最終話 たまや食堂の未来
株式会社『たまや』の設立を決意してから、およそ三ヶ月。俺たちの前には、想像以上の現実的なハードルが立ちはだかっていた。
会社設立のノウハウも皆無だった俺は、法務局や公証役場へ提出する書類の山を前にして、最初は完全に途方に暮れていた。それに輪をかけて難関だったのが、銀行の法人口座開設と、メガ・ディッシュとの業務提携に向けた「事業計画書」の作成だ。
上場企業の厳格なコンプライアンス審査を突破するため、葵は不眠不休で膨大な財務予測を弾き出し、俺は俺で「どんな店舗再生スキームで店を立て直すのか」という実務的なプランを泥臭く書き上げた。
設立資金や税務上の優遇措置を巡る葵との議論、幾度となく差し戻される法的な書類修正——幾多の困難を二人で二人三脚で乗り越え、ようやく法務局から株式会社『たまや』の設立登記完了の通知が届いたのだった。
だが、安堵したのも束の間だった。メガ・ディッシュの神山から「FC加盟を拒否し、経営が行き詰まっている個人店舗」の再生案件が、早くも持ち込まれ始めたのだ。
直営店舗としての『たまや食堂』の営業、新しく手がける店舗再生事業の現場指揮、そして法人としての契約実務や法人口座の管理……。
膨大な業務が一気に押し寄せ、俺は自身の限界と、ある決定的な事実に直面していた。
(葵が非常勤として、仕事の合間にアドバイスをくれる程度じゃ、とても回りきらない……)
夜の営業が終わり、静まり返った『たまや食堂』。
カウンター席に座る葵の前に、俺は熱いお茶を淹れて差し出した。
「信之くん、どうしたの? そんな真剣な顔をして」
葵はお茶の湯気越しに、不思議そうに首を傾げた。
「葵。今の税理士事務所をやめて、株式会社たまやの『常勤取締役』になってほしい」
一瞬、店内から音が消えた。
葵は持っていた湯呑みをゆっくりとテーブルに置き、俺の目をまっすぐに見つめ返した。
「……本気で言っているの? おじいちゃんの事務所での私の立場や、キャリアも知っていて?」
「ああ、本気だ」
俺は身を乗り出し、言葉に力を込めた。
「メガ・ディッシュとの提携も、これからの店舗再生も、現場を引っ張る俺と、財務や経営を固める葵の二人三脚じゃなきゃ絶対にうまくいかない。外部の顧問じゃダメなんだ。俺の隣で、同じ熱量で会社を引っ張ってくれる葵が必要なんだ」
葵は腕を組み、プロの税理士の鋭い目つきで俺を試すように囁いた。
「おじいちゃんの事務所を辞めて、できたばかりのベンチャー企業に飛び込むのよ? 私の人生を賭けさせることになるのよ、信之くん」
「知ってる。だから——」
俺は深く息を吸い込み、葵の手を静かに、だが強く握りしめた。
「俺がスカウトしたいのは、優秀なCFOだけじゃないんだ」
「え……?」
不意を突かれたように、葵の瞳が揺れた。
「3.8億円の相続税のときも、たまや食堂や天龍の再生のときも、会社を作るときも……いつだって葵が俺の隣にいてくれたから、俺はここまで来られた。葵がいない未来なんて、俺には考えられない」
俺はカウンター越しに葵の目をまっすぐ見つめた。
「会社の経営だけじゃない。俺のこれからの人生も、全部葵に預けたい。……俺と結婚してほしい」
店の静寂の中で、俺の言葉だけがまっすぐに響いた。
葵は目を見張り、固まった。普段の冷静で知的なエリート税理士の顔が、瞬く間に赤く染まっていく。
「……ずるいわね、信之くん」
葵は握られた自分の手に視線を落とし、少し声を震わせた。
「そんな風に仕事の覚悟と人生の覚悟を一緒にぶつけられたら……断れるわけないじゃない。」
葵は顔を上げると、瞳にうっすらと涙を浮かべながら、愛おしそうに微笑んだ。
「いいわ。私の人生、全部あなたに投資してあげる。その代わり——日本一の食堂グループにするまで、絶対に逃がさないからね? 社長」
「ああ、望むところだ」
暖簾を下ろした夜の店内で、俺たちは二人で新しい歩みを踏み出す誓いを交わした。
経営の共同パートナーとして、そして、生涯をともに歩む夫婦として。
◇
——それから、数年の月日が流れた。
「こんにちはー!」
開店時間になると、『たまや食堂』に、続々と子どもたちや親子連れがやってきた。
子ども食堂の開店だ。
「いらっしゃーい。さあ、こっちに座って」
葵乃が子どもたちを席へと案内する。
「葵乃ちゃん、いつもお手伝いえらいねえ」
「うちの子と同じ小学三年生とは思えないわ」
子どもたちのお母さんが葵乃を褒めると、
「葵乃、お手伝いしてるんじゃないわよ。お父さんのビジネスパートナーなの」
と、一丁前の口を叩く。母親譲りの聡明さとどこか大人びた仕草は、すでに未来の跡取りとしての貫禄すら漂わせていた。
俺は厨房で、子どもたちへの料理の仕上げに入る。今日のメニューは、子どもたちの大好きなハンバーグだ。
平日は株式会社『たまや』の代表として経営や店舗再生事業に大忙しで、『たまや食堂』の厨房はゲンに任せっきりの俺だが、休日に開催している子ども食堂では、できるだけ厨房に立つようにしている。
子ども食堂は、株式会社たまやの重要なCSR(企業の社会貢献活動)であり、地域貢献事業の一環だ。だが、難しい理屈は抜きにして、要は子どもたちにおいしい料理を食べてもらい、誰もが笑顔になれる安心の居場所を作りたい——ただそれだけだった。
株式会社たまやは設立以来、地域に愛されながらも存続の危機にある飲食店の再生に取り組んできた。
うちが得意とするのは、長年のノウハウや歴史、愛される味、そして根強い常連顧客がいるにもかかわらず、高齢化や後継者不足、デジタル化への不案内によって店じまいを余儀なくされている「事業承継型」の店舗再生だ。まさに、かつての『たまや食堂』と同じパターンである。
ただ資金を出すだけではない。『たまや食堂』や『食堂天龍』で培った現場目線の改善手法と、葵が組み立てる財務・税務の徹底した健全化。その双方をベースに、毎回その店ごとに合わせたオーダーメイドの解決策を模索しながら再生に挑んでいる。
時には事業承継の税務や法的な権利調整、M&Aスキームの構築に頭を悩ますことも多い。だが、それもまた経営者として最高に面白い挑戦だし、見事に再建を果たし、店を残せたことに涙を流して喜ぶ店主や大将たちの笑顔を見るのは、何物にも代えがたい喜びだった。
今では、メガ・ディッシュのアライアンス推進部で部長を務める神山と密に連携を取りながら、上場企業のネットワークと株式会社『たまや』の再生ノウハウを掛け合わせ、事業規模を順調に拡大させている。まもなく、八王子に新たな自社オフィスを開設する予定だ。
「さあ、支度ができたわよ。葵乃、運んでくれる?」
葵が熱々のハンバーグが乗った皿を葵乃に渡す。常勤取締役として会社を力強く牽引する葵も、ここでは優しい母親の顔を見せている。
「わかったわ、お母さん。任せて」
葵乃は小さな手に器用に皿を乗せ、背筋をピンと伸ばしてテーブルへと運んでいく。
「はい、おまちどう!」
「うわあ、おいしそう!」
今日も子どもたちの元気な声と歓声が、たまや食堂の中にどこまでも温かく響き渡った。




