25 怪我の功名と、恋の始まり
大将に美味しい新秋刀魚の塩焼き定食のお礼を言い、また明日訪問することを約束して、俺たちは『食堂天竜』を後にした。
夕暮れの風が吹く中、二人並んで府中駅へと歩いていると、ふと葵さんが足を止めた。
「信之さん。……ちょっと、元気がないようですね?」
「ええ。……ちょっと、考え事をしていて」
顔に出ていたのだろう。気を使わせてしまったことを反省しながら不格好に弁明する。
すると、葵さんはじっと俺の顔を見つめ、それからふっと目元を柔らかく緩めた。
「よかったら、これから一杯行きませんか?」
思いがけない誘いに、俺は一瞬きょとんとして目を白黒させた。
◇
府中駅近くにある、小さなカフェバー。
ほんのりと照明を落とした心地よい静けさの中、カウンターに二人並んで腰掛け、静かにグラスを合わせた。
「葵さんと一緒にお酒を飲めるなんて、光栄です」
「ふふ、それはどうも。……信之さん、何か抱え込んでいそうだったので。よかったら、話を聞かせてくれませんか?」
こんな俺の様子に気づき、優しく手を差し伸べてくれる。さすが葵さんは、俺の唯一無二の相棒だ。
「実は……」
俺は葵さんに、今日神山に言われた言葉や、胸の奥でずっと渦巻いていた焦燥感を打ち明けた。葵さんは、ただ真摯な眼差しで、俺の言葉をひとつも取りこぼさないように耳を傾けてくれた。
俺がすべてを話し終えると、彼女はカクテルグラスをそっと置き、流れるような口調で言った。
「人を助けるのに、誰も100点なんて取れませんよ」
「え……?」
「メガ・ディッシュのやり方だって、信之さんのやり方だって、どちらも不完全で、でもどちらも正解なんです。神山さんには神山さんの戦い方がある。そして、信之さんには信之さんのやり方がある。それだけの話ですよ」
葵さんは真っ直ぐ俺を見つめ、迷いのない言葉を重ねる。
「信之さんも私も、まだ社会に出て間もない青二才です。自分に点数をつけようなんて、まだ百年早いですよ。ご自分の行いに点数を付けるのは、信之さんがおじいさまくらいの年齢になってからでも遅くはありません」
胸を覆っていた冷たい霧が、一気に晴れ渡っていくようだった。
神山の言葉でどこまでも深く沈んでいた心が、いま、葵さんの言葉によって優しくすくい上げられている。
(俺って……本当に単純だな)
我ながら現金なものだと内心苦笑してしまうが、彼女の言葉が、傷ついた胸の奥にどこまでも温かく染み渡っていくのは確かだった。
安堵と、己の情けなさ。色々な感情がこみ上げて目頭が熱くなり、俺は恥ずかしさを隠すように小さく俯いた。
その時、そっと温かい気配が寄り添ってきた。
葵さんが静かに手を伸ばし、俺の右手に、自身の左手を重ねてきたのだ。
「大丈夫。私がついていますから」
肌から直に伝わってくる、やわらかな熱。
不思議なほど心が落ち着き、強張っていた体が解けていく。
……いつぞやも、こうして手を重ねてくれたことがあった。
そうだ、あれは俺が葵さんに誘ってもらったレストランで、おじいちゃんの遺産の使い道を夢中で語った時だ。あの時も、葵さんは俺の夢をまっすぐ受け止めてくれた。
『信之さんの夢に、私もぜひ協力させてください』
あの時、彼女が紡いでくれた言葉が鮮やかに脳裏によみがえる。
温かな記憶に包まれながら、俺は重ねられた手から視線を上げ、ゆっくりと葵さんの方を向いた。
目が合う。彼女は真剣な眼差しで、まっすぐに俺の瞳を映し出していた。
――その瞬間。
俺は、唐突に、気づいた。
俺は今まで、葵さんのことを同じ夢を追いかけていく『相棒』だと思い込んでいた。そして葵さんもまた、俺のことを同志として見てくれているのだと、微塵の疑いもなく信じ切っていた。
だが、それは少し違っていた。
いや……決定的に、間違っていたのだ。
いつからだったのだろう。葵さんは俺のことを、ずっと――。
そう考えると、これまでの彼女の献身的な行動も、ふとした時に見せていた表情の意味も、すべてに辻褄が通る。
なんてことだ。俺はそんな彼女の想いや支えに、ただ甘え続けていただけだったのか。彼女の本当の気持ちに気づきもしないで。
自分のあまりの鈍感さと不甲斐なさに、胸が締め付けられるほど情けなくなった。
そして次の瞬間、それ以上に――俺のために今日まで寄り添い続けてくれた彼女のことが、たまらなく愛おしくなった。
溢れ出た感情に背中を押され、気づいた時には自然と唇が動いていた。
「葵さん。……あなたが、好きです」
静かな店内に、俺の少し震えた声が落ちた。
言葉にした瞬間、心臓が破裂しそうなほど大きく跳ね上がる。自分のあまりのストレートさに後から顔が熱くなり、俺は固まったまま葵さんの反応を待った。
数秒間の、息が止まるような静寂。
葵さんは目を見開いたまま俺を凝視していたが、やがて、俺の右手に重ねられていた彼女のやわらかな左手に、ぎゅっと力が込められた。
「……やっと、言ってくれましたね」
葵さんはふっと緊張を解くように表情を緩めると、いつもの少し勝気な笑みを口元に浮かべた。
「本当に鈍感なんですから……どれだけ待たせるつもりだったんですか」
挑むような、どこか呆れたような強気のセリフ。
だが、その言葉とは裏腹に――彼女の白い頬は瞬く間に朱に染まり、真っ赤になった耳の尖端まで隠しきれていなかった。
葵さんは俺の視線に耐えかねたように、ぷいっと横を向いて目を逸らしてしまう。重ねられた手のぬくもりと指先に込められた力が、彼女の激しい鼓動を雄弁に物語っていた。
俺はそんな葵さんの横顔を見つめ、改めて真摯に問いかける。
「……俺と、付き合ってくれますか?」
葵さんは横を向いたまま、こくりとうなずいた。
そんな彼女の横顔に見とれながら、俺は心の中でそっと息を吐いた。
(……それにしても)
ついさっきまで頼れる『相棒』だった葵さんが、今、俺の『彼女』となった。
そう頭では分かっていても、あまりに突然すぎる関係の変化に、気持ちがまるで追いついていなかった。




