01 7.5億円の遺産と、3.8億円の請求書
俺のおじいちゃんは、ちょっとした有名人だ。
名を、桐山 広海という。
株主優待をこよなく愛し、日々の暮らしのほとんどを優待品だけで楽しむ。
そのユニークな生活ぶりを紹介する動画や雑誌の記事が話題となり、いつしか投資家界隈では「株主優待の桐山さん」と呼ばれるようになった。
優待券を片手に自転車で街を駆け回る姿は、多くの人に親しまれ、イベントや講演会に呼ばれることも珍しくなかった。
そんな、おじいちゃんが先日、死んだ。
享年八十一歳。
最期は家族に見守られながら、眠るように旅立った。
訃報はニュースで一斉に報じられ、全国のおじいちゃんファンが悲しみに暮れた。
苦しまずに旅立てたことだけが、何よりおじいちゃんにとって幸いだったのかもしれない。
葬儀は親族のみで、しめやかに行われた。
──そして、葬儀が滞りなく終わった後のこと。
生前のおじいちゃんが資産管理や法律関係を全面的に任せていたという弁護士と税理士の先生。葬儀にも参列してくださっていたお二人から「少々、大事なお話がございます」と別室へ案内され、俺と両親は向かい合って席に着いた。
そこで告げられたのは、おじいちゃんが残した遺言書の内容だった。
『全財産を、孫の信之に相続する』
あまりの展開に、俺も両親も開いた口が塞がらない。呆然とする俺たちに向かって、弁護士の先生は静かに言った。
「広海さんは生前、現在無職であられる……あ、失礼。お孫さんの信之さんの行く末を大変心配されておりましてね。信之さんに全財産を遺し、今後の生活の支えにしてやりたいとおっしゃって、固い決意でお手続きを進められたのです」
先生の申し訳なさそうな「現在無職」という言葉を上の空で聞きながら、俺は遠い目でおじいちゃんとの思い出を振り返っていた。
共働きだった両親に代わり、幼い頃の俺をいつも可愛がってくれたのが、おじいちゃんとおばあちゃんだった。たった一人の孫ということもあって、それはもう目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだった。
中学生になる頃には、おじいちゃんはマクドナルドやすかいらーくの株主優待券を「ほれ、信之」と小遣い代わりにくれたものだ。
これが中学生の俺には本当にありがたかった。タダでビッグマックが食べられるなんて、思春期の男子からすればチート以外の何物でもない。
その副産物として、俺は中学生にして「株式」や「配当」「株主優待」という存在を身近に感じて育つことになった。その影響もあって、実は俺自身もわずかばかりだが株式投資をやっている。といっても、新NISAでS&P500をちょこちょこ買っている程度だが。
大学に入る頃にはおじいちゃんたちと顔を合わせる機会も減り、やがておばあちゃんが先立つと、おじいちゃんは一人で都内の賃貸マンションへと移り住んだ。
そこからだ。おじいちゃんの「株主優待と共に生きる日々」が凄まじいスピードで加速していったのは。
世間でおじいちゃんが愛される一方で、ネットなどでは「本末転倒だ」「効率が悪すぎる」なんて冷ややかな声を叩く奴らもいた。
『優待株なんて全部売って、高配当株やS&P500、オルカンに一括投資した方が利率もいいし、時間も無駄にしないだろ』
だが、そんな野暮な意見を言う奴らは何も分かっていない。
おじいちゃんは、得をしたいからやってるんじゃない。優待生活そのものが大好きなのだ。
あれはもう、おじいちゃんにとって人生最高の「趣味」であり「生きがい」なのだ。
いくつになっても自分の好きなことを全力で追いかけ、ママチャリで風を切るおじいちゃんの姿を、俺は心の底から羨ましく、そして誇らしく思っていた。
──そんなおじいちゃんが、俺に全財産を相続する?
あまりに唐突すぎて、正直、まったく現実味が湧かない。ピンとこないのだ。
ふと隣を見ると、父さんも「はぁ……」と生返事をしているだけだった。俺と同様、事態の大きさをまるで飲み込めていないのだろう。
父さんはおじいちゃんと違って、株式投資には一切関心のない人間だ。母さんも同じくで、両親ともに生活に特別困っているわけでもなく、根が元々無欲な人たちである。ドラマによくあるような、血眼になって遺産を奪い合うドロドロの親族劇を起こす気配は微塵もない。むしろ、相続という面倒でややこしい手続きが自分に降ってこなくて、内心ほっとしているようにすら見えた。
かくいう、俺だが──。
俺は、いわゆるMARCHの一角である法政大学の経済学部を卒業後、都内の中堅システム開発会社にSEとして就職した。
だが、運悪く入社早々から地獄のようなデスマーチに巻き込まれる羽目になった。連日の終電超え、深夜残業、休日出勤の嵐……。心身ともにボロボロに疲弊した俺は、結局、1年足らずで逃げるように退職したのだ。
八王子の実家に這う這うの体で戻り、一応は転職活動を始めたものの、前職のトラウマが祟ってどうしても前に進む気力が湧かない。そうして何もできないまま、ズルズルと約1年が経とうとしていた。
実家での居心地も、時の経過とともに変わっていった。
最初の3ヶ月ほどは、傷ついた俺を同情と優しさで包み込んでくれていた両親の目が、時間を追うごとに「……で、いつまでそうしてるの?」という生暖かいものへと変化していったのだ。
無言で圧をかけてくるその視線から逃れるように、俺は重い腰を上げてアルバイトを始めた。
そして現在、表向きは「転職活動中」という建前を掲げつつ、その実態は完全なフリーター生活を送っているのである。
◇
そんな俺たち親子の心情を完全に置いてけぼりにして、弁護士の先生は淡々と具体的な説明へと進んでいった。
「広海さんの資産総額は、約7.5億円。そのほとんどが株式です。相続手続きが完了しましたら、広海さんの保有していた株式がすべて、信之さんの証券口座に移管されることになります」
続いて、隣に座っていた税理士の先生が後を引き継ぐ。
「幸い、信之さんは広海さんと同じ証券会社に口座をお持ちですので、他社からの移管に比べて手続きはかなり簡略化できます。広海さんの株式は、現在開設されている信之さんの特定口座に移管される形になりますね。ちなみに、広海さんがNISA口座で保有していた株式も、信之さんの特定口座に移管されることになります」
しれっと説明を続ける二人の先生を前に、俺の意識はゆっくりと現実へ引き戻されていった。
……7.5億て。
(え……俺、億万長者になったってこと!? もう働かなくていいの? 就職活動ももうやらなくていいの!?)
