14 子ども食堂と、義男さんの決断
義男さんは、きれいにカツ丼を平らげた。
丼をそっと置くと、静かに手を合わせる。
「ごちそうさまでした。……美味しかったです」
そして、一呼吸おいてから俺の目をしっかりと見つめた。
「桐山さん。あなたが本気でこの店を継ごうとされていることが、なんだか分かった気がします」
義男さんは、ここで初めて柔らかく目を細め、ほほ笑んだ。
「それじゃあ、義男……!」
おかみさんがたまらずといった様子で、身を乗り出すように声を上げる。
「ああ、母さん。……もう少しだけ、気持ちを整理する時間をくれ」
「「「「ずこっ……!」」」」
その場の全員が、ずっこけた。
(この親にしてこの子……頑固なところはしっかり親譲りなんだな)
俺は心の中で苦笑いを浮かべた。
結局、その日は明確な話し合いの結論までは出なかった。
「義男。もう時間も遅いんだから、今日は泊まっていきなさい」
「……ああ。そうさせてもらおうかな」
おかみさんの一声に、義男さんも素直に頷いた。今晩は親子水入らずでじっくり話ができるようで、本当に良かったと思う。
これ以上長居するのも野暮だろう。俺は今日、これでお暇することにした。
「明日は土曜日、子ども食堂の日ですね。じゃあ大将、おかみさん、また明日よろしくお願いします」
「ああ。気ぃつけて帰れよ!」
「ノブちゃん、葵ちゃん、今日はありがとね」
そう挨拶を交わし、俺と葵先生は『たまや食堂』を後にした。
夜の静かな街並みの中、俺は自転車を押し、葵先生を駅まで送る。
「涼風先生、今日は本当にありがとうございました。先生が来てくれて助かりました」
隣を歩く葵先生に改めてお礼を言うと、先生は軽く首を振った。
「いえ。仕事ですから……」
いつもの冷静な口調で返され、しばらくのあいだ心地よい沈黙が流れた。
「……今日の信之さん、とても立派でした」
「え……?」
不意に聞こえた予想もしない評価の言葉に、俺は思わず足を止めて先生を見た。
「義男さんを前にしたときの冷静で堂々とした態度。そして……最後のあのカツ丼。流石は信之さんです」
(えぇ……マジですか……?)
そういえば、さっきの話し合いの最中、時折左頬に葵先生からの突き刺さるような視線を感じていたのだ。
『しっかりしなさいよ』と後で怒られるやつかと内心冷や冷やしていたのだが……どうやら勘違いだったらしい。お小言を食らわずに済んで、心底ホッとした。
間もなく駅に到着した。
「先生、ありがとうございました。夜道、お気をつけて帰ってくださいね」
再び感謝を口にし、手を振る俺。
「はい。では、おやすみなさい」
葵先生は会釈をして改札をくぐった。……が、不意にくるりと俺の方へと振り返った。
「あの……信之さん?」
「はい? どうしました?」
なんだろうと首を傾げる俺。
葵先生は何か言いかけたらしく、唇を少しだけ動かした。
だが……数秒の沈黙の後。
「……いえ。なんでもありません」
ふたたび小声で「おやすみなさい」と言い直し、葵先生はそのまま駅のホームへと消えていった。
(ん……? なんだろ、何かお小言でも言い忘れたのかな?)
