第二話
日本には、有名な心霊スポットがいくつかある。
その中でも二十年前に有名になったとある心霊スポットは、まさしく他の場所とは格が違う。
他の場所にある逸話とは違い、そこには何の逸話もない。何の伝説もない。
だというのに、そこは二十年前を境に立ち入り禁止区域となった。不可侵領域と化した。
そこに向かった者全てを発狂死させるそこは……人間が触れて良い場所ではないのだ。
一年前にそこで新たな死者が出たことを知る者は殆ど居ない。
そこで、信念をかけた化け物達の戦いがあったことは、歴史に記されはしない。
己の罪の象徴を最後まで守り切った男が、そこで死んだ。憧れ続けた男に対する感情を理解できなかった女が、そこで死んだ。
だが、そのことを知るのは、当事者達だけだ。悲しみを背負わされた、残された者達だけだ。
そこから悲しみは始まって、そこに終結した。
その場所で、一鬼という鬼は母の命を糧に生まれ、己が受け入れた者の糧となって死んだ。
その場所で紫鬼という超越者は二度死んだ。一度目は弟を生かす為に。二度目は弟との信念のぶつかりあいの末に。
全てはそこから始まり、そこで終わった……その筈だった。
「何よ……これ」
だからこそ、今碧の眼の前に広がっているものは元来あってはならないものだ。
一鬼が生まれ、死んだその場所に聳え立つそれを前にして、彼女は驚きの余りただ絶句する。
このようなものは以前彼女がここに来た時はなかった。いや、恐らくは昨日までなかっただろう。
そうでなければ、人間達が気付かない筈がない。気付けない筈がない。
今彼女の眼の前には―――天に届くのではないかと思える程に巨大な塔があった。
「これは……いったい何なの?」
天に届くかに見える処か、実際に届いているのではないかと思わせる程に、それは空高くまで続いている。
数百メートル程度の規模ではない……数十キロ処かそれ以上の高度にまで達していた。
これ程までに高高度に達する建築物を建築するのは無理だ。況してや、それを数日にも満たない期間で建てるなど、常軌を逸している。
そんなことが可能な存在達を彼女は知らない……超越者と言う例外を除いては。
まさしく天に届く塔を建造するにしても、まず強度が問題になる。
上空に行けばそこには気流が待ち受けており、土台に対して圧倒的な負担を強いるのだ。
肝心の土台が気流によって生じる衝撃に耐えかねて破壊されるからこそ、点に届く建造物は作れなかった。
人間ではこのようなものを作ることはできない。何十年何百年経っても、絶対に作れない。
だというのに、それを数日にも満たない時間で完成させた存在が居る。ここにその創造物がある。
そして、その建造物の頂上に碧は一鬼の気配を感じていた。
「そこに居るのね……一鬼」
間違いなく一鬼の気配はそこにある。何処まで続いているか分からないそこに。
一年前に死んだ筈の男の気配が何故そこにあるのかは碧には分からないが、そのようなことはどうでも良かった。
一鬼が生きている……それが彼女にとって最も重要なことなのであって、それ以外には興味はない。
何故このような塔ができたのかは一鬼に聞けば良いと彼女は考えていた。
碧は擬態を解き、妖狐の姿に戻るとそのまま一気に跳躍する。
一瞬で音速を超える速度に達した彼女はそのまま塔の頂上を目指そうとし―――何者かに地面に叩き付けられた。
「グ……ハッ……!?」
碧は、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
音速の何十倍もの速度で動いていた筈の彼女をいとも容易く地面に叩き付けた何かに彼女は気付けなかったのだ。
殴られた瞬間漸くその気配を感じることができた程に、その速度は異常だった。
確かに生前の紫鬼程ではないかもしれない。時間すら超越しかねない最強の超越者程ではないかもしれない。
だが、今の彼女が超越者であることも確かであり、それを容易く襲撃できる者は同じ超越者しか居ない。
痛みを感じながらも起き上がった碧は、そこで己に圧し掛かる圧倒的な重圧に反射的に身構えた。
一年前、超越する際に彼女に向けられた殺意が、今ここで再び彼女に向けられている。
中級妖ならば一瞬で魂を抜かれそうな殺気を前にして、彼女は冷や汗をかいた。
いくら彼女が超越したと言っても、その能力値が他の超越者と同等である保証はない。
一対一の状態ですら勝てる保証はないのだ。
だというのに、彼女は今三つの気配を前方に感じていた。
「やはり来たな……殺戮者」
「金虎さん、程々にしてくださいよ」
「やれやれ……先を越されたわね」
「カナリーさんも、分かっていますね?」
「言われずとも分かっているわよ」
そこに居たのは、一年前碧が超越した際に会い見えた三人の超越者達だった。
いくつもの水晶が剥き出しになった鎧のような肉体を持つ黄金の虎が、仁王立ちして彼女を睨んでいる。
その隣には、困ったような笑みを浮かべている青年の姿があり、その眼と髪の毛は真紅だった。
そして、二百年前にも会い、戦ったことがあるカナリー・ロードがそのプラチナブロンドの髪の毛を風に揺らしながら、彼女を見下ろす。
三者が三者碧に殺意を向けている訳ではないが、金虎と呼ばれた虎とカナリーは明確な殺意を彼女に向けていた。
唯一赤髪の青年だけがそれを苦笑と共になだめている姿は、酷く滑稽だ。
超越者は皆それぞれが信念を持ち、それに則って行動している。紫鬼がそうだったように。ブルー・シャーマンがそうだったように。
しかし、その青年にはその信念の強さが感じられない。見えない。
ならば、何故選ばれた?……その答えは彼女には分からなかった。
「ゴホッ……貴方達……何故……今更……」
「ブルー・シャーマンの読みが当たったということだ。貴様ら姉妹は再び光を殺す。故に、対策を取らせて貰った」
「残念ながら、ここから先には行き止まりよ。資格を持たない石ころさん」
「っ……カナリー……」
今にも飛びかかってきそうな黄金の虎をなだめる青年を他所に、カナリーは碧に近づきながら微笑んだ。
カナリーは非常に美しい筈なのに、その笑みは酷く歪で、嘲笑と呼べるそれだった。
その内側に燃え上がる怒りの炎があることに感づきながらも、碧はそれに揺らいだ。
資格がないという言葉が胸に突き刺さり、それを覆す為に犠牲にした愛しい男の最後が、彼女の脳裏を過る。
一鬼を守る存在であった超越者達からすれば、やはり彼女は排除すべき障害であることは間違いない。
「良かったわね……心から望んだ超越者になれて。それで、どうだった? 光を手に入れる為に超越者になろうとしたのに、超越者になる為に光を犠牲にするしかなかった気持ちは?」
「……っ……」
「悔しかったでしょうね。悲しかったでしょうね。辛かったでしょうね。でもね……光を守れなかった私達はもっと辛かったわ。もっと苦しかった。もっと悔しかった」
「……」
「貴方の顔を見るのも不愉快なの。今すぐに消えなさい。ここは本当の超越者だけが存在を許される聖域よ。貴方にはその資格はないわ」
追い払う仕草をすると、カナリーはそのまま意を翻して碧を視界から外した。
その行動には、彼女など眼中にないという意味が込められているのだろう。見逃してやるという意味が含まれているのだろう。
だが、ここで引いても何も理解できずに終わるだけだ。一鬼の気配がある理由を彼女は知りたかった。
もしかしたら一鬼が帰って来たのかもしれない。死すら超越したのかもしれない。
それを知らずして帰っては、碧の中で動き始めた時計がまた止まってしまう。
彼女の中で燃え上がる緑色の鬼火は確かに彼女に教えてくれている……愛する男が塔の頂に居ると。
それが果たして本物なのかどうかなど論ずるまでもない。彼女が今感じている気配は、本物しかあり得なかった。
偽物はこんなにも暖かくない。こんなにも優しくない。こんなにも残酷ではない。
彼女の中の鬼火を刺激し、その火力を高めて無限の力を与える存在は、一鬼しかあり得ないのだ。
だから、ここでただ去る訳にはいかない。
せめて、一鬼の情報だけでも聞き出さねば不安で仕方なかった。
「カナリー、殺戮者を見逃すのか?」
「金虎、貴方の気持ちは痛い程分かるわ。私も今すぐにあれを殺したい。でもね……あのひとが守ろうとした者でもあるのよ。一度くらいは見逃してやりなさい」
「お前に言われるまでもなく、そのことは理解している。だが、三度目の死を確実に防ぐには殺しておいた方が良い。紫鬼ならばそうする」
「金虎さん。ブルー・シャーマンさんなら、きっと彼女を仲間にするという選択肢も考慮します。どうか、ここは見逃してやりませんか? 私としてはあのお方が守ろうとした彼女を積極的に排除するのは反対です」
「……そうか。ならば一度だけ機会をやろう。殺戮者よ、ここから去るが良い。そして、二度と訪れるな。二度目はないぞ」
カナリーと青年に言い聞かされて、金虎は碧に忠告をつきつけた。
今は見逃すが、次にここに来た時は容赦なく殺す……そう言いたいのだ。
確かに碧がここで退けば、彼女の命は助かるだろう。一対一でも勝てるか分からない超越者を三人も相手にしては、命がいくつあっても足りない。
だが、ここで何も得られずに逃げては意味がないのだ。一鬼の情報を少しでも手に入れなければ、どうしようもないのだ。
だからこそ、碧は静かに深呼吸して、口を開いた。
「分かったわ。でも、その前に教えて欲しいの。あの塔の頂上には一鬼が居るのね? 生きているのね?」
「……そうだ。生きている」
「……金虎」
「良いのだ。二度とここに訪れさせない為には、最低限のことは教えてやらねばなるまい。紫鬼やブルー・シャーマンならば、そうする筈だ」
「……分かったわ」
碧は答えが返ってくるとは思わなかった問いに、金虎から返答があったことに思わず驚く。
それを止めようとするカナリーを制して、金虎は紫鬼とブルー・シャーマンのことを引き合いに出した。
カナリーはそれだけで引き下がり、肩を竦めて溜息をつく。
二人の様子にほっとする青年も相まって、碧から見て彼らは酷く歪に思えた。
何故紫鬼とブルー・シャーマンがそこまで他の超越者に対して強い影響を与えるのかが、彼女には理解できない。
超越者は皆それぞれが信念を持っているものであり、ブルー・シャーマンや紫鬼はそうだった。
だというのに、今彼女の前に居る三者はそうは見えない言動を幾つか取っている。
特に紫鬼とブルー・シャーマンの言葉で己の意見を捻じ曲げる点が、彼女には一番不気味だった。
「殺戮者よ。半端ながらも超越した今ならばお前も分かるであろう。今我々が感じているこの圧倒的な力の奔流の意味が」
「意味?……何が言いたいの?」
「……分からぬか。やはり、お前は……紛い物でしかない訳か。残念だ」
「だから、いったい何を……」
「光はこの世界に渦巻く怨念を全て浄化する為にある。零に戻す為にある。だから、死ぬ訳にはいかぬ。故に、ブルー・シャーマンは光のバックアップを用意した。それを利用して、今あのお方が蘇ろうとしているのだ」
「……バック……アップ……ですって?」
碧は金虎の言葉に驚愕した。
いかに蒼炎の超越者と言えども、一鬼という完全な格上のバックアップを用意できる筈がない。
いったいどうやってそのようなものを用意したというのだ?何故、それを用意できたのだ?
