第一話
雨の日というものは妙に憂鬱になる……そう思う人は根本的には根暗な人間だそうだ。
滑らかに壁を流れていく滴に美しさを見出せはしても、空から降り注ぐ雨は肉体から熱を奪っていく障害だ。
五感で以て雨を楽しむのは如何せん代償が大きく、太陽の光に曝されるよりもずっとリスクが高い。
要は、人間にとって雨とはあまり都合の良いものではないということだ。
しかし、そんな雨を望む者も確かに居る。
雨が降った時喜ぶ者が居る。雨が齎す恵みに感謝する者が居る。雨が生み出す洗浄のイメージに心を清められる者が居る。
心を洗い流されて、安らかな気持ちになれる者も確かに存在するのだ。
それでも、人は雨に憂鬱さを感じてしまうことがある。その重さに辟易することがある。
彼女もまた、その一人であった。
「今日も雨、か」
彼女は眼を覚ました直後に聞こえてきた雨音に小さく、しかし響く声を発した。
起床直後である為眠気眼である眼の色は黒と灰色のオッドアイで、灰色の眼が持つ爬虫類のような瞳孔が半端な異常さを齎している。
その頭を覆う髪の毛は闇を想起させる黒と、無を感じさせる白が入り混じった直毛だ。
艶やかなその髪の毛は彼女の腰は愚か膝に達する程に長く、無造作に伸ばされている。
その眼の奥には重い何かが見出せ、鋭い光が怪しい引力を生み出す。
布団を退けて曝したその肉体は、引き締まってはいるものの、女性らしさを失わない可憐さがあった。
更には、立ち上がったことで明らかになる百六十センチ程度の身長が、彼女が女性としては高めの身長の持ち主であることを物語っている。
「頭が……痛い。雨の日は……嫌い」
時計を確認しながらぎこちない動作で着替え始めた少女の名前は神谷美空という。
年齢は十八歳で、現在近所の高校に通っている、上の下程度の能力を持つ少女だ。
その眼は冷たさと拒絶と絶望をごちゃ混ぜにした混沌を宿しており、何処か近付き難い雰囲気を放っている。
百六十五センチという近年の日本人女性としては少し高めの身長に加え、十八歳とは思えない程に艶やかな曲線を描くその体は酷く美しい。
しかし、その中で最も美しさを際立てる筈の顔は苦痛に歪んでおり、桜色の唇は固く結ばれ、睨みつけるような眼光が酷く攻撃的だ。
その酷く攻撃さを感じさせる外見に違うことなく、彼女の性格は鋭い刃物を有している。
ただ、その刃物は何かを切ろうとすれば簡単に折れてしまう諸刃の剣の類だが。
「っ……」
着替えを終えると、美空は今日の授業の日程を再確認して学生鞄の中を確認する。
特に忘れ物が無いことを改めて確かめた彼女は、そのまま一つ溜息をつくと時計を見た。
時間は七時十五分……ホームルームまでに登校するには、八時に家を出れば間に合う。
まだまだ時間はあるが、通常の女性ならば化粧の時間を考慮してもっと早く起きただろう。
しかし、彼女の場合はその必要はない……何せ、彼女は化粧をしないのだから。
元々垢抜けなさの残る彼女だったが、今はそのような余裕すらない。
頭痛に耐えながらも、美空は食事をとる為に部屋を出た。
ただでさえ頻繁に起こる偏頭痛は、雨の日はより一層頻度を増して彼女を苦しめる。
まるで雨に呼応して苦しんでいるかのような、そんな錯覚すら彼女は覚えてしまう程に、雨の日は必ずこうなるのだ。
それを忌々しく思いながらも、彼女はのそのそと歩みを進めていく。
現在この家に住んでいるのは彼女を含めて三人……彼女と、彼女の父と、そして―――
「おはよう、美空」
「おはよう……碧さん」
彼女の兄を……神谷一鬼を一年前に死なせた女、碧だ。
一年前から一鬼の部屋を使っている碧に、美空は内心途方もない嫉妬と怒りを覚えていた。
所詮そこに残っているのは残り香と名残だけであり、兄は帰ってこない。
それが分かっていても、彼女には兄を死なせた女が兄の部屋を使っていることが、許せなかった。
最初は仕方ないと割り切ろうとしたが、彼女には無理だった。割り切れなかった。
一年前に彼女自身が懸念した崩壊は既に始まっており、美空は間違いなくその精神を病んでいた。
一年前に、碧は……美空の兄である一鬼を死なせた妖狐は、彼女が彼にとっての一番だったと告げた。
柿坂愛梨という半妖は、美空こそが彼にとって最優先すべき存在なのだと、はっきりと語った。
だが、最終的に彼が選んだのは彼女ではなく、碧だ。
一年前、美空は碧から全ての真相を聞いた。
だからこそ彼女には分かるのだ。一鬼は、美空を守るという両親に対する誓いを投げ打ってまで碧を守ったのだと。彼にとって最も大事なのは彼女ではなく、碧なのだと。
そうでなければ、己の意思を碧に託すことなどできる筈がない。
結局兄にとって大事だったのは人間としての彼の居場所ではなく、妖としての居場所だったのだ。
「今日も……雨が降っているわね」
「……そうだね」
かつて美空に宿った妖、山吹は美空、碧、そして碧の妹である白雪の三人を一鬼に寄生することしかできない屑だと称した。
確かにそれはある意味当たっていたのかもしれないが、しかしその三者の間には大きな隔たりがある。
碧は三者の中で最も一鬼に近づいた存在であり、白雪は最も彼が憎んだ存在だ。
白雪は一鬼の兄貴分の死を招き、親友を彼に殺させ、最後には彼の恋人まで殺した。
碧は、彼自身をその手で一度殺し、更には彼女を守る為に一鬼は実の兄である紫鬼の拳によって死亡した。
碧も白雪も一鬼から多くのものを奪ったのだ。多くの悲しみを周囲にばら撒いたのだ。
いや、それどころか二十年前に一鬼と白雪が眠っていた遺跡を発見してしまった者達の多くを殺し、『虹色の肋骨』によって一年前に千人を超える死者を出した。
はっきり言って彼女達は死神だ。関わるもの全ての人生を狂わせ、死に追い込む死そのものだ。
それでも、一鬼は碧を受け入れた。彼を二度殺す羽目になった彼女を。
美空は、一鬼にとって死神である筈の碧にすら劣っているのだと、そこから感じてしまう。
確かに碧は彼女よりも美しく、強く、強靭な精神力を持っているかもしれない。
彼女などよりも遥かに強い思いを一鬼に抱いているかもしれない。その意思を受け継ごうともがいているかもしれない。
だが、それでも彼女にとって碧は憎むべき存在なのだ。
口には出さないが、彼女は憎しみも嫉妬も忘れはしない。
一年前に光を失った彼女の中には、今も力強く燃え盛る嫉妬の炎があるのだから。
「もう朝食の準備はできているわ。行きましょう」
「……分かった」
現在碧は眼と髪の毛の色を黒にして、耳も尻尾も隠している。
完全に人間に擬態した今の彼女は、元来の姿に比べれば格段に見劣りするものの、それでも美しい。
美空が上の下ならば、彼女は今のままでも上の中だ。
本来の美しさは今の比ではないことを知っているが故に、彼女はその差に苦しむ。
この一年で確かに己も綺麗になったとは、美空も自負している。
だが、それと同じくして彼女が抱えていた偏頭痛は以前にも増して酷くなり、その精神を蝕んでいく。
一鬼という光を失った彼女は、己の抱える制御不能な炎にその心を焼かれているのだ。
だから、摩耗していく。だから、他者を思いやる余裕が削がれていく。
艶やかだった黒髪も、今はその半分が白髪へと変わり、彼女を不気味にさせる。
齢十八にして、彼女は髪の半分が既に白髪になっていたのだ。
一年前を境に始まったその変化は彼女を確かに変貌させ、今の姿へと導いた。
確かに一年前よりも彼女は美しくなったが、その花を手に入れる代わりに彼女は棘を持つことを要する。
一年前はなかったその棘は、一鬼が今まで鎮火させていた彼女の抱える業火だ。
それが元来の火力を取り戻しつつあることで、彼女は垢抜け、しかし同時に鋭さを押し付けられた。
「今日の朝食は?」
「ご飯に、味噌汁、それと焼き魚ね。野菜もあるわよ」
「……そう」
だが、美空はまだ軽傷だ。
彼女は確かに生まれついて持っている業火を鎮火させてくれる光を失った。
一鬼という宿主を失い、光を失い、今彼女に残されたのは果たされなかった想いと、憎悪、嫉妬、そして悲しみのみ。
それは確かに彼女にとって良いものではないが、少なくとも彼女にはエネルギーがある。
