3
「よしっ」
アイナは嬉しそうに小さく拳を握ると、開いていた帳簿をぱたんと閉じた。
机の上を手早く片づけ、空いていた窓際の席へ回り込む。
「じゃ、私も混ざるね」
レインは小さく息を吐いた。
最初からそのつもりだっただろう、と思いながら、セレスの向かいの席へ腰を下ろす。
窓の外では、ダンカンが薪を割る乾いた音が、一定の間隔で響いていた。
昼の風に揺れた木々が、時折かすかに鳴る。
「えっと……改めて」
「レインです。昨日はどうも」
セレスはわずかにレインへ視線を向けた。
特徴的な長い耳が、ぴくりと小さく動いた気がした。
「昨日は助かったわ、いい宿ね」
そう言ってから、セレスは静かに名乗る。
「セレス。灰枝の森の者よ」
「森の名前?」
アイナが興味津々に身を乗り出した。
「ああ。どこの森の生まれかを名乗るのよ」
「アイナの場合なら、“竜鱗の森の者”でも伝わるでしょう」
アイナは「なるほど」と頷いた。
「じゃあ私も――」
「アイナです。竜鱗の森の者です!」
セレスはわずかに首を傾げた。
「……改めて名乗るものなのか?」
「ちょっとやってみたかったの」
アイナは悪びれもなく笑った。
「この町へは何をしに?」
辺境の町へ来る旅人の目的など、大抵は決まっている。
税を集めに来る役人か、竜鱗木の買い付け商人。
あるいは、山へ向かうための補給だ。
時折、“竜殺し”を夢見て山へ入る者もいる。
もっとも、戻ってきた者はいても、“竜を見た”と語った者はいないらしいが。
セレスは静かに茶を飲み、
「ドラゴンに会いに来たわ」
とだけ答えた。
外で薪を割る音だけが、しばらく食堂に響いた。
「……え?」
「ドラゴン……?」
聞き慣れない響きに、レインはわずかに眉を動かした。
山に住む“竜”を、そんなふうに呼ぶ者を初めて聞いた。
「……竜のことか?」
セレスは当たり前のように頷く。
「人はそう呼ぶわね」
それは言葉を訂正するというより、種族ごとの呼び方の違いを確認するような口調だった。
「ドラゴンから杖を貰いに行く予定よ」
とだけ答えた。
アイナが目を丸くする。
「……もらうの?」
“竜殺し”を名乗る旅人の話なら、宿屋で何度も聞いたことがある。
だが、竜から何かを貰うなど、レインには想像もつかなかった。
「ええ。貰えないかもしれないけれど」
セレスは静かに茶器を置いた。
「奪って手に入るものでもないから」
「会いに行くの」
その声音は静かだった。
だが、冗談や思いつきで話しているようには聞こえない。
レインは思わず、窓の向こうの山を思い浮かべていた。
竜が住む山までは竜鱗森を数日歩いた先にあるという。
「……会えるものなんですか」
思わずそう聞いていた。
“竜殺し”を口にして山へ入る者はいる。
だが、“会いに行く”と言った者は初めてだった。
セレスは不思議そうに小さく首を傾げた。
「言葉を話す種族でしょう?」
まるで当然のことを確認するような口調だった。
「言葉を話せる種族は七つあると言われているわ」
セレスは淡々と指を折った。
「エルフ、ドワーフ、ホビット、オーク、人間、ドラゴン――」
一度そこで区切る。
「そしてもう一つ」
「それが何と呼ばれていたかは、今では曖昧ね」
セレスは特に感情を込めずに続ける。
「ただ、七つあるということだけは知られているわ」
レインは一拍遅れて、小さく頷いた。
教本や詰所で聞いた話と、どこか噛み合わない感覚はあったが、それ以上の否定材料もない。
「……そういう扱いですね」
「話ができるなら、会いに行けるわ」
その言葉に迷いはなかった。
まるで地図の地名を確認するような、静かな確信だけがあった。
アイナがぱちぱちと瞬きをする。
「いや……そういう問題かな……?」
「人もエルフも、争う者ばかりではないでしょう」
セレスは静かに茶を飲んだ。
「ドラゴンも同じよ」
レインは少し間を置いてから、現実側に引き戻すように言った。
「ドラゴンのいる山って……普通、人は近づかない場所ですよ」
竜鱗木の伐採ですら、決められた範囲を外れれば命の保証はない。
それ以上の奥は、そもそも“戻ってきた者がいない領域”だ。
アイナも小さくうなずく。
「詰所でも、山の奥は立ち入り禁止って言われてるし……」
セレスはしばらく二人を見たあと、静かに言った。
そのとき、宿の裏口の扉が開く音がした。
「……おいおい、昼間から物騒な話してるな」
低い声とともに、ダンカンが顔を出した。
肩にはまだ木くずが残っている。
薪割りはひと段落ついたのか、戻ってきたのが分かる格好だった。
レインが振り向く。
「ダンカンさん」
ダンカンは軽く手を振りかけて――途中で止めた。
いつもの雑な動きにしては、少しだけ迷いが混じっている。
「……いや」
そう短く吐き出すと、顔つきが変わった。
「そんなことよりだ」
レインが言葉を飲み込む。
ダンカンは一歩近づき、低い声で続けた。
「詰所から連絡が来た」
「お前の親父が、倒れた」
一瞬、空気が止まった。
レインの表情が固まる。
「……今、なんて」
ダンカンは視線を逸らさずに続ける。
「意識はある。ただ、急に倒れたらしい」
「町の医者は診てる」
そこで一拍置く。
「だが念のためだ」
ダンカンはセレスへ視線を向けた。
「もし薬や病に関する知識があるなら、少し見ていただけないだろうか」
「無理にとは言わない。ただ、町の医者も診てはいるが……念のためだ」
セレスは一度だけ、レインとアイナ、ダンカンを順に見た。
そして静かに立ち上がる。
「場所へ案内して」
少し間を置いて、続ける。
「ここで話していても分からないわ」