完全な状態のブルー・シャーマンを知らない碧では判断に窮するが、やはり一鬼のバックアップを用意するのには無理がある。
そもそも、何故超越者達は一鬼と白雪が眠る遺跡に踏み入ることをしなかったのかが彼女には理解できない。
いかにこの地に紫鬼と一鬼の怨念が漂っていたとしても、ブルー・シャーマンならばそれができた筈だ。
他の超越者がどれ程まで怨念に耐えられるのかは分からないが、少なくとも一鬼が健在な間は無限に吸収できる。
例え当時の瀕死の状態だったとしても、彼らが全員揃えば可能だったに違いない。
では、何故しなかったのか?……それが問題になる。
「そうだ。ブルー・シャーマンの持つ青の鬼火の九割を光に返上し、同時に境界に招く準備をした。この世とあの世の境目で行動できるのはブルー・シャーマンのみ。だからこそ、ブルー・シャーマンの鬼火が必要だった。そこにあのお方を留める為に」
「! まさか……そういう……ことなの? あの骸骨が一鬼を何度も境界に導いたのは……」
「気付いたようだな。境界にこそ、その魂のバックアップはある。それを行った負担があったからこそ、ブルー・シャーマンは貴様の妹に後れを取った訳だ。そして―――」
「なんて……こと……あの骸骨……ぐっ!?」
「光の持つ最後の怨念を返上して貰うぞ。殺戮者よ」
金虎の口から告げられた驚愕の事実にただ驚くしかできない碧の体から、不意に大量の怨念が抜け落ち、天めがけて飛んで行った。
大量の怨念が彼女の体から流れ出したが、しかしそれは彼女の力を食らい尽す程ではない。
ただ、彼女は抜け落ちた何かが一鬼にとって必要なものだったのだと本能的に気付く。
何が抜け落ちたのかは定かではないが、彼女はそれが彼にとって必要不可欠なものだと理解した。
それと同時に、天に向かって聳え立つ塔の頂で何かが動き出すのを碧は感じる。
彼女の体を、心を震わせる何かが伝わってくるのだ。まるで心臓の鼓動のような何かが。
彼女はカナリー達のことなど忘れて、思わず空を見上げた。その何かを見ようとした。
十尾となった彼女の眼を以てしても、遥か天に伸びる塔の頂は見えない。そこで何が起きているのかは分からない。
それでも、彼女は見上げたかったのだ。愛する男が居るであろうその場所を。
「これで最後の鍵は揃った。後は、待つのみ。今度こそ守って見せる」
「石ころさん。貴方に託したあのお方の意思は確かに返して貰ったわ。さぁ、何処にでも行きなさい。待っていれば、愛しい人に会えるかもしれないわよ」
カナリーの言葉に、碧は顔を下げてその眼を見据えた。
その眼を見た限りでは、嘘はついていない……というよりも、超越者に嘘はつけない為、まず間違いなく真実だろう。
超越者は話を誤魔化すことはできても、嘘はつけない。情報を隠すことはできても、虚実は語れない。
それは酷く不利な条件ではあるが、しかし同時に刃となり、心を切り裂く。
彼らは事実を語る代わりに、相手の心を切り裂いていく。その言葉の刃で、切り刻んでいく。
超越者はそもそもが、異端な存在だ。協力過ぎる存在だ。
力の制御さえできれば問題ないが、もしもできなければ一つの国を狂気に陥れる可能性すらある。
超越者の持つ鬼火は、それら全てが一種の怨念の塊だ。膨大過ぎるその怨念の塊が暴走すれば、国一つが狂気で滅ぶのは容易い。
それ程に超越者が抱えている闇は濃く、光無しでは世界を壊すだけだ。
「……本当ね? 本当に、一鬼は生き返るのね?」
「ええ、貴方達が邪魔しなければの話だけど」
「……どういう……ことかしら?」
「気付いていないのかしら? すぐに戻れば分かることよ。貴方は今度こそかつての紫鬼との誓いを守りなさい。それができなければ、私達は確実に貴方を殺しに行くわ」
「カナリーの言う通りだ。今度こそ、あのお方との誓いを果たせ。その腕で、お前に与えられた役割を果たせ。それができなければ、私があれを殺す。例えそれがあのお方の意思に背くことだとしても」
碧はカナリーの言葉を理解できずに聞き返すが、返答はない。
紫鬼との誓い……つまりは二百年前にしたそれが何故今更ここで出て来るのか彼女には分からなかった。
とっくの昔にその誓いは破られている。防波堤となって妖狐から一鬼を守ることは彼女にはできなかった。
寧ろ、彼女の暴走が母である翡翠に光を奪う決断をさせてしまうという結果に終わっている。
だからこそ、碧は何故今更その話を持ち出すのかが理解できなかった。
だというのに、更にそこに一鬼との誓いを持ち出してきた金虎に、彼女は益々混乱する。
いったい一鬼との誓いのどれを果たせと言われているのかが彼女には理解できない。
美空を守るというものならば、ここで言及される意味が分からず、何としても生き残れというものならば、彼らが彼女の命を奪おうとするのと矛盾する。
では、いったいどの誓いなのか?―――それが彼女には理解できなかった。
「帰れば理解できる? 訳が分からないわ。何を言って……」
「金虎さん、カナリーさん、もう少し具体的に言わないと」
「言う必要はない」
「ええ、ないわね。自分で考えるくらいの頭はあるわ」
「はは……確かにそうでしょうけど」
苦笑しながらも金虎とカナリーに説明不足であると青年は言うが、両者はそれを切り捨てた。
その青年もまた碧がその話を理解できなければおかしいと思ってはいるようで、益々彼女は混乱する。
超越者ならば理解できることだと彼らは思っているのだろうが、彼女には理解できない。
それこそが、彼女が所詮紛い物でしかない証拠だった。
一鬼の贔屓で無理やり超越した碧では、本物の超越者には並べない。
元来白雪が座る筈だった緑の席を与えられた彼女ではあるが、恐らく総合スペックでは全ての超越者に劣る。
一年前紫鬼が彼女との最後の戦いで酷く怒っていたことも、失望していたことも、全てはそこに集約していた。
一鬼という最高の超越者を、不完全かつ瀕死の状態であったとはいえ、碧は食らった。
その末に生まれた超越者は彼に迫るとは言わないものの、少なくとも超越者の中でも上位に位置せねばならない。
だが、実際に超越した碧は全ての超越者に劣る総合力しか得られなかった。
単純な戦闘力ならば最下位ではないかもしれないが、実際に戦った時に結局負けるのは彼女だろう。
彼女は他の超越者程理を捻じ曲げることができなかった。所詮は暴力しか持たなかった。
紫鬼もある意味ではそうだったのだろうが、しかしその力は規格外だった。
完全な状態ならば、今の彼女の百倍は強いだろう。それも、一切紫炎を使わない状態で、だ。
彼女は所詮出来損ないでしかなく、完全な超越者ではない。
「本当に……帰れば分かるのね?」
「ええ、保証するわ。貴方は間違いなく理解する。そして、苦しむ。そこで決断ができたならば、私は貴方を同胞だと認めましょう。貴方を名前で呼び、同志として迎えましょう」
「……一鬼に会えるまで、私は諦めないわ」
「はいはい、会えると良いわね」
碧は静かに一鬼に思いを馳せながら、その場を後にした。
今はただ帰って超越者達の言葉の意味を確かめるしかない。そこに潜む何かを知るしかない。
超越者は絶対に一鬼を殺さない。一年前の紫鬼の時とは訳が違う。
一年前、紫鬼は限りなく消滅に近い状態で、力を制御しきることができなかった。
それ故に一鬼は紫鬼の拳で心臓を失った訳だ。
だが、今日碧が遭遇した超越者達はそうはいかない。
彼らには紫鬼やブルー・シャーマンが背負わなければならなかった宿主という重荷がないのだ。
故に、力が制限されることも、制御が甘くなることも、機動力が低下することもなかった。
今の彼らならば、間違っても一鬼を殺すような結末にはなるまい。
そうでなければ困る……碧も彼らも、一鬼あってこその存在なのだから。
「一鬼……」
碧はもう一度愛する男の名前を呼びながら、静かに涙を流した。
愛する男が生き返ることが分かった今、彼女は幸せだった。
だから、彼女は嬉し泣きの末に笑った―――待ち受けている決断の時を知らずに。
美空は偏頭痛によって齎された激痛に呻きながら、覚醒した。
いったい何が起きたのか分からず、ただ呆けながら彼女は額を片手で押さえる。
額が孕んだ熱は彼女の掌よりも上の温度を示し、熱があるであろうことを知らせていた。
そこまで頭を使っている訳でもなかろうに、とにかく熱いのだ。その熱は何処から来たのか不思議なくらいに。
取りあえず頭を冷やさなければ、この頭痛も止んでくれそうにないと判断した彼女は立ち上がった。
氷嚢は一階の冷凍庫に入っている為、まずは一階に降りなければならない。
そして、美空はふと腰の当たりが妙にスースーすることに気付いた。腰の当たりが外気に晒されているような感覚がするのだ。
彼女は室内では半袖とホットパンツを履いて過ごしているが、着崩してはいない。
故に、何事かと下を向いた彼女が見たのは―――己の尾骶骨あたりに生えているふわりとした白い尻尾だった。
「……えっ?」
自分が見たものを理解できず、美空は目を擦るともう一度見てみた。