どんなにマイナスのものだったとしても、彼女は生きている。確かに、生きているのだ。
最大の問題は彼女ではなく父、明の方にある。
誰よりも愛した妻、夜空を失い、親友も多くが死に、遂には最後の希望でもあった一鬼が死んだ。
二十年前に父が白雪の眠る遺跡を見つけてしまったことが彼にとっての悲劇の始まりだったのであろう。
そこから彼の仲間は悉く死亡した。佐藤、高橋、柿坂……そしてその子ども達も。
全ての始まりは碧の暴走だが、明にとっては彼が白雪の眠る遺跡を見つけたことが始まりだ。
それによって目覚めた白雪は『虹色の肋骨』を生み出し、二年前の大事故を発生させた。
そして、その際に七人の人妖に『虹色の肋骨』を移植し、結果的に千人を超える被害者を出したのだ。
結果として彼は美空と親友一人以外の全ての繋がりを失った。
その中に残されるべきだった最大の希望である息子、一鬼の死を最後に、一年前の怨恨は全て終了したのだ。
彼が齎した悲しみを今まで取り除いてくれた息子が最後はその悲しみそのものとなった……これは、彼にとって絶望そのものであった。
「起きたか。おはよう」
「おはよう……父さん」
「おはようございます、神谷さん」
「朝食の時間だ。座れ」
椅子に腰かけて二人を待っていた父、明の髪の毛は真っ白だ。
一年前までは多少白髪が混ざっているだけだった筈の彼の髪は、息子の死を境に完全に色を失った。
彼は娘である美空や、息子を死なせた碧に対して弱さを見せはしないが、弱っていることは明白だ。
その背中は悲しい程に小さく感じられ、かつて幼き頃の彼女の頭を撫でてくれた父の強さはそこにない。
二十年前に始まった悲劇の中での唯一の希望と言えた息子を失ったのだから、無理もない。
美空が死んだとしても、父はここまで弱りはしなかっただろう。所詮彼女はただの娘なのだから。
だが、一鬼は違う。父と母の期待を一身に受けて、それに完全に応えた信念の後継者だ。
血肉しか継げなかった美空とは違う、本当の継承者を失ったのだから、その痛みは途方もないものだろう。
一鬼は明の仲間達の子を救った。一矢も、羽月も、愛梨も、皆息子が支えとなり、指標となったのだ。
明が白雪の眠る遺跡を見つけなければ、仲間は死なず、その次世代達は妙な呪いも受けなかっただろう。
そんな苦悩の中で、明は一鬼という光に救われた。次世代の救いとなった息子が居たからこそ、明は十九年間その苦悩と向き合い続けることができた。
だが、その希望も一年前に潰えた……後は、滅びに向かうだけだ。
「美空、親の署名が必要な書類は無いな?」
「うん、無い。あったら昨日話してるから」
「そうだな。それはそうと、模試は近いのか?」
「一カ月後。勉強はしてるし、私の成績は父さんも知ってるでしょう?」
「そうだな。要らぬ心配か」
美空の成績は実際非情に良い。
元々彼女の能力は決して低くなく、寧ろ高いのだ。学校の成績も、体育を除けば一鬼よりも上の教科だってある。
彼女にできないのは覚悟であって、覚悟さえできればそれを活かすだけの能力を彼女は持っていた。
人間としては十分過ぎる程に彼女の能力は高く、今尚成長を続けている。
しかし、それでも美空には肝心の覚悟ができなかった。
そもそも覚悟とは何なのかすら彼女には理解できない。どうすれば覚悟できるのかも、何もかもが理解できない。
一鬼にはそれが分かっていた。明と夜空の期待を一身に受け、ひたすらに背負い続けた彼は、それを知っていた。
己の我儘を突き通す為に誰かを犠牲にすることが覚悟ではない。ただ苦痛に耐えることは覚悟ではない。
「うん。私は……大丈夫だから」
覚悟とは、その先に待ち受ける物全てを受け入れ、それでも進むことだ。
それはどのような分野であろうとも誰もが通る道であり、同時に避けようとする道でもある。
覚悟には苦痛が伴う。だから、大抵の人間はそれをできずに居るものだ。
それでも、覚悟せねばならない時はやってくる。守るべき者の為に、皆いずれ覚悟する。
例え大きな何かを為さないとしても、皆覚悟はするものだ。せねばならない。するしかない。
一鬼は大切な者達を守る為に常に覚悟してきた。常に背負い続けてきた。
そんな彼だからこそ、碧を守る為に実の兄である紫鬼にすら敵対し、結果として心臓を失い、死亡した。
最後は笑って彼女に食われたというのだから、その覚悟はまさしく半端なものではないだろう。
しかも、一鬼は死んだ後も虹色の鬼として碧を守ったというではないか。
それ程に一鬼に思われている碧が、美空には羨ましかった。
碧は覚悟をしている。死亡した一鬼が託した願いを叶えようと、必死になっている。
一鬼の覚悟と、それを証明した行動に彼女もまた応えようともがいているのだ。愛する男の怨念を背負おうとしているのだ。
美空はそれができる碧の想いの強さに嫉妬し、それができない己を憎む。選ばれなかった己の無力さを呪う。
嫉妬も憎しみも、何もかもが一鬼に収束する。全てが彼女の兄に集う。
その兄ももう居ない。もう彼女を抱きしめてはくれない。甘やかしてはくれない。愛してはくれない。
全て妖達が奪った―――碧が、白雪が。
「ああ、そうだ……今日は少し出かける。もしかしたら、帰りが遅くなるかもしれない」
「ん……分かった」
父の言葉に頷きながらも、美空は彼が何処に行くかを理解していた。
今日が何の日か、彼女は分かっている。何がこの町で起きたかも、何が失われたかも、彼女は全て知っている。
今日という日を忘れられる筈がない。忘れて良い筈がない。
この町に住んでいる者の全てが覚えている訳ではないが、少なくとも彼女達は忘れられなかった。
実際にその身に降りかかった恐怖と不幸を、どうして簡単に忘れることができようか?
だから、美空はその眼を細め、どんよりとした空を映す窓の外を見遣った。
そこには太陽の姿は見えない。彼女が何よりも欲した太陽は、そこにはない。
もうそれは消えてしまったのだ。彼女の手の届かない場所に行ってしまったのだ。
確かに空に太陽は浮かんでいる。そこには熱がある。光がある。
しかし、それはただの太陽であって、彼女が望んだ太陽ではない。
彼女が欲したのは触れるもの全てを焼き尽くす太陽などではなく、暖かく包み込む太陽だ。
今日はその太陽が消えた日―――神谷一鬼という一人の男の命日だった。
墓地にある墓石を前にして、佐村敬吾は静かに佇んでいた。
彼の前にある墓石には佐村という名前が彫られており、それが彼の家のものであることを物語っている。
そこに刻まれている名前は元来彼の先祖のもののみであるべきなのだが、一年前そこに新たに彼の娘の名前が刻まれた。
一年前、突如起こった連続殺人事件の最後の犠牲者として、彼の娘は死亡した。
とはいえ、それは表向きの話であり、実際は『虹色の肋骨』という化け物の手によって彼女は殺害されたのだ。
それを敬吾が知ったのは一年前、全てが終わった後だった。
突如娘が行方不明になり、その死を直後に知らされた……それも、親友である明の口から。
同時に知らされた一鬼の死、そして妖という超自然の存在。その実例との出会い……全てが唐突だった。
まるで嘘のように迫りくる現実を信じられず、しかし彼は娘の亡骸を目にした時、それを受け入れねばならなかった。
娘……佐村優希の亡骸は特に外傷もなく、死因は心臓麻痺だとされた。
しかし、敬吾は知っている。明から聞かされている。その死が、妖という超常的な存在によって為されたのだと。
全てを教えられた訳ではないが、彼にとっての悲しみの原因は二十年前にあった。
神谷一鬼という化け物をそこで明が見つけてしまったことが、連れ帰ってしまったことが、彼の娘を殺したのだ。
佐藤も、柿坂も、高橋も、皆それが原因で死んだという事実が、そこにはある。
「……ふざけやがって」
明達が遺跡を見つけなれば良かったのだ。一鬼とそこで出会わなければ良かったのだ、そこから連れ出さなければ良かったのだ。
それさえなければ、明の仲間達は死なずに済んだ筈だ。敬吾の娘は死なずに済んだ筈だ。
神谷一鬼という鬼をそこから連れ出さなけば、全ての悲しみは生まれることはなかった。
化け物と人間の世界は不干渉で良かったというのに、それを明は交らせてしまったのである。
