第3話「もう少しだけ」
高橋葵は、夢の中でいつもふくろうに会っていた。
白くて、大きくて、何も言わないふくろう。ただそこにいる。じっとこちらを見ている。羽根が少しだけ開いてまた閉じる。
目が覚めると、6畳の部屋だった。カーテンの隙間から、午後の光が入っていた。何時かわからなかった。確認する気にもなれなかった。18歳。去年の春から、ずっとここにいる。
第1志望の大学に落ちたのは、1月のことだった。正確には、受かると思っていなかった。センター試験の結果が出た時点で、もう数字は見えていた。でも受けた。一縷の望みで受けた。そして落ちた。
浪人することを決めた。予備校にも申し込んだ。でも4月が来たころから、体が動かなくなった。予備校に行く朝、玄関に立つと足が固まった。バスに乗れなかった。引き返した。それが3回続いた。
5月からほとんど外に出ていない。母親はパートの仕事がある。父親は単身赴任。家に葵1人でいる時間が長かった。ご飯だけ作ってもらって、あとはこの部屋にいた。
勉強はしていた。少しは。でも机に向かっても、頭の中がすぐにぐるぐるした。E判定という数字が、何度も浮かんだ。模試の結果が返ってきた封筒を、葵は開けていなかった。机の隅にまだ置いてある。
友人の早苗から連絡が来たのは、11月の半ばだった。
「ちょっとだけでもいいから、外出ない? 散歩くらい」
断ろうとした。でも早苗は諦めなかった。「駅前のコーヒーでいいから」と続けて、「葵のこと、心配してるんだよ」と最後に一言だけ書いた。その一言が、なぜかずきりとした。心配される側にいることを改めて認識した。それが嫌で葵は「わかった、少しだけ」と返信した。
外に出ると、思ったより空が広かった。早苗と並んで歩きながら、葵はずっと下を向いていた。でも、駅前から少し外れた路地を歩いていたとき、早苗が言った。
「なんかあっちの道、雰囲気いいね」
細い石畳の路地だった。街灯が1本。古い建物が続いている。葵は顔を上げた。橙色の暖簾が奥に見えた。白い招き猫が右手を上げていた。
「入ってみようよ」と早苗が言ったが、葵はなぜか一人で入りたかった。「一人でいい」と言ったら、早苗は少し驚いた顔をしたが「わかった、外で待ってる」と言ってくれた。
葵は暖簾をくぐった。あんこの甘い匂いがした。薪ストーブが低く燃えていて、店の中が橙色に温かかった。おばあさんがカウンターにいた。白い割烹着。静かな目。
「いらっしゃい」葵はカウンターに座った。縮こまるようにして座った。自分がひどく小さい気がした。
おばあさんは何も聞かなかった。しばらくして、盆に饅頭を4つ置いた。
「4つ」と葵は小さく言った。
「縁の数です」葵は饅頭を1つ手に取った。食べた。こしあんの上品な甘さ。後味に薄い塩気。口の中でゆっくりとほどけた。何かが変わるわけじゃなかった。でも、どこかが少しだけ緩んだ気がした。
「受験に、失敗したんです」声が思ったより小さかった。
「浪人してて。でもほとんど勉強できてなくて。模試もE判定で」
「そうですか」
「このまま受けても、また落ちると思います。でも何もできなくて。毎日何もしてなくて」おばあさんは黙っていた。
葵は続けた。「夢で、ふくろうが出てくるんです。毎回。何も言わなくて、ただいるだけで」
「ふくろうはね」おばあさんがゆっくり言った。「暗い中でも、よく見えるんですよ」
葵はその言葉を、すぐには理解しなかった。でもしばらくしてから、胸に落ちてくるものがあった。暗い中でも見える。今自分がいる場所は暗い。でも暗い場所にいるということは、まだそこに自分がいるということでもある。いなくなったわけじゃない。目がまだ開いている。
「少しだけ、やってみます」声に出したら、涙が来た。こらえようとしたが、こらえきれなかった。おばあさんは何も言わずに、白いハンカチをそっとカウンターに置いた。葵は受け取って、目を押さえた。ストーブの薪が小さく鳴った。
店を出ると、早苗が路地の入口で待っていた。
「大丈夫?」
「うん」と葵は言った。目が少し赤かった。「大丈夫」
帰り道、葵は早苗にあの店のことを話そうとした。でも、なんと言っていいか分からなかった。「おばあさんがいて、饅頭が美味しかった」それだけ言ったら、早苗は「なにそれ、かわいい」と笑った。それで十分だった。
その夜、葵は机の隅にある封筒を開けた E判定だった。わかっていたことだった。でも今夜は、数字を見ながら泣かなかった。ただ、そこに数字がある、ということを、静かに見ていた。
参考書を1冊、引き出しから出した。1番最初のページを開いた。今日は1ページだけ、と思った。1ページ読んだ。終わったら、2ページ目が気になって、少しだけ続けた。気づいたら1時間が経っていた。たったそれだけだった。でも葵にとっては、何ヶ月ぶりかの1時間だった。
冬が来て、春が来た。
葵は毎日机に向かった。予備校にもほとんど休まず行った。新しく友人ができた。一緒に自習室で勉強した。模試の判定が、少しずつ上がっていった。
受験の当日、葵は早起きして温かいお茶を一杯飲んだ。あんこの甘さを、なんとなく思い出した。
合格通知が来た日、葵は一人で泣いた。派手な泣き方ではなかった。静かに、しずつ、涙がこぼれた。
春になって、葵はあの路地をもう一度探しに行った。石畳の路地はあった。突き当たりまで歩いた。暖簾はあった。橙色の暖簾が、春の風にゆれていた。でも、ふくろう饅頭の看板はなかった。
暖簾をくぐると、おばあさんがいた。
「いらっしゃい」
「また来ました」と葵は言った。「合格したので」
「おめでとう」おばあさんは目を細めた。それだけだった。カウンターに置かれたのは、どら焼きだった。
「今日は饅頭じゃないんですか」
「ええ」とおばあさんは言った。「今日は、どら焼きです」それ以上の説明はなかった。葵はどら焼きを食べた。皮がふっくらして、あんこが甘くて、とても美味しかった。今日は涙は来なかった。ただ温かかった。
春の光が、店の小窓から細く差し込んでいた。
—続く—




