12 葵先生の事業承継講座
「まず、今回のように親族以外の第三者へ店を引き継ぐ場合、一番気をつけなければならないのが『店舗の評価額と税金』の問題です」
葵先生は資料の1ページ目を指し示した。
「お二人からは『無料で全部譲る』とお聞きしていますが、実はタダで譲渡すると、かえって税務署から『みなし贈与』と判定され、信之さんに高額な贈与税が課せられてしまう危険性があります。店舗設備や備品、そして『たまや食堂』というブランド価値――いわゆる『のれん代(営業権)』には、客観的な価値が存在するからです」
「ええっ!? タダで譲ってもらうのに税金がかかるかもしれないんですか!?」
俺が思わず声を上げると、葵先生は優しく頷いた。
「はい。ですから今回は『無償の贈与』ではなく、適正に資産評価を行った上で、信之さんが大将さんから事業と設備を『適正価格で買い取る(造作譲渡)』という形をとるのが一番安全で確実です。大将の体調や稼働状況、設備の老朽化などを考慮し、節税的にも最も無理のない『譲渡代金』を私の方で算出いたします」
「おお……さすが先生、頼もしいなぁ」
大将が感心したように深く頷く。
「そして、もうひとつ重要なのが『各種手続きのスケジュール』です」
葵先生はペンを取り出し、ホワイトボードの代わりに手元のメモ用紙に図を描き始めた。
「個人事業を引き継ぐ場合、単に名義を変えれば終わりではありません。
1つ目に、保健所の『飲食店営業許可』の取り直しです。原則として大将さんの廃業届と、信之さんの新規許可申請が必要になります。
2つ目に、税務署への『大将さんの廃業届』と『信之さんの開業届』の提出。
3つ目に、公共料金や食品仕入れ先、銀行口座などの名義変更手続きです」
「うひぇ?……聞いただけで頭が痛くなってきそうだねぇ……」
おかみさんが困り顔で頭を抱えると、葵先生はくすりと微笑んだ。
「ふふ、大丈夫ですよ。提出書類の作成や税務署への手続きは、すべて私がサポートいたします。お二人には『これまで培った味とレシピを、しっかり信之さんに伝授すること』に専念していただきますから」
「葵先生……っ!」
大将とおかみさんは、まるで後光が差す女神を見るような目で葵先生を見つめていた。
「信之さん」
葵先生はクルリと俺の方を向き、少しだけ意地悪く目を細めた。
「これで、あなたが途中で投げ出す理由はなくなりましたね? おじいさまの資産整理と、たまや食堂の継承……二足のわらじは大変でしょうけれど、がんばって、励んでくださいね」
「はいっ! 頑張ります……!」
思わぬ激励に、俺は背筋をピシッと伸ばして返事をしたのだった。
◇
「そして、もうひとつ重要なのが――大将さんとおかみさんの『将来の生活保障』についてです」
葵先生は資料をもう一枚めくり、ペンで図を描き始めた。
「今回、信之さんに譲渡するのは『店舗の事業権と厨房設備』のみとします。この土地と建物の所有権は、今まで通り大将さん名義のまま残しておきます。そして、二代目店主となる信之さんと、大家である大将さんとの間で『店舗兼住宅の賃貸借契約』を結ぶのです」
「賃貸借契約……つまり、俺が大将に毎月家賃を払うってことですか?」
俺が尋ねると、葵先生は「その通りです」と満足そうに微笑んだ。
「こうしておけば、いずれ大将さんとおかみさんが完全に厨房を引退された後も、信之さんから毎月定額の『家賃収入』が入る仕組みが作れます。お二人の年金に加えてこの家賃収入があれば、引退後も安心して2階で暮らしていけますでしょう?」
「……! なるほどなぁ……っ!」
大将は膝をポンと叩き、感銘を受けたように目を丸くした。
「俺たちは年金もスズメの涙だからよ……引退した後の生活費のことは、正直頭の痛い問題だったんだ。それなら俺たちも安心だし、ノブにも気兼ねなく店を任せられる!」
「信之さんにとっても、支払う家賃はすべて『店の経費(地代家賃)』として計上できますから、節税対策になります。お互いにとって一番無理がなく、三方良しのスキームですよ」
