第1話「もう一度だけ」
11月の夕暮れは、いつも背中から来る。
佐藤美咲はコートの襟を立て、駅から続く人の波に逆らうように歩いていた。36歳。広告代理店の第二クリエイティブ部。名刺には課長補佐とある。誰もが「順調だね」と言う。美咲自身もそう思っていた――少し前までは。
今日、3ヶ月かけて作ったキャンペーン企画が、部長の一言で返ってきた。
「悪くない。でも、もう一歩足りない」それだけだった。
怒りは来なかった。悲しみも違う。あったのは、静かな白い感覚だった。何かがするりと抜け落ちるような。自分の中心のどこかにずっとあった、細い糸が今日切れた気がした。
地下鉄の入口を通り過ぎた。気づいたのは半ブロック先だった。
『まあ、いいか。』
少し歩こうと思った。歩くことに意味はなかった。ただ電車に乗って、マンションに帰って、照明をつけて、という手順をもう今夜は踏みたくなかった。
美咲がふくろうのモチーフを初めて意識したのは、1週間前だった。同僚の机の上にあった小さな陶器のふくろう。ガラス張りのカフェの窓に貼られたふくろうのイラスト。ハンドクリームのパッケージ。帰り道に見かけた雑貨屋の軒先に吊るされた、木彫りのふくろうの風鈴。
偶然だとわかっていた。人は気になるものを見つけると、急に世界中にそれが溢れているように感じる。確証バイアスという言葉を、大学の授業で聞いた覚えがある。だから気にしなかった。気にしなかったのに今日の帰り道、見知らぬおばあさんにすれ違いざまに言われたときに少し立ち止まった。
「違う道を通ってみたら、何かいいことあるかもしれないよ」
振り返るともう人混みに消えていた。白いコートの後ろ姿だけが、遠ざかっていくのが見えた。
細い路地に入ったのは、本当に偶然だった。大通りに出るつもりで曲がったのに、いつの間にか古い商店街の裏手らしき場所にいた。街灯は一本だけで、その光が石畳をぼんやりと照らしている。左右には古い木造の建物が並んでいるが、どれもシャッターが下りている。
引き返そうとした。そのと、橙色が見えた。路地の突き当たりの、石畳が少し湾曲するあたりに橙色の暖簾が揺れていた。風はなかった。それでも暖簾はゆっくりと、まるで息をするように動いていた。
店先に白い招き猫がいた。右手を高く上げている。艶消しの白で、目だけが金色だった。その目が路地の暗がりの中でひっそりと光っていた。暖簾をくぐる前に、美咲は一度立ち止まった。看板も表札もない。ただ橙色の布と、「ふくろう堂」という墨字が滲むように書かれているだけだった。
甘い匂いがした。あんこの懐かしい甘さ。気がつくと中に入っていた。店内は小さかった。4人掛けのテーブルが2つ。カウンターが3席。棚には古い民芸品と、ふくろうの置物がいくつか並んでいた。奥の薪ストーブが低い音を立てて燃えていて、その熱が、冷えた頬に柔らかく触れた。
美咲が足を踏み入れると同時に、カウンターの奥から声がした。
「いらっしゃい」老いた声だったが、澄んでいた。店主は小柄なおばあさんだった。着物の上に白い割烹着。髪は後ろでまとめてある。年齢が読めない顔だった。70とも、90とも見えた。ただ、目だけが若かった。静かで、深くて、何かを知っているような目。
「お座りなさい」促されるままに、美咲はカウンターの椅子に座った。
「何もご注文しなくていいんですか」
「今日は、饅頭しかありませんから」
おばあさんはそう言って、小さな盆を差し出した。白地に薄墨で羽根を描いたふくろうの焼印が押された饅頭が、3つ並んでいた。
「3つ、ということは」
「縁の数です」とおばあさんは言った。それ以上の説明はなかった。
美咲は一口、饅頭を食べた。こしあんだった。上品な甘さで、後味に薄い塩気がある。舌の上でゆっくりとほどけていく。何かが起きるわけではなかった。光が差すわけでも、涙が出るわけでもない。ただ胸の中の白くて静かな場所に、小さな温度が戻ってきた気がした。それだけだった。
美咲は3つの饅頭を少しずつ食べた。おばあさんはお茶を淹れてくれただけで、何も聞かなかった。沈黙が苦しくなかった。それが少し不思議だった。しばらくして、美咲は自分から口を開いた。
「企画が返ってきたんです。今日」
「そうですか」
「3ヶ月かけたんです。一番頑張ったやつでした。でも、まだ足りないって」
「足りなかった?」
「部長はそう言いました」
おばあさんは何も言わなかった。美咲は続けた。「最近ずっと、このままでいいのかなって思ってて。仕事は順調なんです。普通に。でも何か、真ん中が空いてる感じがして」
「真ん中が、ね」
「奇妙なことを言ってますよね」
「いいえ」おばあさんは静かに言った。「ちゃんと聞こえてますよ」
美咲はまた黙った。ストーブの薪が一度だけ小さくはじけた。
『足りなかった。』
その言葉が今さら浮かんできた。怒りとして浮かんだのではなかった。問いとして、静かに浮かんだ。何が足りなかったのだろう。部長の言葉を、美咲はもう一度だけ、静かに思い返した。「悪くない。でも、もう一歩足りない」――そのときは全部否定されたように聞こえた。でも今、ここで饅頭の甘さを舌の上に感じながら、同じ言葉が違って聞こえてきた。
『悪くない。』
つまり、90点くらいはあったのかもしれない。足りない一歩が、あるということは。もう一歩、できるということでもある。
「もう一回、やってみようかな」声に出すつもりはなかったが、出ていた。おばあさんは何も言わなかった。ただ、かすかに目を細めた。目尻に刻まれた皺が、少しだけ深くなった。それが微笑みなのかもしれなかった。店を出ると、路地には夜が来ていた。
大通りに出ると、街の音が戻ってきた。信号の音、車のエンジン、誰かの笑い声。それらが今夜は、少しだけ鮮明に聞こえた気がした。美咲はスマートフォンを取り出して、企画書のフォルダを開いた。まだ返却されたままのファイルが並んでいる。削除はしなかった。ただ新たに別のフォルダを作って、「ver.2」とだけ名前をつけた。それだけだった。
地下鉄の入口を降りながら、美咲はなんとなく思った。あの饅頭、もう1つあったら。次に食べたのは誰だろう。
2週間後の再提案の会議の朝、美咲は珍しく30分早く出社した。資料を開くとき、少しだけ手が震えた。でも動いた。会議室のホワイトボードに、最初の一文字を書いたとき、指先が温かかった。あの夜の薪ストーブを思い出した。橙色の暖簾を。白い招き猫の金色の目を。
プレゼンは通った。部長が珍しく「よくなった」と言った。それだけで十分だった。
その夜、美咲はあの路地をもう一度探した。記憶を頼りに歩いて、同じ商店街の裏手まで来た。石畳のあたりまで来た。
路地はあった。でも突き当たりに、橙色の暖簾は見えなかった。白い招き猫も、薪ストーブの煙も、あんこの甘い匂いも。
ただ古い木造の壁があるだけだった。美咲はしばらくその場所に立っていた。おかしいな、と思った。でも、それほど不思議とも思わなかった。なぜかはわからない。ただあの夜が本物だったという感覚だけは、確かにあった。
帰り道に空を見上げると、月が出ていた。雲の縁に沿って、丸い光の輪が広がっていた。美咲はしばらくそれを見ていた。何かを思い出そうとするのでもなく、何かを願うのでもなく、ただそこに立って月を見ていた。
それで十分だった。
—続く—




