6話
暗曚たる死の匂いが漂う、キューレの迷宮下層。
巨大な苔むした石柱が並ぶ広大な空間で、勇者パーティー『聖剣の誓い』の4人は息を荒らしていた。
「カルラ、バフだ! さっさと重体補正をかけろ!」
ケインが焦りを滲ませた声で叫ぶ。
「ええ、任せてちょうだい。……『狂気調律』!」
露出の多い衣裳を揺らし、カルラが不気味な紫色の魔術陣を展開した。耳障りなバイオリンの軋みのような、気味の悪い音色が空間に響き渡る。
その瞬間、ガルドの全身の筋力が爆発的に跳ね上がり、アイシャの視界が冴え渡った。
「おおッ! 力が湧いてくるぜ! ユーリのショボい魔法とは大違いだ!」
ガルドが大剣を振り回して下品に笑う。しかし、斥候のアイシャだけは、全身の毛穴が泡立つような激しい違和感に襲われていた。
(何これ……体が変よ。攻撃力は上がってるのに、何だか体が重い……ううん、重いだけじゃない。肌の感覚が麻痺してるみたいに鈍い……?)
「行くぞ! ユーリなんぞいなくても、俺たちはSSSランクになれるんだ!」
ケインの号令とともに、奥の闇から這い出てきたのは、下層の悪夢――『アビスグール』の群れだった。数十匹の腐肉を纏った巨躯が、不気味な咆哮を上げて襲いかかってくる。
「死ねやぁッ!」
ガルドが大剣を振るい、先頭のグールを一撃で真っ二つに叩き斬った。劇的な火力の上昇にケインは歓喜の声を上げる。
だが、地獄の始まりは一瞬だった。
「ガルド、左から来てるわ! 回避して――」
アイシャの悲鳴のような警告。ガルドは咄嗟に大盾を構えようとした。しかし、筋肉が不自然に引き攣り、思ったように腕が動かない。
『狂気調律』――STRとVITを2倍に跳ね上げる代償として、AGI(素早さ)とDEX(器用さ)を「0.8倍」へと削り落とす致命的な呪い。
「なッ……!? 腕が、上がら――」
ドガンッ!
アビスグールの巨大な爪が、ガルドの側胴をまともに撃ち抜いた。普段なら軽々と回避できたはずの攻撃を、完全に棒立ちのまま被弾したのだ。
「ぐはッ……!? な、なんだこの記事……っ、VITを上げてるはずなのに、痛ぇ……!?」
衝撃が体を突き抜ける。耐久力の上昇を遥かに上回る、回避不能の集中打。
「おいカルラ! 魔法で援護しろ!」
ケインが叫ぶが、カルラが放った火炎魔法はグールの皮膚を軽く焦がす程度にしかならない。彼女のINT(賢さ)では、下層の魔物の魔法耐性を打ち破ることなど不可能だった。
「きゃあああッ!?」
背後から回り込んだグールの爪が、アイシャの背中を切り裂いた。
「がはっ……!? ひ、息が……っ!」
たった一撃。普段なら掠り傷で済むはずの攻撃で、アイシャの肺が破裂した。『狂気調律』によってVITが限界まで削られた彼女の耐久力は、そこらの一般人以下まで低下していたのだ。
「ポーションだ! ポーションを使え!」
ケインが懐から回復薬を取り出し、がぶ飲みする。しかし、減り続けるHPの勢いには到底追いつかない。持ってきていた高級ポーションの束は、あっという間に空の瓶となって転がった。
「くそっ、なんでだ! なんでこんな奴らに――」
パニックに陥ったケインが足をもつれさせた瞬間、アビスグールの太い腕が彼の顔面にクリーンヒットした。
ドカァンッ!