しかし、彼女の尾骶骨付近にある白い尻尾は消えてくれず、それが幻ではないと如実に語っている
彼女はただでさえ酷い頭痛が更に酷くなったような錯覚を覚えながらも、ホットパンツを上げようとした。
しかし、尾骶骨あたりに生じる圧迫感と共に、その尻尾はそれを邪魔する。
美空はいったい何が起きているのか分からず、混乱しながらもクローゼットから上着を取り出した。
尻尾には感覚があるようで、その間に意識を集中して振ってみると、彼女の思考通りにゆらゆらと揺れる。
ホットパンツを上げた時に生じた感覚のことも相まって、この尻尾が作り物である可能性はない。
どうやって取り除くかも分からない為、取りあえずそれを大きめの上着で隠すことにした。
「よし、これで……痛っ!?」
パーカーを羽織ると、今度こそ氷嚢を取りに行こうと美空は立ち上がった。
しかし、それと同時に何かを頭にぶつけた為、慌てて頭を押さえ……彼女はもう一つの異変に気付いた。
彼女の頭の右上部に、大きな何かが生えているのだ。
試しに触れてみると、それに触れた感触と、触れられた感触が彼女を襲う。
訳が分からず、それが何なのかを確認する為に、慌てて美空は鏡を探す。
彼女も年頃の少女なので、鏡の一つくらいは持っているが……実を言うと一つしか持っていなかった。
それを何処にやったか探そうとするが、日頃はそう使わないので中々見つからない。
三十秒程記憶を頼りに探し、漸く手鏡を見つけた彼女は自分の頭の右半分を見遣った。
「……なに……これ?」
そこにあったのは、真っ白な狐の耳だ。
まるで一年前に『虹色の肋骨』の戦いを仕組んだ妖狐、白雪のようにその耳は真っ白だった。
ただ唖然としながら、彼女は己の頭に生えたその耳を鏡越しに確認する。
彼女の意思に合わせて耳はぴくぴくと震え、手で触れた場所が齎す触覚が、それもまたまやかしではないことを告げている。
いや、もしかしたらこの耳も尻尾もただの幻なのかもしれない。
今美空が居るこの世界は、彼女の夢の世界なのかもしれない……そうとしか彼女には考えられなかった。
そうでなければ、ただの人間でしかない彼女にこのようなものが生える筈がない。
一年前に彼女から多くを奪い、千人以上の死者を出すに至った『虹色の肋骨』を作り出した女と同じ耳と尾を持つ筈がない。
しかし、美空を苛む偏頭痛はこれが事実だと告げている。
彼女が感じる大きな六つの気配がこれは現実なのだと、彼女に強く語りかけてくる。
こんなものは幻だと振り切りたい。だというのに、振り切れない。否定できない。
彼女はその場にへたり込みたい衝動に駆られながらも、氷嚢を取りに行く為に一階に向かうことにした。
パーカーについているフードで耳を隠して、そのまま彼女は階下に向かう。
「……どうなってるの?」
思わず独り言を呟きながら、美空は階段を降りていく。
父、明は去年まで書いていた本の執筆活動を終えて既にそれを出版しているが、今は別の本を書いている。
今も書斎に籠ってそれを書いているに違いない……親友が残した本の続きを。
一年前に亡くなった柿坂亮と愛子が執筆中だったそれを、明は引き継いだのだ。
それこそが彼らへの手向けだと言わんばかりに、父は毎日執筆を続けている。
今の父には、美空のことなどに構う余裕がない。
だから、いつも必要事項だけを聞いて深い話を聞こうとしない。聞くつもりすらない。
今父は仕事に逃げることで、親友達や一鬼の死の辛さを和らげているのだ。彼らの意思を継ぐことで、己の罪と向き合っているのだ。
逃避と覚悟が入り混じったその行為は、彼女には邪魔できない。
それが終わった時、初めて父は彼女と向き合ってくれるだろう。親友達と一鬼の死を漸く乗り越えられるだろう。
だから、美空にはそれを邪魔することはできない。
「っ……」
刺すような痛みに顔を歪めながら、美空は頭を押さえた。
彼女の偏頭痛は薬で和らげはできるものの、その頻度故に常に薬に頼るのも難しい。
彼女も元々能力はあった為、今も学校に通えているが、これで能力が平凡なものだったならば、どうしようもないことになっている。
まず学校の勉強についていけなくなっていたことは間違いない。
美空は、己がこの一年で鋭い刃物に近づいたことを自覚している。
元々は誰かを傷つけるような言葉は使うのを避けていた彼女だが、今はその言葉の端々に鋭さが生まれている。
一鬼を失ったことによって余裕がなくなり、尖ってきているのだ。
確かに彼女はこの一年で綺麗になったが、しかし同時に棘を持った。他者の心に突き刺さる棘を。
超越者が持っていた業物の如き鋭さとは比べるまでもないが、彼女は間違いなく変化した。
「……あった」
冷蔵庫から氷嚢を取り出すと、美空はそのままそれを片手に部屋に帰る。
未だに外で降り注ぐ雨に鬱陶しさを覚えながらも、彼女はゆっくりと階段を上っていく。
己の中で燃え盛る炎を鎮火させる処か、より一層強めて偏頭痛を引き起こす雨など、彼女には必要ない。
彼女が欲しているのは、彼女に恵みを齎す雨であって、苦痛を齎すものではない。
彼女が望んでいるのは、彼女を包み込んでくれる太陽であって、全てを焼き尽くすものではない。
美空には、まだ多くのものが残っている。
父親、親友達……そして自分の命。まだ彼女はそれらを所有できている。失ってはいない。
だが、そんなものはどうでも良かった。彼女が欲したのはただ一人……一鬼だけだ。
彼女は失って初めて気付いた……彼女が欲していたのはそれだけで、他はどうでも良かったのだと。
必要なのは光だ。水だ。彼女にとっての癒しだ。
確かに荒木奈央、柳京子、森千夏は彼女にとって大切な親友だ。だが、一鬼ではない。
明は彼女にとっての父親であり、大切な家族だが、一鬼程に愛を与えてはくれない。期待してはくれない。一鬼ではない。
全てが彼女にとっては大切な存在である筈なのに、一鬼と比べてしまった瞬間その価値を失っていく。
だが、ただ冷静に判断できないが故にそう感じるだけなのだと言い聞かせても、何度考え直しても、その答えは変わらなかった。
一年前に山吹が言った言葉はまさしく彼女の本質をついていたのだ。
『貴方も白雪も碧も、本質は変わらない。一つの光に全てを曝け出し、全てを独占することでしか生きていけない、屑よ』
「……屑、か」
山吹の言った通り、確かに美空は屑だ。
彼女は一鬼に寄生できれば他のことなどどうでも良い。愛されていれば、他の者達がどうなっても構わない。
一年前の彼女は確かに違ったかもしれない。まだ別の道を選べたかもしれない。
だが、今の彼女では無理だ。生きる希望が一鬼しかなかったと分かってしまった彼女には。
この一年で彼女は大きく変わった。一鬼のことしか考えられなくなった。
全てを片手間で済ませるだけの能力を与えられたが故に、彼女はそれを覆い隠せている。
だが、いずれボロが出るのは目に見えていた。
今美空に生じているこの謎の現象も相まって、そう遠くない未来に彼女はこの世界と決別せねばならないかもしれない。
今彼女に生じている変化が収まる保証はなく、寧ろそのままである可能性の方が高い。
人間でなくなれば、親友達と別れねばならないだろう。父とも決別せねばならないだろう。
しかし、同時に何処かでそれを望んでいる彼女が居るのも確かだった。
今彼女は何か暖かいものを感じている。頭痛に苛まれながらも、光を感じている。
同時に五つの巨大な闇と一つの混沌が彼女を恐怖に陥れた。死を覚悟させた。
その中で最も小さい力が近づいてくるのを何処かで感じながらも、彼女はただ苦痛に呻いた。
光があることが分かっても、何処にあるのかが分からない……それがもどかしい。
「なんで……私は……」
氷嚢のひんやりとした感覚に肩の力を抜きながらも、美空は一人呟いた。
突然感じるようになった恐ろしい気配達と、一つの光……それがいったい何なのかは彼女には分からない。
だが、光から感じる懐かしさはまるで一鬼を前にしているようだった。
それが益々彼女を混乱させ、希望と絶望の影をちらつかせる。
もしかしたら一鬼が実は生きているのではという希望と、それがただの幻だという絶望が、彼女の眼前を横切っていく。
その希望に手を伸ばすのは簡単だが、その結果掴んだのが絶望だったならば、彼女は耐えられないだろう。
今度こそ、完全に壊れる。発狂寸前で持ちこたえている今の状態で半端な希望を見せられて、それを失えば、今度は完全に崩壊してしまう。
しかし、彼女は壊れることは怖くない。壊れた先に死が待っているのならば、それで良い。
一鬼が生きているかもしれない……そんな淡い希望に縋るのも悪くない。
もう光のない世界に彼女は飽きてしまった。これ以上は生きても、そこに希望はないと分かってしまった。
ならば、最後にもう一度だけ光に手を伸ばすのも一興だろう。
「……兄さん……」
『それで良いのよ。それで……』
「いや……一鬼」
『己の欲望に従いなさい。光を手に入れる為には、光を利用すれば良いわ。今ならまだ間に合う……まだ光は不完全。今なら、まだ手中に収められる』
