じ狂気と呼べる覚悟を背負う男となった光に。
しかし、果たして他の超越者がそれを許すか……それだけが問題だった。
特に今、彼女の前に現れた超越者はそれを許さないだろう。
「ふぅ……私に何の用? 藍龍、貴方は光を守る為に塔の中に居た筈でしょう」
「カナリー、その光からの願いです。今後ここにやって来るであろう妖狐達は殺さずに追い返してください」
「……私達に我慢しろと?」
「そういうことになりますね。金虎と紅鴉には既に了解を得ているので、後は貴方だけです」
「……はぁ。分かったわ。死なない程度に痛めつけるくらいにしておきましょう」
カナリーは既に外堀が埋められていることを悟ると、静かに溜息をついた。
彼女が逆らった処で、藍龍に勝てる筈がない。いや、それどころか金虎や紅鴉にも勝てないだろう。
純粋な戦闘能力ならば彼女は紅鴉よりも強いが、そこに能力が介入すれば力関係は逆転する。
彼女の持つ能力は非常に強力だが、残念ながら他の超越者達とは相性が悪過ぎるのだ。
その能力を使わずとも、カナリーは碧以上の戦闘力を有してはいる。
しかし、逆に言えばその程度でしかないのだ。それだけでただの妖全てを滅ぼせる力ではあるが、超越者相手では意味がないのだ。
実際、純粋な戦闘力ならば金虎と藍龍は彼女の何十倍、何百倍も強いし、紫鬼に至ってはもはや力の差があり過ぎて、比較することすらバカらしい。
一年前、十尾となった碧はそのリソースを全て戦闘力に割いたにも関わらず、片手を失い満身創痍の状態であった紫鬼に負けていた。
宿主という足枷によって一割は愚か一億分の一の能力すら発揮できずに居た紫鬼であったが、それでも戦闘力特化の十尾よりも強かったのだ。
完全な状態であったならば、誰も勝てない……一鬼と言う例外を除いては。
事実、一年前も紫鬼を殺したのは一鬼であって、碧ではない。
その最強の守護者が認めたハンターを前にしては、彼女など塵芥だ。
「気に入らないことがあれば、言ってください。私も鬼ではありませんので」
「そうね、貴方は鬼ではない。鬼にはなれない……私も貴方も、あのひとと同じにはなれない」
「一鬼様のことでしたら、先程お名前を呼ぶことを私達皆にお許しくださいました」
「っ!?……それは……本当なのね?」
「はい、本当です。私は嘘をつきませんし、一鬼様もそうです。私達は皆嘘をつかず生きる―――そう一鬼様に誓ったが故にここに居るのですから」
綺麗な笑顔のまま言い切る藍龍に、カナリーは思わず顔を顰める。
風に揺れるプラチナブロンドの髪を片手で押さえながら、彼女は同類の眼を直視した。
そこにあるのは深い藍色の闇であり、一鬼に対する狂信を超えた愛だ。
彼女はそれ程までに誰かを思える者を他には知らない。紫鬼ですらも、ここまでの狂気の世界には居ない。
紫鬼は純粋に弟を守りたいという願いが根底にあり、守護者として生きて来た二十四年間がその決意の固さをより強固にした。
だが、二百年前の藍龍は一鬼と実際に会ったことはない。
ただ超越の際に一度触れ合っただけで一鬼を己が生の目的としたのは他の超越者も同じだが、藍龍は次元が違う。
彼女は一鬼という太陽に寄り添う小さなもう一つの太陽だ。太陽と共に世界に光と闇を齎し続けるつがいだ。
ただの闇でしかないカナリーとは違う、光を持つ超越者だ。
紫鬼達が純然たる闇であるならば、ブルー・シャーマンと藍龍は光を内包する闇と言える。
だからこそ、ブルー・シャーマンは二百余年前の光の消失からその代わりにこの世界の怨念を受け入れ続け、結果として白雪に隙を突かれる程に衰弱した。
そもそもが、妖達が抱える怨念は強大過ぎるもので、それがこの世界に残り続ければ妖も含めて全ては滅びる。
だからこそ、一鬼が生まれた。この地球の許容量を超える怨念が生まれてしまった為に、それを消し去る光が必要となった。
そうしなければ妖が貯めに貯めた怨念は地球を覆い尽くし、地球上の生命を残らず殺すだろう。
光はまさしく全ての生物を救う為に生まれた存在なのだ。
「確かに愚問だったわね。それで、貴方はこれからどうするつもり?」
「それこそ愚問です。私は一鬼様に呼ばれていますので、これから再び塔内部に向かいます。何か用がありましたら、『扉』の向こうにお呼びください」
