29 株式会社たまや
『たまや食堂』の昼営業が終わり、暖簾を下げたばかりの静かな店内に、メガ・ディッシュの神山が訪ねてきた。
テーブル席へ案内した俺と葵に対し、神山は開口一番、重々しい口調で告げた。
「桐山さん、……申し訳ない。ダメでした」
そう言って、神山は突然深々と頭を下げた。スーツの肩が細かく揺れている。
「メガ・ディッシュのFCに加盟するのは抵抗があるけれど、店舗の立て直し自体は一刻を争う——そんなお店を桐山さんに紹介して再生ノウハウを当てはめてもらう、というスキーム自体は上層部も乗り気だったんです」
神山は葵が淹れた冷たいお茶を一口飲み、喉を鳴らしてから言葉を続けた。
「問題は、桐山さんが『個人』であるという点でした。どれほど素晴らしい再生実績があろうと、弊社のような上場企業としては、法的なバックボーンとコンプライアンスが定まった信頼のある相手でないと、こうした顧客紹介や提携の取引は行えないと。もし紹介先でトラブルが起きれば、メガ・ディッシュ全体のブランド信用に関わりますから」
「もちろん、桐山さんの人柄も『食堂天龍』での見事な再建実績も間違いないと力説したのですが……決裁を通すには、やはり『目に見える客観的な証明』が必要になってくるようです」
神山は悔しそうに拳を握りしめたあと、意を決したようにまっすぐ俺の目を見た。
「そこで桐山さん、僕から提案なんですが……桐山さん、会社作りませんか?」
「え……会社?」
唐突な言葉に俺が目を丸くすると、隣に座っていた葵がすかさず身を乗り出した。
「信之くん、それはすごく良いアイデアかもしれないわよ。ビジネスの世界において、個人事業主と法人とでは、企業間取引にしろ銀行融資にしろ、信用力と選択肢の幅が全く違うもの」
「つまり……『たまや食堂』を法人化する、ということかい?」
「その通りよ」
葵は手帳を広げ、素早くペンを走らせながら言った。
「例えば、株式会社『たまや』を設立するの。直営店舗として『たまや食堂』をその事業の柱にしつつ、将来的な店舗展開や、メガ・ディッシュさんからの顧客紹介を受けるためのコンサルティング・再生事業部を会社の中に組み込む。法人という器さえ作ってしまえば、資本金や決算書という形で社会的な信用を可視化できるわ」
「なるほど……」
俺は腕を組み、葵の書いたメモを見つめた。
しかし、法人化、か。
ほんの半年前まで、自分自身の将来すら見えず、日銭を稼ぐだけのフリーターだったこの俺が、経営者として「会社を作る」なんて発想は、それまで思いもつかないことだった。
だが——胸の奥から、ふつふつと熱い高揚感が湧き上がってくるのを感じていた。
おじいちゃんが残してくれた莫大な資産をしっかりと生かし、自分の足で『たまや食堂』と『天龍』の再生を果たした。そして次は、会社という新しい組織を立ち上げ、困っている他の飲食店まで救う手助けができるかもしれない。
(面白いかもしれないな……)
俺は神山と葵の顔を交互に見つめ、口元に自然と笑みを浮かべていた。
◇
『たまや食堂』を法人化する案について、大将とおかみさんに相談してみた。
「私たちは、隠居の身よ。ノブちゃんの好きにすれば良いと思うわ」
「天龍の兄さんもお前に感謝していた。兄さんみたいに、困っている店を助けてやってくれ」
それが二人からの回答だった。
ふたりの後押しもあり、俺は、株式会社『たまや』の設立に向け、動き出すことにした。
しかし、会社ってどうやって作るのだろう?
知らない。
困った俺は、俺の頼れる恋人でありエリート税理士である葵の力を借りることにした。
葵を夕食に誘う。「食事をしながら、会社設立について、教えてくれないか」
八王子の静かなレストラン。
運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、葵がレクチャーを開始した。
「信之くん。まずはね、会社を作るための『基本事項』を5つ決めないといけないの」
葵はワイングラスを傾け、どこか誇らしげな笑みを浮かべながら指を一本立てた。
「1つ目は『商号』、つまり会社名ね。これは『株式会社たまや』で決定として。2つ目は『本店所在地』。たまや食堂の住所でいいわ。そして3つ目が『事業目的』。ここが今回の肝よ」
「事業目的?」
俺が首を傾げると、葵はフォークを置いて手帳を開いた。
「会社は定款に書いた事業目的以外の仕事は原則としてできないの。だから『飲食店の経営』だけじゃなくて、メガ・ディッシュさんからの顧客紹介を受けることを見越して『飲食店に関する経営コンサルティング業務』や『店舗再生の企画・運用』まで最初から組み込んでおくのよ」
「なるほど……将来やるかもしれないことも、あらかじめ書いておくんだな」
「その通り。そして4つ目が『資本金』ね」
葵の瞳が、プロの税理士のそれに切り替わる。
「今は法律上、1円からでも会社は作れるわ。でも、信之くんの目的は『メガ・ディッシュという上場企業から信用を得ること』でしょ? あまりに少ない資本金じゃ、法人の器を作った意味がないの」
「いくらくらい用意すればいいんだ?」
「資本金が1000万円未満なら、設立から最大2期間は消費税が免除される税制上のメリットもあるの。だから最初は500万円から900万円あたりに設定するのが一番賢い選択ね。信之くんには相続した株式の資金があるから、出資自体は全く問題ないわよね?」
「ああ、それなら十分用意できる」
「よかった。そして最後の5つ目が『役員構成』ね。最初は信之くんが代表取締役(社長)になって、株も100%保持する。これで意思決定のスピードは最速に保てるわ」
葵の手際があまりに見事すぎて、俺は感心するしかなかった。
「基本事項が決まったら、あとは実務よ」
葵はナプキンで口元を軽く拭い、これからのロードマップを頭の中で組み立てるように天井を仰いだ。
「定款を作って公証役場で認証を受け、法務局へ設立登記申請を出すの。手続き自体は私の知り合いの優秀な司法書士さんに任せるから、信之くんは印鑑証明を準備して、会社の銀行実印を作ればいいわ」
「任せきりで申し訳ないな……」
「ふふ、お礼は後でたっぷりいただくわよ?」
葵は悪戯っぽく微笑むと、少し真面目なトーンに戻って続けた。
「でもね、信之くん。本当に大変なのは『会社を作った後』なのよ」
「作った後?」
「ええ。法人口座の開設、社会保険への加入、そして個人事業から法人へ契約や資産を移す『法人成り』の手続き……。特に最近は銀行の法人口座開設の審査が厳しいから、事業計画書をしっかり作って挑まないとダメなの」
「なるほど……会社を作るって、ただ書類を出せば終わりじゃないんだな」
「そうよ。でも心配しないで。税務署や都道府県への設立届出、今後の会計処理も含めて、私が全部バックアップするわ。信之くんは、新しい会社の『社長』として、どんな店を救いたいのか、そのビジョンをしっかり描いておいて」
ワインのグラス越しに見つめてくる葵の瞳は、頼もしく、そしてどこまでも優しかった。
半年前にフリーターだった俺が、株式会社の社長になる。
葵の手厚いレクチャーと万全のサポートを受けながら、俺の胸の中にあった「会社を作る」という抽象的なイメージが、一気に現実のカタチとして組み上がっていくのを感じていた。