「……光を……手に……」
頭に響く暗示のような声を反芻しながら、美空は眼を細めた。
灰色からついには銀色に到達した右眼から見える景色は酷くはっきりとしている。
左眼と比較して余りにも鮮明な視界に、彼女はやはり己は変貌してしまったのだと実感した。
着実に人外への道を進んでいく己に苦笑しながらも、彼女は自室に辿り着いて、そのままベッドに倒れ込む。
尻尾が邪魔なので仰向けに寝ることは叶わず、彼女はうつ伏せになる羽目になったが。
偏頭痛は未だに彼女を苛むが、しかし何かが彼女の中で変化しつつあった。
脳に直接響いてくる声に、更には世界を揺るがす程の気配が、彼女を変化させていく。
この苦しみの果てに何が待っているのかは、彼女にはまだ分からない。永遠に分からないかもしれない。
だが、ただ待っていては何も得られない。緩やかな滅亡しか彼女は得られない。
どんなに絶望するのが怖くとも、どちらにしろ滅びるのならば、彼女は希望を信じたかった。
「光……私の光」
『そう、貴方の光よ。私の光よ。私達の光よ。もう一度……手に入れましょう』
「もう……一度……?」
『一年前、貴方の兄が消えた場所に行きなさい……そこに、光へ手を伸ばす為の力があるわ』
「力?……力。そうだ。力さえあれば……私も……」
一年前、美空が一鬼を失ったのは彼女に力がなかったからだ。
彼女に力があれば……妖としての血が流れていれば、彼女も一鬼と共に戦えた。
一年前の彼女には覚悟が足りなかった。力が足りなかった。だが、彼女が妖になれたならば、きっとそれは大きく変わっただろう。
妖でないから弱いのだ……そう彼女は思い込んだ。そうであって欲しいと願った。
『虹色の肋骨』の戦いの中で、彼女に足りなかったのは血肉の力なのだと思いたかった。
だからこそ、美空は声が示す場所に向かう必要性に駆られる。
尻尾と耳を隠す為にパーカーを羽織ったまま、美空は服を着替えることにした。
ズボンの場合は尻尾が邪魔なので、彼女は仕方なく白のプリーツスカートと黒のハイソックスを履く。
膝まである大き目のパーカーに隠れているのを良いことに、彼女はその下はタンクトップのまま外に出ることにした。
こんな時間だ……そこまで酷い恰好でなければ怪しまれはしない。
美空はそのまま鍵を片手に、そっと部屋を出た。この家は立派な防音処理が施されているが、念には念を、だ。
以前の彼女ならば父の外出の旨を告げただろうが、今から彼女が外出する理由は父には理解されないだろう。
だからこそ、彼女は無断で外出することを選んだ。不思議と湧いてくる力が、彼女にそうさせた。
頭に響く声が言う『力』―――それを手に入れる為に、彼女は歩き出す。
ふと、何かに呼ばれたような気がして、彼は目を覚ました。
目覚めた瞬間に視界を埋め尽くした蒼炎に懐かしさを覚えながらも、彼は静かに深呼吸する。
下を向けばそこには彼の体がある。肉体が確かに存在する。失われた筈の全てがそこにあることを再確認すると、彼は辺りを見渡した。
辺り一帯全てが蒼炎で覆われており、それ以外には何もない。
いや、ただ一つその中で異質な存在感を放つ者が居た。
鎧を纏った骸骨のような何かが、彼と相対するように佇んでいる。
その奥底で燃え盛る蒼炎は、今彼が居るこの場所を覆っている蒼炎と同じものだ。
彼はそれを知っている。何故ならば、その蒼炎は彼が与えたものなのだから。元々は彼が持っていたものなのだから。
それが今彼の心臓部で燃えていることも知っている。それがあるからこそ、彼はここに居るのだ。
彼は静かに口を開いて、悠然と佇むそれに話しかけた―――最大限の感謝を込めて。
「助かったぞ、ブルー・シャーマン」
「何、当然のことをしたまでだ。寧ろ、私の意図に気付いたお前と紫鬼に賞賛を送りたい」
「謙遜するな。お前がそれを用意してくれなければ、俺は死んでいた。俺も兄も、気付いたのは最後の最後だ。そのお蔭で紫の鬼火を返して貰えた訳だが」
「早速使いこなしているか。それで良い……それでこそ、空の超越者だ」
左腕に紫と蒼の炎を纏うと、彼―――神谷一鬼は静かに微笑んだ。
一年前に死んだ筈の彼がこうして境界に居るのは、偏にブルー・シャーマンのお蔭であった。
空の超越者が守護者である七人の超越者に与える鬼火は、その全てが無限に等しい量の怨念の塊であり、同時に空の超越者の一部でもある。
それを利用して、ブルー・シャーマンは一鬼のバックアップを取っていたのだ。
一年前、二度に渡ってブルー・シャーマンは一鬼をこの境界に導いた。
その際に、柿坂愛梨という半妖を態々一緒に招いたのは、彼女の為だけではない。
彼女の能力……読心能力を利用して、ブルー・シャーマンは一鬼の精神をそこに保存した。
元来半妖如きが超越者の心を読むことなどは叶わないが、ブルー・シャーマンがそれを使えば話は別だ。
柿坂愛梨の能力を蒼炎の超越者が扱い、全ての負担を背負った。
だからこそ、一鬼に過去を見せる際に半日近い時間を必要としたのだ。
裏で平行してバックアップを取らなければ、実際は半分以下の時間で済んでいただろう。
更には、その消耗の激しさ故に、ブルー・シャーマンはいくつか不必要だと判断した部分を省いた。
特に紫鬼とカナリーを除く他の超越者の動向は一切彼に知らせないようにした程だ。
そこにも意味があり、態々守るべき存在にその所在を隠した意味が今生きてくる。
眠りから目覚めた四人の超越者は、まさしくその使命をこれから果たすのだ。
「しかし、大丈夫なのか? 紫鬼はともかく、お前まで鬼火を返す必要はなかった筈だ」
「良い。私の持つ蒼炎があってこそ、お前を完全にこの境界に呼び戻せる。あちら側の世界に行った感想はどうだった?」
「……酷く寂しい場所だったよ、あそこは。怨念が還元されず、酷く軽い世界だった。こうして蘇る算段をお前が用意してくれなければ、俺は己に与えられた役割をこなせなかった。実際に向こう側に行って、自分の意思で勝手に死ねる存在ではないのだと理解させられたよ」
「ならば良い。お前はお前の使命を果たせ。それを守る為に、我々が居る。お前にとって我々は中継地点であり、同時に守護者だ。完全に覚醒するまでは、我々がお前を必ず守る。今度こそ―――守ってみせる」
「ああ、お前達に応える為にも、必ず果たして見せる……この世界に溢れだそうとしている怨念を、俺があの世に送る」
一鬼の使命……つまり空の超越者の使命は、即ちこの世界に溢れだそうとしている怨念の浄化だ。
正確に言えば、妖がこの世に齎した膨大な怨念……言い換えれば思念が輪廻に背いているのを、元に戻すのが彼の役割だった。
元来怨念というものは死んだ後は残らないもので、時たま強い無念や執着がそれを所謂霊として残す。
実際は、それら全てが怨念の塊であり、時に何かを殺す為に、奪う為に、取り戻す為に、守る為に、それを残した者が願ったことを遂行する。
逆に言えば、そういった強い無念や執着がなければ、この世に残留思念は残らない訳だ。
だが、妖は己が殺した者の怨念を抱え、この世に留め、輪廻させない。
更に、妖には寿命もなければ病もなく、その死因は基本的に他殺しかあり得なかった。
かつて、妖を殺せるのは妖だけだった。そして、そうなった場合死んだ妖の怨念は全てが殺した妖のものになってしまう。
その上、元来怨念を抱えるべき者が同時に死んでいた場合は、その者に最も親しい者がそれを背負わされる。
だからこそ、二百年前に白雪は碧、紫鬼、一鬼の怨念を一身に背負わされる羽目になったのだ。
それを浄化するのが己の元来の役目であることに、一鬼は一年前の今日気付いた。
あの時は紫鬼の力を前に死ぬしかなかったが、しかし僥倖なことに彼には二度目が……否、三度目が与えられた。
一度目は、紫鬼が生かしてくれた。それが二度目のチャンスを彼にくれたのだ。
二度目は、紫鬼とブルー・シャーマンが生かしてくれた。彼らが、三度目のチャンスを彼に与えてくれたのだ。
与えられてばかりなことを申し訳なく思いながらも、一鬼は静かに深呼吸をした。
「それで良い。お前はただ座して待て。動いても構わんが……今のお前では、塔からは出られん。そこが活動可能な範囲の境界となる。肉体も、今はまだ修復できていない。七日待て……それで間に合わせる」
「七日、か。随分と速いな」
「本当ならば、一日で終わらせたい処だが……お前が居ない状態では我々は半分も力を出せない。だからこそ、お前に動いて貰う必要が生じるかもしれない。そのようなことがあっては、我々は益々その価値を失う訳だが」
何処か自嘲するような声音で、かつて超越者が一鬼を守れなかったことをブルー・シャーマンは語る。
一鬼は内心またかと呆れながら、それに対して肩を竦めた。
今更その話を蒸し返されても、彼としては何故悩んでいるのかとしか言いようがない。
二百年前は彼自身が他の超越者を邪魔し、一年前もまた他でもない彼が紫鬼とぶつかることを選んだのだ。
そんな彼の死などに、ブルー・シャーマン達が責任を感じる必要はない。