「ええ、そうさせて貰うわ……それにしても、貴方も大変ね。か、かか……一鬼様のお気に入りがあんな弱者達だなんて。あんなのが光に選ばれたなんて、気に入らないでしょう?」
「いいえ、私はそうは感じていません。そう思っているのは貴方の方ではないのですか? それと、一鬼様のお名前を呼ぶことの何が恥ずかしいのか、私には分かりかねます」
「……やっぱり貴方のことは苦手だわ。それと、そこまで恥ずかしくない子の方が少ないのよ」
カナリーは一鬼の名前を呼ぶ際に気恥ずかしさが勝って噛んでしまったが、それを藍龍は理解できていない。
彼女も分かっている……藍龍に恥じらいがない訳ではないが、その積極性の前では些細なことだと。
藍龍は恥ずかしさよりも嬉しさが先行するタイプであり、カナリーはその真逆である。
気丈さを捨てきれない彼女はどうしても素直になりきれない一面があるが、藍龍は非常に素直だ。
恐ろしい程に素直で、一途で、そこから感じられる狂気こそが、紫鬼とブルー・シャーマンに認められた所以でもある。
カナリーは藍龍の過去を詳しく知っている訳ではないが、その狂気を加速させたのが一鬼であることは知っていた。
半端な光でしかない藍龍にとって、一鬼はまさしく希望だ。この世界における唯一の同類だ。
ブルー・シャーマンもまた似通った存在ではあるが、蒼炎の超越者はまた別の存在であり、真なる同類は一鬼しか居ない。
だからこそ、藍龍はその同類を何よりも愛する。唯一絶対の存在であると断ずる。
言うなれば、藍龍は唯一一鬼の大部分を理解することができる存在なのだ。
同類であり、しかし闇をその奥に持つ藍龍は、純粋な光でしかない一鬼を導き、支える。
光としての浄化の役割と、闇としての怨念の収集の役割の双方を藍龍は果たす。前者に関しては純粋な光ではない者には限界があるが、少なくとも紫鬼達にはできないことだ。
そういったことを分かっていたからこそ、紫鬼とブルー・シャーマンは藍龍に一鬼の隣に居ることを許した。
それはカナリーも理解している……嫌でもそれが分かる。
だからこそ、カナリーは藍龍のことが苦手だった。羨ましかった。
一鬼の隣に居ることを許されたことが羨ましかった。その多くを理解できることが妬ましかった。
「そうかもしれませんね。私の方が異常なのでしょう。昔から、良くそう言われました」
「……昔というのは、『東』の一族に居た頃のことね?」
「はい。私も皆と同じくその存在を秘匿されました。金虎のように幽閉まではされませんでしたが」
「ああ、『西』の一族は仕方ないわね。妖狐がヴァンパイアの次に警戒した一族だもの。金虎の存在を何としても隠し通す必要があったんでしょう。まぁ、八尾になった時に解放すべきだったとは思うのだけれど」
「仕方ないことです。長達が望んだのは四つの一族全てが滅びずに、妖狐を倒すことなのですから。それを為すには金虎だけでは不安だったのでしょう。私もバカだとは思いますが」
肩を竦めながらかつての族長達の意見を否定する藍龍に、思わずカナリーは苦笑した。
超越者の内の四名が、妖狐を密かに倒そうと画策していた一族達の生き残りであることが、おかしかったのだ。
しかも、二百余年前に開いていた席に座る資格があったのが白雪という妖狐で、実際に一年目にそこに座ったのがその姉である碧なのだから、もう笑うしかない。
妖の世界において最も強く、最も忌み嫌われていた一族……妖狐から超越者が現れるなど、皮肉以外の何物でもなかった。
殺ししか知らない空虚な一族から守護者が生まれるなど、皮肉でなければ何だと言うのだろうか。
そして、実際にそれは皮肉であったと証明された。
碧は一鬼を二度死なせ、白雪はその間接的な原因を二年前に構築している。
前者に関しては碧を受け入れた一鬼やさっさと始末しなかった紫鬼にも落ち度はあるが、彼女達からすれば後者に関しては完全に白雪の責任だ。
仮にも超越者の資格を持っていた白雪が、その役目を放棄して一鬼を独占しようとしたのだから。
いったい彼女達の何処か守護者と言えるのであろうか?何処に超越者としての覚悟があるというのだろうか?
