13 父さんの味と、譲れない想い
金曜日の夜。営業が終わった時間を見計らったように、大将の息子さんが『たまや食堂』へとやってきた。
静まり返る店内のテーブル席。
そこには、ビシッとスーツを着こなした息子さんの姿があった。年齢は五十代くらいだろうか。ちょうど俺の両親と同じくらいに見える。
その向かい側には、営業を終えたばかりのエプロン姿の俺と、連絡を受けて急遽駆けつけてくれた葵先生。
そして両陣営を挟むように、大将とおかみさんが座っていた。
「多田義男です。両親がお世話になっているようで」
「あ、初めまして……桐山信之です」
思わず声がうわずってしまう。
(うぅ……どうにも、こういう緊張感のある空気は苦手だ……)
「今回の事業譲渡の件を担当しております、税理士の涼風です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
俺の隣で、葵先生が颯爽とした所作で名刺を取り出し、義男さんへと差し出した。
「税理士の先生、が……いらしているんですか」
義男さんは少し意外そうな顔を浮かべ、名刺を受け取った。
(葵先生……さすがだな。本当に頼もしい……!)
「さっそくですが」
義男さんは姿勢を正し、静かに切り出した。
「私も正直、高齢の両親のことは心配しておりました。もう歳ですし、いずれは介護が必要になってくると思っています。その際には、この店舗と土地を処分して、私たちと同居させることも考えていたのです」
「義男! 父さんはな、お前の世話になるつもりなんて更々ねぇぞ!」
横から大将が口を挟む。
「まあまあ、あんた。義男は私たちのことを気遣ってくれてるんだよ」
おかみさんがそっと大将の肩を叩いてなだめる。
「それを、突然見ず知らずの赤の他人に店を譲ると言い出して……何事かと心配になりましてね」
「……」
ごもっともな話だ。
「お気持ちは、よく分かります」
俺は深く頷き、素直に同意した。
「両親からは、桐山さんは現在定職に就かれていないと伺いました。大変失礼な言い分ですが……見方によっては、この店の土地と財産を目当てに、高齢の両親を丸め込んだのではないかと、勘ぐってしまったわけです」
「こら、義男っ!」
「なんて失礼なことを言いやがるんだ! ノブに謝れっ!」
大将とおかみさんが一斉に立ち上がり、激高する。
「いえ……大将、大丈夫です。義男さんのご懸念は当然のことです。むしろ、思っている不安をはっきりと言っていただけて助かりました」
俺は、自分でも不思議なくらい冷静だった。
そのド直球な物言いの裏側に、両親を心から心配し、大切に思う気持ちがひしひしと伝わってきたからだ。
「このお話で、義男さんの懸念が払拭されるかどうかは分かりませんが……」
俺はそう前置きをして、言葉を続けた。
「俺、つい最近、亡くなった祖父から遺産を相続したんです。俺の祖父の名は、桐山広海といいます。……世間では『株主優待の桐山さん』なんて呼ばれていた人物です」
「「え……!?」」
今にも義男さんに掴みかからん勢いだった大将とおかみさんが、揃って素っ頓狂な声を上げた。
「株主優待の桐山さんって、お前……! あの、テレビで自転車漕いでた!?」
「そういえば、ノブちゃんの苗字も桐山だったねぇ……!」
「すみません大将、おかみさん。隠していたつもりはなかったんですが……」
俺はふたりにぺこりと頭を下げ、それから再び義男さんへと向き直った。
「俺には、身に余るほどの資産があります。だから、お金には困っていません。この店を継ぎたいと言ったのは、決して金目当てではないんです。……分かっていただけますでしょうか?」
義男さんは完全に毒気を抜かれたような顔になり、呆然と俺を見つめた。
「あ……いや……。もしそのお話が本当なら、私も少し安心したというか……。桐山さん、失礼なことを申し上げて本当に申し訳ありませんでした」
頭を下げる義男さんに、俺は深く首を振った。
「では……具体的な事業譲渡の詳細について、ご説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
絶妙のタイミングで、葵先生がすっと綺麗にまとめられた資料を差し出した。
◇
葵先生は、今回の事業譲渡における重要なポイント――特に義男さんが懸念している点について、要点を絞って簡潔に説明してくれた。
無償譲渡ではなく、然るべき適正な対価を大将とおかみさんに支払うこと。
店舗の土地建物は譲渡の対象外であり、引き継ぎ後は店舗の賃貸料を毎月二人に支払うこと。そして、その賃料が今後の二人の貴重な生活の支えとなること。
義男さんは葵先生の理路整然とした説明に、真剣な眼差しで熱心に聞き入っていた。
先生が一通りの説明を終えると、義男さんは重々しく口を開いた。
「……両親が不利益を被らないこと。むしろ、両親の将来にとってより良い条件であるということは、十分に理解できました」
(良かった……!)