「今更だな。そのようなものを気にするような軟な連中でもあるまいに」
「ああ、だからそんなものは振り切ってくれて構わん。お前にとって守るべき者を優先しろ。藍龍にお前の願いを伝えておけば、間違いは起こらない筈だ」
「……あの女性か」
「お前のサルベージに必要なものはもう得た。動くくらいはできる筈だ。一度会ってやれ。紫鬼がお前の為に選んだ最高の女とやらに。私もあれのことは認めている」
「……分かった」
一鬼は一年前、碧を超越させた際に出会った己と同じ色の髪を持つ女性を思い出した。
あの時は碧のことを優先させて無視したが、あの女性が悲しげな笑みと共に涙を流していたのを彼は覚えている。
そこに込められた思いの強さも何処となく察知してはいたが、実際に相対する機会が無かった。
あの時既に彼は死んでおり、今日ブルー・シャーマンに呼ばれるまではあの世を彷徨っていたのだ。
そもそもが、一鬼が実際に会ったのは今の処紫鬼とブルー・シャーマンのみ。
金虎、カナリー、紅鴉、藍龍とはまだ一度も会ったことはなく、残る席は碧に渡してしまった。
元来、ここで一鬼はブルー・シャーマンに責められるべきであろう。
資格の無い碧を超越者にしてしまったことは、他の超越者達の彼に対する信用に関わるのだ。
だというのに、蒼炎の超越者はそれを言及しない。
それが、彼には若干惜しかった。
「ああ、それと……殺戮者の件は、私は気にしていない。お前の望むようにしろ。私はそれを見届ける観察者だ」
「……意外だな。お前達には俺を責める権利があるんだぞ。何故責めない?」
「私は紫鬼とは違う。私にとって紫鬼は憧れの存在であり、崇拝すらしていた。だからこそ、私はそれとは違う道を選んだ。私は私の道を究める。それこそが、紫鬼に対する尊敬の示し方だ。私なりの意地だ」
「成程な……つまり、お前は紫鬼とは別の在り方をしようとしている訳なのか」
「ああ、そうだ。私は紫鬼の後は追わない。それは奴への侮辱だ。同じ超越者として失格だ。だから、私は奴のコピーになりはしない。私は私であり続ける」
しかし、ブルー・シャーマンの言葉に、一鬼は何故それがなされないかを理解する。
ブルー・シャーマンは紫鬼とは違うということを強調した。
つまり、この状況ならば紫鬼は一鬼を責めているということだろう。叱っているということだろう。
彼が碧を生かす為だけに超越者にしたのは、明らかに他の超越者にとって嬉しくないことだ。
何せ、他の超越者は紫鬼を除けば、皆苦悩と努力の末に超越している筈なのだから。
他の超越者……特に金虎とカナリーは碧のことを快く思っていない筈だ。
碧がかつて一鬼を一度殺していること。彼女を守る為に一鬼が死亡したこと。そして、彼の贔屓で彼女が超越したこと。
この三つの要素があって、超越者達が碧のことを嫌わない筈がない。憎まない筈がない。
実際、紫鬼は一鬼が止めをささなければ一年前、碧を殺していただろう。
そのことを考慮すれば、ブルー・シャーマンの言う通り藍龍とやらに話をしておくことは、碧の生存率を高める為には重要だ。
「そうか。だからこそ、紫鬼の劣化でしかなかった最初の俺を見下していた訳か。お前は中々に自由な奴だな」
「ああ、そうだ。だが、今のお前は違う。今のお前ならば、私は安心して見守れる。探究できる。だから、私にお前の生き様を見させてくれ」
「勿論だ。まずは碧を守る。どうせ、あのバカはここにやってこようとする筈だからな」
「くっくっ……良く分かっているな。実は、既に一度来ている。金虎達が追い払ったようだが、二度目は見逃して貰えんだろうな。速く藍龍に話をした方が良いぞ」
「……はぁ。やはり、超越者になってもバカなままか。できれば接触したいが……俺が居るという塔にはあいつは入れないのだろう?」
「ああ、四日我慢しろ。そうすれば、回りの森くらいならばお前の活動可能範囲に入る」
くっくっと笑いながら碧が既に来ていたことを告げたブルー・シャーマンに、一鬼は思わず額を押さえた。
碧は超越しはしたが、所詮紛いものだ。元来彼女の限界は八尾であり、それを無理やり彼が十尾にまで引き上げたのだ。
しかも、彼女は純粋な戦闘能力以外に関しては才能がない為、それにしかリソースを割けない。
それに対し、他の超越者達は最低でも同レベルの戦闘能力を持ち、尚且つ他の能力も持っているのだ。
悲しいが、今の碧では他の超越者とまともに戦っても、運が良くて倒せて一人か二人。悪ければ全敗だ。
一度目は金虎達も見逃したということだが、二度目はないだろう。
恐らく、彼らは一鬼が碧を生かしたからこそ、その思いを慮って一度は見逃したのだ。
ただでさえ憎い存在だ。己達が守るべき存在を一度殺し、一度死なせ、それでも愛された存在だ。
二度目があったならば、その時は容赦なく殺すに違いない。
だからこそ、一鬼はすぐさま藍龍と話をせねばならなかった。
「明日の夜か……それまでにあのバカが特攻してこなければ良いんだが、そうもいかないのだろう?」
「……お前の悪い予感通り、恐らく数日中に、あれはもう一度来るだろう。今度は、お前が守ると誓った別の存在を追ってな」
「……なんだと?」
「今すぐに藍龍に会え……お前を誰よりも愛する女に。そして、伝えろ。お前が背負うと誓った屑共を守って欲しいと。お前の抱えるべき罪を、誰にも奪わせるなと。そうしなければ、金虎は紫鬼と同じように必ずあれらを殺す。誰よりも報いることに重きを置くあれは、お前に何一つ報いることができなかった依存者を絶対に許しはしない。絶対に生かしはしない。それを捻じ曲げさせることができるのは、お前だけだ」
「……ああ、そうさせて貰う」
一鬼はゆっくりと目を閉じながら、碧の状況が思ったよりも宜しくないことを自覚した。
金虎が紫鬼と同じタイプであるならば、碧を一度見逃したのは、まさしく紫鬼と同じ理由の筈だ。
一鬼が守ろうとした者なのだから、一度は己の殺意を封じようとしたのだろう。
しかし、二度目が来れば金虎は碧を殺しに行く筈だ。一年前、紫鬼がそうしたように。
彼らの意思は、一鬼を以てしても捻じ曲げることは難しい。
紫鬼が一鬼を守る為に、碧を受け入れるという彼の決断に反したのは、一鬼の記憶に新しい。
だからこそ、それと同じ方向性を持つ金虎相手では、彼の意見は通らないだろう。
ならば、彼の意見に耳を傾け、それを肯定してくれる存在が居れば良いのだ。
碧に対して向けられた刃を止めてくれる者が居てくれたならば、それで良いのだ。
鍵は藍龍が握っている。一鬼がこれからどうするかが、その鍵の使い方を変える。
「すぐに戻る。お前もすぐにあの星に戻って来い―――待っているぞ」
「ああ、すぐに戻るとも―――待っていてくれ」
ブルー・シャーマンに言葉を投げかけながら、一鬼は境界を後にした。
一年前、その町で多くの人間が死んだ。
その町で二度目の生を与えられた化け物が、他の場所でもっと殺した。
その町は呪われている。そこにある二つの山は、片方は一種の心霊スポットとなっており、立ち入り禁止だ。
もう片方の山は、一年前にインディゴという妖が数十のミサイルを撃ちだした場所で、ここもまた立ち入り禁止になっている。
どちらもが多くの死を引き起こした場所であり、忌み嫌われる場所だ。
前者は、二十年前にそこにあった病院が閉鎖し、後者は一年前に町を燃やしたミサイルの発射場所なのだから。
美空は、その禁止区域となっている山の内、前者の山に居た。
そこは、一年前彼女を白雪が監禁した場所であり、同時に一鬼達が消えた場所でもある。
碧の話通り、一年前にはあった廃病院は既に消え去っており、ただその土台部分だけが無残な状態で残されていた。
この地に感じる重さは確かに多くの死者の怨念なのだろうが、一年前にその殆どは一鬼が吸収したとのことだ。
いったい一年前はどれ程の怨念がここで渦巻いていたのだろうかと想像しながらも、彼女はそのまま進んでいく。
「……ここに……力が」
『あそこよ。あの……仄暗い底に、私達の力があるわ』
「……あそこ……なんだね」
声に導かれるままに、その中央に開いていた大きな穴に美空は向かった。
元々彼女は夜目がきく人間ではあったが、ここまで明確に暗闇の中を動ける程ではなかった筈だ。
未だに振り続ける雨の中、彼女はブーツで石ころを蹴って、その仄暗い穴に落としてみた。
すると、意外なことに、この雨の中にも関わらず特に水の音はせず、乾いた床に石ころが当たる音が彼女の耳に届く。
不思議に思い、美空はその穴を覗いてみることにした。
あるのはただの暗闇だけ……一度降りてしまえば、登れないかもしれない。
だが、そこに行かねばならない。彼女の望む光を手に入れる為に、彼女は闇にならねばならない。
妖の世界に踏み入らねば、一鬼を取り戻すことはできないのだ。光をもう一度掴むことは、できないのだ。
会いたい。一鬼に会いたい……それが彼女を突き動かす。
そして、彼女はそのまま穴に飛び込もうとして―――中から飛んできた何かに腹部を突き刺された。
