24 それぞれの正義と、救えない店
「――御社のフランチャイズ案内資料、拝見させていただきました」
横合いから、静かで透明感のある声が響いた。
葵さんだ。彼女は神山に向かってふわりと優しく微笑みかけると、手元の資料を指で軽く叩きながら言葉を続けた。
「契約詳細のここ。ずいぶんと小さな注記で書かれていますけれど……ロイヤリティだけで、最低でも毎月売上高の五%ですね?」
神山が「ええ、それは標準的な……」と口を開けかけたが、葵さんはそれを制するように、流れるような口調で試算を突きつける。
「表向きは『売上の五%』と謳っていますけれど、販促費分担金の二%と固定のシステム利用料、さらに本部指定の食材マージンまで含めると……実質的に粗利益の二五%以上が本部に持っていかれる計算になりますね。人手不足で営業日数を削らざるを得なくなったら、毎月定額のシステム料だけで一気に赤字転落です」
「ええっ!? そんなにとられるのかい!?」
「そんなこと、一度も聞いてねえぞ!」
たまらず声を上げた大将とおかみさんを前に、葵さんはさらに容赦なく畳みかける。
「それに、不足スタッフの派遣ですが……こちらには『時給換算で二千八百円/時間〜』と書かれていますね。一般的なアルバイト時給の倍近くです」
「それも聞いてねえぞ!」
再び大将が机を叩いて叫ぶ。神山の顔から余裕の笑みが消え、冷や汗が頬を伝った。
「これじゃあ……お店を存続させるどころか、天竜さんの手元にはほとんど利益が残らなくなってしまいますよね?」
葵さんは首をかしげ、まるで世間話でもするように優しく、だが致命的な一撃を突き刺したのだった。
◇
「……そういうことだから、今回の話はなかったことにしてくれ」
ぐうの音も出ずに黙り込む神山に向かって、大将が静かに、だがはっきりと告げた。
勝負は決した――誰もがそう思った、次の瞬間だった。
突如、神山がガタッと椅子を鳴らして身を乗り出し、語気を強めた。
「確かに! 弊社のスキームでは、天竜さんの味を残すことはできません! それに……最悪の場合、お店に利益が残らない可能性だってあります!」
まさかの開き直りとも取れる発言に、あっけにとられる俺たちを意に介さず、神山は血走った目で言葉をまくし立てた。
「ですが……それでも、大将さんご夫婦がこれから生活していける資金は確実に確保できるんです! もちろん贅沢はできないかもしれません。けれど、この住み慣れた場所に、お二人でこれからも安心して住み続けられるんですよ!?」
そして、神山は感情を爆発させるように、俺の顔をきっと睨みつけて叫んだ。
「桐山さん! 確かにあなたのスキームは、うちより綺麗で理想的だ! だが、あなたのやり方じゃ時間も手間もかかりすぎる! この日本には、天竜さんのように今日明日で店をたたむかどうかの瀬戸際に追い込まれて、喉から手が出るほど助けを求めている人たちが星の数ほどいるんだ! そうやってあなた一人が時間をかけるやり方じゃ、とてもじゃないが救済の手が間に合わないんです!!」
「……っ」
予期せぬ神山の激昂と、彼なりの悲壮なまでの「正義感」から放たれた言葉に、俺は思わず息を呑み、気圧されてしまった。
彼もまた、彼なりの使命感を背負って個人商店の廃業を食い止めようと戦っていたことを知らされた。
俺が返答に詰まり、息詰まるような沈黙が店内を支配した。神山がさらに言葉を重ねようと息を吸い込んだ、その時――。
「神山。……そこまでだ」
低く重みのある声が、静かに割り込んだ。
隣に座っていたベテランの田島だ。神山の肩にそっと手を置き、静止を促す。
神山ははっと我に返ったように肩を揺らすと、紅潮していた顔を蒼白にさせ、深く頭を下げた。
「……大変失礼いたしました。感情的になり、差し出がましい口を叩きました。申し訳ございません……」
小さく縮こまる部下を一瞥し、田島はフッと柔らかい苦笑いを浮かべた。
「いやあ、申し訳ありませんね。こいつは少々仕事に熱心すぎるところがありまして……若気の至り、というやつです」