だから、事の顛末を聞いた時敬吾は迷わず明を殴った。明も黙って殴られた。
明は全てが己から始まったのだと自覚している。その罪を背負うことを覚悟している。
それこそが彼が間接的に殺した仲間達と、息子へのけじめのつけ方だったのだろう。
敬吾だって分かっている。直接優希を殺したのが明ではないことも。親友にそのような意思は無かったことも。
それでも……それを理解していても尚、彼は割り切れなかった。
「敬吾、もう来ていたのか……」
「ああ、今日で一年忌だからな……お前もそうだろう?」
「ああ、そうだ」
花束を抱えて現れた明に短く答えると、敬吾は降り止まぬ雨を齎す空を見上げた。
彼の娘である優希のみならず、佐藤羽月、柿坂愛梨、そして神谷一鬼が死んだ日も、丁度こんな雨が降っている日だった。
佐藤羽月は体の大部分を食われ、頭部を破砕されて死亡した。柿坂愛梨は胸部に風穴を開けられて死亡した。
優希は何一つ傷のないまま死亡し、一鬼は……肉の一片すら残さず消えた。
碧という化け物の生き残りに食われて死亡したのだ。
その碧が今神谷家で生活している……それは酷く理不尽なことだろう。吐き気を催す程におかしいことだろう。
しかし、明がそれを許している已上、彼にそれを言及する権利などない。猶予など与えられない。
どんなに化け物達が憎くとも、息子が生存を望んだ者だと明は碧を赦した。
いや、心の奥では赦してはいないだろう。決して赦すことはないだろう。
それでも、息子を死なせた原因を明は生かすことにした……それだけは確かだ。
だから、実際に碧に娘を殺された訳ではない敬吾にそれを断罪する権利はない。
「優希はな……一鬼のことが好きだったんだ」
「……そうか」
「だから、同じようになろうとした。より高みに昇ろうとした。結果として、あいつは一鬼とは異なる道を進んじまったが、確かに憧れていた。一鬼と同じ在り方を望んだ。それが……あんなことになるなんて、思いもしなかった」
「一鬼とあの子は生き方が違った、ということだろう」
「ああ、その通りだ。俺は、娘が一鬼の真似をしていたことには気付けた。だが、それが間違った真似の仕方だったことには気付けなかった。その差が二人を決別させたことにも。俺は……親失格だ」
優希はかつて一鬼の強さに憧れ、それを真似しようとした。
一鬼の強さを、痛みを感じぬが故だと思い込んだ彼女は、不感の道を選んだ。
しかし、実際の彼の強さは痛みを感じながらも受け入れ、乗り越えることだった。
悩みも苦しみもしないのではなく、悩んで、苦しんで、その上で答えを出すことだった。
それに気付けなかった優希は間違った道を進み、やがて一鬼を超えたと思い込んだ。
だからこそ、優希は一度一鬼と決別する選択をしたのだろう。
中学時代に明確に線引きをし、己は守られる者ではないと彼の庇護下から離れたのは、そういう意図があったに違いない。
そこからは、ただ彼に守られるのではなく彼と対等に、もしくはそれ以上の位置であろうと彼女は決めたのだ。
だが、実際に離れたことで彼女は一鬼が未だに己よりも強いことを痛感させられる。
確かに一鬼は、痛みも悩みも振り切って優雅に進んでいく彼女とは違う。
地を這って悩んで、苦しんで、そうやって無様な姿を見せながらも、彼女を凌駕する圧倒的な強さを持っていた。
彼女からすれば無様な姿であるにも関わらず、その実力は彼女を超えている……これ程怖いこともないだろう。
だから優希は再び一鬼を超えようとし……しかし、できないと悟った。
妖との触れ合いによって元来の光を取り戻しつつあった一鬼相手では、勝ち目が無かったのだ。
それ故に彼女は一鬼を―――排除しようとした。
「それは、遠巻きに私を責めているのか?」
「そう思うのなら、心当たりありってことだろうが。実の娘を放っておくバカ親め」
「……そうだな。確かに、その通りだ。お前も私も、互いの子のことなど少しも理解できていなかった。そのようなことができる筈がないという一般論など関係ない。これは、当事者だけが感じられる無力感だ。絶望だ」
「お前はまだ良い。一鬼は最後までお前の望む生き方を貫いた。全て覚悟の上で、お前の望む鬼であり続けた。だが、優希は……それすらしていなかった。俺が、しっかりすべきだったんだ。お前が一鬼を強く育てたように、あいつの傲慢さと向き合うべきだった」
優希は、一鬼が彼女にとって格上の存在ではなくなったと判断した際に彼と決別している。
その時、彼女は彼を振り切った筈だった。感情を麻痺させた彼女には、それができた筈だった。
しかし、実際にはそれはできていなかったのだろう。だから、再び決別しようとした。
本当はただ一鬼に認めて欲しかっただけなのだという本心に、彼女自身が気付けていなかったのだ。
優希は自己完結してしまうタイプであり、それ故に間違った模倣をしてしまった。
そこから彼女の悲劇は始まり、自ら捨て去った感情を刺激し得る一鬼の存在を疎ましく思うこととなる。
本当はそれが彼に対する想いが故の感情の揺れだというのに、絶望的に鈍感になることを選んだ彼女はそれを理解できなかった。
だから、間違った選択をしてしまったのだ。自己完結しか選べない彼女は、誰に相談することもなく、そうしてしまったのだ。
結果として、彼女も一鬼も死亡した。
確かに直接的に彼女に死を齎したのは化け物だが、その力を揮おうとしたのは間違いなく優希自身である。
目の前に手を伸ばせば届く大きな力が現れた時、人間の精神性は試される。
それを所有しようとするか否か、そしてその後どう使うかが、その本性を示すのだ。
一鬼はそれを守る為に使い、優希は一鬼を振り切る為に使った。
その違いこそが、最も敬語を苦しめる要素だ。
人間としてだけでなく、親としても明に届かない己の無力さが、そこにはあった。
「敬吾、以前も言ったが全ての罪は私に収束する。二十年前私が一鬼をあの遺跡から連れ出さなければ……このようなことにはならなかった」
「確かにそうだろうよ。だが、それがどうした? そこからまだ別の道に分岐できる可能性は確かにあったんだ。それを無視して、お前だけを責めるのは、回り回って俺達の無力さの露呈に繋がるんだよ」
「確かにそうだが……」
「一時的に気が晴れても意味なんざない。少なくとも、俺にはそんなものは必要ない。お前と同じく、己の無力さと向き合わないといかん。それができなくなった時、俺はお前と向き合えなくなる」
確かに二十年前の明の行動が全てを変えたかもしれない。
だが、その後もいくつも分岐はあった筈だ。少なくとも、優希に関しては敬吾達の教育次第で別の道を選べた。
一鬼という大きな要因と接触してしまうのは避けられなかったかもしれないが、彼女の選ぶ道を変えることはできた筈だった。
明の言葉に甘えて一鬼という大き過ぎた刺激が優希をそうさせたのだと罵ることは簡単だ。
しかし、それが可能な程敬吾は良い父親であったとは言えない。
勿論、優希のことを敬吾は愛していたし、妻もそうだった。
妻はしっかりと子育てはしていたし、優希がああなってしまったのは妻のせいではない。
信念というものを伝えるのは父親の役割だと彼は思っている。そう信じている。
母親は愛を感じる術、そして愛する術を教えるものであり、父親は信念というものを伝えるものだ。
その愛の部分を伝えきれていなかった訳ではない。幼少期の優希は確かにそれらを感じることができていたのだから。
問題なのは、敢えて優希がそれを麻痺させたことだ。
痛みを麻痺させ、苦悩を捨て去り、ただの機械のように決断することは、人間には必要ない。
それは機械がやってくれる。人間は悩んで、苦しんで、その末に後悔しない選択肢を選ぶべきだ。
感情を麻痺させたつもりでも、優希は一鬼という存在にその感情を揺らしていた。
敬吾は優希に感情を取り戻すことを決断させるように努めるべきだった。
それがいかに困難なことであっても、やり遂げるべきだったのだ。
「何もかも全力でやり尽くして、それでもダメだったならば俺はお前を殴っていただろう……だが、そうではない。俺は父親として、もっと優希に何かしてやれた。確かにしてやれたんだよ……」
「それが、お前の拳を鈍らせる要因なのか?」
