15 相棒と、はじめての休日
その日、自宅に帰宅してから、俺は葵先生にメッセージを送った。
義男さんから無事に『たまや食堂』を継ぐことを認めてもらえたという件についての報告だ。
送信してすぐに、葵先生から返信があった。
『それは、本当に良かったです。詳しい経緯や今後の進め方についてもう少し詳しくお話を聞きたいのですが……明日の夜、お食事も兼ねていかがでしょうか?』
画面に表示された思わぬ食事のお誘いに、俺は少々意表を突かれた。
明日は日曜日。昼間は子ども食堂の運営があるが、夕方には一区切りがつく。
それにしても……わざわざ休日の夜にまで俺からヒアリングをしようだなんて、先生は本当に仕事熱心だなと感心してしまう。
『はい、大丈夫です! ぜひよろしくお願いします』
俺がそう返すと、間髪を容れずに再び返信が届いた。
『では、夕方六時に八王子駅で待ち合わせでよろしいでしょうか? 良い雰囲気のお店を知っていますので、私が予約しておきますね』
「わざわざ店の予約までしていただけるなんて……なんだか申し訳ないな」
スマホを見つめながら、ポツリと独り言が漏れる。
しかし……良い雰囲気のお店、か。
冷静に考えれば、葵先生だって年頃の素敵な女性なのだ。せっかく休日の夜に食事をするのなら、静かでオシャレなお店が良いと思うのは当然のことだろう。
(あ……そういえば……)
ふと、葵先生をロイヤルホストでの昼食に誘ったときの記憶が頭をよぎった。
(しまった……! いくらランチだったとはいえ、ファミレスに連れて行ったのは、もしかして不作法だったんじゃ……?)
今さらながら当時の配慮のなさに気づき、俺は冷や汗をかきながら後悔した。だが、過ぎてしまった過去を悔やんでも後の祭りである。今回は大人しく葵先生のエスコートにお任せするのが無難だろう。
ともあれ、俺は急いで感謝と承諾の返信を打ち込んだ。
『承知いたしました。お店の予約までお任せしてしまい、本当に恐縮です。では明日、よろしくお願いいたします』
画面を閉じ、胸を撫でおろす。
明日の夜は、どんな美味しいお店でどんな仕事の話をするのだろうか。俺はそんなことを考えながら、明日の準備に取りかかるのだった。
◇
翌日。無事に子ども食堂の運営を終えた俺は、一度自宅へ帰り、入念に身だしなみを整えてから約束の時間に間に合うように八王子駅へと向かった。
葵先生は「良い雰囲気のお店」と言っていた。だから念のため、TPOを意識してシャツの上にジャケットを羽織ってきた。いくら現在フリーターの身とはいえ、大人の最低限のマナーはわきまえているつもりだ。
改札近くの約束の場所で待つこと数分。
「信之さん、お待たせしました」
聞き覚えのある声に顔を上げた瞬間、俺の思考は完全に停止した。
そこに立っていたのは、いつものビシッとしたスーツ姿ではなく、淡い色の可憐なワンピースに身を包んだ葵先生だった。
肩まで下ろされた艶やかな髪が、夕暮れの街風にそっと揺れている。
プライベートな葵先生の姿を見るのは、これが初めてだった。
だが、そんな感慨に浸る余裕すら、一瞬で吹き飛んだ。
(いや、ちょっと待て……めちゃくちゃ可愛いのだが!?)
