2話
怪しげな重い扉を押し開けると、ユーリの鼻腔をくすぐったのはカビくさい地下室の匂いではなく、上品な白檀の香りの煙だった。
扉の向こうに広がっていたのは、磨き上げられた大理石の床と、埃ひとつない調度品が並ぶ貴族の応接室のような空間だった。
「あら、いらっしゃいませ。夜分遅くにお客様とは珍しいですね」
奥から現れたのは、優雅なシルクのドレスを纏ったふくよかな女性だった。やんわりとした温和な笑みを浮かべているが、その瞳の奥には一筋縄ではいかない鋭い光が宿っている。この店を取り仕切る奴隷商のオーナーだ。
「……表の怪しげな雰囲気とはずいぶん違うんだな」
「ふふ、冷やかしや質の悪い冒険者を振るい落とすための工夫ですよ。当店の『商品』はどれも極上品ばかりですから、店内も清潔に保ちませんと」
オーナーは優雅に手招きすると、ユーリをソファへと促した。ユーリは腰を下ろさず、そのまま単刀直入に切り出す。
「前置きは抜きにしよう。前衛を張れる、腕の立つ戦闘用奴隷が欲しい。手持ちは金貨7枚と銀貨2枚だ」
手切れ金の金貨7枚に、自分の全財産である銀貨2枚を加えた、まさに正真正銘の全財産。
オーナーの眉がぴくりと動いた。金貨7枚といえば、小さな家が建つほどの大金だ。相手が目の前の地味な青年であっても、上客であることに変わりはない。
「かしこまりました。……では、奥の『特別室』へご案内いたしましょう」
オーナーが壁の隠し扉に鍵を差し込むと、 重々しい音を立てて地下へ続く階段が現れた。
地下牢のエリアもまた、驚くほど衛生的に管理されていた。鉄格子の向こうには、毛並みの揃った猫耳の獣人少女や、気品を残したエルフの青年などが座っている。
ユーリは歩きながら、さりげなく【鑑定】を発動させていった。
(……レベル15の獣人剣士。悪くはないが、俺のバフを乗せても限界が見えている。エルフの魔法使いはINTが高いが、俺が欲しいのは前衛だ)
納得のいく人材が見つからないまま最奥へと進むと、そこには他とは一線を画す重厚な鉄格子で囲まれた特殊な牢があった。
その中央に、ひとりの少女が膝を抱えて座っていた。
月光のように美しい銀髪に、雪のように白い肌。こちらをチラリと見向くこともせず、ただ退屈そうに壁を眺めている。他の奴隷たちのような怯えも、媚びを売るような様子も一切ない。
ユーリの視線が彼女に注がれた瞬間、【鑑定】の透過ウィンドウが脳内に展開された。
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## 【名前】無し
【レベル】40
【種族】ヴァンパイア
【HP】∞/∞ 【VIT】100 【STR】120
【DEX】130 【INT】110 【MND】90 【AGI】150
【スキル】血液操作、幻惑魔法、暴走
(――なッ!?)
ユーリは息を飲んだ。
種族、ヴァンパイア。伝説に謳われる高位の魔族だ。HPが『∞(無限)』というあり得ない表示。素のステータスだけで、追放された『聖剣の誓い』の勇者ケインを遥かに凌駕している。
さらにスキルの『暴走』。3分間STRとAGIが1.3倍になり、その後に反動が来るデメリット持ちだが――もともとのステータスが狂っているため、ユーリの1.5倍バフと合わせれば恐ろしい破壊力を叩き出す。
「お目が高いですね」
オーナーが隣で微笑んだ。
「そちらは北の遺跡で捕縛された身元不明の少女です。言葉は通じますが、とにかく人に心を開かず扱いづらいため、破格の『金貨7枚と銀貨2枚』でお譲りしておりますのよ」
ユーリの手持ちと、寸分違わずピッタリの金額。まるで運命か、あるいはこのオーナーの目ざとさゆえか。
「……買いだ。その子を貰う」
ユーリは躊躇なく巾着袋を叩きつけた。契約書へのサインと魔法的な奴隷契約の引き継ぎはあっという間に終わり、ユーリは全財産と引き換えに、銀髪の少女の手綱を手に入れたのだった。
◇
奴隷商を出た後、ポケットに残った数枚の銅貨をはたいて、ユーリは平民街の寂れた宿屋の部屋を1泊分だけ確保した。