田島が軽妙な口調で冗談めかして弁明すると、ピリついていた場の空気がふっと和らいだ。田島は俺たちと大将夫婦を見渡し、温かみのある笑みをたたえたまま頭を下げる。
「ですが……こればかりは、神山が本気で天竜さんの老後と未来を真摯に考えてのことだと、何卒ご理解いただければ幸いです」
腰を低く落とし、場の重苦しい緊張感をすっと和らげながら、若手の失礼をさらりとフォローする。
流石は場数を踏んできたベテラン営業マンだと、俺は田島の老練な振る舞いにただただ感心した。
◇
「もし何かありましたら、いつでもお声がけください」
そう言い残して、メガ・ディッシュの二人の営業マンは店を去っていった。
「いやあ、あんたら、さすがだよ。これで気持ちよく、あんたらへこの店を任せられるよ」
天竜の大将は、肩の荷が下りたような清々しい笑顔を浮かべた。
「さあ、気をつかって腹が減っただろ? 今日も飯を食っていってくれ」
お言葉に甘えて出してもらったのは、夏後半の旬を告げる『新秋刀魚の塩焼き定食』だった。
運ばれてきた瞬間、炭火で炙られた皮目の香ばしい匂いと脂の弾ける音が鼻腔と耳を刺激する。きつね色に美しい焦げ目のついた秋刀魚に箸を入れると、パリッとした軽やかな手応えとともに、ふっくらとした白い身からジュワッとあたたかい脂があふれ出してきた。
たっぷりの大根おろしをのせ、キュッとスダチを絞って口へ運ぶ。
――うまい。
秋刀魚の濃厚な旨みと上質な脂の甘みが、スダチの爽やかな酸味と大根おろしの辛みで引き締められ、口の中で完璧な調和を生み出す。香ばしい皮目と柔らかな身の食感のコントラストもたまらない。間髪入れずに炊きたての白飯をかき込めば、米の甘みが秋刀魚の塩気を包み込み、噛むほどに旨みが何倍にも膨れ上がっていく。
「あぁ……おいしい〜っ……」
隣で一口食べた葵さんも、両頬をゆるませて思わず感嘆の声を漏らした。うっとりと目を閉じ、秋刀魚の味を噛みしめている。
出汁の効いた温かいお味噌汁で口を潤しながら、葵さんはこれからの具体的な進め方について進言してくれた。
「信之さん。天竜さんへの設備投資資金のことですけれど、今回は公的な事業融資を活用してみてはいかがでしょう? おじいさまから引き継いだ3億円の株式資産があれば、税務署や金融機関からの信用は絶大です。株を売却したり担保に入れたりしなくても、無担保かつ超低金利で資金を引くことができます。手元の現金を減らさず、資産運用を継続したまま資金調達ができる、賢い資産家がよく使う常套手段ですよ」
さらに、焼き魚の身を綺麗にほぐしながら言葉を続ける。
「それから調理人の募集ですが、まずは『たまや食堂』のゲンちゃんと同じ調理師専門学校を当たってみるのが良いかもしれません。あの子のように若くて熱意のある人材に巡り会える可能性が高いと思うんです」
さすがは敏腕税理士の葵さんだ。財務面でも人財面でも、実に的確で価値のあるアドバイスを次々と出してくれる。
「ええ、そうですね」と俺は深くうなずいた。
だが、絶品の秋刀魚定食を味わいながらも、俺の心の奥底にはどうしても拭い去れない引っかかりがあった。
――『あなたのやり方じゃ、救済の手が間に合わない』
あの若い営業マンがぶつけてきた言葉が、何度も耳の奥でリフレインしていた。
(俺のやっていることは……ただの自己満足で、焼け石に水なんだろうか?)
いくら自問自答しても、答えなんて出ない。
それもそうだ。俺は少し前まで、ただのフリーターだったのだ。じいちゃんの遺産と運に恵まれ、たまたま『たまや食堂』を軌道に乗せることができただけで、世の中の構造や経済の厳しさなんて何一つ分かっちゃいない。
あの若い営業マンのほうが、よっぽど真剣にこの社会の現実と向き合っているのではないか――。
口の中に広がる秋刀魚の香ばしい味わいとは裏腹に、胸の奥に落ちた小さな焦燥感は、じわじわと広がり続けていた。