そんなものは何処にもない―――彼女達は依存するしか能がない屑だ。
「結局全部滅んだ今こんな話をしても無意味なのよね……何処かの一族のせいで滅茶苦茶だわ」
「確かに妖狐は全ての一族を滅ぼしましたからね……そのほぼ全てがあの姉妹だというのも、中々に業が深いものです」
「それでも生かすのね?」
「はい。一鬼様が望むのならば」
「なら、止めはしないわ。私もか……一鬼様のご意思を尊重したいもの」
再び気恥ずかしさに口ごもりながらも、カナリーは光を放つ塔を見上げた。
一鬼はバカだ……今はまだ、己が受け入れたものを自ら拒絶できない愚か者だ。
カナリーはそれを知っている。藍龍も、他の超越者も皆知っている。理解している。
だからこそ、毒でしかなかった碧と白雪を受け入れた彼は二度死ぬことになった。
超越者にとって彼は代替の存在しない唯一の存在であるというのに、彼は死を容易く受け入れる。
それが彼女には悲しかった。それを止められないことが、彼女達は悔しかった。
力を与えられ、受け入れられたにも関わらずにカナリー達はなにも返せなかったのだ。
光に応えたいと何度も彼女達超越者は思った。それに応えようとした。行動もしている。
だが、その全ては妖狐の姉妹によって水泡に帰した。光が愚かな妖狐を受け入れたことで無意味になった。
ただ受け入れ、愛するだけで見返りを求めない光が彼女達は憎い。悲しい。
何故与えるだけで受け取ってくれないのだろうか?何故受け入れるだけで受け入れられてくれないのだろうか?
無償の愛など超越者達は求めていないし、寧ろカナリー達は見返りを求めて欲しかった。
一鬼に必要だと言って欲しい。彼女達に何かを求めて欲しい。それが可能か否かは問題ではない……求めてくれることが重要なのだ。
一鬼は求めることを恐れている。それが弱さだと思い込んでいる。それが醜いことだと思っている。
そこだけが、彼女達超越者にとって残念なことであった。
一鬼に強さを求めるブルー・シャーマン以外にとっては、一鬼のその無欲さは呪いそのものなのだ。
「カナリー……貴方も気付いているでしょうが、今私達は初めて一鬼様の願いと向き合っています。一鬼様の我儘に直面しています。ここからは、うんと甘やかさなければいけません。貴方は最後までついてこられますか?」
「愚問ね。こう見えて、私は尽くす女なのよ」
「そうですか。私にはプライドが高くて素直になれない女性にしか見えませんでした」
「……貴方ねぇ。まぁ、良いわ。とにかく私達の恩返しはこれから始まるの。生きる理由そのものとなってくれた一鬼様に、今度は私達が応える番よ」
「ええ、分かっています。ですから……頼みますよ」
意味深な微笑みと共にそこから消えた藍龍を気にすることもなく、カナリーは静かに頷いた。
確かに彼女にとって藍龍は嫉妬の対象ではあるが、同時に憧れの存在でもある。
その狂気の世界にある一鬼への想いは、彼女も是非とも見習いたいと思う程に強いのだから。
大方彼女が碧の二の舞を演じる可能性を考慮してブルー・シャーマンが藍龍を動かしているのだろうが、彼女にはそのようなつもりはない。
彼女は碧のように間違えることなく、最後まで己を貫いて一鬼の傍に居ることを望んでいる。
隣に居ることが叶うかは分からないが、少なくともそれを求めて暴走しはしない。
カナリーはただ、一鬼に欲して欲しいのだ……彼女達は必要な存在だと言って欲しいのだ。
確かに彼女達は一鬼が完全に覚醒すれば無用の長物であろうが、それでも彼に必要とされたい。
彼女達は彼の為に生まれたのだ。彼の為だけに生きて来たのだ。彼だけが生きる理由なのだ。
かつては本気でなかったブルー・シャーマンですらも、今は本腰を入れて一鬼に仕えようとしている。
それ程に今の一鬼は強く、そして恐ろしい。
