02 株主優待の迷宮と、エリート税理士の塩対応
おじいちゃんのマンションの部屋に入った途端、冷蔵庫の中に入ったかのような底冷えする冷気が肌を刺した。
長期間締め切られていた室内は、まるで氷点下の暗室だ。俺は、封筒やらなにやらが散乱した床を、大切なものを踏みつけないように爪先立ちで慎重に進み、急いで壁のエアコンのリモコンを取り、暖房のスイッチを入れた。
室外機が低い音を立てて動き出し、しばらくして控えめな温風が吹き出し始める。俺はコートの襟を立て、吐く息がうっすらと白いことに苦笑した。
「……なかなか、散らかっていますね」
俺の背後で、白い息を漏らしながら涼風 葵が声を漏らした。
小柄な体に仕立ての良い冬用のスーツを纏い、マフラーをすっきりと巻いた姿は、どこか洗練された雰囲気を漂わせている。
彼女は、先日の葬式に参列してくれた顧問税理士・涼風先生の孫であり、彼が所長を務める『涼風会計事務所』に所属する若手税理士だ。
慶應義塾大学の商学部を卒業し、25歳で税理士試験に合格したらしい。現在26歳で、俺より二つ上だ。
今朝、涼風先生の事務所で初めて顔合わせをした際、先生から「孫の葵を勉強のために桐山さんの主担当にさせてもらえないか」と深く頭を下げられた。断る理由などあるはずもなく、俺は二つ返事で引き受けた。
ちなみに、25歳で税理士試験に合格というのは、業界的にも相当恐ろしいレベルのすごさらしい。
要するに、すこぶる頭が良いということだ。
おまけに、小柄でシュッとしたスーツ姿の見た目もちょっと可愛い。
担当を承諾したものの、職歴1年足らずで挫折したフリーターの俺としては、とにかく気後れするというか、幾分、居心地が悪かった。
今朝の話し合いで、3.8億円という相続税をどう支払うかを検討するにあたり、まずは広海おじいちゃんの資産保有状況や書類をざっと確認しようということになった。
そうしてさっそく、俺と涼風葵先生の二人で、おじいちゃんが暮らしていた都内の賃貸マンションを訪れたというわけだ。
◇
「株主優待として送られてきた『優待券や金券類』が部屋にどれだけ放置されているかを調べる必要があるのですが、さて、どこから手を付けたら良いものか……」
あちこちに散らばっている無数の株式関係の封筒を眺めながら、葵先生はひとりごちた。
「先生。そういう優待券とか金券まで、わざわざ調べる必要あるんですか?」
「あります。相続人である信之さんには、おじいさまの全財産を漏れなく集計して税務署へ『相続税の申告書』を提出する義務がありますから。未使用の金券も立派な財産……つまり課税対象なんです」
そう言われて、俺はあらためて足元から部屋の奥へと視線を巡らせた。
「……これを、ひとりで?」
途方に暮れる俺を見て、葵先生は静かに補足する。
「とりわけ、桐山広海さんは……その、類を見ないと言いますか、まさに規格外の保有数ですので。正直、それなりの時間は覚悟していただく必要があると思います」
そして一拍おき、俺の顔をじっと見つめながら言い放った。
「……幸い、信之さんは十分な時間が確保できるとお伺いしていますので、時間的な問題はクリアできるかと」
そう言った先生の声は、心なしか……いや、あからさまに冷たかった。
そうなのだ。今朝の初顔合わせのときから、どうも彼女の俺に対する態度が塩対応というか、妙に冷ややかだったのだ。
すでに引け目を感じている俺にとって、彼女の容赦ない正論は、額に強烈なデコピンを食らわされるがごとく直撃する。
うう、もう……家に帰りたい。
そんな情けない心情で、俺は部屋の中をぐるりと見渡す。
ふと、部屋の壁際に所狭しと積み上がっている未開封の段ボールの山に目が留まった。
段ボールの側面には、食品メーカーや日用品ブランドのロゴが印刷されている。
おそらく、お米やトイレットペーパー、洗剤セットなど、株主優待として送られてきた現物の品々だろう。
「先生。お米なんかの現物は、どうなりますか?」
俺が尋ねると、葵先生は積み上がった段ボールの山を見上げ、すっと目を細めた。