「そうだ。お前が一鬼を過小評価していたのだとすれば、俺は優希を過大評価していた。バカなことはしないと、勝手な予想をしていた。それを軽々と打ち砕かれちゃあ、どうしようもない。俺は、少しもあいつのことを理解していなかった。それをせずして、お前をもう一度殴ってもただの八つ当たりだ。既に一度殴っちまったんだ。これ以上は殴れない」
「そうか……」
「逆の立場なら、お前もそうしていた筈だ。それと同じことだと持ってくれて良い」
敬吾は確かに明のことを憎んでいる。
二十年前に明がしてしまったことが多くの者を殺した。多くの悲しみを生み出した。
それが故意になされたものならば彼は明のことを殺していたかもしれないが、残念ながらそうではない。
神谷明は彼が誰よりも尊敬し、憧れた男であり、そのようなことができる男ではなかった。
だからこそ遣り切れない。怒りの行き場が何処にもない。
妖達を憎もうにも、それも既に碧を残して全滅してしまった。
一鬼さえ居たならば、敬吾の怒りを受け止めてくれただろう。
その狂気と言える領域の強靭さで、彼の怒りを爆発させてくれた筈だ。何発殴ることになるかは分からないが、それをただ受け止め続けてくれた筈だ。
しかし、一鬼はもう居ない。多くの者の受け皿となっていた男は、最後の最後まで己が信念を貫いて死んだのだ。
だから、彼の怒りの行き場所は何処にもない。
碧などに怒りをぶつけることは、耐えている明の手前許されなかった。
何よりも、一鬼という化け物が残した最大の負の遺産と接触することそのものが彼には嫌なのだ。
彼は一鬼に全てを背負わせようとした。ミサイルをばら撒いた化け物のことも、何もかもを、十九歳の若僧一人に押し付けようとした。
それを強く思い出させる化け物などに、彼は会いたくない。
「お前の処に居る化け物は、上手くやっているのか?」
「さぁな、知らんよ。私はあれと関わりを持ちはしない。一鬼は美空を守ることをあれに命じたと聞いている。だから、私は美空だけを守るように言って、それ以降は話すらしていない」
「そうか……成程な。一鬼は、お前達の実の娘を守ることこそが、お前達の心を守ることだと分かっていた訳だ」
「そういうことに……なるな。本当に……本当に、私には勿体ない程に良くできた息子だ」
悲しみに顔を歪ませる明は、酷く弱弱しい。
夜空を失ったばかりか、最後の希望とも言える一鬼を失ったことで、明はさらに弱ってしまった。
恐らく美空が死んでも同じように弱りはしただろうが、その程度は遥かに軽かった筈だ。
美空には明の辛さを受け止められる程の余裕はないし、度量もない。
一鬼ならば、明の弱さを自主的に吐き出させる。その本心を聞き出し、共に歩んでいこうと提案できる。
そこが両者の大きな違いであり、美空を苦しめる隔たりでもあった。
一鬼が基準でしかない彼女は、いつも一鬼との差異に苦しんでいるのだ。もがいているのだ。
人間としては十分な能力を得ているにも関わらず、自己評価が低下して、覚悟が足りないのだ。
敬吾は知っている。一鬼がかつて、己よりも良い成績を美空が取って喜んでいたと言ったことを。
その時、一鬼が何処か嬉しそうに微笑んでいたことも。
一鬼にとって、恐らく美空は守るべき存在であり、同時に重荷でもあったのだろう。
だから、彼は彼女が己よりも勝る部分を見出したことに微笑んでいたのだ。喜んでいたのだ。
そこで悔しそうにしてくれた方が美空にとっては遥かに良かっただろうに、笑顔で許容してしまったに違いない。
そんな彼に対して益々彼女は己の器の小ささを自覚し、更にドツボに嵌ってしまう。
美空にとって一鬼は守護者ではあったが、同時に障害でもあった訳だ。
「明、一つ言っておきたいことがある」
「何だ?」
「素晴らしい人間が常に良い親や兄であれる訳じゃねえってことは忘れるな」
「……何が言いたい?」
「お前の息子はお前にとって素晴らしい息子なのかもしれないが、娘にとっては良い兄ではないかもしれないってことだ」
一鬼は確かに覚悟ができている男だったが、見本にして良い存在ではない。
あんな化け物が比較対象では、それと比較される方は堪ったものではないだろう。
覚悟においてはまず勝つこと叶わず、他の能力面で勝っても、少しも見返せた気がしない。
何せ、一鬼という男は嫉妬ではなく憧れを強く抱く男なのだ。己を超えた者を賞賛し、恨み言を言わないのだ。
そんな器の違いを見せつけられては、純粋に喜ぶこともできない。
そんな一鬼という異形を、美空は十七年間見本としてきた。己自身と比較し続けて来た。
美空でなければ……神谷家の血を持つ彼女でなければ、恐らくは嫉妬によってとっくの昔にその身を亡ぼしていただろう。
神谷家というものは、そういうものだ。長く続いた歴史の中で、ある意味歪みと成り果てた一族だ。
彼らが憎しみを抱くのは、己が信念を相手が捻じ曲げる時のみだ。大切な者を傷つけられた時だけだ。
嫉妬ではなく憧れを抱くという、ある意味狂った一族に生まれたからこそ、美空は壊れずに済んだ。
その神谷家の血を以てしても、嫉妬の炎を禁じ得ないのが一鬼という男であった。
死して尚残された者達に強く残り、まるで呪縛のように苦痛を与え続け、信念を貫かせている。
神谷明は息子の最後の願いの為に……娘を守る為に、壊れないことを誓った。
碧という化け物は、一鬼の最後の願いの為に……美空を守り、一鬼を思って生き続ける。
一鬼は知らず知らずの内に回りの者に覚悟をさせていた。死して尚、させ続ける。
そんな化け物と今まで比較され続けても壊れなかった美空を、明は褒めてやるべきだった。
「……一鬼が、美空にとって良い兄ではないだと? そんなバカなことが……」
「お前には分からんだろうな。だが、お前は神谷美空を己が継承者とするつもりはなく、強く育てようとしなかった。そんな娘が、まさしく化け物である兄と比較され続けて耐えられる筈がない。お前の娘は人間としては十分に高スペックだ。だが、それでも一鬼と比べれば……悲しい程にちっぽけなんだよ。どんなに頭が回っても、勉強ができても、勝った気分になれないんだよ。それを分かれ」
「だが……美空にとって一鬼は良い兄であった筈だ。事実、年不相応な程に仲は良かった」
「バカ野郎。それは、お前の娘だからこそできたことだ。お前の娘だからこそ、あの強さに憧れることができたんだ。全てが嫉妬に裏返ることなく、憧れることもできたんだ。お前の娘が、一鬼を好きだったからこそできたんだよ。そうじゃなきゃ、とっくにぶっ壊れてる」
「何故だ……何故、そこまで分かる? 親である私よりも、一鬼や美空のことが分かる?」
「俺が、お前よりもずっと弱い人間だからだ。弱者の気持ちが分かるからだ。明……弱者の気持ちが理解できてこそ、強者なのだと一鬼は―――お前の息子は言っていた」
一鬼はいつだって己を低く見ていた。世界との違和を感じ続けていた。
敬吾はその話を何度か聞いたことがあり、その度にその高過ぎる理想に恐怖したものだ。
一年前に一鬼が語った『一体の鬼になりきる』という言葉には、その理想の全てが込められている。
鬼は力の象徴であり、恐怖の象徴であり、死者そのものであり、異界の者だ。異形の者だ。
一鬼はそれになり切ろうとした。守る為に、全てを敵に回す覚悟をしていた。全てを投げ打つ覚悟をしていた。
美空はそんな化け物と十七年間比べ続けられたのだ。
彼女が一鬼に対して特別な感情を抱くか眼中になかったかでなければ、十七年もの間精神が持つ筈がない。
明はきっと、最初から美空には一鬼と同じような期待をしないつもりだったのだろう。
その『比較対象にすらしない』ということが何よりもきつい比較の仕方であるというのに、そうしたに違いない。
美空が壊れていないことがいかに奇跡なのかを、明は分かっていなかかった。
だからこそ、敬吾は明が親失格であることを否定しない。
一鬼にとっては大した問題ではなかったかもしれないが、美空にとっては酷い親だ。
「……一鬼が?」
「ああ、そうだ。それと、いい加減一鬼一鬼と言うのを止めろ。あいつはお前達の呪縛になりたくて死んだ訳じゃない。守る為だ」
「確かに……そうだな」
