03 子ども食堂と、おじいちゃんの宝物
その日は、おじいちゃんの部屋をできるだけ片づけてから、帰路に着いた。
自宅での夕食の時間。
「遺産相続って、思ってたのと違ってた」
俺は、両親に愚痴をこぼす。
「相続人がやるべきことが多すぎるんだ。特におじいちゃんの場合は尚更だ」
父さんは愉快そうに笑った。
「そうか。やっぱり、大変かあ」
母さんも、お茶をすすりながら楽しそうにうなずく。
「そうじゃないかと思っていたのよー」
「まあ、がんばれよ」
他人事だ。
じゃあ、資産整理を手伝おうか、とは、一言も言わない。
こういう事態を想定していたのだろう。実に抜け目のない夫婦だ。
◇
翌日。
今日は土曜日で、昼からバイトだ。
おじいちゃんの資産整理はいったん休止にして、俺は愛用の自転車に乗りバイト先へと向かう。
俺のバイト先は、法政大学多摩キャンパスの近くにある「たまや食堂」だ。
70代の大将とおかみさんが二人で切り盛りしている小さな定食屋で、俺も大学時代、ここで四年間バイトをしていた。
そして前職を退職後、親の厳しい視線に耐えかねてバイトを探し始めた俺を、昔のよしみで受け入れてくれたのがこの店だった。
俺の学生時代の頑張りを覚えてくれてて、「まあ焦らず次の仕事探せばいいよ」と温かく迎えてくれた。
「たまや食堂」は、法政のキャンパスが近いこともあり、平日は学生客でごった返すが、土日は一転して大学が休みになり店が空く。
そこで最近、大将とおかみさんはその時間を利用して「子ども食堂」を始めた。地域に貢献したいという、二人らしい優しい思いつきだ。
だが、土日の昼間というのは学生バイトが集まりにくい。
そこに、予定がスカスカでフットワークの軽い俺がすっぽりハマったというわけだ。
「おはようございます、大将、おかみさん」
暖簾をくぐると、出汁のいい匂いとともに「おお、ノブ。待ってたよ」と大将の破顔が迎えてくれた。
MARCHを出て、24歳にもなって学生時代のバイト先に戻っている自分に対して、胸の奥でチクリと疼くような惨めさや引け目がないと言えば嘘になる。
だけど、この温かい居場所と、自分を頼りにしてくれる人たちがいることだけが、今の俺の小さな救いだった。
◇
エプロンを締め、大将の横で仕込みを手伝っていると、「おはようございます!」と鈴が転がるような明るい声が店内に響いた。
暖簾をくぐって姿を見せたのは、今日一緒にシフトに入っている小野寺みどりだ。
法政大学社会学部の二年生で、俺にとっては大学の後輩にあたる。
「あ、ノブ先輩! おはようございます」
俺の姿を認めるなり、彼女は日だまりのように眩しい笑顔を向けてくれた。
……実に癒やされる。両親の呑気な態度や、おじいちゃんの部屋の段ボールの山で荒んでいた心が、一瞬で浄化されていくようだ。
「たまや食堂」は、カウンターが六席にテーブルが四つ。二十席あまりのどこにでもあるこぢんまりとした定食屋だ。
平日の昼休みともなれば腹をすかせた学生たちで戦場のようになるが、大将とおかみさん、それにバイト二人もいれば、二十席ちょっとの店内は十分に目が行き届く。
一方、「子ども食堂」にやってくるのは、近所の小中学生や親子連れなど、だいたい20人前後。大将たちが無理なく笑顔で迎えられる、ちょうどいい規模感だった。
時計の針が十一時半を指し、開店時間を迎える。
ガラガラと引き戸が開き、「こんにちはー!」と元気な足音とともに子どもたちが飛び込んできた。
「いらっしゃーい!」
みどりちゃんの弾けるような声が店内に広がり、一気に店が華やぐ。
よし、今日も、がんばるか。
◇
午後二時。今日の「子ども食堂」も盛況のうちに無事終了し、後片付けを済ませたあと、みんなで遅めの賄いをいただいた。
ちなみに賄い担当はいつも俺だ。本日のメニューは、大将直伝の親子丼。
「たまごトロトロー。おいしーい!」
みどりちゃんが一口食べて、感動したように舌鼓を打つ。
そうだろうとも。大将直伝の火加減と出汁の取り方をしっかり叩き込まれているのだ。うまいに決まっている。
「今日も子供たち、いっぱい食べてくれましたねー」
みどりちゃんが感慨深そうに呟く。
「みんな育ち盛りだからねえ」
おかみさんも目を細め、大将も満足そうに深くうなずいていた。
だが、大将たちの温かい笑顔の裏で、経営上の苦労があることを俺は知っていた。
子ども食堂の運営は、資金面でかなりカツカツなのだ。
子供たちは完全無料であるが、付き添いの親から300円をもらい、近所の商店街から形が不揃いな野菜や賞味期限が近い食材を格安で譲ってもらってはいるものの、それでも足りない経費は平日の店の売上から持ち出している状態だった。
(なにか打開策はないのかな……)
そんなことを考えながら親子丼を頬張っていたとき、頭の中でピキンと電波が繋がった。
――あるじゃないか、ありあまるほどの食材が!
