31話 盲点は胸元にあり
「うん?何?」
「一緒に行く人に失礼だろ?目薬でも差して目くらい開けろ」
天十郎も優しいところがあるものだと少し感心していたが、それよりも夏梅が寝ぼけて目薬を受け取ったのである。
小さい頃、目の前で蒲が振り回したハサミの先がそれて、僕を傷つけた。それ以来、目近くにものがあるのは非常に嫌がる。目薬もひどく苦手のはずだが…。様子を見ていると、案の定、受け取った目薬をさしてはいるが、一滴も目に入らない。
本人はさしたつもりになっているようだが、無意識に目に異物を入れる事を拒否しているようで、顔じゅう目薬だらけだ、夏梅は顔に溜まっている目薬を手で吹き払っているが、払いきれない目薬が垂れて洋服まで濡れている。
「おい、蒲、夏梅に目薬は無理だぞ」と、僕が声をかけると、蒲が振り返った。それにつられて天十郎も振り返った。
「あ~あ」天十郎が夏梅の悲惨な状況に呆れ返っていると「どうしてそうなんだ」蒲がティッシュペーパーの箱を掴んだ。
それをみた天十郎が慌てて、そのティッシュペーパーの箱を蒲からもぎ取るように奪い「むかつく」と夏梅の首を抱え込み、押さえつけてティッシュペーパーで顔を拭き始めた。
「なにすんだよ」夏梅が天十郎の袖を引っ張り、取っ組み合いの喧嘩のようになった。
驚いている僕らをよそに「離せ」叫んでいる夏梅を押さえつけて、天十郎は夏梅の顔や洋服をティッシュペーパーで拭き、目薬を差した途端に「ギャー」と夏梅が声をあげ、天十郎を跳ねのけた。
【そのまま洗面所に駆け込んだ】
僕は急いで、夏梅の後を追った。夏梅は水道水で目を洗うと、またギャーと叫ぶ。「何をしたのだ」蒲の声がすると、「最強クール」と嬉しそうにクックと笑う天十郎との会話が聞こえる。
「ただでさえ、目薬が苦手なのに」僕は深くため息をついた。
【リビングに戻ると】
夏梅はすっかりへそを曲げて「もう行かない」と言い出した。蒲が優しく「キウイを買ってやるから」と食べ物で釣り始めた。「そんな奴に買わなくていい」天十郎が突っぱねている。
蒲が夏梅に優しく話しかければ、かけるほど天十郎は強く反発する。まったく騒がしい。散々、やりとりした挙句、キウイ十個で夏梅が妥協した。夏梅は結構安上がりだ。
それから、美術館に着くまでの間、車中で二人は、険悪な雰囲気の中、幼稚園児の喧嘩のように、こっちに寄るな、見るな、話しかけるなというレベルの戦いが続いた。
【美術館に着くと】
蒲は、夏梅の後ろについて、「段差」、「階段」、「右」、「左」、「赤」、「青」、「行く」、「止まれ」と、いちいち夏梅の行動に指示をしている。この間、黒川氏の美容室に行くときも、蒲がそばについて同じように指示して歩いていた。天十郎はそれが、とても気に入らないようだ。
「蒲、なにをやっている。ほっとけよ。大人なのだから一人で歩けるよ」
「放置すると怪我するから」
蒲は普通の事のように言った。その事でさらに天十郎が苛立つ。
「ぼーとして歩いている方が悪い。夏梅が自分の足元を自分で確認すればいいだけだろ?」
「だめだって、怪我すると面倒だから」
蒲は僕をちらっとみた。
「まったく、どうしてダメなのだ」
「足元が見えないからだ」夏梅がぶっきらぼうに突き放すように言うと、子供がお菓子をもらったみたいに、天十郎が、はしゃぎ始めた。
「なに?」
「足元が見えないの」
「なに?バル乳で見えないのか?」天十郎が呆れ返った。
「バル乳っていうな!」
夏梅は、帽子をかぶりサングラスをする天十郎の後ろに張り付き、歩きながら後ろから帽子やサングラスをわざと落とし、反撃に出た。サングラスを拾おうとすると、帽子を落とし、わざわざ丁寧に踏みつけて汚してニタリと笑う。よろよろと時々転びながら、いつもの夏梅とは違った行動に出ている。最初は夏梅の洋服の裾を持って、後ろから指示しよろける夏梅を助けていた蒲が、低レベルの戦いを繰り広げている二人から、いつの間にか気が付かれないようにそうっと離れている。
今まで、夏梅が嫌がっている胸の事を露骨に言葉にする人がいなかったせいか、かなり夏梅が頭に来ているようだった。戦いは駐車場から美術館の入場口まで続いた。