義男さんから肯定的な言葉が出て、俺は内心ホッと胸を撫でおろす。
「ですが――」
義男さんがふっと声のトーンを落とした。
「申し訳ないが、それでもまだ、懸念が残るのです。桐山さん、あなたはまだお若いですし、十分な財産もお持ちだ。……私は、この店を切り盛りすることの大変さを誰よりもよく知っています。幼い頃から、この店で両親の苦労する背中を見て育ちましたから」
一息置き、義男さんは鋭い視線を俺に向けた。
「桐山さん……あなたは、一時の同情で引き受けようとされているのではありませんか? あなたが途中でこの店を投げ出さない、両親を見捨ててしまわないという保証はどこにあるのですか?」
「こら義男っ! いい加減にしないかっ!」
再び大将が机を叩いて立ち上がる。
「まあまあ大将、落ち着いてください!」
俺とおかみさんは慌てて大将の身体を支え、なだめに入った。
ようやく大将が席に座り直し、店内に重苦しい沈黙が降り立つ。
だが……俺は義男さんに対して、腹を立てる気には到底なれなかった。
どれだけ契約や数値といった理屈で納得させられても、感情がついてこないのだ。人間の心というのは、そう簡単に割り切れるようにはできていない。
だからこそ、安心してもらいたい。
俺がこの『たまや食堂』を、どれだけ大切に想っているかを知ってもらいたい。
そのために俺ができること――その『ひとつの答え』を、あらかじめ用意していた。
「……みなさん、お腹空いていませんか? 賄いの準備ができているんです。よかったら、ご飯にしませんか?」
「まあまあ、ノブちゃん。それは準備が良いねぇ! じゃあ、お言葉に甘えていただこうかしら」
張り詰めた場の雰囲気を和らげようと、おかみさんが明るい声で応じてくれた。
「はい! じゃあ、少しだけお待ちください」
俺は一礼して厨房へと向かった。
冷蔵庫から事前に仕込んでおいた食材を取り出し、手際よく調理を進めていく。
ジュワッと油の跳ねる心地よい音と、香ばしい甘辛いダシの香りが厨房いっぱいに広がった。
しばらくして、俺は出来上がった賄いをトレーに乗せてテーブルへと運んだ。
人数分の丼が、コトンと目の前に並べられる――カツ丼だ。
「おおっ、ノブ! うまそうじゃねえか!」
「そういえば、お腹ペコペコだったのよ」
「では、いただきましょうか」
大将とおかみさん、そして葵先生がそれぞれ手を伸ばし、カツ丼に箸をつける。
「卵がトロトロで……とっても美味しいです!」
「くぅーっ、すきっ腹にこのカツ丼はたまんねぇなぁ!」
「本当、美味しいわぁ……!」
みんなが口々に賑やかな感想を言い合いながら、夢中でカツ丼を味わう。
そんな中――義男さんだけは神妙な顔つきのまま、黙々とカツ丼を口に運んでいた。
みんなもそんな義男さんの様子に気づき、静かに視線を向ける。
義男さんは周りの視線にも気づかない様子で、口いっぱいにカツ丼を頬張り……そして、ぽつりと呟いた。
「……父さんの味だ」