そう、おじいちゃん……あの桐山広海の部屋に!
思わず膝を叩き、声を上げていた。
「大将! 知り合いのつてで、お米とか無料で手に入るルートがあるんですけど、今度持ってきましょうか?」
「おおっ、そいつはすげえ! ノブ、本当か? ぜひ頼むよ!」
大将が身を乗り出して食いついてくる。
「今の時代に、そんな親切な人がいるんだねえ。ありがたいねえ」
おかみさんも感心したように胸をなでおろしていた。
「任せてください。お米だけじゃなくて、調味料とか缶詰もいろいろもらえると思うので、まとめてお届けしますね!」
胸を張って答える俺に、みどりちゃんが目を輝かせた。
「さすがノブ先輩! やっぱり社会人ってすごいですね!」
うっ……「社会人」というワードが胸にチクリと刺さるものの、可愛い後輩に尊敬の眼差しで見つめられ、俺は思わず鼻の下がデロリと伸びてしまった。
ただ――実は俺が、あの有名な「株主優待の桐山さん」の孫であることは、ここでは内緒にしている。
だから大将、お願いだから「どこの誰からもらうんだ?」とか、細かい詳細は聞かないでほしい……!
◇
月曜日の早朝。
俺は、資産整理のための道具をカバンに詰め込み、おじいちゃんのマンションへ向かった。
先日、ある程度片づけたおかげで、足の踏み場もなかった部屋は少しすっきりとして見える。
もう出会い頭に心を折られることはなかった。
「さてっ」と、俺は腕まくりをする。
この膨大な資産をどう整理していくか、俺はこの土日のあいだ、ずっと作戦を練っていたのだ。
混沌とした状況を紐解き、構造化する。それは、短いシステムエンジニア時代に嫌というほど直面させられた課題だった。 だから、対処法はすでに頭の中に用意できていた。
まず、部屋中に散らばっている未整理の品をすべて一箇所に集める。
その上で、内容を一つひとつ記録したものを「記録済み置き場」へと移動させる。その際、記録済みであることを示すシールと管理No.を段ボールに貼り付ける。
さらに、そのプロセスの中で種類ごとの仕分けも行い、ジャンル別に保管場所を決定していく――。
俺は意気揚々と作業を開始した。
だが、まさに「言うは易く行うは難し」だった。
ただ部屋中の未整理品を一箇所に集めるだけの作業で、気づけば昼を過ぎていた。
……もう、これだけでくたびれ果てた。
俺は段ボールの山に挟まれた壁に、そのままズルズルとへたり込む。
先は、あまりにも長い。
遅めの昼食として、途中のコンビニで買ったおにぎりをかじる。
噛み締めているうちに、なんだか急にバカバカしくなってきた。
(もうさ……記録、適当に書いて終わらせちゃおうかな……)
そんな甘い妥協が、頭の中をよぎり始める。
その時だった。
ふと差し込んだ日の光の先で、見覚えのあるロゴが入った一通の封筒が目に留まった。
マクドナルドの封筒だ。
引き寄せて中を覗いてみると、やはり見慣れた優待券が出てきた。
(……ああ、懐かしいな)
子どもの頃、おじいちゃんの家に行くと「ノブ、これで好きなハンバーガーお食べ」と、よくこの券を持たせてくれたっけ。
おじいちゃんとおばあちゃんに挟まれて、嬉しそうにポテトを頬張っていたあの頃の情景が、一気に脳裏によみがえる。
気づけば、俺の口元には小さな笑みがこぼれていた。
そして、再び目の前に積み上がった段ボールの山に目を移した、その瞬間。
唐突に、腹の底から湧き上がるように気づいたのだ。
ここにあるのは、ただのゴミでも、面倒な荷物でもない。
生前、おじいちゃんがその人生のすべてを捧げて手に入れてきた品々だ。
おじいちゃんの生きた証であり、おじいちゃんの「宝物」そのものなのだ。
――そうか。
この途方もない資産整理は、ただの片づけじゃない。
俺からおじいちゃんへの、最後の「弔い」なんだ。
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