「うひぇ?……そこまで考えてくれてるなんて、本当にすごいねぇ……」
おかみさんが感極まったように手ぐすねを引くと、葵先生はくすりと微笑んだ。
「ふふ、税理士ですからこれくらいは当然です。」
誇らしげに少しだけドヤ顔をして見せる葵先生。
(……あ、こんな表情もするんだ)
俺はしばし葵先生の横顔に見入っていた。
◇
「さて……では次に、今回の事業譲渡に伴って必要となる『概算の初期費用』についてご説明します」
葵先生は手元の資料を繰り、電卓で弾き出された数字が記されたページを開いた。
「保健所の許可申請手数料や各種手続きの報酬、初期の運転資金はもちろんですが……大将さんから引き継ぐ『店舗の事業権』ならびに『厨房設備・備品一式』の造作譲渡代金を含めまして、概算で……これくらいになります」
葵先生がさらりと提示したその金額を目にした瞬間――
「なっ……!? 250万!?」
大将が目玉を飛び出さんばかりに見開き、絶句した。
「うひぇぇ……! そんなにかかるのかい!? ノブちゃんはまだ若いのに、そんな大金、払えるわけないじゃないか……!」
おかみさんも青ざめた顔で、おろおろと俺の手を握りしめてくる。
ふたりにしてみれば、自分たちが「タダで譲る」と言った手前、ノブにそんな大きな負担を背負わせるわけにはいかないと本気で心配してくれているのだ。
だが、俺は焦ることもなく、どこか他人事のように首を傾げた。
「あ、そんな……大丈夫です。そのくらいの金額なら、なんとか用意できますから」
「……はあ!?」
「えっ……!?」
大将とおかみさんが、揃ってハトが豆鉄砲を食らったような顔で固まる。
(まあ……ここは、おじいちゃんの遺産をありがたく使わせてもらおう……)
心の中でそう呟きながら俺がケロリとしていると、ふいに隣から「クスッ」と小さな笑い声が聞こえた。
チラリと横目に視線をやると、葵先生が口元を上品に手で覆い、可憐に微笑んでいた。
その瞳は「ふふ、種明かしはまだ二人だけの秘密ですね」とでも言いたげに、悪戯っぽく輝いている。
慌てふためく大将夫妻と、涼しい顔の俺、そして事の裏事情を知っていてクスリと笑う葵先生。
四畳半の居間に、どこか可笑しくも温かい空気が流れていた。
◇
俺が店を継ぐことを承諾してからというもの、大将はみるみるうちに元気を取り戻していった。
今ではまだ満足に歩けないものの、小上がりにどっかと腰を据えて、俺に向かってビシビシと指導の声を飛ばしている。
「おいノブ! 出汁の取り方がなっちゃいねぇぞ!」
「そんなヘッポコな手つきじゃ、俺の店は継げねぇぞっ!」
どうやら大将は、自分がこれまで培ってきた知識と技術のすべてを、俺に叩き込むつもりのようだ。
(……しかし『病は気から』とはよく言ったもんだな)
俺は苦笑いを浮かべつつ、「すみません大将、やり直します!」とすぐさま仕込みに集中し直した。
だが、実際に店を継ぐとなれば、調理だけでなく、これまで大将やおかみさんが担っていた仕入れや経理、設備管理といった様々な業務も引き継がなければならない。
これは思っていた以上に大変な話を引き受けてしまったぞと、俺は今更ながらギュッと気が引き締まる思いがしていた。
そんな慌ただしくも充実した日々が続いていた、ある日のこと。
仕込みの合間におかみさんから「ノブちゃん、ちょっといいかい?」と声をかけられ、店の裏手へと連れていかれた。
一体どうしたんだろうと怪訝な顔をする俺に、おかみさんは申し訳なさそうな、困り果てた表情を浮かべて切り出した。
「実はね……都内に住んでいるうちの一人息子に、ノブちゃんに店を譲る話を伝えたんだよ」
「息子さんに、ですか?」
「うん……そしたらね、『見ず知らずの若い奴に店を乗っ取られるんじゃないか』って、変に誤解しちゃってねぇ……」
「乗っ取り……」
「直接話し合いに来るって言っているんだよ。ごめんねノブちゃん……うちの息子に、一度会ってもらえるかい?」
(まさに風雲急を告げる、ってやつか……)
俺の脳裏に、そんな物騒なフレーズがパッと浮かんだ。