「原則として、家具や家電、日用品といった動産は『家庭用財産一式』としてまとめて評価・申告します。通常のご家庭であれば、お米や洗剤が数箱あっても、そのまま日常生活で消費されるものとして細かく集計することはありません」
そこまで言って、先生は天井近くまで届きそうな段ボールの塔を指差し、冷静に言葉を継いだ。
「ですが……この量は、明らかに個人の日常消費の枠を超えていますね。未開封のまま放置されているお米や日用品だけで、下手をすれば数十万円単位の価値になります」
「じゅ、数十万……」
「ええ。税務署から『実質的な資産の備蓄』とみなされれば、動産の評価額を押し上げる要因になります。それに……何より問題なのは食品の賞味期限です。放置して腐らせてしまえば価値はゼロになりますが、それは財産管理として論外です」
葵先生は手帳を取り出すと、カチリとボールペンの芯を出した。
「金券類の集計と並行して、段ボールの中身と賞味期限のチェックもお願いします。食べられるものは、信之さんが責任を持って消費するか、処分方法を考えてください」
「えっ……俺が食べるんですか?」
「相続人ですから。おじいさまの残された財産を無駄にしないのも、信之さんの大切なお仕事ですよ」
そう言って、葵先生はどこか楽しそうに、けれど一切の妥協を許さない完璧な笑みを浮かべた。
……やっぱり、今すぐ家に帰りたい。
その後、先生から具体的な記録の取り方のレクチャーを受けた。
発行元、額面、有効期限の書き出し方から、証拠としての写真撮影のコツまで、実に丁寧でわかりやすい説明だ。流石である。
一通り説明を聞き終えたところで、ふと疑問に思い尋ねてみる。
「集計さえ終われば、このクオカードを使ったり、お米を食べたりしても大丈夫なんですか?」
「勿論です。税務上で必要なのは『亡くなった日にいくら分あったか』という証明ですから、リスト化と写真撮影さえ済めば、あとはどう処分しようと信之さんの自由です」
葵先生は手帳を閉じると、淡々と言い添えた。
そんな話を聞いて、俺の頭の中にひとつのグッドアイデアが浮かんだ。
わざわざ金券ショップに売りに行ったり、毎日お米を限界まで食べ続けたりしなくても、もっと手っ取り早い方法があるじゃないか。
「先生。相続税を、『現物』で納めることはできないのですか?」
この大量のお米やクオカードを、そのままドカンと税務署に持ち込んで「これで納めさせてください」と言えば一発解決なのでは?
「論外です」
先生は、短く、かつ、冷ややかに言い放った。
「現物納付という制度自体は存在しますが、対象となるのは不動産や国債などが主であり、要件も極めて厳格です。間違っても『お米やクオカード』が認められることはありません」
「……ですよね」
「第一、税務署がお米の山を引き取ってどうするのですか。職員のみなさんで毎日おにぎりでも握れとおっしゃるのですか?」
「いや、そこまでは……」
「くだらない妄想をしていないで、手を動かしてください。私は事務所に戻って株式口座の資産評価を進めます。1週間以内に、そちらの段ボール箱すべてのリスト化をお願いしますね」
そう言い残すと、涼風先生は一度も振り返ることなく、カツカツとヒールの音を響かせてマンションを去っていった。
しん……と静まり返った部屋で、俺はひとり、天井まで届きそうなダンボールの塔を見上げる。
「……おにぎり、美味しそうだけどな」
ぽつりと漏らした独り言は、大量の株式関係の封筒に虚しく吸い込まれて消えた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
「続きが気になる!」 「面白そう!」 と思っていただけましたら、
★★★★★で応援していただけると、とても励みになります!
また、ブックマークや感想も一つひとつ大切に読ませていただいています。
皆さまの応援が、この物語を書き続ける大きな力になります。
次話もぜひお楽しみください!