普段の仕事モードのキリッとした凛々しい雰囲気はどこへやら、今日の葵先生はどこまでも清楚で、守ってあげたくなるような柔らかい空気を纏っている。ギャップが凄すぎて、視線をどこに送ればいいのか分からない。
不意を突かれた俺の心臓は、警報のような激しい鼓動を打ち始めた。
だが、葵先生はそんな俺の挙動不審な様子などどこ吹く風といった様子で、柔らかくほほ笑んだ。
「では、参りましょうか。あちらです」
そう言って、すたすたと歩き出す。俺は狼狽えながらも、必死にその後に続いた。
駅から歩くこと数分。目指すお店に到着した。
ガラス張りの小洒落たドアを開けると、店内は温かみのある照明で包まれた、落ち着いた空間が広がっていた。店員さんに案内され、奥のテーブル席へと通される。
(おお……さすが葵さん。おしゃれな店をよく知ってるなぁ)
料理への期待が高まる素敵な雰囲気に感心しつつ、ふと周囲を見回してみると、楽しそうに談笑するカップルや女性同士のグループが目に入る。そういえば、こうして二人きりで食事に来ているのだと思うと、急にそわそわとした気持ちが込み上げてきた。
そんな俺の密かな緊張などお構いなしといった様子で、葵先生は楽しそうにメニューを広げた。
「これ、すごく美味しいですよ。信之さんのお口にも合うと思います」
そう言って、首を少し傾げながらメニューを指差し、嬉しそうに勧めてくる。
無防備な笑顔と距離の近さに、俺は照れくささを誤魔化すように頷くのが精いっぱいだった。
◇
それでも、美味しそうな料理がテーブルに運ばれてくる頃には、俺もようやく平常心を取り戻すことができた。
華やかなおしゃれ料理に舌鼓を打ちながら、俺は昨日の子ども食堂でのドタバタ劇を葵さんに語って聞かせた。
葵さんは俺の話に嬉しそうに耳を傾け、時におかしそうに笑った。
「子どもたちのおかげで、義男さんの胸の中にあったわだかまりが綺麗に消えたのでしょうね」
葵さんが感慨深げに頷く。
「ええ。それに、葵さんの事前の説明も効果抜群だったと思います。理屈と感情の両面からのアプローチが功を奏したんですよね」
俺も大きく頷いて相槌を打つ。
――ちなみに。
俺がさっきから彼女のことを「葵さん」と呼んでいるのには、ちゃんとした理由がある。
席に着いた直後、いつもの調子で「涼風先生」と呼んだところ、
「『たまや食堂』のみなさんからは『葵ちゃん』と呼ばれているのに、信之さんからだけ『先生』と呼ばれるのは違和感があります」
と、少し不満そうに抗議を受けてしまったのだ。
「では……僭越ながら『葵さん』とお呼びしてよろしいでしょうか?」と尋ねると、彼女は満足そうに微笑み、こうして名前で呼ばせていただくことになったのである。
……正直、呼び慣れないせいか、なんだかお尻のあたりがむず痒くて落ち着かないのだが。
ともあれ。
義男さんの一件の報告も無事に済み、ようやく本題であるこれからの『たまや食堂』の引き継ぎ予定について話を進める。
「とはいっても、『たまや食堂』の譲渡は急ぐ必要はないと思いますよ。大将さんやおかみさんがお元気なうちに引き継げれば良いわけですから」
グラスを置き、葵さんが続ける。
「事業譲渡の準備として、大将さんには過去3年分の確定申告書や厨房機器の減価償却データなどをご用意いただく必要がありますが……そのあたりは私がサポートして、無理のないペースで進めていただきますので」
「はい、よろしくお願いします。そうですよね……俺も数か月かけて、しっかりと経営ノウハウを引き継ぎたいと考えているんです」
「とても良いと思います。信之さんは、まずはざっくりとで構いませんから、中長期の『事業承継ロードマップ』を考え始めるのが良さそうですね」
「ええ。おじいちゃんの相続税や株主優待の整理とも並行しながら、計画的に進めていきたいと思います」
俺の意見に、葵さんは「うん、うん」と満足げに頷いてくれた。
そんな葵さんの表情を見つめながら、俺は胸の奥でぼんやりと温めていた想いを、言葉にして口にした。
「できれば……おじいちゃんの遺産を、『たまや食堂』の未来や子ども食堂の発展、そして、子どもたちや困っている人たちの支援に活用したいと思っているんです。まだ具体的な案があるわけじゃないですけど……たぶん、そういう使い方をすることが、おじいちゃんも一番喜んでくれるような気がして」
少し照れくさくなって話し終えた俺を、葵さんは黙ってじっと見つめていた。
そして――そっと、テーブルの上に置かれた俺の右手に、自身の小さな手を重ねてきた。
ドクン、と心臓が跳ね上がり、跳び出しそうになる。
「……素晴らしい考えだと思います。その信之さんの夢に、私もぜひ協力させてください」
「あ……はい。よろしくお願いします」
俺はどきまぎしながら、重ねられた彼女の手の上に、己の左手をそっと重ね返した。
伝わってくる彼女の手の温もりを感じながら、俺は確信していた。
葵さんは、俺にとって単なる『契約上の税理士』ではない。大げさに言えば、同じ夢を追いかけていく『相棒』のような存在なのだと。
いや――本当はもっと前からそう感じていたのだということに、俺は今更ながら、気づかされたのだった。




