10 大将の願いと、継がれる暖簾
最後のお客様を「ありがとうございましたー!」とお送りした後、俺は大将にお願いして少しだけ時間をいただき、テーブル席で葵先生と正面から対峙した。
すると、みどりちゃんが気を利かせて湯気の立つお茶を運んできてくれた。
「熱いのでお気をつけくださいね」
そう言ってテーブルにお茶を置きつつ、みどりちゃんは俺と葵先生の顔を、隠そうともしない無遠慮な視線で交互に見比べる。その瞳には『興味津々』とバッチリ書かれていた。……後で根掘り葉掘り追及されるのは確定だな。思いやられる。
みどりちゃんが背中を向けたのを確認すると、葵先生はコホンと小さく咳払いをして姿勢を正した。
「信之さん、ダンボールの山を片付けて部屋を解約すれば終わり、ではありませんよ? まず、賃貸の敷金精算書や公共料金の未払い分の領収書はすべて私に提出してください。それから、おじいさまが亡くなられた年の『準確定申告』のために、医療費の領収書や年金の通知書の捜索も必要です。もしも、業者に頼んで『重要なお金関係のメモや通帳まで一緒に捨ててしまいました』なんてことになったら……分かっていますね?」
どこまでも冷ややかな、けれど的を射まくっているお小言のようなアドバイスに、俺は冷や汗を流しながら懸命に頷き、ノートに必死でメモを取った。
一通り書き終えたところで、俺は姿勢を正して深く頭を下げた。
「先生、ご連絡が遅れて本当に申し訳ありませんでした」
あらためて平身低頭お詫びをすると、葵先生は意外にも「いえ」と小さく首を横に振った。
「事情が事情ですから、仕方がありません。……それにしても」
「はい?」
「信之さんがこうしてちゃんと働いているお姿、初めて拝見しましたが、なんというか……」
そこまで言って、葵先生は急に口をつぐんで黙り込んでしまった。
「……なんでしょう?」
「……いえ、なんでもありません」
葵先生はどこか気まずそうに視線を泳がせ、温かいお茶に口を付けた。
なんだろう。いつもの完璧でクールな雰囲気と違って、どうも今日の先生は様子がおかしい気がする。
その後、会計を済ませた先生を店の外まで丁寧にお見送りし、ホッと一息ついて店内に戻った――その瞬間。
厨房の柱の影から、ひょっこりと顔だけを出しているおかみさん、みどりちゃん、そしてサブの三人組とバッチリ目が合った。
「ノブ先輩! もしかして彼女さんですか!?」
「えらい、べっぴんさんじゃないかい?」
「なんか、すっごく怒られてませんでした?」
「いや! あの、あの人はそうじゃなくて、その……!」
慌てて誤解を解こうと弁明しようとした、その時だった。
「ガハハハハ!」
店の奥の小上がりから、大将の豪快な笑い声が響き渡った。
「お前ら! 野暮なこと聞いてやるんじゃねぇよ! わざわざ女が店まで押しかけてくるたぁなぁ……ノブ、お前もなかなか隅に置けねえなあっ!」
「いや、大将まで違いますって……!」
俺の必死の抗議も虚しく、大将の一言によって、場は完全に『甘酸っぱい誤解』という変な方向で温かく収まってしまったのだった。
◇
それからというもの、なぜか葵先生は頻繁に『たまや食堂』へ顔を出すようになった。
「あら、葵さん! いらっしゃいませー!」
ガラガラと引き戸が開くと、みどりちゃんが気さくに声をかける。
スタッフたちともすっかり顔馴染みになり、今ではすんなり常連客の一人として定着していた。
(なんだろう……俺がバイトにかまけて、じいちゃんのマンションの片付けをサボっていないか、監視の目を光らせているんだろうか……?)
最初はそんな恐怖に怯えていた俺だったが、どうにも首を傾げざるを得ない。
監視にしては、先生は毎回出された定食を残さず実に嬉しそうに平らげていくし、なんなら『全メニュー制覇』でも狙っているのではないかという勢いなのだ。
まあ……おいしそうに食べてくれているし、店にいる間のご機嫌もすこぶる麗しいようなので、良しとしよう。
だが――そんな平穏な日々に、ふたたび、困った出来事が持ち上がった。
順調に回復し、ようやく自力で歩けるようになった大将が、あろうことかギックリ腰を再発させてしまったのだ。
2階の居間へ様子を見に行くと、大将は布団の中で力なく横になっていた。
「俺としたことが……少し動けるようになったからって、調子に乗っちまったなぁ……」
枕元で力なくぼやく大将の声には、いつもの腹に響くような威勢の良さがまるでなかった。
一度目のときは「痛ぇーっ!」と大騒ぎしていただけに、今回の静かな弱気ぶりは、どこか胸に引っかかるものがあった。
◇
それから、数日が経ったある日のこと。
閉店後の静まり返った店内で後片付けをしていると、どこか神妙な顔つきをしたおかみさんに呼び止められた。
「ノブちゃん。ちょっと話があるんだけど、あとで時間、いいかい?」
普段の明るいおかみさんとは明らかに違う雰囲気に、胸の奥で嫌な予感が固まりを作る。
「あ、はい。大丈夫ですよ」
言われるがまま片付けを終え、おかみさんに案内されて2階の居間へと上がると、ちゃぶ台の前に大将がちょこんと座っていた。
「大将、起き上がれるようになったんですね」
「……ああ、なんとかな」
そう答える大将だったが、やはりどこか元気がなく、いつもの威風堂々とした覇気は影を潜めていた。
おかみさんが静かに大将の隣へと腰を下ろす。重苦しい沈黙が、四畳半の部屋を支配していた。
「なあ、ノブ」
大将は前置きもなく、俺の目をまっすぐに見据えて切り出した。
「こいつとも、じっくり話したんだがな」
「はい」
「俺は今回のことで、少し考えさせられたんだ。……俺たちはもう年だ。どうやら、いつまでもこの店を続けられるわけじゃねぇみたいだ」
「この人が動けなくなったら、もう私ひとりじゃどうしようもないからねぇ……」
寂しそうに微笑むおかみさんが、ぽつりと相槌を打つ。
「だけどな、俺はこの店を潰したくねぇんだ。せっかく子ども食堂にも、地域の子らが楽しそうに集まってくれるようになったんだからな……」
「常連さんや子どもたちの笑顔は、私たち夫婦の生きがいなんだよ」
ふたりが絞り出すような言葉を聞きながら、俺は深く胸を打たれていた。
言われなくたって分かっている。日頃の二人を見ていれば、この『たまや食堂』という場所に対する並々ならぬ愛着と誇りは、痛いほどひしひしと伝わっていたからだ。
「……分かります」
俺は深く頷いた。
「それでだ、ノブ。ひとつ、俺たちのワガママを聞いちゃくれねぇか?」
「ノブちゃん、あなたしか……あなたしかいないのよ」
畳みかけるような二人の言葉の後、一瞬の静寂が訪れた。
大将はゆっくりと大きな息を吐き出し、意を決したように俺の顔を正面から見据えた。
「ノブ。お前――この店を継いでくれねぇか」