「俺にはこんなことを言う資格なんざないだろうが、言わせて貰うぞ。一鬼のことを考えるのは構わんが、神谷美空という娘の存在を忘れるな。お前の実子を疎かにするな。それが、お前の血の繋がらない息子の願いだ。呪いだ。心して受け取れ」
「分かっている……分かっているとも」
明は肩を震わせながら、静かに空を見上げた。
敬吾も同じく空を見上げる……幾重にも重なった雲が太陽を覆い隠した空を。
二人が差した傘を雨が打つことで齎した軽い衝突音が、地面を撃つ雨音にかき消されていく。
この雨が天が流している涙なのか、それとも乾いた地上に齎された施しなのかは、彼らには分からない。
雨はそこに生命を齎す。命を生み出し、最後には奪う。種を撒き、最後には収穫する。
雨と太陽の光は二つが一つとなって命を与え、奪う。
その双方があってこそ生命は生きることを許され、その双方によって死んでいく。
太陽と雨はその双方が空からやってくるものだ。空から降り注いでくる自然現象だ。
人間にはどうすることもできない大自然が齎すその現象は、止めることなどできない。
彼らにできるのは、ただそれらを建物によって凌ぐことだけだ。
運命とは、雨と日光に似ている。
常に万人に降り注いでいる筈なのに、ある日突然牙を向く。命を奪う。
それらが生命を生み出すのは最後に刈り取る為であり、ただで育む訳ではない。
人間は最終的に作物をほぼ必ず刈り取るが、運命というものは気紛れだ。
まず生命を与えるか否かも定かではなく、いつ刈り取るのかもあやふやだった。
その気まぐれな運命は、二十年前と一年前に多くのものを彼らから奪っていったのだ。
もうそれが二度と起きないように、彼らはただ願った……新たな悲劇がこれ以上起こらないことを、密かに願った。
だが、そんな彼らを嘲笑うかのように、雨はその強さを増していくのだった。
教室の窓越しに外を眺めながら、美空は一つ溜息をついた。
昼休みにはいつも外で昼食を食べる習慣がある彼女にとって、雨は非常に鬱陶しいものだ。
その日だけでなく、場合によっては翌日、更にそれ以上の期間外で昼食をとれない場合がある。
更には、雨が生み出す偏頭痛の頻度の上昇も相まって、雨の日は彼女にとって非常に苛立たしいものでもあった。
彼女の中で燃え盛る業火を雨は刺激する。慟哭を響かせる。
だから、彼女は雨が嫌いだ。
「美空、また頭痛?」
「……ごめんね。感じ悪いよね」
「良いの。私達、友達じゃん。その程度で距離置くことなんてないよ」
「そうそう。美空が豆腐メンタルなのは昔からだし」
「二人共、言い過ぎだよ」
友人である荒木奈央、柳京子、森千夏の言葉に苦笑しながらも、美空はこの町に起きた悲劇を振り返る。
一年前に『虹色の肋骨』が……否、白雪が引き起こした数々の事件が生み出した被害者は、美空達だけではない。
例えば彼女の友人である柳京子は、親戚をインディゴが暴れた日に失っている。
その親戚というのが、当日に美空があった柳恭子とその両親だというのだから、世界は狭いものだ。
まさかあの柳恭子があの日死んだなどとは知らなかった美空としては、その事実に驚愕せざるを得ない。
しかし、あの日のことを今尚鮮明に覚えている美空にとっては、それは仕方のないことだった。
一鬼達とインディゴが繰り広げた戦闘は……いや、正確にはインディゴがばら撒いたミサイルは町の一部を破壊し、多くの死者を出した。
紫鬼が止めてくれなければ、核弾頭すら打ち出したインディゴを止めることはできなかっただろう。
その紫鬼によって一鬼が殺されたという事実を碧に知らされた彼女としては、非常に複雑な気持ちだが。
ただでさえ、美空には超越者というものが恐ろしかったのだ。
神聖さを感じさせるブルー・シャーマンと出会った時には、その光に彼女の中の何かがかき消されそうになった。
純粋なる闇を感じさせた紫鬼と出会った時には、その闇が彼女の中の何かを飲み込もうとしているような錯覚を覚えた。
ただひたすらに怖くて、最初の遭遇時には失禁してしまった程だ。
そんな超越者達は兄を守ると言っていた……だというのに、最終的にはその命を奪ったのだ。
彼女から兄を奪ったのは碧と超越者達だ……だから、彼女はそれが憎い。
「美空も大変よね……私の知り合いにも偏頭痛持ちが居るけど、かなりきついって言ってたもの」
「そう、だね。特に雨の日は……きついかな。でも、大丈夫」
「美空の自分は大丈夫って言葉は、正直あれだよね。あんまり信用できないかな。根拠がない大丈夫じゃない?」
「きょ、京子……」
「そうやって強がるのを駄目だとは言わないけど、ちゃんと限度は考慮してね? 私も一年前は辛かったから分かるの。最後まで耐え続得ることができる人間なんて、そう居ないわ」
京子の言葉に対して不安げにする奈央に大丈夫だと身振りで示しながら、美空は頷いた。
本当は少しも大丈夫などではない。いつだって彼女はギリギリだ。いつだって、発狂寸前だ。
一鬼を失ったことで彼女にとっての光は消えた。だから、闇を照らす為に業火が必要だった。
一鬼を失ったことで彼女にとっての水は消えた。だから、業火は鎮火せず、全てを焼き尽くしていく。
彼女は今死へと向かっている……肉体的ではなく、精神的な死に。
今までは、一鬼という天が彼女に生命を齎していた。時に太陽の光となり、雨となり、命を齎していた。
だが、それは一年前突如消え去った。彼女に与えた生命を刈り取ることもなく、消えたのだ。
彼女を十七年間守ってくれた男は一年前、死んだ。彼女を愛してくれた兄は、甘やかしてくれた男は、死んだのだ。
今はもう、彼女の中で燃え盛る業火を消し去ってくれる存在はいない。光は無い。
大丈夫という言葉など、ただの強がりでしかなかった。
「分かってる。私もそこまで無茶はしないから」
「だと良いんだけど……本当に大丈夫?」
「うん。私は……神谷美空だから」
「いや、だから心配なんだけど」
己の言葉をすかさずバッサリと切り捨てた京子に苦笑しながらも、美空は己が言葉の真意を理解されなかったことを悟る。
無理もないことだ……彼女の言わんとしたことを理解できるのは、神谷の血を知る者だけなのだから。
鬼すら受け入れ、その能力に嫉妬するどころか歓喜した一族の末席だからこそ、彼女は大丈夫だと言った。
しかし、京子は彼女の言葉を『美空個人だから』というニュアンスにとったのだ。
そのニュアンスでは、当然安心できる訳がない。
神谷明と夜空とは違い、美空は一鬼の能力に嫉妬していた。一鬼という一人の男を好いたと同時に、嫉妬した。
彼はいつだって彼女よりも遥かに上を行く。無様に地面に這いつくばって進んでいる筈なのに、彼女よりもずっと上を行く。
彼は痛みを拒絶しない。苦悩も振り切らない。全て受け止め、そして乗り越える。
己という重荷すら抱えてくれる兄に彼女は何度も救われた。何度も嫉妬した。
彼女は、神谷の血を穢す汚点だ。それが普通ではあるものの、普通ではない神谷の中では異端だ。
彼らは鬼と出会った時、その強さに歓喜した。何故なら、その強さは彼らが目指しているものだからだ。
だから、彼らは可能な限りの強さをその鬼に与えた。教え込んだ。
その全てを砂のように吸収し、恐ろしい速度で成長していく鬼を、神谷明と夜空は二十年前に見つけた訳だ。
その鬼に対して唯一嫉妬を抱いてしまうからこそ、彼女は汚点なのである。
「それにしても……美空も最近綺麗になったよね。それですっぴんだとか、私達も嫉妬しちゃうわ」
「……綺麗になっても、それを褒めてくれるひとは―――もう居ないんだけどね」
「……そういう暗い性格じゃなければ、付き合いたいと思ってくれるひとも居るでしょうに」
「そういうのは、要らない。私は……私には……兄さんだけ居れば良かったから」
「これは……また……以前にも増して……重くなったわね」
千夏が若干冷や汗をかきながら呟いた言葉に、美空は内心大きく頷いた。
確かに今の彼女は重い。死者である兄に縋ろうとするその精神も、その言動も、雰囲気も。
一年前に死んだ兄のことを引きずり続けている彼女は、それはもうどうしようもなく重いだろう。
それでも、彼女は兄のことを思い続ける。彼女の抱える業火をかき消し続けた光を。