ブルー・シャーマンが望むのはその果てにある一体の究極の鬼の誕生の観察なのだろうが、カナリー達の望みは違う。
彼女はただ、一鬼に普通に育って欲しかった。強さと弱さの双方を併せ持って欲しかった。紫鬼が望んだのはまさにそれだった。一鬼に強さを強いることなく、ただ普通に生きて欲しいと、最強の超越者は兄として望んだ。
だからこそ、彼女達はその為にこれから動くのだ。
その為にも、まずは一鬼と対話しなければならない。
光り輝く塔の頂上を見上げて、カナリーは静かに祈った……彼女達がただの守護者ではなく、『必要とされる守護者』となる日が来ることを。
翌朝、美空は頭痛と共に目を覚ました。
かつて一鬼が経験したという怨念との戦いは彼女には降りかからなかったようだ。
それに安堵しながらも、同時に何故それが起きないのかを彼女はある程度察していた。
今もはっきりと聞こえる子守唄が、彼女の精神を蝕む筈の怨念を浄化しているのだ。
故に、彼女はその重さに苦しむことはない。元来あり得ない一尾からの九尾への変貌を一晩で済ませた。
兄が居なければ……彼が持つ子守唄がなければ、彼女はきっと怨念に押し潰されて今頃死んでいただろう。
美空は兄に助けられてばかりだ。
彼女は何度もその恩に応えようとしたが、いつも彼はそれを笑って必要ないと払い除けた。
いつだって、彼は彼女にもう十分見返りは貰っていると言って、彼女のけじめを拒否し続けて来た。
そのことがより一層美空の無力感を強めていくと知らずに、彼はそうしてきたのだろう。
確かに一鬼は強く優しい男ではあったが、しかし美空にとって良い兄ではなかった。
一鬼は酷い男だ。与えるだけ与えて、何も受け取らない薄情者だ。
他人の恩に報いることを心情としている癖に、他人が彼の恩に報いようとすると拒否する。
そんな彼の在り方が彼女は嫌いだった。己の思いを無意味なものだと言われているようで、嫌だった。
しかし、彼女はそれを言い出すことは最後までできなかった……それを指摘することで彼に捨てられるのが怖かったのだ。
そのようなことをされる筈がないと思いながらも、彼女は兄を信じ切れなかった。
「っ……白雪さん……起きてる?」
『ええ、思念でしかない私に休みは必要ないから、二十四時間貴方と対話できるわ。それで、何の用かしら?』
「私の質量の誤魔化しとかは、全部白雪さんがやってくれているって話だったけど……そんなことできるの? 間違ったりしない?」
『その質問は昨夜すべきものだと思うのだけれど……取りあえず、答えはイエスよ。私は貴方の思考を読んでいるから、制御の仕方や程度を間違うことはないわ』
「えっ……なにそれ怖い」
美空は白雪の言葉に真っ青になりながらも、しかし今更であると諦めた。
愛梨だって彼女の心を容易く読んでいたし、そのことで不都合が生じる訳ではないからだ。
もしも愛梨という前例が居なければ彼女も混乱していたであろうが、そもそも今彼女と白雪はまさしく肉体を共有している状態にある。
いや、寧ろ美空に白雪の思念がくっついている状態と言った方が近いかもしれない。
とにかく、運命共同である二人が思考で意思疎通できるのならば、それに越したことはないのだ。
そもそも、一鬼達レベルになれば思考は読めずとも、先の動きは予想してくる。
全ての妖が心を読む訳ではないし、寧ろそういったことができるのはサトリと言われた種族だけだろう。
その本質を見透かす力を持ち、尚且つそれと向き合うからこそ、妖は人間よりも強いのだ。碧曰くそれができていなかったという妖狐は、そういう意味では妖ではないのかもしれない。
美空は耳と尻尾が完全に消えていることを確認すると、そのまま時計を見遣る。
時間はまだ六時半……登校までに時間はあるし、朝食の準備もできていないだろう。