俺の脳裏には、突如としてアラブの石油王さながらの光景が浮かび上がった。
タワーマンションの最上階、豪華な革張りソファに深く身を沈め、名前もよく分からない数十万円の高級酒をグラスで傾けながら、美女たちに囲まれて高笑いする俺の姿──。
いかん、笑みが抑えきれない。思わず口元がダラリと緩む。
──その、刹那。
税理士の先生が、細かい数字と計算式がぎっしり書かれた書類を、そっとテーブルの中央に差し出してきた。
「なお、今回の相続税についてですが──」
先生は眼鏡の奥の目を穏やかに細めながら、さらりと恐ろしい計算手順を口にし始めた。
「資産総額7.5億円から基礎控除の3,600万円を引き、最高税率である55%を掛けます。そこから国の調整額(控除額)である7,200万円を差し引きますと、税額は約3.2億円。……そしてここからが重要なのですが」
先生はトン、と書類の一箇所を指で叩いた。
「今回は『孫への遺贈』ということで、一親トビ相続(一親等の血族以外への相続)となります。そのため、税額は1.2倍に加算されまして……最終的な相続税は、約3.8億円となります」
「さんおく……はちせん……」
「はい。この3.8億円を、10ヶ月以内に『現金』で国に納めていただく必要があります。よろしいでしょうか、信之さん?」
──え、相続税? 3.8億???
その数値を脳が認識した瞬間、先ほどまで脳内を占領していたアラブの石油王も、タワマンも、美女たちも、爆風に吹き飛ばされるように一瞬で消え去った。
さんおくはちせんまんえん。
そんなバカげた大金、一体どうやって用意すればいいんだ!?
え、おじいちゃんの株を売れってこと?
というか、総資産の半分以上を税金で持っていかれるってこと!?
日本の税制度えげつなっ!
それより、最後に出てきた『1.2倍』って何だよ! 孫だからってペナルティ食らってんの!?
頭の中で大パニックを起こし、完全に白目を剥きかけている俺を、税理士の先生は静かに見つめていた。
「突然のお話で、すぐには飲み込みにくいとは思います。具体的な今後の対策につきましては、私どもがしっかりとご相談に乗らせていただきますので。後日、ゆっくりとお話しいたしましょう」
そう言って、先生はどこまでも優しく、仏のような笑みを浮かべたのだった。
◇
一通りの説明を終えると、二人の先生は深く一礼して引き上げていった。
嵐が去った後の部屋には、毒気に当てられたように呆然と立ち尽くす俺たち親子三人だけが残された。
重苦しい静寂を破ったのは、父さんだった。
「まあ……信之も、もう一人前の大人なんだ。相続に関しては、税金のことも含めて自分できちんと処理しなさい」
「そうねぇ、困ったときはいつでも相談に乗るわよ」
母さんも優しく頷く。そして父さんは、まるで長年の重荷から解放されたかのように、どこか晴れやかな顔で言ったのだった。
「これで父さんたちも、お前に何ひとつ遺す必要がなくなったわけだ。いやぁ、肩の荷が降りたぞ」
相続についての現実的な会話は、それっきりだった。
──あ、これ面倒なやつ全部俺に押し付けられた。
二人はそのまま、おじいちゃんの新しい位牌が置かれた仏壇の前へと歩み寄っていった。
「……父さん、向こうで母さんに会えたかなぁ」
「ふふ、お義父さんのことだから、きっと天国でも忙しく自転車で走り回ってるんじゃないかしら」
「そうかもしれないな。……そういえば、まだ信之が小さい頃、……」
二人は線香の煙が静かに立ち上る位牌を愛おしそうに見つめながら、ぽつり、ぽつりと昔の思い出話に花を咲かせ始めた。
その和やかで、どこか寂しげな背中を眺めていた俺は──唐突に、その真意に気づいた。
そうか。
父さんたちは、面倒な相続の手続きを俺に丸投げしたくて話を切り上げたわけじゃないんだ。
父さんたちにとって、今は7.5億円という遺産の話なんかよりも、おじいちゃんとの思い出を慈しみ、その死を悼むことの方が、ずっと、ずっと大切なのだ。
それを理解した瞬間、俺の目頭はじわっと熱くなり、視界が涙で滲んでいくのを感じていた。
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