文字通り、完全な一文無しだ。
ギシギシと鳴るベッドの上に少女を座らせ、ユーリは丸椅子を引き寄せて向かい合った。
少女は相変わらず、冷ややかな赤色の瞳でユーリを睨みつけている。
「……で? 部屋に二人きりになって、これから私をどうするつもり?」
少女は投げやりな調子で、胸元の衣服を自ら少し肌が見えるように崩してみせた。
「どうせそういう体目的なんでしょう。抵抗するのも面倒くさいわ。好きにしなさいな」
「待て待て待て! 誤解だ、衣服を元に戻せ!」
ユーリは慌てて両手を振った。
「俺はそんなつもりで買ったんじゃない! そもそも俺にはそんな趣味はない!」
「はあ? 嘘おっしゃい。男が女の奴隷を買う理由なんて、それ以外に何があるっていうのよ」
少女は底意地の悪い笑みを浮かべ、あからさまに軽蔑の視線を向けてくる。
「理由ならちゃんとある! 俺はバッファーなんだが、今日パーティーを不当に追放されたんだ。一人じゃまともに戦えないから、俺の代わりに前線で戦ってくれる強力な『護衛』兼『相棒』を探していたんだよ!」
ユーリが必死の形相で身潔白を主張すると、少女は拍子抜けしたように目を丸くした。
「……へ? バッファー? 戦闘の穴埋め?」
「そうだ。俺のバフ術は味方の全能力を1.5倍に引き上げる。お前ほどの潜在能力があれば、俺のバフと合わさることで向かうところ敵なしになる。そのために全財産を投げ打って契約したんだ」
ユーリの真剣な眼差しに嘘がないと悟ったのか、少女はぽかんと口を開けた。
先ほどまでの刺々しい雰囲気が嘘のように消え去り、首を小さくかしげる。
「あら……そうなの? 勘違いしちゃったわ」
(なんだその可愛らしいリアクションは……)
ギャップに一瞬毒気を抜かれそうになるユーリだったが、すぐに咳払いをして姿勢を正した。
「まあ、とにかくそういうわけだ。だから……ええと、名前もまだ聞いていなかったな。ステータスを見ても『無し』としか書かれていなかったから」
「ステータス……?」
少女の赤色の瞳が、ぴくりと小さく揺れた。
ユーリはその変化に気づかず、自慢の鑑定スキルについて話を続けてしまった。
「ああ、俺は【鑑定】スキルを持っていてね。一目で相手の能力や種族が分かってしまうんだ。お前がただのヒューマンじゃなく、伝説の『ヴァンパイア』だってことも、HPが無限だってことも……」
――言い終わるより早く、室内の温度が凍りついた。
少女の全身から、凄まじい殺気と狂気が溢れ出す。
「……見たのね」
声のトーンが、地獄の底から響くような冷酷なものへと変貌していた。
「私の正体を……知ったのね」
「なっ……!?」
「私の正体を知った人間は、生かしておけない。……殺さないと」
シュンッ、と空気を切り裂く音が響いた。
AGI 150という桁外れの速度。ユーリが目視することすら不可能な超高速で、少女の指先が鋭い爪へと変化し、ユーリの喉元を目がけて一直線に突き出された。
(速すぎる……! 避けられない――!)
死を覚悟し、ユーリが目を瞑ったその瞬間。
「がぁッ……!?」
ユーリの首皮一枚手前で、少女の手がぴたりと止まり、彼女は苦悶の叫びを上げて床へと崩れ落ちた。
少女の首に装着された黒い首輪が、激しいバチバチという紫色の電撃を撒き散らしている。
――奴隷の首輪。
主(ご主人様)に対して強い意図を持った害意や殺意を向けた瞬間、所有者の命を守るために発動する「強制制裁術式」だ。
床に伏せ、電撃に身を悶えさせながらも、少女は血走った赤い瞳でユーリを激しく睨みつけていた。
「くっ……殺し……なさいよ……! 正体を知られた以上……私は絶対に……あんたを殺すわ……!」
苦しい息の下で吐き捨てられる殺意。だが、その瞳に宿る絶対的な絶望と恐怖を、ユーリの【鑑定】は見逃さなかった。
圧倒的な暴威と、絶対的な従属の鎖。
波乱に満ちた二人の「相棒」としての夜が、こうして幕を開けたのだった。