彼女はゆっくりと背伸びしながらベッドから降りると、そのまま歩き出してクローゼットに向かった。
今も静かに彼女の中で燃え盛る炎は、ジリジリと彼女の心を焼いているが、今まで程酷くはない。
一鬼が持つ唄が、彼女を癒してくれているのかしれない。彼女を守ってくれているのかもしれない。
そう思うだけで、彼女は勇気を出せた。己を奮い立たせることができた。
「よし、頑張ろう……」
美空は制服の状態を確認し、ポケットにハンカチとティッシュを入れてクローゼットを閉じた。
机の上に置いてあるノートPCを起動させ、机に貼ってある時間割を見ながら学生鞄に該当する教科書などがあるのかを確認する。
更に、既に起動していたPCのディスプレイに認証画面が映っているのを確認して、パスワードを入力した。
認証が通り、デスクトップが表示されるとすぐさま彼女はツールバーにあるウェブブラウザをクリックして起動させる。
ニュースは新聞やテレビからも見られるが、速度に関してはネットの方が圧倒的に速い。
特に地震などは揺れた直後に情報が入って来るので、速度を重視すればネットを使わない手はないだろう。
ただし、ネットにある情報の半分は嘘だと思っていなければ、痛い目を見ることもあるのだが。
情報の真偽の保証がないのは新聞もテレビもネットも同じだが、思想が絡んでくるのも同じだ。
そういったものに引っかからないようにするだけの頭も現代を生きるには必要なのだ。
「……えっ?……なにこれ? 白雪さん、見えてる?」
『ええ、貴方の眼を通して見ているわ』
美空は、ニュースサイトにあった速報に思わず目を見開いた。
『○○山に光の塔が出現』などと書かれた見出しと共に見える写真のサムネイルをクリックして、表示された巨大な塔の写真は合成な何かと思ってしまう程に圧巻だ。
しかし、彼女が驚いたのはそれの塔ではなく、その場所であり、それ以外はどうでも良い。
塔が現れた場所は、かつて一鬼達鬼が住んでいたという場所であり、一年前一鬼が死んだ場所なのだ。
文章を読み進めていくと、昨夜突如それが現れたことを衛星が捉えたという情報が書かれている。
塔の長さは数百キロに達し、それにも関わらず塔は倒れる兆しを見せない。
これは明らかに人間の文明で可能なレベルを逸脱しているし、科学の力とも言えないだろう。
恐らくその塔を作り出したのは超越者であって、そこに技術は介入しない筈だ。
そのことを踏まえれば、テクノロジーと言うよりも寧ろ、オカルトの領域に含まれる事象である。
しかし、問題はそこではない。
美空にとって重要なのは、何故このようなものを作り出す必要があるのか、だ。
超越者達が目立ちたがりであるとは彼女は思っていないし、寧ろ忍ぶ傾向にあることも僅かながら察してはいる。
そもそもが、圧倒的な力を持ちながらも彼らに関する伝承が余りにも少ないのがその証拠だろう。
彼女が知っているのは、全てを燃やし尽くす炎と全てを見通す蒼炎の超越者のみ……つまり、紫鬼ブルー・シャーマンだけだ。
「あれ? 私……なんでそんなことを知って……」
『私と貴方は今融合している状態にあるわ。私の記憶を貴方も参照できるの』
「じゃあ、これは……白雪さんの?」
『ええ、二百余年前、ブルー・シャーマンが有名な存在でね……妖同士ではサトリですらも心を見透かせないのに、全ての過去も未来も見透かすなんて、反則でしょう?』
「確かにそうだね……」
美空も白雪の言葉に頷くしかない。
ブルー・シャーマンは強過ぎた……戦闘力は七尾相当だと言っていたが、蒼炎の超越者の本領はそれ以外にある。
一切の干渉を受けない不死であり、他者の過去も未来も暴き、己に一定以上近づいた者を蒼炎で灰にしてしまう。
まさしく次元が違うその力を反則と言わず何と言えば良いのだろうか?
