第2話「会いたかった」
田中浩一は、同じ道に3回も戻っていた。
自分でも気づいていた。気づいていて、それでも足が向いた。駅から自宅までの道のり、商店街を抜けて公園の横を通るルート。妻が生きていたころ、2人でよく歩いた道だ。
妻の律子が逝って、2年が経つ。
58歳。定年まであと2年。1人で暮らしている。娘の奈々は埼玉に嫁いで、孫が1人いる。年賀状には毎年、孫の写真が入っている。それだけだった。
疎遠になったのは、浩一のせいだと思っている。いや、思っている、というより知っている。律子が入院していたころ、仕事を理由にした。看病は娘任せにした。奈々がどれほど1人で抱えていたか、葬儀のあとに初めて知った。
「お父さんがいてくれたら、もう少し楽だったのに」
奈々はそれだけ言った。責めるような口調ではなかった。それがかえって、浩一の胸に深く刺さった。
電話しようと思ったことは、何度もある。でもかけなかった。何を話せばいいのか。謝る言葉も、取り繕う話題も、どれも薄っぺらく思えて、結局スマートフォンを置いた。
前兆は、池の水面に映っていた。公園の池を通りかかったとき、水面がふいに凪いで鏡のようになった。街灯の光と枯れ木の枝と、夜空の欠けた月がそこに映っていた。その中に羽根を広げた影があった。大きな丸い頭の鳥の影。
一瞬だった。風が吹いて水面が揺れて、影は消えた。見間違いかもしれなかった。枝の形がそう見えただけかもしれなかった。 浩一は池のほとりに立ったまま、しばらく動けなかった。 律子は、ふくろうが好きだった。
棚に小さな陶器のふくろうを飾っていた。旅先で買った木彫りのふくろうも。「ふくろうはね、福来郎って書くのよ」と教えてくれたのは、結婚してすぐのころだった。「福を運んでくるんだって」今もふくろうの置物たちは棚に並んでいる。浩一は一度も動かしていない。
気づいたら路地に入っていた。公園から駅の反対側、古い住宅街の細い道。何度も通ったことのある道のはずだが、今夜は見覚えのない場所に出た。石畳。街灯一本。シャッターの並ぶ古い建物。
橙色の暖簾、突き当たりに見えた。白い招き猫が金色の目でこちらを見ていた。浩一は立ち止まって暖簾を見た。「ふくろう堂」という文字が墨で書かれていた。律子の声が、耳の奥で聞こえた気がした。
『福を運んでくるんだって。』
足が勝手に前に出た。店内に入ると薪ストーブの熱が体を包んだ。老いたおばあさんがカウンターの奥にいた。着物の上に白い割烹着。髪を後ろでまとめて、目だけが静かに深かった。
「いらっしゃい」
浩一はカウンターに座った。おばあさんは何も訊かなかった。しばらくして、小さな盆に饅頭を2つ、置いた。
「今夜は2つです」
浩一は饅頭を見た。ふくろうの焼印。白い皮。あんこの甘い匂いがストーブの温もりと混ざって漂っていた。1口食べた。こしあんだった。上品な、懐かしい甘さ。 浩一の目がじわりと滲んだ。律子が好きだった和菓子屋の味に、少し似ていた。
「妻が、死にました」誰かに言ったのは、久しぶりだった。
「2年前に。ガンでした」
「そうですか」
「娘ともうまくいっていません。私のせいです」
おばあさんは何も言わなかった。ただお茶を一杯、静かに置いた。
「連絡しようとしたことは、何度もあるんです。でも、何を話せばいいのか…」
「話すことがなくても」おばあさんの声は静かだった。
「会いたい、と思っているだけで十分じゃないんですか?」 浩一は、その言葉をしばらく聞いていた。
『会いたい。』
そんな当たり前のことを、自分はずっと認めていなかったのかもしれない。謝り方がわからないから。取り繕う言葉が見つからないから。そういう理由を並べて、本当に1番単純なことを見ないようにしていた。
娘に会いたかった。
ただそれだけだった。
浩一はお茶を一口飲んだ。2つ目の饅頭を、ゆっくりと食べた。
帰り道、浩一はスマートフォンを取り出した。 奈々の番号を開いた。閉じた。また開いた。 そのとき、画面に通知が来た。 奈々からだった。
「お父さん、元気? 来月、こっちに来ない? 蓮が歩けるようになったんだ」
それだけだった。浩一はしばらくその文字を見ていた。目の奥がまた、熱くなった。今度はそのままにした。返信を打った。
「元気だ。行く。楽しみにしている」
送信した。それだけだった。それだけで胸の中の何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
次の日曜日、浩一はあの路地を探した。公園から歩いて、石畳のあたりまで来た。路地はあった。でも突き当たりに暖簾はなかった。招き猫も、薪の煙も。古い壁があるだけだった。
浩一は、その場所に少しの間立っていた。
店の中に入ったとき、一瞬だけ感じたことを思い出した。おばあさんの隣の棚に、古い写真が一枚あった。モノクロで、年代がかなり古い。写っていたのは、白い割烹着を着た女性だった。
横顔が、あのおばあさんによく似ていた。気のせいだと思った。でも気のせいにしては、あまりにもよく似ていた。
浩一はそのことを、奈々には話さないだろうと思った。話す言葉がなかった。ただ、あの夜のことは、ずっと覚えていると思った。
池を通り過ぎるとき、水面を見た。今夜は月が明るかった。影はなかった。水面は静かに空を映していた。
—続く—