不思議に思いつつ、俺は自転車に跨がった。……変な葵先生である。
◇
翌日、『たまや食堂』に到着すると、店の奥から義男さんが出てきた。
「あ……昨日は、どうも」
「どうも……」
お互い、どこか照れくさそうなぎこちない挨拶を交わす。
「義男ったらね、今日の子ども食堂の様子を見てから帰るって言うのよ」
おかみさんが嬉しそうに理由を説明してくれた。
今日の子ども食堂の運営メンバーは、みどりちゃんに俺、サブ、そしておかみさん。
さらに、小上がりから全体を見渡す司令塔として大将が控えるという万全の布陣だ。
開店時間になると、続々と子どもたちや親子連れがやってきた。
途端に『たまや食堂』は、普段の平日の営業とは違う、独特の賑やかで温かな熱気に包まれていく。
「よし、第一陣の料理、どんどん作っていくぞっ!」
大将の号令が飛ぶと同時に、現場が一気に回り始める。
俺とサブは厨房で調理に没頭し、みどりちゃんとおかみさんはフロアで配膳の準備に奔走する。
義男さんは大将の隣に腰掛け、忙しく動く俺たちの様子をどこか興味深げに眺めていた。
――その時だった。
「このやろうっ!」
「やんのかよーっ!」
店内に、子どもたちの激しい叫び声が響き渡った。
見れば、男の子ふたりが取っ組み合いをしている。喧嘩だ。
おもちゃの取り合いか何かだろう、子ども食堂ではよくある光景だ。
「ちょっと、なかよくしなさーい」
配膳の料理で両手が塞がったみどりちゃんが、困り果てたような高い声を上げた。
(うっ……止めに行きたいが、今コンロから手が離せない……!)
俺が焦った、その瞬間だった。
「こらこら、やめなさいっ!」
見かねたのか、奥にいた義男さんがサッと飛んできて、ふたりの間に割って入った。
突然目の前に現れたビシッとスーツ姿の見知らぬおじさんに、男の子たちは毒気を抜かれ、喧嘩どころではなくなってしまったようだ。
「喧嘩はいけないよ。ほら、お互いごめんねって仲直りしようか?」
義男さんが膝をつき、優しく男の子たちをなだめている。
……と、今度はそのすぐ隣のテーブルで、女の子がお茶の入ったコップをひっくり返してしまった。
「義男! この布巾持っていって拭いてあげて頂戴!」
「えっ!? あ、ああっ!」
おかみさんから大慌てで布巾を受け取った義男さんは、べそをかき始めた女の子をなだめながら、手際よくテーブルと床を拭き上げていく。
すると、今度は――。
「おじちゃん! おもちゃの電池が切れちゃったー!」
「おじさーん、こっちもお茶おかわりー!」
次から次へと巻き起こる小さなトラブルの嵐に、義男さんにはもはや『傍観者』でいる余裕など微塵もなくなっていた。
「あ、ちょっと待ってね! 順番に行くから!」
汗をかきながら子どもたちの対応に追われる義男さんは、気がつけばすっかり、子ども食堂の頼もしいスタッフの一員と化していた。
◇
賑やかだった子ども食堂も最後の親子を送り出し、今日も無事に閉店の時間を迎えた。
みどりちゃんとおかみさんが手際よく店内の掃除を始める。
すると、当然のような顔でおかみさんからモップを受け取った義男さんも、黙々と掃除に参加し始めた。
義男さんは慣れた手つきで椅子を次々とテーブルの上に上げ、手際よく床にモップをかけていく。
その動作は、まるで身体に染みついているかのように板についていた。
幼い頃の義男さんが懸命に店を掃除している姿が、ふと頭に浮かぶ。さすがはこの店で育っただけのことはある。年季が違う。
サブは厨房で皿洗いに没頭し、俺はみんなの賄いの準備を進める。
今日のメニューは、香ばしい醤油の香りが食欲をそそる大将直伝の焼きうどんだ。
片付けも一段落したところで、みんなでテーブルを囲み、出来上がった賄いをいただくことにした。
「今日も賑やかで楽しかったねぇ?」
「本当ですね! 子どもたちもみんな満足そうでした」
ズルズルと勢いよくうどんをすすりながら、今日の出来事や感想を和やかに語り合う。
そんな賑やかな会話の中、ふと義男さんが箸を止めた。
義男さんは隣に座る大将に向き直ると、静かな声で語りかけた。
「父さん……父さんが守ろうとしているものが何なのか、分かった気がするよ」
そして今度は俺の方へと向き直り、まっすぐな眼差しを向けてきた。
「桐山さん。父さんと母さんを……そしてこの店を、どうかよろしくお願いします」
義男さんは、俺に向かって深々と頭を下げた。
「義男……」
横で聞いていたおかみさんが、たまらずといった様子で目頭を押さえる。
「はい……! お任せください!」
込み上げる胸の熱さを感じながら、俺はそう力強く答えるのが精一杯だった。