「あがッ……!?」
吹き飛ばされたケインの体は、頑丈な石柱へと激突した。ぐしゃり、と頭部から不快な音が響き、ケインは白目を剥いて血の泡を吹きながら、ピクピクと痙攣して動かなくなった。
リーダーの呆気ない脱落。
「ケイン!?」
ガルドが叫ぶが、もう戦線は崩壊していた。
「ひ、ヒッ……嫌、死にたくない……っ!」
カルラが腰を抜かし、半狂乱になって後退りする。だが、前衛の崩壊した戦場で、無防備なバッファーが生き残れる道理などない。
背後から忍び寄ったアビスグールが、カルラの細い首を両手で掴み取った。
「嫌ぁぁあッ――」グチュッ
鈍い音とともに、カルラの首が不自然な方向へと折れ曲がる。絶叫はあっけなく途絶え、彼女の体はゴミのように床へ捨てられた。
「カルラ! くそっ、くそがあぁぁッ!」
ガルドは血反吐を吐きながら、血の海に倒れるアイシャをかばうように前に出た。
「アイシャ、立て! 逃げるぞ!」
「無理……無理よガルド……足が動かない……っ」
正面から、5匹のアビスグールが同時に飛びかかってくる。ガルドは長年ともに戦場を潜り抜けてきた愛用の大盾を両手で構え、歯を食いしばった。
(これさえあれば……この盾さえ持ちこたえれば……!)
ドカァン! ガギィン! ボコォッ!
無慈悲な質量攻撃が、大盾へと叩きつけられる。普段ならユーリの1.5倍バフにより、完璧に衝撃を分散できていたはずだった。しかし、今のガルドの体はバランスを崩し、不自然な体勢で衝撃をまともに受けていた。
限界を超えた負荷。
メリメリ……メリメリメリ……。
「やめろ……やめてくれぇぇッ!」
ガルドの悲痛な叫びも虚しく。
バリーンッ!
静寂の迷宮に、甲高い破壊音が響き渡った。
長年の相棒であった大盾が、蜘蛛の巣状に亀裂を深め、木っ端微塵に弾け飛んだ。
「あ……あぁ……」
手元に残ったのは、無残に壊れた持ち手だけ。
心の支えを失い、ガルドの精神が完全に砕け散った。
次の瞬間、爪の嵐がガルドの巨躯を飲み込んだ。肉が削ぎ落とされ、骨が砕けるグチャグチャという不快な音が部屋中に響き渡る。ガルドは絶叫を上げることすら許されず、肉の塊となって床に転がった。
ぽつん、と一人生き残ったアイシャは、目の前の惨劇をただ茫然と見つめていた。
血の匂い。臓物の匂い。
足元に転がる、首の折れたカルラ。肉塊となったガルド。ピクリとも動かないケイン。
(ああ……そうか)
アイシャの脳裏に、追放された時のユーリの冷ややかな瞳が蘇った。
『無条件の1.5倍』。
派手なエフェクトもなければ、激しい感覚の変化もない。だが、あれは狂いなく自分たちの生命線を極限まで底上げし、完璧なバランスで守ってくれていた『神の祝福』だったのだ。
それを捨て、目先の派手さに騙され、偽物の毒を喜んで喰らい、自分たちは自ら地獄へ飛び込んだ。
「あ……あは……あはははははッ!」
アイシャの口から、壊れたおもちゃのような狂気の笑いが弾けた。
「アハハハハハ! バカみたい! 私たち、本当にバカじゃない……ッ!!」
ペタリと血の海に座り込んだまま、アイシャは抵抗するのをやめた。涙と血で汚れた顔で、天井を仰ぎ見て笑い続ける。
すぐ目の前まで、数匹のアビスグールが鼻を鳴らしながら迫っていた。
腐臭の漂う巨大な爪が、アイシャの柔らかい腹部へと深く突き立てられる。
「あはっ……ユーリ……ごめ――」
ボコリ、と肉を抉り出す音が、彼女の最後の言葉をかき消した。
暗く冷たい迷宮の深層に、生身の肉をガツガツと貪り、骨を噛み砕くグチャグチャという惨劇の音が、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。