依存することしかできなかった彼女をただ受け止め続けた、一人の異形を。
一年前、美空は柿坂愛梨と向き合うことができなかった。
一鬼への好意をはっきりと言葉にし、意志の強さを最後まで貫いた少女に、彼女は向き合えなかった。
死の間際ですら、一鬼を白雪に導く為にその怨念を重ねる行為は、まさしくその思いの強さあってことであろう。
そんな彼女だからこそ、一鬼と付き合うことができた。その圧倒的な差に苦しみながらも、追い縋ろうと努力できた。
柿坂愛梨が半妖だったからこそ、ある程度一鬼についていけたのだと考えることもできる。
それでも、美空は愛梨の一鬼に対する思いの強さを知っている。そこから学ぶべきものがあることを自覚している。
だから、彼女はもう隠さない。愛梨と同じように、己の想いをはっきりと口にすることを選ぶ。
彼女は、もう後悔するのは嫌だった。思いを伝えることもできずに失いたくなかった。
だから、兄への想いを言葉に変えることを辞さない。
再び愛梨と相対することはもうないものの、そこから学んだ在り方を、彼女は体現したかった。
「私はそれでも良いの。柿坂さんと向き合えなかった一年前とは……違う」
「……まるで、諸刃の剣ね。今の美空、正直怖いわよ?」
「京子、そんなこと言わなくても……」
「良いの、奈央。私も自覚はしてるから」
今の美空は、髪の右半分が白髪となり、右目は灰色に変色している。
おまけに顔つきも鋭いものに変わっており、最後にはこの妄執とも言える考え方だ。
おかしいと思われない筈がない。おかしいと気付かれない筈がない。
彼女はそれを甘んじて受け入れている。いや、寧ろそう思われることを望んでいた。
一鬼に少しでも近づきたいという思いが彼女にはあるのだ。死んだ兄に手を届かせたいという願いがあるのだ。
死ねば、同じ場所に行けるかもしれない。死ねば、一鬼にまた会えるかもしれない。
だが、それは最後に彼が碧に託した願いに相反するものだ。美空と明に生きて欲しいと願った彼の遺言に背くものだ。
その思いに背くのはそう難しいことではない。彼女の我儘を押し通し、ただ死ねば良いのだから。
しかし、その時明はどうなる?碧はどうなる?……一鬼ならばそう考えた筈だ。
実の処、美空はそのようなことはどうでも良かった。
しかし、一鬼が望んだ已上はそれを叶えたい。それに応えたい。応えねばならない。
生前の彼に何一つ応えることができなかった彼女にできるのは、それくらいなのだ。
兄が死んでしまった今になって、初めて彼女はその思いに、恩に報いることを始めている。
だから、死ねない。光も雨も失い、燃え盛る業火に焼かれながら、それが生み出した砂漠を彷徨うしかない。
本当は今すぐに全て捨てたい。今すぐに一鬼に会いたい。
それでも……それでも、生きねばならない。
それが、彼女が愛した男の最後の願いだったのだから。
降りしきる雨の中、碧は一鬼の名前が刻まれた墓石の前に佇んでいた。
愛する男の眠っている場所はそこではないと知りながらも、彼女はそっと花を置く。
一年前に一鬼が死んだのは、碧が無力だったにも関わらず、多くを望んだせいだ。
二百年前と何も変わらない……彼女が彼を殺した。一度は、彼女がその手で彼を殺し、二度目は紫鬼に殺させた。
誰よりも弟である一鬼を愛し、その身を守ると誓った紫鬼に、殺させたのだ。
彼女がそれを望んだ訳ではないが、そのような背景は関係ない。
結果として、神谷一鬼という人間も、一鬼という鬼も一年前に死んだ。
彼女にその身を食らわせることで超越させ、紫鬼に立ち向かう力を与えて死んだのだ。
しかし、その死で以て与えられた力によって八尾から一気に十尾にまで駆け上がった彼女ですら、紫鬼には勝てなかった。
宿主という足枷によって一億分の一の力すら使えなかった状態ですら、紫鬼は十尾になった彼女を圧倒したのだ。
一鬼が虹色の鬼として再び姿を現さなければ、彼女は再び紫鬼に殺されていただろう。
片腕を失って、いつ消えるかも分からない程に宿主が死にかけている状態であったにも関わらず、紫鬼は碧を圧倒した。
本物の超越者と偽物の差が、そこには如実に現れている。生まれながらの超越者と、愛する者を犠牲にして超越した愚者の差が、そこにはある。
所詮彼女は紛い物でしかなく、一鬼が彼女を選んでくれなければそのまま死ぬしかなかった弱者だ。
そんな弱者がこうして二度目の生を真の意味で与えられ、強者が死んでいる―――それは、明らかな不条理だった。
「一鬼……」
時間は午後八時を回る頃……暗闇が支配するこの時間に、墓地を訪れる者など居ないだろう。
それで良い。彼女は一人が良い。一人でこの痛みと向き合いたいのだから、それで良い。
愛する男の死から一年が経ったことを再確認し、彼女は静かに涙を流した。
咽び泣きはしない。声を上げはしない。彼女がそうするのは一鬼の前だけだ。空の超越者の腕の中だけだ。
一年間の間美空を守り続けはしたものの、それは一鬼との約束があってこそのもの。
愛する男が最後に彼女に託した怨念があるからこそ、彼女は今こうして生きているのだ。
彼女は本心では死を望んでいる。死んで、一鬼の元に生きたいと願っている。
それでも、彼が残した呪いが彼女を生かす。美空を守り切れという罰が、彼女を死なせない。
彼の怨念だけが、彼女を今こうしてこの世界に引き留めているのだ。
碧が一鬼の愛を信じきることができたのは、彼が死んだ後だった。
彼は己が命を彼女の為に投げ出し、死の間際で彼女を生かす為に己を食わせ、そして死後も虹色の鬼となって紫鬼から彼女を救った。
そこまでされて、その思いが偽物であると言える筈がない。思える筈がない。
彼は確かに彼女を愛していたのだ。己が罪の象徴として。生きる意味として。一人の存在として。
もっと早く気付けたならば、碧は変わることができたかもしれない。紫鬼も別の道を選んだかもしれない。
だが、それはただの仮定の話であって、現実は違う。
「……!」
不意に、墓地にやってくる気配に気付いて碧は眉を顰めた。
その気配は、管理をしている者のそれではない……管理をしている者の気配は別の場所にある。
今の彼女には半径四百メートル内を探知することが可能で、その範囲内ならば、全ての気配を寸分の狂いもなく捉えることができる。
今墓地に来ているのは人間……それもかなり若い者だ。
このような時間に墓地に来る人間などそう居ない。
碧は一人静かに一鬼の死を改めて噛みしめる為にここに居るのであって、それ以外の目的はなかった。
だが、この気配は果たしてそうであろうか?彼女と同じように、一人静かに誰かの死を噛みしめる為に来たのであろうか?
それとも……何か後ろめたいことを為しに来たのか。
所詮、人間一人が何をしようが、彼女には関係のないことだが。
「……あら?」
しかし、碧はその誰かの正体に気付いて再び眉を顰めた。
若干色が抜けた黒の髪をおさげにした、垢抜けない少女が恐怖を浮かべながらも、墓地に入ってきたのだ。
彼女はその少女の名前を知っている。一鬼に宿ってから一年の間にその存在を知った。
何せ、その少女は一鬼のことを苦手としていたという少女なのだから。美空の友人なのだから。
少女の名前は荒木奈央……美空の親友であり、一鬼を恐れた純粋な人間だ。
何故ここに居るのかは碧には理解できないが、墓参りか、それ以外の何か……それくらいしか可能性などあるまい。
だからこそ、碧はそのまま静かに去ろうと思ったのだが、不意に少女は彼女の方を見た。
そのまま驚愕に目を見開く少女だったが、驚いているのは碧も同じだ。
少女が碧の姿を捉えたのは、気配に気付いたが故ではない。
恐らくは碧が居る方向に少女が目指す場所……特定の誰かが眠る墓石があるのだろう。
だが、今確かに少女はぴったりと彼女の居る場所を見た。視線が一度も過ることなく、そのまま彼女の居る場所で止まったのだ。
他の場所を見ようとする途中で彼女に気付いたのならば、一度視線は外れる。
それを考慮すれば、目的地に彼女が居たと考える方が自然だろう。
だが、今彼女が居る場所にある墓石は……神谷家のものだ。
そこにいったい何の用があると言うのだろうか?