「……えっ?」
己に何が起こったのか理解できずに、美空は己の腹部を見た。
そこに深々と突き刺さった白い槍のような何かは、彼女の腹部を貫通している。
震える手でそれにそっと触れた彼女は、その手に付着した血に真っ青になった。
二年前に眼の前で一鬼が血塗れになった光景が、彼女の中でフラッシュバックする。動けなくなった彼を何度も轢いたトラックの幻が、彼女を襲う。
同時に彼女を襲った喪失感が、今まで彼女を動かしていた高揚感を完全に薙ぎ払った。
それを自覚した瞬間、激痛が彼女を襲う。
「あ……ああああああああ!?」
泣き叫びながら後ずさろうとする美空を逃がすまいと、白い何かはそのまま彼女の内側に絡みついていく。
それに浸食されていく実感が、彼女の精神を蝕んでいく。狂気の世界へと誘う。
白い槍はゆっくりと内側から彼女の心臓に融合していき、それに並行して短くなっていく。
そのまま後ろに倒れた彼女はただ苦痛に呻き、己が変化していくのを自覚するしかない。
逃げようにも、彼女の力ではそれを剥がせない。既に融合を始めたそれを剥がせば、彼女は死ぬ。
だから、彼女はただ泣き喚いた。心の中で、もう居ない筈の兄に助けを求めながら。
『耐えなさい……その果てにこそ、貴方の望む力があるわ』
「ガ…ハッ……ゴフッ!」
『一鬼を手に入れる為ならば、人間すら捨てなさい……妖になりなさい』
聞こえてくる声に反応することもできず、ただ美空はその場で吐血する。
叫び続ける気力すらなくなり、そのまま意識があやふやになっていく中、彼女は白い槍がなくなったのを確認した。
それと同時に尾骶骨の辺りに痒みが生まれ、頭にも違和感が生じていく。
彼女の中で燃え盛る業火が火力を増していき、渇きと飢えが彼女を襲う。光と水を求める渇望が、強まる。
一鬼が欲しい。一鬼に会いたい。一鬼に触れたい。一鬼の声が聞きたい。ただそれだけが、彼女の願いだ
彼女はただ一鬼のことだけを考え、欲した。彼を失ったことの悲しみも、痛みも、何もかもを炎に変えた。
もう二度と手が届かないと思った存在が、生きているかもしれない……そんな淡い希望が何処かにある。
だから彼女はここに来たのだ。この苦痛に耐えるのだ。
「ぐっ……うっ……ゴホッ……一……鬼……」
『それで良いのよ。貴方に必要なのは戦う力じゃない……執着する力。愛する男を絶対に逃がさないという妄執。そして、超越者の裏をかく力』
「一……鬼……」
『私ではない私は、一鬼を信じ切れなかった。でも、私は信じている。だから、貴方に全て託すわ。貴方の望みを叶えなさい。それが、私の願いに繋がるわ』
吐血しながらも、美空は聞こえてくる声に頷いた。
何がどうなっているのかは彼女には分からないが、耐えねばならない。生きねばならない。
このまま希望に手を伸ばすこともできずに死ぬのは、彼女は御免だ。
何としても、その希望を掴み取りたい。これが最初で最後の足掻きなのだ。最初で最後の自立だ。
彼女は依存する為に自立する。己の足で進んで、己の手で掴みとる。
美空は今まで一鬼はずっと待ってくれると思っていた。いつだって彼女の傍に居てくれると思っていた。
だが、碧達の出現によってそれは捻じ曲げられ、一年前一鬼は碧を守って死んだ。
その時彼女は悟ったのだ。一鬼にただ縋るだけでは、彼はいつか離れていくと。彼女を置いて行ってしまうと。
だから、今度は彼女が彼の隣に向かう。その手を取る。その頬に触れる。
ただ一鬼に与えられるのを待つのではなく、彼女が求める。
「……次は……間違えない」
『それで良いわ。私が今まで得た力全てで超越者に刃向いなさい。そして、取り戻すのよ』
「取り……戻す……」
『ええ、貴方の兄を。私の光を。貴方の愛する男を―――取り戻すの』
「ふふ……はは……はははははは!!」
美空は狂ったように笑いながら、ゆっくりと起き上がった。
雨によって濡れていた地面に倒れたことで、彼女の衣服にはベットリと泥がついているが、そのようなものは気にしない。
彼女は腹部にそっと触れ、そこにある筈の穴が既に塞がったことを確認した。
服に穴は開いたが、傷は既に塞がっている……彼女も一鬼達と同じ、妖になったのだ。
それがおかしくて、嬉しくて、悲しくて、美空はただ笑った。
こんな簡単に妖になれるのならば、何故一年前になれなかったのだろうかと、彼女は笑う。
こんなにも簡単に一鬼達の居る世界に来られたのかと、彼女は微笑む。
こんなにも簡単に自分は人間を捨て去れるものだったのかと、彼女は己を嘲笑う。
荒木奈央も、柳京子も、森千夏も簡単に捨て去れる己を、彼女は非道だと罵る。薄情者だと責める。
「私は……屑だ。どうしようもない……屑だ」
山吹が正しかった……美空は紛うことなき屑だ。
親友達のことも、育ての親である明のことも、本心ではどうでも良いと思っている。
確かに彼らに何かがあれば彼女は悲しくなる。誰かが死ねば、泣く。だが、決してその比重は大きくない。
この一年で彼女も変わったのだ。大切なものがいかに重いものだったかが、分かってしまったのだ。
美空にとっては、一鬼さえ居てくれたならば他の者達などどうでも良かった。
他の者全てを滅ぼせば一鬼が帰って来るというのならば、そうするかもしれない。
どんな犠牲を払ってでも、もう一度光を取り戻したい。もう一度愛する男と触れ合いたい。
彼女は己が屑だと自覚しながらも、それを止めるつもりはなかった。己の願いを叶える為ならば、他のことなどどうでも良かった。
それは一鬼の願いに反するものだ。彼の願いは、己を忘れて皆に幸せになって欲しいことだった。
しかし、美空は一鬼に近づき過ぎた。触れ過ぎた。
だから、美空は一鬼のその願いに応えられない。生きて欲しいという願いは受け止められても、その裏にある願いを受け入れられない。
忘れて良い筈がない。無価値にして良い筈がない。彼女にとって、一鬼は掛け替えのない家族だった。
例えに彼が人間ではなく妖であったとしても、彼女には彼が必要だった。
美空は一鬼ともっと触れ合いたかった。一鬼に甘えたかった。一鬼に愛されたかった。
「ゲホッ……もう……間違えないから……だから……会いたいよ……兄さん」
美空は己が急速に冷めていくのを自覚しながら、その場に座り込んだ。
彼女の心は兄や大切な人達のことで埋め尽くされ、今まで彼女を突き動かしていた熱が消える。
それに呼応するように、凍えるような温度が辺り一帯を包み込んでいく。彼女の周りを、驚異的な温度低下が襲っているのだ。
彼女の頬や髪に張り付いていた泥が不意に氷と化し、粉々に砕けて地面に落ちた。
座り込んで膝に顔を埋めた彼女を中心に、廃病院の残骸が凍り、砕けていく。
それこそが、美空に発現した能力だった。
彼女が欲したのは水であり、熱だ。光だ。一鬼が与えてくれる恵みだ。
だからこそ、彼女の能力は熱を奪う。水を可視化する。光を屈折させ、その方向を決める。
彼女は一鬼の光を全て己に向けて欲しかった。水を与えられた実感が欲しかった。その熱を渇望した。
まさしく彼女の兄に対する怨念が、彼女の方向性を決めたのだ。その本質を垣間見せたのだ。
美空は相手から熱も、水も、光すらも奪う。
それら全てが、彼女が渇望するものであるが故に。一鬼が今まで彼女に与えてくれていたものであるが故に。
一鬼という恵みを失った今彼女は酷く不安定で、まるで躁鬱のように熱が生まれ、消えていく。
しかし、同時に彼女の中で燃え盛る業火は消えず、彼女の心を夜の来ない砂漠に変えている。
「帰って……来てよ……おねがい……だから」
彼女は己自身の炎に焼かれながら、一鬼の熱を求めている。光を、水を―――恵みを求めている。
それが今の彼女だった。それが今の神谷美空だった。
愛しいひとに会いたい……ただそれだけだったのだ。
境界を後にした一鬼が最初に見たのは、酷く空虚な場所だった。
彼が座しているのは玉座のようで、まるで碧を超越させた際に彼が座した場所のようだ。
ふと己の腕を見遣った彼は、それが虹色の炎であることに気付き、更には己の肉体が全て虹色の炎で構成されていることに気付かされる。
それに対して若干の驚きはあったものの、ある程度は予想していた彼は静かに溜息をついた。
肉体の再生には七日かかるとブルー・シャーマンは言っていた為、恐らく一日で腕一本が修復できる程度の速度だろう。
七日もあれば、一鬼の気配に気付いた碧がやってくるのは当たり前のことだ。
そして、既に来ているというブルー・シャーマンの言葉通りならば、彼女はもう一度来るだろう。
今の彼女が以前のように己の欲望のみを優先する訳はないだろうが、それ以外の問題が彼にはあった。
現在彼が感じている妖の気配は六……ブルー・シャーマンと紫鬼を除けば、生存している気配は五であるべきであるにも関わらず、だ。
そして、その気配に似たものを一鬼は知っていた。
忘れる筈がない。それは、彼が抱えるべきだった罪の象徴の気配を抱えているのだから。