二年前にブルー・シャーマンが宿ったのが愛梨ではなく一鬼だったならば、それこそあそこまでの犠牲は出なかっただろう。
その場合、間違いなく碧は紫鬼に殺されていただろうが、少なくとも一鬼が死ぬことはなかった筈だ。
結局の処、一鬼は碧が足手纏いとなって死んだのだから、そうならないブルー・シャーマンが彼の『虹色の肋骨』であるべきだった。
しかし、実際はそうはならずに皆死んだ……白雪と碧のせいで、皆死んだ。
実際に一鬼を殺したのは紫鬼だが、そうさせたのは間違いなく妖狐の姉妹なのだ。
「……やっぱり、割り切れないよ」
『貴方が私や姉さんを憎むのも無理はないし、報いを受けるべきなのも理解しているわ。でも、私は貴方にそれを叶えてあげられないの……ごめんなさいね』
「良いの。私は……兄さんが戻ってきてくれたなら、忘れられるから」
美空は一鬼さえ居てくれたならば、他はどうでも良い。
兄さえ居てくれたならば、白雪だの碧だの、そのようなものは彼女にとってどうでも良いのだ。
それが彼女だ。山吹が屑だと称した彼女の本音だ。
彼女自身も既にその事実を受け入れ始めているし、向き合う覚悟もあるつもりだった。
『美空……』
「私も分かっているの。白雪さんは一年前に私が会った白雪さんとは違うんでしょう?」
『そうだけど……でも、貴方の記憶に残っている私も間違いなく白雪なのよ? 例え切り離された精神であったとしても、私もあれも白雪という妖狐なの』
「それって、要は今の白雪さんは白雪という妖狐の良心みたいなものだって意味でしょう?」
『どうしてそういう解釈をするのかしら……間違ってはいないけれど』
何処か呆れた口調で言う白雪に、美空は微笑んだ。
一年前に出会った白雪と今彼女が話している白雪は確かに同じ声をしているが、纏っている空気がまるで違う。
そもそも、一年前に出会った白雪ならば彼女の精神を乗っ取っていたであろうし、こうして話すこともできなかっただろう。
それだけの狂気が一年目の白雪にはあった。一鬼を手に入れる為ならば手段を択ばない余裕の無さが確かに存在した。
だが、今美空が話している白雪からはそれが感じられない。
彼女の精神を浸食することもなく、ただ導こうとしている。彼女の望みを叶えようとしている。
だからこそ、彼女は今彼女と融合している白雪を、一年前の白雪が切り捨てた良心の部分だと評するのだ。
そこに隠れている罪悪感を彼女は理解しているし、一鬼に会いたいという願いがあることも分かっている。
だからこそ、彼女は白雪の力を借りることを惜しまない。
二人三脚で以て超越者を欺く術を彼女は見つけねばならないのだから。
「なら、それで良いと思うよ。それよりも、碧さんのことはどうするの? 仲直りしたい?」
『いいえ……するつもりはないわ』
「……どうして?」
『白雪は好き勝手をして、その結果死んだ愚かな妖狐でしかないの。誰もがそう思わねばならないの。それが事実なの。だから……』
「……そう、なんだ。分かった。私もこのことは胸にしまっておく」
『ありがとう、美空』
確かに白雪は好き勝手やって死んだ。
一鬼を手に入れる為に……いや、独占する為に彼以外の全ての妖を殺し、『虹色の肋骨』を生み出し、多くの死者を出した。
美空も白雪がしたことは許されることではないと分かっている。それが多くの悲しみを生んだことも理解している。
まさしくそれに巻き込まれた彼女だからこそ、多くの者が白雪に対して憎しみを抱くのが分かるのだ。
しかし、一鬼達がその元凶となったのも事実だ。
一鬼が碧を受け入れてしまい、紫鬼が碧をさっさと始末せず、碧の暴走を許した。
それこそが全ての始まりであり、碧と白雪の最大の罪が生まれる原因となったと言える。
当時赤子だったとはいえ、一鬼は強大過ぎる力を持って生まれ、結果として碧を助けてしまった。
それこそが最大の原因であり、一年前一鬼に碧を受け入れさせた大きな要因なのだろう。
結局勝負は二百余年前についていたのかもしれない。
美空など、一鬼からすれば碧の半分の価値もないのだろう。重さもないのだろう。縁もないのだろう。
「ふぅ……ここからが大変だなぁ」
『美空、お友達になんて言うかは決めているの?』
「うん。それとなく伝えるつもり。流石にはっきり告げるのは無理があるから」
『……決別するつもりはないのね?』
「ないよ。だって、私は……皆の心残りになりたくないから」
美空の友人達は一鬼程強くない。
彼女が自らの意思で人間の世界を去ることを告げれば、友人達はきっと反対する。
それをせずとも、そもそも彼女はそこまで深い友好関係を結んではいない。
