11 俺が、この店を継ぎます
「俺に……この店を、ですか……?」
あまりに突然すぎる打診に、俺は思わず聞き返していた。
「ああ、そうだ。どうかお前の手で、この店を守っていってくれねぇか。もちろん、すぐに決めてくれとは言わねぇ。ゆっくり考えてもらって構わねぇんだ。……ただ俺は、この店がちゃんと誰かに引き継がれるのを見届けてから死にてぇんだよ」
「ノブちゃんはまだ若いし、もし他にやりたい仕事があるんなら無理にとは言わないわ。でもね、もしノブちゃんに少しでもその気があるんなら……考えてはもらえないかねぇ?」
ふたりの祈るような切実な視線を正面から受け止めながら、俺は背筋が伸びるような、身の引き締まる思いがしていた。
(いいんだろうか……こんなフリーター崩れの俺を、そこまで信頼してもらっちゃって……)
恐縮する気持ちと同時に、あまりに話の規模が大きすぎて、どこか実感が湧いてこない部分もある。
だがその一方で――もし仮に、誰かがこの『たまや食堂』を引き継ぐのだとしたら、確かに俺が一番の適任だろうという思いもあった。
まず、フリーターという今の身軽な立場。
そして何より、俺は大将の出す料理のほとんどをこしらえることができる。俺が厨房を受け継げば、大将の味と暖簾をそのまま守り続けることができるのだ。
そういえば最近、ニュースなどで『後継者不足による廃業』の話題をよく耳にすることを思い出す。
世の中は深刻な人手不足だ。優秀な人材を集めるには、より高い時給や手厚い待遇を用意しなければならない。そして『たまや食堂』のような、決して資金的な体力があるとは言えない個人経営の店は、時代の荒波に飲まれて真っ先に押し流されてしまうのが現実だった。
だけど――いざ店を受け継ぐとなれば、当然そこには巨大な責任が伴う。
根がヘタレな俺は、思わず心のどこかで尻込みしそうになった。俺なんかに店主なんて重役が務まるのだろうか、と。
だが、その恐怖を打ち消すように、胸の奥から静かに湧き上がってくる思いがあった。
この『たまや食堂』という場所は、俺にとって今や、何物にも代えがたい大切な『居場所』になっているという事実だ。
会社を辞めてからのしばらくの間、まさにニートのような無職生活を送っていた俺だからこそ、痛いほどよく分かる。
部屋に閉じこもり、社会との繋がりを断絶されたときに襲ってくる、あの底知れない孤独。……あれは、本当に身が削られるほどつらいものだ。
そんな俺がここで働かせてもらえるようになり、日々お客さんと接し、誰かのために料理を作る中で、確かに感じた社会との繋がり。
死んでいたような俺の心が、この場所で確かに息を吹き返したのだ。
俺はもう、ひとりじゃない――そう心から思えた。
大将、おかみさん、みどりちゃんやサブ、温かいバイトの仲間たち。
そして、
ふと俺の脳裏に、俺のこしらえた野菜炒め定食を、心底美味しそうに頬張っていた葵先生の顔が思い浮かんだ。
(……ああ、そうだ。あの人が笑って食べてくれるこの場所を、失くさせたくない)
「……分かりました」
気づけば俺は、ふたりの目をまっすぐに見つめ返し、はっきりとそう答えていた。
◇
「ノブちゃん……ほんとうかい……!?」
「ありがとう、ノブ……っ! よくぞ決心してくれた! 恩に着るぞ……っ!」
ふたりは感極まった様子で俺の手を両手で力いっぱいに握りしめ、ボロボロと涙をこぼして喜んでくれた。
そんなふたりの温もりに触れながら、俺は「もう後戻りはできないぞ」と覚悟を新たにした。
喜びが一巡したところで、俺は今後の具体的な段取りについて大将とおかみさんに尋ねてみることにした。
「それで……『店を引き継ぐ』となると、具体的にはどういう形になるんでしょうか?」
「ああ。店舗や厨房の設備は、全部お前に譲る! 『たまや食堂』の二代目として、好きに切り盛りしてもらって構わねぇ!」
「でもね、私たちがまだ動けるうちは、今まで通り一緒に店を手伝わせてほしいの。もちろん、2階の居間にはそのまま住まわせてもらいたいんだけど……」