「……はぁ」
碧は一つ溜息をつくと、この場所を後にするのを決定した。
荒木奈央がここで何をしようとも、彼女には関係のないことだ。無意味なことだ。
例え神谷家の墓に何かよからぬことをしようとしているのだとしても、関係ない。
一鬼が眠るのはここではなく、彼女を超越させた場所なのだから。鬼の里があった場所なのだから。
そこを穢されない限りは、そこで何が起きようと知ったことではなかった。
墓を荒らされようが、悪戯をされようが、一鬼の死は穢れない。
「あっ、待ってください!!」
「……何かしら?」
しかし、何故か声をかけられたので仕方なく碧は対応することにした。
彼女からすれば話すことなどない相手だが、荒木奈央の方はそうではないようだ。
碧が去ろうとすると慌てて駆け出してきた垢抜けない少女に、彼女は内心溜息をつく。
彼女は荒木奈央のことを知っているが、荒木奈央は彼女のことを知らない筈だ。
美空が話に出している可能性はあるが、少なくとも面と向かって会ったことはまだ一度もない。
だからこそ、碧は何故声をかけられたのかが理解できない。
親友の家の墓石の前に怪しい女性が居たからなのかもしれないが、その不審な女性に話しかけられる程の優希は荒木奈央には無い筈だ。
美空よりもずっと臆病であることが容易に分かるこの少女に、そのような度胸はない。
碧はその人柄を深く知っている訳ではないが、一目で理解できる。
超越者となった時から、彼女はそういうものを何となく分かるようになったのだ。
「あの……今、神谷さんの家の墓石の前に居ましたよね?」
「それで?」
「もしかして、美空が話していた……その……美空のお兄さんの恋人さんですか?」
「……否定はしないわ。でも、何故私を呼び止めたの? 貴方には縁の無い人間でしょう?」
「その……美空のお兄さんのことでお話が」
「?……一鬼のことで? 構わないけれど、重い話になるわよ?」
碧は荒木奈央の言葉に驚いた。
荒木奈央が一鬼のことで話を求めて来るなど、あり得ないからだ。
生前の一鬼を恐れ、悉く避けていた少女が、何故彼の死後その話をしようとするのかが、彼女には理解できない。
聞きたければ、美空に聞けばよいものを、何故彼女聞くのかが理解できないのだ。
美空は一鬼の話題に敏感ではあるが、それだけで壊れる程柔ではない。
美空の周りの者は美空を豆腐メンタルだと称しているが、実際はそうではなかった。
確かに生まれ持っての弱さを抱えてはいただろうが、それは飽くまで揺れやすいだけだ。
ただの人間である美空が紫鬼と出会った時に発狂しなかったのは、ある意味奇跡だった
紫鬼程の怨念を抱える者ならば、いくらあの時の一億分の一しか力が仕えない状態であったとしても、その気になればあの町全てを狂気で崩壊させられたのだ。
そんな恐怖に彼女は耐えた……一鬼という光があったとはいえ、普通の人間では耐えられない怨念に。
だから、美空はある意味とてつもなく強いのだ。
一鬼や碧と比べればゴミ同然だが、それでも人間の中では強い部類に入る。
毎回大きく揺れ、壊れかけはするものの、決して壊れはしない。一鬼さえ居れば、何度だって蘇るだろう。
その光を失った今、確かに美空は滅びの直前にある。しかし、壊れはしない。
それはある意味壊れてしまうよりも残酷なことだが、それが美空の辿り得る道だ。
「はい。その……美空のお兄さんは、どんなおひとだったんですか? 美空には中々聞けなくて」
「一鬼は……とても残酷な男だったわ」
「残酷……ですか?」
「ええ。一年前の今日、一鬼は死んだわ。私に生き残れと言って。私に美空達を守れと言って。本当は私もあそこで死にたかった。共に滅びたかった。でも……できなかった」
「あ、あの……」
「重いと言ったでしょう?」
おろおろする荒木奈央に苦笑しながらも、碧は己の語っていることの重さを再確認する。
いきなり死んだだの何だのの話に持っていくのは良くないことだが、そこにこそ一鬼の本質があるのだ。
彼は結局己が良ければそれで良い人種だという証拠がそこにはあるのだから。
碧がどんなに苦しくとも、彼は己の遺志を継がせようとした。それを継ぐか否かを彼女に選ばせた。
彼がただ一言呪いをかければそれでよかったというのに、敢えて彼女に選択させた。
それがどんなに残酷なことかは、実際に告げられた碧が誰よりも理解している。
死者の遺言がどんなに重いものかを知りながらも、一鬼は敢えて彼女に選ばせたのだ。
彼に縋るしかできない屑の碧に、選ばせたのだ。覚悟させたのだ。
最後の最後で彼は彼女に覚悟を強いた。覚悟せねばならない状況を利用した。
だから、碧は一鬼を残酷な男だと評する。その妄執の如き絶対的な信念を、歪さだと語る。
それでも……いや、だからこそ愛しているのだ。
一鬼の……超越者達の意思の強さは異常だ。信念の強さはもはや妄執だ。
だからこそ、彼らは一度抱えた者を見捨てない。己の罪を拒絶しない。断罪を恐れない。
どこまでも強く、狂った者達の長である一鬼だからこそ……闇の強さを操作し得る光を持っている彼だからこそ、彼女は依存できた。
始めて出会った時、まだ生まれてもいなかった彼は彼女を受け入れ、癒してくれた。
例えそれが、彼女が白雪の姉であったからだとしても、確かに彼女は受け入れられたのだ。
狂っているからこそ、彼は彼女を受け入れることができた。
「その……私が聞きたいのは、美空のお兄さんがどんなものが好きで、どんな風に笑ったのか……そういう話なんです」
「……そう。本質を見るのは嫌な訳ね。良いわ。一鬼は……いつも仏頂面だった。時々、とても綺麗な笑顔で笑ってくれた。美空や柿坂愛梨、佐藤羽月、高橋一矢……一年前にこの町で死んだ者達と交流している時の彼は本当に嬉しそうだった」
「……でも、その方々は―――」
「ええ、皆死んだわ。私は皆のことを知っている。一鬼も知っている。一年前の今日、初めて一鬼は涙を流したわ。咽びすらせず、ただ静かに涙を……ね」
「あのひとが……泣いた? 信じられません。だって、あのひとは―――鬼みたいだったんですよ?」
碧の言葉に驚いた表情のまま、荒木奈央は驚くべき言葉を紡いだ。
その言葉は確かに的を射ているが、少なくともただ避け続けた少女が紡ぐべき言葉ではない。
いや、ある意味それを語る正当な権利を持っているのかもしれないが、それでも碧には理解し難かった。
鬼を恐れることは不自然なことではないし、寧ろただの人間でしかない少女にとっては当然のことだろう。
しかし、ならば何故今荒木奈央は碧に一鬼の過去を尋ねている?
何故、恐れている鬼のことを態々知ろうとする?何故、今更になって求める?
荒木奈央の行動は矛盾している。恐ろしい存在を理解しようとするのは、それから身を守る時か、滅ぼそうとする時だけだ。
ただの知的好奇心で近づけば、いくら命があっても足りないのは容易に分かるであろうに、彼女の前に居る少女は一鬼の情報を求めている。
何かがおかしい……しかし、その何かを彼女は理解できなかった。
「それで、その鬼のような一鬼のことを、何故貴方は今更知ろうと思ったの? 死後一年もたっている、死者のことを。はっきり言って、今更過ぎるわ」
「あぅ……もしかして……怒ってます?」
「ええ。一鬼の死を噛みしめている時にやってきて、しかも一鬼のことを今更訪ねてきたなんて……理解し難いもの」
「すいません。その……怒らせるつもりはなかったんです。私、美空のお兄さんのことを全然知らなかったな、って思って……それなのに、たた怖くて避けてて。あの……」
「はぁ……そこまで狼狽えられると怒る気も失せるわ。要は、親友の兄のことを避け続けていたけれど、良く知らなかったから知ろうと思ったという訳ね?」
碧の言葉にこくこくと頷く荒木奈央の仕草は随分と可愛らしいものだが、同時に垢抜けない。
それを積極的にはしようとしなかっただけの美空とは違い、本当に地で垢抜けないタイプなのだろう。
その反応の仕方に思わず苦笑しながらも、彼女は少女の好奇心を危険だと断じた。
既に幾分か話してはしまったが、元来鬼である一鬼のことを他の人間に広く知らせるのは良いことではない。
この世界に残された妖は碧だけではないかもしれないからだ。
七人の超越者の内、既にブルー・シャーマンも紫鬼も死んだ……その筈だ。
しかし、残る五名の内碧を除いた四名の姿は何処にもない。
もしも死んだのだとすれば、一年前に彼女が見たあの超越者達はいったい何なのだ?
表情は変えず、静かに彼女に殺気を飛ばし続けたカナリーは確かに二百年前出会った時と同じだった。
彼女達が死ぬには、超越者同士で殺し合うくらいの出来事がなければあり得ないのだ。
しかし、現実に彼女の感覚に彼女達は引っ掛からない。
それが彼女には酷く不気味で、紫鬼が言い残した言葉も相まってその所在の不明さが逆に恐怖を煽る。
生存が分ればそれで良いが、居るか否かがはっきりしない今の状態が最も怖い。
居るならば覚悟できるが、それが判明しない限りは、その覚悟すらできないのだ。
そんな状態で、荒木奈央が一鬼に近づくのは非常に危うい。
人間などゴミでしかない妖達は、この少女を殺すかもしれない……主に纏わりつく虫けらを潰すという名目で。
それが超越者だ。それが妖だ。
「その……美空のお兄さんと初めて会った時、一目で分かったんです。あのひとは……私達なんかと同じ世界の存在じゃないって。私達のことなんか、虫けら程度にしか感じていないって」
「私もそれは否定しないわ。それで?」
「それで……私、とても怖くなったんです。まるでゾウを前にしたアリみたいに、自分がちっぽけな存在だって思っちゃうから、逃げたんです。あのひとは……本当に怖くて」