荒木奈央も柳京子も森千夏も彼女を受け入れてくれる友人ではあるが、所詮その程度だ。
友人達にとって己がそこまで大切な存在ではないという自覚が、彼女にはあった。
大切ではない訳ではないが、そこまで重みがある訳ではないのだ。
美空が死んでも、彼女達はそれを乗り越えられる。
彼女が居なくなっても、彼女達はそれを過去として割り切って、未来に進んでいける。
一鬼の死によって壊れかけていた彼女とは違い、友人達にはそこまで大切なものはない。
いや、そもそも殆どの人間が、たった一人に依存し過ぎることはないものである。
彼女が異常なのであって、友人達の在り方が普通だ。そうあるべきだ。
友人達は異常な美空とは違う。
故に、彼女は皆が彼女の消失を受け入れられると信じていた。
「私は誰かに深く踏み入らない。誰かに深く踏み入られることもない。だから、私が自然消滅しても誰も悲しまないで済むの」
『それは……とても悲しいことよ?』
「うん、そうだね。でも、私には兄さんが居るから。兄さんさえ居てくれたなら、それで良いの」
美空はもう開き直っている。
昨夜妖狐になった影響か、今の彼女は己が狂っていても構わないという開き直りがあった。
一鬼に対する嫉妬は確かに拭えないが、それ以上に彼に対する想いが大きいのも事実。
だからこそ、彼女は一鬼の死に心が崩壊しかけ、それでも死を受け入れた。
愛する男が望んだからこそ、彼女はその死にも関わらず生きることを選んだ。
そして、苦しみながら一年間待った今その男が蘇ろうとしている。
美空は一鬼と己に血が繋がっていないことを知って歓喜した……そこに彼女の想いを邪魔するものがないと知って。
彼女は妖狐になったことに感謝すらしている……それが彼女に兄と共に生きることを可能とするが故に。
兄は生き返った。彼女は彼と同じ妖になった。後は、兄と再会するだけだ。
そこから彼女の新しい世界が……妖としての生が、始まる。
もう兄と離れ離れになることはないと、彼女は信じていた。
『貴方は……本当に私や姉さんと同じなのね』
「そうだよ。私も白雪さんも碧さんも、兄さん以外はどうでも良い人種なの。だから、兄さんじゃないとダメなの」
『……屑には屑がお似合いという言葉もあるけれど?』
「屑は屑でも、兄さんみたいな度量のあるひとじゃないと無理だと思うよ。ただの屑に同じ屑を受け止められる度量はないから」
『それはまた……随分と辛辣な言葉ね。事実だとは思うけれど』
美空も屑ではあるが、一鬼もまた屑だ。
だからこそ、平然と他者の恩返しを拒絶できる。己の恩を押し付ける。
彼はそれを必要としない者に押し付けるような真似はしなかったが、ただ押し付けるだけで受け取らない。
それが美空は嫌だった。恩返しできず、それを求めさえしない兄が信じられなかった。
無償の愛である必要はない。無償の奉仕である必要もない。
ただ、彼女は彼にも何かを求めて欲しかった。彼女が必要な存在だとはっきりと証明して欲しかった。
一鬼はいつも美空を必要な存在だと言っていたが、その実必要としたことはない。
彼が必要としたのは神谷明と夜空の娘であって、彼女ではないのだ。二人の娘を守ることが彼の信念なのであって、彼女を守ることではないのだ。
兄は彼女を受け入れてくれたが、それは所詮二人の娘であるからであって、彼女の人間性故ではない。
そんなことは彼女も既に理解している。それが己を愛しきれない原因であることも分かっている。
それでも、彼女は一鬼を求める―――次は一妖として、向き合う。
『それで、貴方には一鬼を受け入れることはできるの?』
「……うん。多分大丈夫だと思う。今までだってできたんだから」
『はぁ……今ちょっと無理かもって思ったでしょう?』
「うっ……」
『そんなことだと、実際に会った時困るわよ?』
白雪の言葉を否定したい美空だったが、それはできなかった。
彼女が一瞬無理かもしれないと思ったのは確かで、それを否定しても彼女の弱さは消えない。
結局甘えることしか彼女にはできないのかもしれない。それしかできない屑なのかもしれない。
だが、それでも彼女は一鬼の傍に居たい。彼が受け入れてくれるのならば、その隣に居たいのだ。
いかに我が侭であると分かっていても、彼女はそうしたかった。
超越者のように一鬼に尽くすことは、美空にはできないかもしれない。
だが、それでも傍に居たいのだ。触れ合いたいのだ。
「兄さん……」
だから、美空は近い内に光の塔に向かう……兄に会う為に。もう一度触れ合う為に。
そこに何が待ち受けているかを知ることもなく。