それだけならば、彼にとっては大きな問題ではないが、重要なのはそれが別の気配と同化していることだった。
彼にとって守るべき存在である筈の気配が、排除すべき気配と同化している……それが問題なのだ。
故に、一鬼はブルー・シャーマンの忠告通りそれを解決し得る存在を呼ぶことにした。
『藍龍、聞こえるか?……と言うまでもないか』
「ご存じの通り、私はここに居ります。我らが光よ」
『面を上げてくれ。俺はお前達の王ではない。お前達と同じ、超越者だ。仲間だ』
「ですが……」
『良いと言っている。願いがダメならば、命ずる。藍龍、面を上げろ』
「はい……」
近くにあった気配は、案の定一鬼の呼び声にすぐ応えた。
己の座る玉座の前方に現れた女性に、彼は静かに頷くとその面を上げさせる。
いかに彼が他の超越者にとってのアキレス腱であったとしても、飽くまで彼らは皆同じ超越者なのだ。
確かにそこには強さの差があるだろう。力の大きさの差があるだろう。信念の違いがあるだろう。
だが、何処まで違っても、彼らは同じ超越者であって、そこに主従関係はない。
尊敬することはあっても、そこに主従関係があってはいけないのだ。
だからであろうか……一鬼は渋々頭を上げて彼を見た女性―――藍龍が泣いていることに気付くのが遅れた。
彼女が面を上げるのを躊躇った理由がその涙であったことをすぐに察した彼だが、今更言葉を無かったことにするのは意味がない。
既に彼は彼女が泣いていることを知ってしまったのだから、それは却って彼女の傷を抉るだけだ。
超越者相手に弱さを考慮する必要はないが、それでも互いを思いやる心は捨ててはいけない。
それを捨てることは、そのまま弱者を切り捨てることに他ならないのだ。
彼は弱者の気持ちが理解できない強者は、真の強者ではないと思っている。そして、彼は仮初の強者でしかない。
だからこそ、思いやる心を忘れてはいけないと己を戒める。真の強者になる為に、それを忘れないように努める。
彼女の為だけでなく、己自身が更に上にいく為に、彼はその弱さを慮ることにした。
『その涙の理由を聞いても?』
「はい……二百年前に失われた筈の光が、一切の超越者の助けもなく、ここまでご立派になられたことが……嬉しかったのです」
『……皮肉でも言っているつもりか? 俺は強者になりきれぬ強者だ。弱者のことを慮れない強者は紛い物でしかない。俺はまだまだ未熟だ。超越者としては不十分と言える程にな』
「いいえ、それは違います。貴方は、既に私達よりも遥か上をお行きになられています。私達よりも、ずっと……高みに居られます」
『藍龍、一つ言わせて貰う。お前は俺の狂信者なのか? 守護者なのか? 前者ならば、俺には必要ない。ブルー・シャーマンの言葉に期待した俺がバカだった』
一鬼は溜息を一つついて、藍龍から眼を離した。
ブルー・シャーマンと紫鬼が認めたのならば、さぞ強い女性なのだろうと彼は考えていたのだ。
しかし、実際に相対してみればその口から出たのは狂信者の如き台詞のみ。
彼が欲しいのは肯定の言葉などではない。そのようなものなどなくとも、彼は前に進める。
彼が欲しいのは美空と碧を守れる力であり、それを為せる者の助けだ。
ブルー・シャーマンはそれを藍龍に託せと言った。
今彼の前で、否定的なことを言われたにも関わらず、それを真摯に受け止める女性に。
彼と同じ藍色の髪を後ろで纏めている彼女の体は、かつて緋蓮が用いていた鎧で覆われている。
恐らくは、それは元来彼女のものだったのだろう。一年前、廃病院の地下にあったその鎧から感じた怨念は彼女のもとと同じだ。
確かに藍龍は強いだろう……紫鬼とブルー・シャーマンの次くらいにはその力は大きい。
だが、それだけでは駄目なのだ。狂信者でしかないのならば、彼女に碧達のことは任せられないのだ。
狂信が多大な嫉妬を呼び起こす可能性は大きく、下手に美空達を任せるのは危険だと彼を止める。
だが、同時に彼は彼女の中にそうではない何かを感じてもいた。
故に、彼は彼女の返答を待つのだ。
「私は貴方の守護者です。貴方の為に在り続ける闇です。私が至らないというのでしたら、この藍色の鬼火を返上致します。この身も、己自身で処分します。ですが……そのように自身を卑下するのはお止めください。貴方はこの世界に確かに必要とされています」
『怨念に均衡を齎した後はそれもなくなる。俺達は、過ぎた力の持ち主でしかないからな』
「ですが、貴方は知っている筈です。紫鬼が残した願いを。貴方の母上が残した願いを。それを叶える為に、私はここに居るのです。私は貴方に全てを捧げます。皆が願った貴方の幸せの為に」
『好きでもない男に全てを捧げるような者は、俺には必要ない。俺はお前の本心が知りたい。お前の本当の願いが知りたい。お前の望みはなんだ?』
しかし、帰ってきた言葉は再び肯定の言葉のみ。
一鬼に必要なのは、肯定ではなく絶対の忠誠だ。狂信ではなく、忠誠なのだ。
そういう面では藍龍は失格と言える。彼女は所詮狂信者でしかない。肯定しかしてくれない。
彼に必要なのは紫鬼やブルー・シャーマンのように、安易に彼の下につかず同等であろうとしてくれる者達だ。
だというのに、目の前の女性はそれをしない。それが彼の願いだと知っている筈なのに、してくれない。
それが彼には悲しく、期待した己がバカらしくなってしまった。
「貴方の幸せです。私は、その為に貴方に尽くしたいのです。全てを貴方に捧げたいのです。貴方を愛することを許して欲しいのです。それが、偽りない私の願いです」
『……お前も大概狂っているな。それは、紫鬼達にそう言われたからか?』
「いいえ、私が言い出したことです。私が望んだことです。貴方にどうしようもなく惹かれた私が、二人に頼んだのです。私は貴方が欲しい。私は貴方に欲して欲しい。だから、望んだのです」
『……実際に意思を持って相対するのはこれが初めてだ。お前が抱いている幻想は、俺の実態とは大きく異なるだろう。それでも、お前はその願いを叶えようとするのか?』
「はい。私は貴方のお側に仕えてこそ、幸せになれるのです。故に、諦めません」
一鬼は漸く藍龍が何故忠誠ではなく狂信を抱える者なのかを理解した。
彼女は彼に好意を抱いている……それも、狂気を感じさせる程に真直ぐに。
それは碧達のような依存ではなく、尽くすことへの執着であり、捧げることへの執着だ。
彼女は一鬼に似ている……他者の為に生きることでしか、己の存在価値を見いだせなかった彼に。
彼と彼女は同じ道を選んだ訳ではないが、似ていることは確かだろう。
一鬼は一度受け入れた相手を最後まで抱えきるという信念を持っている。
だから、優先順位をつけながらも、愛梨や羽月達も守ろうとした。可能な限り抱え続けようとした。
結果として彼は誰一人守れずに、最後の最後で漸く碧を守り切ることができただけだ。
そういう意味では、彼は守護者失格だ。守ると誓った者を守り切れなかった半端物だ。
一方で藍龍は、一鬼だけを愛している。一鬼だけを守る。
ある意味碧に近いその在り方は、しかしそれとは全く異なり、依存する為に守るのではなく、尽くす為に守ろうとしていた。
恐らく、彼女には今まで己が命を賭けてまで為そうとすることなどなかったのだろう。
だからこそ、初めて現れたそれに執着している。全てを捧げようとしている。
その狂気こそが、紫鬼が彼女を認めた理由なのだろう。その真っ直ぐ過ぎる信念こそが、ブルー・シャーマンが彼女を認めた理由なのだろう。
彼女は一鬼の為ならば紫鬼にすら立ち向かう……それ程に、狂気の世界に入り込んでいる。
『何故だ……何故、そこまで俺に執着する? 今まで生きる理由を持たなかった己に理由を与えてくれたからか? 俺が光だからか?』
「それもあります。ですが、私は……貴方だからこそ、そう願うのです。貴方のその精神こそが、私が貴方のお側に仕えたいと願い最大の理由なのです」
『……どういうことだ? 俺如きの精神に惹かれたというのか? 多くの命を奪う切掛けを作ったこの俺に? 冗談もいい加減にしろ。俺にそのような引力はない』
「それは貴方の価値観でしかありません。私にとって、貴方は何よりも愛しい存在なのです。超越者としての私ではなく、個としての私がお仕えしたいと願うおひとなのです」
『……頭が痛くなってきたな』
一鬼はゆっくりと立ち上がると、そのまま藍龍の元へと歩んでいく。
彼の仮初の肉体を構成している虹色の炎はただの炎とは違い、彼が望んだものだけを焼き尽くす。
故に、彼が存在するこの世界は焼き尽くされることはない。彼は絶対にそれを望まないのだから。
彼はどんなに絶望しても、世界を憎みはしない。それが無意味で、ただの逃避であると知っている。
だからこそ、一鬼の持つ虹色の炎は世界を焼き尽くしはせず、それを他の鬼火に強いる。
彼が世界に絶望しない限り、超越者達はこの世界を鬼火で滅ぼすことはできない。
そして、その日は永遠に来ないのだ……彼が憎むのは個々であって、全体ではないのだから。
勿論、他の超越者達も覚悟はできている。どんなに苦しくとも、世界を憎まない。