「そうね。それが普通の人間の反応よ。貴方のその反応の仕方は何も間違ってはいない。私はそれを否定するつもりは無いわ。所詮そんなものよ……大抵の人間には、一鬼は強過ぎるから」
そうだ。一鬼は普通の人間にとっては強過ぎる。
己の背負うべきもの全てを背負おうとするその精神は、狂人のそれと大差ない。
何もかもを受け止めようとするその覚悟は余りにも恐ろしいもので、しかし誰かを救い得る。
彼は一年前、元来排除すべき碧を受け入れ、その心を救った。愛を信じさせた。
佐藤羽月に最後まで父の背中を見せ続けた。高橋一矢にとっての憧れであり続けた。
柿坂愛梨にとっての救いになり得た。神谷美空にとっての光であり続けようとした。
彼の強さが救った者も、確かに居るのだ。
「そう……ですね。貴方は……どうして、あのひとと付き合おうと?」
「その強さ故よ。私と対等処か、それ以上に一鬼は強かった。私を受け入れるだけの度量があった」
「えっ?……でも、それって……その……」
「ええ、私が一鬼に大きく依存していたのは否めないわ。正直な処、一鬼が私を必要としていた面はそうないの。結局、ただ私は強請ってばかりだった。最後まで、ね」
「なら……どうして、美空のお兄さんは……その……貴方と付き合おうと?」
「……覚悟していたからよ。私と一鬼は過去に色々あってね……そのお蔭で私は彼の傍に居られた。受け入れられた。そうでなければ、私なんて見向きもされなかったわよ」
そう、碧は飽くまで白雪の姉という立場だったからこそ一鬼と触れ合う機会を得ることができた。
紫鬼が妖狐の中に感じた超越者の卵の存在は彼女ではなく、妹だったのだ。
一鬼はそんな彼女だからこそ触れることを許し、受け入れた。救おうとした。
まだ赤子だった彼は、それがいかに愚かな事かも知らずに、彼女を受け入れ、守ってしまった。
その結果が二百年前の妖狐、鬼の一族の滅亡だ。紫鬼の死だ。白雪の崩壊だ。
それを齎す要因となったのは偏に妖狐……それも碧ではあるものの、一鬼は彼女にそうさせる理由となった。
だからこそ、彼は彼女を受け入れた。この世界でもう一度やり直したいと思っていた彼女を。
だから、彼は白雪を拒絶した。この世界を滅茶苦茶にして、彼と二人だけで生きようとした彼女の妹を。
碧も分かっている……彼女も白雪も一鬼に寄生するしか能がない屑だということは。
かつてブルー・シャーマンが言った言葉は至極的を射たものであり、彼女達姉妹にはそれしかできない。
いや、彼女達だけではなく、妖狐そのものが光に依存しようとしていた。そこから愛を得ようとしていた。
結局は空っぽでしかない彼女達に、光は器を与え、満たしてくれる。
だからこそ妖狐は不可侵の誓いを破り、一鬼を鬼から奪った。そして、紫鬼に滅ぼされた。
全てが自業自得なのだ……二百年前も、一年前も。
彼女達の罪が一鬼を殺した―――それは変えようのない事実だった。
「そう……なんですか。何と言えば良いか……」
「無理に肯定しようとする必要はないわ。私が一番知っているの……一鬼を死なせたのは私の弱さだということを」
「美空のお兄さんは……その……何でお亡くなりに? 亡骸も見つかっていないと聞いたので」
「……意外と強かね。一鬼の死因は―――っ!?」
意外にも図太い一面を垣間見せた荒木奈央に苦笑して、その問いに答えようとした碧であったが、不意に心臓を刺激した何かにそれを止めた。
彼女のその行動に首を傾げる少女を無視して、彼女はその何かを感じさせる方向を向く。
その方角には、かつて彼女が一鬼を失った場所がある。彼女が超越した場所がある。全てが始まり、終わった場所がある。
しかし、その墓場に今何かが現れようとしていた。世界を揺るがす程の何かが……彼女を呼んでいた。
碧はこの気配を知っている。忘れられる筈がない。忘れて良い筈がない。
彼女はずっとこの気配の持ち主を求めてきた。この気配の持ち主だけを望んできた。
この気配の持ち主こそが彼女を今ここに居させている。彼女を生かしている。彼女を縛り付けている。
心臓にじわりと滲みこんでいく熱が、彼女の時間を動かしていく。
一年前に止まってしまった彼女の時計の針が、少しずつ動き始める。
「ごめんなさい。急用ができたわ。話はまた今度にしましょう」
「ちょ、ちょっと!? またいつかって、いつですか!?」
「美空の家に行くと良いわ。そこで待っているから!」
碧はそのまま喋りながら駆け出すと、墓地を後にする。
その際には人間の限界を超えない程度の速度で抜けていくことも忘れない。
本当はもっと早く向かいたい。もっと速く走りたい。だが、それができるのは人目が無い時だ。
彼女が暴れ過ぎればその影響が美空達に及ぶ可能性も否定できない現状、彼女は中々暴れられない。
本当は、美空の傍に居てやらねばならない。
碧は、美空達に危険が及ばないように耐え続けねばならなかった。
しかし、この気配を前にしては無理だ。この気配を感じ取ってしまった彼女には不可能だ。
今はただ前に進むしかない。ただ求めるしかない。ただ手を伸ばすしかない。
一年前消えた筈の光が彼女を呼んでいる。彼女を待っている。
「……一鬼」
愛する男の名前を呼びながら、碧は空を駆けていった。
きっと彼女が目指す先に光が待つと信じて。
午後八時頃、美空は自室で偏頭痛にうなされていた。
己の中で燃え盛る業火は、今日に限って彼女をいつにも増して飢えさせる。渇かせる。
彼女は己を照らしてくれる光が欲しかった。渇きを癒してくれる雨が欲しかった。
今も彼女の心を焼き尽くして砂漠に変えている業火ではなく、優しい光が欲しい。砂漠に水を与えてくれる雨が欲しい。
その双方を与えてくれる男は一年前に死んだ。超越者が殺した。碧が死なせた。
今まで神谷美空にとって壁であり続け、しかし同時に希望でもあり続けた兄はもう居ない。
確かに彼女は一鬼の能力に嫉妬していた。その強さを恐れていた。
しかし、同時にそんな兄に憧れてもいた。依存してもいた。求めてもいた。
複雑な思いが絡み合ってはいるものの、彼は彼女にとって間違いなく必要な存在だったのだ。
好きだと言うこともできなかった。想い一つ伝えられずに失ってしまった。
その後悔を彼女は最後まで抱き続けることになるだろう。
「兄さん……」
一年前の死んだ兄のことばかり考えても悲しいだけなのは間違いない。
だが、それでも美空はその想いを抱き続ける。伝えるのが遅過ぎた想いを、ずっと胸に抱える。
愛梨や碧ならば、そうしただろう。一鬼が受け入れた彼女達ならば、そうした筈だ。
一鬼が純粋に惹かれた愛梨や、一鬼が全てを知ってでも受け入れた碧ならば、そうしたに違いない。
強過ぎる想いは歪みだすものだが、それでも真直ぐに思い続ける。
それで良いのだ。狂ってしまえば良いのだ。狂ってしまわねばならないのだ。
そうでなければ、狂気の世界に存在する彼女達と同じ程に一鬼を思うことができない。
狂気が無ければ、強過ぎる鬼と向き合えない。想いを伝えきれない。
碧は美空に言った……超越者は皆狂っているのだと。狂おしい程に光を思い、守るのだと。
彼女もその領域に辿り着きたかった。光と触れ合うことを許された世界に行きたかった。
その領域に辿り着きさえすれば、美空はきっともっと強くあれる。
所詮一鬼に寄生するしか能がない屑には、超越などできないかもしれない。その権利が無いかもしれない。
だが、碧は確かに超越した。白雪は確かにその権利を与えられていた。
同じ屑である二人ができて、彼女だけができないのは不公平だ。同じ穴の狢でしかない彼女達にある、その差は何だ?
種族の差……それこそが、彼女の差だ。彼女達の不平等さだ。
美空はどんなに望んでも妖にはなれない。一鬼達の居る世界には行けない。
「っ!……う……あ……」
不意に偏頭痛が悪化し、その苦痛が倍増する。
その瞬間、かつて白雪を前にして経験した不気味な感覚が彼女を襲う。
滑らかなテクスチャーが彼女の脳裏に浮かび、言いようのない興奮が生まれる。
まるで甘い蜜を啜っているかのような甘い錯覚に陥りながら、彼女は平衡感覚を失った。
脳裏に浮かび上がる様々な光景を彼女は知らない。経験した筈のない記憶が、彼女に流れ込んでいく。
今まで彼女の中で燃え盛っていた業火は更に強く燃え上がり始め、益々彼女の世界は砂漠化を進める。
流れ込んでくる記憶の中に美空は碧の姿を見た。ブルー・シャーマンや紫鬼の姿を、そして……一鬼の姿もそこにはある。
何が起きているのかがまるで理解できず、ただ彼女は偏頭痛に苦しみ続け、もがく。
流れ込んでくる大量の情報が彼女の精神を益々砂漠に変えていき、その精神を溶かしているのだ。
溶け始めたそこに少しずつ滲みこんでいく何かが、彼女の精神を捻じ曲げていく。より鋭い刃物に変えていく。
むず痒い感じを頭と尾骶骨の辺りに覚えながらも、美空はただ苦痛に耐え続けた。
己が消えていく感覚……いや、書き換えられていく感覚に恐怖を抱きながらも、ただ彼女は呻き、悶え苦しむ。
ただ虚無に向かっていくことだけがはっきりと理解できてしまい、彼女は死の恐怖を抱いた。
だが、そこでふと一つの希望が生まれる。一鬼の場所へ行けるという希望が、彼女にその死を受け入れさせる。
ここで死ねば、一鬼と再び会うことができる……そう彼女は思ったのだ。
『それで良いのよ……その想いが、一鬼に繋がるわ』
「う……な……に……?」
『さぁ、貴方の役目を果たしなさい……貴方の望みを果たしなさい。光は……まだ消えていないわ』
「あ……あ……にい……さん……」
鈴のなるような声が頭に響き、不意に懐かしい感覚が流れ込んだかと思うと、美空は意識を失った。
最後に感じた懐かしい感覚が、兄が居た時のものであると理解しながら。




