09 大将の代役と、怒れる塩美人税理士
店に着いたのは、17時ちょうど。開店30分前のことだった。
急ぎ足で暖簾をくぐると、
「ノブ先輩!」
みどりちゃんがパッと表情を輝かせ、駆け寄ってきた。
「待ってたよ、ノブちゃん。急に呼び出してほんと、すまないねぇ……」
申し訳なさそうに、店の奥でおかみさんが深く頭を下げる。
厨房を見渡してみたが、大将の姿は見当たらない。
と思ったら――
『ノブ! すまねぇなぁーっ!』
2階からビリビリと響くような大声が降ってきた。どうやら激痛には耐えているものの、声の張りを見る限り元気は元気そうだ。
……よかった、ひとまず安心だな。
「全然大丈夫ですよ! さっそく準備しますね!」
俺は2階に向かって大声で返すと、急いでエプロンを締め、身なりを整えて調理場へと足を踏み入れた。
今日のスタッフは、俺の他におかみさんとみどりちゃん。
そしてもう一人、バイトスタッフの一人である山下三郎――通称『サブ』だ。
俺が厨房のメインに立ち、サブが調理補助に入る。おかみさんとみどりちゃんがホール全般を担当する陣形だ。
俺はすぐさま冷蔵庫とパントリーを開け、食材の仕込み状況を素早く確認し始めた。
そこへ、再び2階から大将の指示が飛んでくる。
『ノブ! 肉はあるが、魚は手が回らなくて仕込みができてねぇ! あと、野菜は届いてるが切り出しがまだだ!』
「了解です、任せてください!」
俺は声を張り上げて答えると、頭の中で超高速のロジックを回し、今晩提供できるメニューの選定に入った。
俺は大将の出すメニューのうち、定番を中心とした約8割の料理をこしらえることができる。伊達に大学の4年間、この厨房で仕込まれてはいない。
俺のスキルセットと、今ある使用可能な食材を掛け合わせる。導き出された結論は――今夜は全体の約半分のメニューに絞って営業する、ということだ。
俺は本日限定の『絞り込みメニュー』を書き出し、おかみさんとみどりちゃんに迅速に共有した。
「今日はこのメニュー中心で案内をお願いします!」
「はいっ!」「分かったよ、助かるねぇ!」
2人が頷くのを確認し、今度は厨房の相棒に向き直る。
「サブ! 野菜の切り出し頼む! キャベツはとりあえず一玉千切り、ニンジンはいちょう切り! あと、じゃがいもの皮剥きを優先で頼む!」
「了解です、ノブさん!」
サブが元気良く返事をし、勢いよく包丁を握り直した。
――その瞬間。
ガラガラと音を立てて、店舗の引き戸が開いた。
まだ開店数分前だが、待ちきれない常連客だ。
「いらっしゃいませー! 二名様ですか?」
みどりちゃんの鈴が鳴るような明るい声が、店内に響き渡る。
よし――戦闘開始だ!
◇
怒涛のように慌ただしかった夜の営業がようやく終わると、俺は片付けをひと通り済ませ、2階へと上がらせてもらった。
部屋に入ると、大将は布団に横になったまま、申し訳なさそうに視線を向けてきた。
「いやぁ……ノブ、本当に助かったよ」
「いえ、無事お店を回せてよかったです。大将、腰の具合はどうですか?」
「なさけない話だがよ……俺ももうすぐ80だ。いよいよ無理が利かねぇ歳になっちまったんだなぁ……」
いつになく弱気な言葉を漏らす大将の姿に、俺は胸がキュッと締め付けられるような思いがした。
その隣で、おかみさんがすまなそうに口を開く。
「本当に情けないんだけどね……ノブちゃん、申し訳ないんだけど、明日からしばらくの間、毎日のシフトに入ってもらうことってできないかねぇ……?」
「もちろん、喜んで引き受けます!」
俺は二つ返事で即答した。
前職を辞めて引きこもりかけていた無職の俺を、温かく拾ってくれた恩があるのだ。断る理由なんて何ひとつなかった。
そんなわけで――俺は翌日から、定休日である水曜日以外の『週6日』、たまや食堂の厨房にメインとして立つことになった。
なにせ、大将の味とレシピを叩き込まれていて料理を作れるのは、この店では俺ひとりなのだ。
だが、かと言っておじいちゃんのマンションの片付けを放り出すわけにもいかない。大家さんから猶予をもらっているとはいえ、退去の期日は刻一刻と迫っているのだ。
こうして、俺の『週6日のたまや食堂』と『週1日のおじいちゃんのマンション片付け』という、怒涛のフルローテーション生活が幕を開けた。
