終話「暖簾は揺れている」
12月の、ある夕方のことだ。30代の男が、スマートフォンの地図を見ながら路地を歩いていた。地図には、その路地が載っていなかった。一つ手前の交差点に戻った。また来た。また戻った。もう一度来た。行けない。なぜか、辿り着けない。
男はため息をついて大通りに出た。スマートフォンをポケットにしまった。足が重かった。今日、上司に大事な話を切り出そうとしてできなかった。もう何年もそうだ。言いたいことが言えないまま、時間だけが過ぎていく。
男は歩いた。しばらくして、もう一度その路地の前に来ていた。また来てしまった。
今度は地図を見なかった。ただ足に任せて歩いた。石畳の感触が靴底に伝わった。街灯が1本、橙色に灯っている。古い建物が続いている。
突き当たりが見えた。男は立ち止まった。橙色の暖簾が揺れていた。風はなかった。それでも暖簾はゆっくりと、静かに動いていた。白い招き猫が右手を高く上げていた。金色の目が暗がりの中でやわらかく光っていた。
甘い匂いがした。あんこの、懐かしい甘さ。男は暖簾の前に立った。中から薪のはじける低い音がした。おばあさんの姿は見えなかった。でも、声だけが聞こえた。
「いらっしゃい」静かな澄んだ声だった。 男は一度だけ深呼吸をして、暖簾に手を伸ばした。路地の入口から見ると、男の後ろ姿が橙色の光の中に消えていくのがわかった。
暖簾が揺れた。招き猫が右手を上げていた。そのまま、夜がゆっくりと深くなっていった。
―終わり―