彼らは憎むべきは個々の存在であって、世界そのものではないと知っている。
そして、何よりも力がある……だから、不条理に対して力で報復できるのだ。
それでも、守れないものがあった。だから、彼らは弱さを知った。弱者の苦悩を知った。
『藍龍、俺はお前達を受け入れる。だが、お前達が俺を受け入れる必要はない。お前達は、お前達の道を行け』
「はい。故に、私達は皆ここに居るのです。貴方のその思いに応える為に、ここに居るのです。貴方の持つ光ではなく、貴方自身に惹かれ、私達は皆ここに居るのです。ですから、どうか……どうか、私達に貴方のお側に居ることをお許しください」
『……ならば、名前で呼べ』
「……えっ?」
今まで凛々しい表情で話していた藍龍の表情が。不意に驚きに染まった。
可愛らしい声と共にただ唖然として一鬼を見上げる彼女は、酷く愛らしい。
齢は間違いなく一鬼よりも上であろうが、妙に純粋なその反応に、彼は内心苦笑した。
その苦笑は表情に出ることはなく、彼が今虹色の鬼であることを再認識させられる。
笑おうとすれば、その機械的な口部は握った手を開くように開いていき、その異形さを見せつけるのだから。
そのまま驚きを隠せずに居る藍龍の眼の前まで歩み寄った一鬼は、ゆっくりと右手を伸ばす。
一年前、彼はその手で兄の心臓を握り潰した。二度目の死を兄に齎した。
微笑みながら最後まで彼のことを思って死んでいった兄のことを思い出しながら、彼はその手を藍龍の前に差し出すのだ。
あの時は力が無かった為に、兄も碧も死なせない方法を選ぶことは叶わなかった。
だが、今の彼ならばきっとそれができる。
だから、手を伸ばすのだ―――今度は死なせないという決意と共に。
『本当に俺を愛しているのならば、紫鬼が名付けてくれた、俺のたった一つの名を呼べ。紫鬼が許すか否かは関係ない。ブルー・シャーマンのけじめも関係ない。俺の願いを、俺の幸せの為に聞き入れて欲しい。それが、お前の願いなのだろう?』
「……卑怯です。貴方は……本当に、本当に……卑怯です」
『知っている。俺は卑怯だ。俺は矮小だ。俺は、未熟だ。そのどれも否定するつもりはない。開き直るつもりもない。こんな俺を受け入れてくれる必要は皆無だ。俺を拒絶したければ、して欲しい。だから―――お前の望み通りにしろ』
「はい……一鬼様」
夜空のように深い藍色の眼に薄らと涙を浮かべながら、藍龍はその手を取った。
触れ合う感覚と共に、一鬼は彼女の持つ暖かさを感じ、内心その純粋さに驚愕する。
超越者は皆様々な意味で純粋だが、中でも彼女は狂気に領域に至る程に純粋だった。
下手をすればあの紫鬼にすら並びうる程にその心は真直ぐで、そして狂っている。
ブルー・シャーマンが認めてしまうのも仕方ない程に純粋に、彼を思っている。
それがただ触れ合っただけで分かってしまう。見えてしまう。
同様に藍龍も若干の驚愕と共に一鬼の本質を見透かしていく。
そこから失望が始まるのだろうと内心思いながらも、一鬼はゆっくりと手を放そうとし……強く握られた。
驚いて、藍龍の顔を見返した一鬼は、そこで彼女が感涙に咽び始めたことに気付かされる。
その藍色の眼には、彼に対する恐ろしいまでに高純度の……否、まさしく純粋な愛があった。
そこに彼は狂気を見出す。純粋過ぎるが故の、力強さを感じる。
その力強さこそが、紫鬼達を認めさせたのだろう。
彼女はきっとブレない……紫鬼達と同じか、場合によってはそれ以上に。
だからこそ、紫鬼とブルー・シャーマンは彼女に一鬼の傍に……否、隣に居ることを許したのだ。
そうでなければ、彼らがそれを許す筈がない。紫鬼は兄として、ブルー・シャーマンは観測者として、それを拒絶しただろう。
だからこそ、今彼の前に居る女性にはその資格があるのだ。
『藍龍、お前に頼みたいことがある。聞いてくれるか?』
「はい、私にできることでしたら何なりと」
『ここにやって来るであろう妖狐達を守って欲しい。あれらは、俺が守るべき者達だ』
「承知しております。全て、ブルー・シャーマンに拝見させて頂きました」
『……何だと?』
美空と碧を守ってくれるように頼んだ一鬼だが、藍龍の思わぬ返答に絶句した。
彼女は彼が二人を守らねばならないことを知っていると言っているのだ。
そして、それを知ったのはブルー・シャーマンの助けによってだとも、彼女は言う。
それがいつのことであるかなど、聞くまでもなく、一年前の『虹色の肋骨』達の戦いしかあり得ない。
あの最中で、いったいどうやってブルー・シャーマンは彼女にそれを知らせたのだろうか?
いや、一鬼もその可能性には既に気付いている。
碧を超越させた際に彼が開けた扉の向こう……即ち、超越者達の世界は皆の精神が繋がっている場所だ。
ブルー・シャーマンは恐らくその能力を駆使して皆に一鬼の在り方を見せていたのだろう。
一鬼の過去を垣間見ようという際にも、何故かブルー・シャーマンは一週間もの準備期間を設けた。
その時、既に蒼炎の超越者は人間としての一鬼の過去を外の超越者達に見せていたのかもしれない。
あの世界さえ利用すれば、それができるのだ。
「一鬼様のご想像の通り、私達はブルー・シャーマンの能力によってその生き様を見てきました。故に、貴方の義妹様のことも存じております。貴方が受け入れたあの女性のことも、あの時知りました」
『お前は……それで良いのか?』
「本心を言えば、あの女性も貴方の義妹様も、私からすれば依存しかできない能無しどもです。私個人の意見としては、排除すべきかと。しかし、そんな彼女達でも、一鬼様にとって必要ならば……私はそれに従います。一鬼様の御心に必要ならば、私は他の超越者から守ります。貴方の心身を守ってこそ、超越者としての本懐を遂げることができるのです」
『……任せても、構わないか?』
「はい。すぐに他の超越者達にも告げます。彼らが素直に頷いてくれるとは思いませんが」
一鬼には、藍龍の言葉に偽りを見出すことはできなかった。
一人の超越者として、彼女は本心を告げているのだ。確かに、彼女も超越者なのだ。
だから、ブルー・シャーマンのように真実を覆い隠すことはできても、ないものを告げることはできない。
今彼女が告げていることは全てが本心なのだろう。全てが事実なのだろう。
故に、一鬼は藍龍を信用することにした。
彼女ならば彼の願いを聞き届けてくれるという実感が、確かにあったのだ。
己を殺した者を守れと告げることが、いかに他の超越者達にとって残酷なのかは彼も分かっている。
守るべき存在を守れず、二度も彼らは失う羽目になった。
だというのに、その双方に関わっている碧を殺してはいけないと、殺された張本人である空の超越者が告げるのだ。
一鬼の願いを他の超越者が素直に聞き入れる保証はない。
故に、ブルー・シャーマンは藍龍にその旨を告げろと言ったのだ。彼女に願いを託せと言ったのだ。
一鬼が望んでいることが本当に彼にとって必要ならば、それを何よりも最優先する彼女だからこそ、ブルー・シャーマンも紫鬼も認めているのだろう。
彼女のそれに対する嗅覚は半端なものではない。
まるで一鬼の全てを理解しているかのように感じられる程に、彼女は彼を理解している。
恐ろしい程に深く、深く……彼女は彼の内側に入り込んでいる。
ブルー・シャーマンの言葉は二重の意味を持っている―――信頼はできるが、同時に敵に回してはいけない存在だと、蒼炎の超越者は暗に語っていたのだと、一鬼は今漸く気付いた。
『納得しないようならば、俺が直接話そう。今ここに皆を呼んでも構わない』
「いえ、それではこの塔の守護が疎かになります。お呼びの際には、一人ずつが宜しいかと」
『……分かった。では、まず他の三名に話をして来て欲しい。その後、またここに来てくれ』
「はい……仰せのままに」
そっと一鬼の虹色の手から手を放すと、藍龍は少しばかり寂しそうな笑みを浮かべる。
その藍色の眼にあるのは、海のように深い愛情だ。深淵を思わせる程に底が見えない、一途な想いだ。
一鬼はそこまで純度の高い想いに対して、一種の尊敬すら抱く。このような者が存在するのかと驚く。
恐らく彼女と同じように深淵そのものと言える愛を持つ者は未来永劫現れないだろう。
藍龍は間違いなく狂っている。
一鬼が狂わせたのか、それとも元々狂っているのかは定かではないが、間違いなく狂っているのだ。
彼女の種族は、その頭に生えている角とちらりとまたから覗く尻尾から、恐らく『東』の一族であろうと予測できる。
『東』の一族は閉鎖的だと二百年前に碧の母、翡翠は語っていた。ブルー・シャーマンも、超越者に関しては過去を見せてはくれなかった。
ただ省いただけなのかもしれない。ただ不必要だっただけなのかもしれない。
だが、見せたくないものがそこにあった可能性もある。
彼らが思い出したくない何かが、そこであった可能性も捨てきれない
果たして、彼女を狂わせたのは彼なのか、それともそれ以外の何かなのか―――それを尋ねるには、今はまだ早かった。