朝から夜まで厨房で包丁を握り、フライパンを振り回し、唯一の休日である水曜日は早朝からおじいちゃんの部屋にこもって大量の荷物や書類と格闘する――まさに目まぐるしく、目が回るような怒涛の日々だった。
――そして、あっという間に1ヶ月が過ぎた。
大将のギックリ腰は順調に回復に向かっていた。
今ではすっかり顔色も良くなり、店の奥にある小上がりにどっかと腰を据えて、まるでベテラン監督のように俺たちへ指示を出している。
『おいノブ! 3番テーブルのレバニラ、火が通り過ぎねぇように気をつけろよ!』
『サブ! お冷やの補充だ! 手を動かせ!』
まだ立ち上がって店の中を歩き回るのは辛いらしく、ずっと小上がりに座ったままではあるのだが……。
元気に怒声が飛んでくる厨房でフライパンを振りながら、俺は「やれやれ」と苦笑しつつも、胸の奥でホッと安堵の息をついていた。
◇
そんなある日、葵先生から怒りの滲むLINEが届いた。
『お疲れ様です、信之さん。先日より、資産整理の手続きについて一度お話ししたいとお伝えしている件ですが、そろそろご都合の良い日時を教えていただけますでしょうか? 度々のお願いとなり恐縮ですが、早急にお返事をいただけますと幸いです』
――しまった。
連日の怒涛の忙しさにかまけて、葵先生からの連絡をすっかり放置してしまっていたのだ。
文面こそどこまでも丁寧だが、行間からは夜叉のような顔で般若のごとく憤怒する葵先生の姿がはっきりと浮かんでくる。
俺は冷や汗をダラダラと流しながら、大慌てで現在の状況と平謝りの釈明LINEを返信した。すると間髪入れずに『本日、そちらまで伺います』と一言だけ返信が返ってきたのだった。
そして――平日の夜。
ガラガラッと、学生や仕事帰りのサラリーマンで賑わう「たまや食堂」の引き戸が勢いよく開いた。
ただならぬオーラを感じて入り口に視線を向けると、そこに立っていたのは案の定、葵先生だった。
ギロリと鋭い視線で店内を見渡す葵先生と、厨房でフライパンを握っていた俺の目がバッチリと合ってしまう。
俺は思わず引きつった愛想笑いを浮かべ、ペコリと首を下げた。
葵先生が無表情のまま冷ややかに会釈を返した、まさにその時――。
「いらっしゃいませー! おひとり様ですかー!?」
みどりちゃんの弾けるような元気な呼びかけが、店内に響き渡った。
「え、あ……はい」
あまりの勢いに気圧された葵先生は、毒気を抜かれたように頷き、そのまま吸い込まれるようにカウンター席へと案内された。
「ご注文はお決まりですか?」
すかさず重ねられる威勢の良い問いかけに、葵先生は一瞬あわあわと視線を彷徨わせる。
「あ、私は……いえ、じゃあ……野菜炒め定食をひとつ、お願いします」
勢いに流されるまま、思わずといった様子でオーダーを口にしていた。
料理を待っている間、真正面から突き刺さるような強い視線を感じる。
……なんか、ずっと睨まれている気がする。
申し訳なさと気まずさで、俺はとてもじゃないが葵先生と目を合わせることができなかった。
せめてもの罪滅ぼしにと、俺は丹精を込めて至高の野菜炒め定食をこしらえた。
「お待たせしましたー!」
出来上がった料理をみどりちゃんが手際よく葵先生の前へと運ぶ。
葵先生は箸を取り、野菜炒めを一口食した。
「……美味しい」
ぽつりと、小さな呟きが漏れた。
あ、お口に合ったようで何よりです……!
チラリと盗み見ると、先生は箸を進めながら、興味深そうに店内や厨房の中に目を走らせている。
やがてきれいに平らげた後、先生は再び俺の方をじーっと見つめ始めた。……うぐっ、やっぱり視線が痛い。
意を決して、ふと先生と目を合わせてみる。
(あれ……?)
睨みつけられていると思っていたのだが、その表情は想像していたよりもずっと穏やかだった。
目が合った瞬間、葵先生はハッと正気に戻ったように、慌てて視線を明後日の方向へと逸らした。
(いつまで待たせるんだって感じですよね……本当にすみません。もうすぐ夜の営業も終わるんで、あと少しだけ待ってくださいね……!)
俺は心の中で何度も頭を下げながら、ラストスパートの調理に全力で打ち込んだ。