「おう。幸いこの土地と建物は俺の名義だからな。大家に追い出される心配はねぇ!」
大将とおかみさんは、それぞれの想いを口々に語る。
語るのだが……あまりにも大雑把というか、アバウトすぎる。
俺は思わず首を傾げながら聞き返した。
「ええと……つまり、店舗や設備の事業権利を俺に無償で譲渡する、ということですかね? 個人事業の事業承継とか名義変更とか、そのあたりの税務や法律の手続きってどうされるおつもりなんです?」
「ん? うむ……難しいことはよく分からん!」
「そうねぇ……私たち、そういうのサッパリ分からないわぁ」
「…………」
「…………」
四畳半の居間に、気まずい静寂が流れた。
(……これは困ったぞ)
俺だって経営のプロでもなければ法律の専門家でもない。だが、個人商店とはいえ店を一軒丸ごと譲り受けるとなれば、譲渡税だの営業許可の名義変更だの、複雑怪奇な手続きが山積みのはずだ。素人の手探りでどうにかできるようなレベルではない。
どうしたものか……と頭を抱えそうになった、その時だった。
ふと、一番近くに『最強の頼れる人物』がいることに気がついた。
先ほどまで頭に浮かんでいた、俺のこしらえた定食を心底おいしそうに頬張る、あの美しい横顔。
俺は大将とおかみさんに向き直り、力強く深く頷いてみせた。
「心配いりません。俺たちにうってつけの『専門家』が、すぐ近くにいます」
◇
翌日、俺は胃をキリキリと痛ませながら、恐る恐る葵先生のスマホへ電話をかけた。
昨晩大将たちから打診された件の顛末と、店舗の事業譲渡に関する相談に乗ってほしい旨を告げる。
正直なところ、
『信之さん! あなた、おじいさまの相続手続きすら終わっていないのに、今度はたまや食堂の譲渡だなんて、一体どういうことですか!?』
と電話越しに雷を落とされる覚悟をしていた。
しかし――返ってきたのは意外な言葉だった。
『……それは、悪くないお考えかもしれません。分かりました。喜んで協力させていただきます』
『えっ、本当ですか!?』
『ええ。では明日、お昼の営業が終わった頃を見計らってお伺いしますね』
あまりにもすんなりと引き受けてくれたため、俺は完全に拍子抜けしてしまった。
そして翌日。約束通り昼の営業ピークが過ぎた頃、葵先生が『たまや食堂』へとやってきた。
2階の居間に案内された葵先生は、ちゃぶ台を挟んで大将とおかみさんの正面に腰を下ろす。
「改めまして、税理士の涼風葵と申します」
葵先生はすっと背筋を伸ばし、丁寧な所作で二人へ名刺を差し出した。
「なんと! 葵ちゃん、税理士の先生だったのかい!?」
「ノブ、お前……こんなすげぇ先生と付き合ってたのかぁっ!?」
名刺と葵先生の顔を交互に見比べながら、おかみさんと大将が驚きと感心の声を上げる。
「そんな、大袈裟ですよ」
葵先生は少しだけ頬を緩め、控えめに謙遜してみせた。
……が、なぜか『付き合ってる』という大将の誤解に対しては、一切否定しようとしない。
(えっ……先生、そこ、スルーですか……?)
隣でひとり、俺の心臓がむずむずと落ち着かない音を立てる。
そんな俺の動揺を余所に、居間が和やかな雰囲気に包まれたところで、葵先生がおもむろに口を開いた。
「大体の経緯は、信之さんから事前にお聞きしました。お店の譲渡の件、素晴らしいご決断をされたと思います」
「そう言ってもらえると助かるよ、先生」
「しかし、実際に店舗を譲渡するにあたっては、事前にいくつか正しく認識していただく必要のある重要事項がございます
葵先生はカバンから綺麗にホチキス止めされた資料を取り出し、手際よく全員へ配った。
表紙の先頭には、くっきりと『店舗譲渡に際しての心得と手続』と印字されている。
「この資料に沿ってご説明していきますね。大丈夫です、難しい専門用語は使っておりませんので、リラックスしてお聞きください」
葵先生はいつもの冷徹な雰囲気とは違う、柔らかく穏やかな声でレクチャーを始めた。




