08 相続税への第一歩と、突然のSOS
食後のコーヒーに手を伸ばし、葵先生がふうと優雅に一息ついた。
上品にカップをソーサーに戻すと、彼女は少し表情を引き締め、ビジネスの顔に戻って話を切り出した。
「さて……優待品や食料品の資産整理もひと段落しましたし、次はいよいよ、相続税の工面を考えなければいけませんね」
「相続税、ですか」
「ええ。法律上の納付期限は10ヶ月以内ですが、実務上は9ヶ月目までに納税を完了させるのが無難です。万が一振込の手続きや提出書類に不備があったとしても、残り1ヶ月あれば十分に対応できますからね」
「なるほど……確かに、期限ギリギリで慌てるのは怖いですもんね。ということは先生、移管手続きが終わったら、俺の口座から、どの銘柄を売るのか俺自身で判断して、現金化を進めていけばいいんですね?」
「はい。基本的にはその通りです。ちなみに、相続税を納めるために株を売却する場合、『取得費加算の特例』という制度が使えます。これを使えば、売却益にかかる約20%の所得税を大幅に抑えられます……というか、信之さんの場合はほぼ免除に近い形にできますよ」
「えっ、20%も引かれないんですか!?」
「ええ。自分が支払った相続税の一部を『株の取得費(経費)』として差し引くことができる特例なんです。ですので、普通に売ると高い税金を取られてしまう『利益の大きい株』から優先して売却していくのが、セオリーではありますね」
「なるほど……! めちゃくちゃ助かる制度ですね。よく分かりました。じゃあ、まずはどの銘柄から売っていくか、自分で一度じっくり考えてみますね」
「はい。ポートフォリオを見て迷ったり、わからないことがあったら、いつでも何でも聞いてくださいね」
そう言って優しく微笑む葵先生に、俺は「頼りにしてます」と心の中で深く感謝しながら、温かいコーヒーを口に運んだ。
◇
ランチの後、職場に戻る葵先生を見送った俺は、その足で、街の金券ショップへと向かった。
駅前の雑居ビル。その少し年季の入ったエントランスを通り抜け、目当ての金券ショップの重いガラス扉を押し開けた。
カウンター越しに漂う独特の紙の匂いと、目まぐるしく変わる相場表のモニター。俺は意を決して店内へ足を踏み入れ、カウンターの店員さんに声をかけた。
「すみません、事前に電話でお約束していた桐山ですが……」
「あ、桐山様ですね! お電話くださりありがとうございます。こちらへどうぞ」
大量の金券買取という件がすでに共有されていたのか、店員さんはすぐに納得した様子で頷くと、カウンター横の「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアを開けた。
表の雑多な喧騒とはうって変わり、奥に用意されていたのは防犯用のアクリル板と静かなテーブルが置かれた、こぢんまりとした応接エリアだった。
「……これなんですけど」
俺は、肩から下ろしたカバンを開け、中に詰めていた優待券の束を取り出し始めた。
あらかじめ自宅で100枚ごとに帯で束ねておいた金券の山。それをドサドサとテーブルの上に積み上げていく。
ずっしりとした手応えとともに、目の前には高さ30センチを超える圧巻の『紙のタワー』が出来上がった。
「……いや、これは……壮観ですね」
対面に座っていた担当のお兄さんは、アクリル板の向こうで一瞬だけ目を丸くしたあと、感嘆の声を漏らした。目の前にそびえ立つ紙の山を前にして、職人っぽい目つきにパッと切り替わる。
「それでは、ただいまより査定に入らせていただきます。枚数が枚数ですので、少々お時間を頂戴いたしますね」
そう言うと、奥からもう一人のスタッフを呼び寄せ、プロ2人がかりでの怒涛の査定作業がスタートした。
手慣れた手つきで発行会社や有効期限ごとに素早く仕分けられ、偽造防止の特殊インクをチェックし、パチパチと音を立てて金券計数機を滑り抜けていく。
一網打尽にしていくようなその圧倒的なプロの職人技を、俺は興味津々で眺めていた。
そうして待つこと、小一時間。
「――大変お待たせいたしました。こちらが本日の査定結果になります」
差し出された計算書に目を通し、俺は思わず生唾を呑み込んだ。
査定の結果、買い取ってもらった優待券の合計金額は――約250万円。
「こちら、お確かめください」
カウンターにドンと置かれたのは、人生で初めて目にする本物の帯付きの札束だった。
受け取る手がわずかに震える。ずっしりとした重みを噛みしめながら、鼓動をバクバクと高鳴らせてバッグの奥底へと納め、俺は逃げるように帰路を急いだ。すれ違う通行人全員が自分のバッグを狙っているような妙な緊張感に包まれ、背中に嫌な汗が伝う。
マンションに帰り着き、鍵をかけてようやく深く息を吐き出した。
それからしばらくすると、インターホンが鳴り、宅配業者のお兄さんがやってきた。フードバンクへ寄付する食品類の集荷に来てくれたのだ。
廊下に並べた段ボール箱は、清涼飲料水やレトルト食品などで結局またしても計10箱。
ちょっとした引っ越しレベルの量を台車へと積み込んでいくお兄さんに、俺は「多くてすみません……」と少し恐縮しながら見送った。
さてと。
これで本日の仕事は大方片付いた。
資産管理シートの作成に、優待券の現金化、そして賞味期限のある食品の寄付。相続税を納めるための下準備と取り急ぎのタスクは、これで綺麗に終わらせることができた。
だが――まだもうひとつ、非常に大きなタスクが残っている。
このじいちゃんのマンションは賃貸だ。したがって、速やかに荷物を整理して部屋を引き渡さなければならない。
大家さんも実はじいちゃんの長年のファンだったらしく、「急ぎませんから、納得のいくまでゆっくり片付けてください」と特例で2ヶ月間もの猶予をもらっている。だが、いくら優待品を処分したとはいえ、部屋にはまだまだじいちゃんの生活品や愛用品があふれかえっているのだ。のんびり構えていたら2ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまうだろう。
(さて……どこから手を付けたものか)
腕を組み、思案に暮れかけたその時、ポケットの中でスマホがけたたましく鳴り響いた。
画面を見ると、表示されていたのは『たまや食堂』の文字。
おかみさんからだった。
(珍しい人からかかってきたな……)
首をかしげながら通話ボタンをスワイプする。
『あ、ノブちゃん? 急で本当に悪いんだけど……今日の夜のシフト、入ってもらうことってできないかねぇ!?』
スマホの向こうから聞こえてきたのは、焦りを隠しきれないおかみさんの声だった。
事情を聞くと、どうやら今日の昼間、大将が派手にギックリ腰をやってしまい、起き上がることもできない状態になってしまったらしい。
それでも頑固な大将は「急に店を休むわけにはいかん!」と譲らず、ピンチヒッターとして俺に白羽の矢が立ったというわけだ。
「わかりました。すぐ行きます」
俺は二つ返事で了承すると、スマホをポケットに放り込み、勢いよくおじいちゃんのマンションを飛び出した。




