18 禁じ手と、本当の投資
早速、二階の居間で一休みしている大将とおかみさんのもとを訪ね、調理スタッフやフロアスタッフの雇い入れについて相談してみることにした。
「そうだな。バイトを募集しても、すぐに応募があるとは限らん。みどりちゃんの件もあるし、早めに募集をかけたほうがいいだろうな」
俺と葵さんの話に、大将が大きく頷く。
そこで俺は、さっき下のテーブル席で葵さんと話す中でひらめいた、調理スタッフについての提言を切り出した。
「大将、それと調理スタッフについてなんですけど……今後の店の安定経営を考えるなら、アルバイトではなく正社員を一人雇った方がいいと思うんです」
これまで『たまや食堂』は、大将とおかみさんの二人三脚で暖簾を守ってきた。だが今後、二人が完全に引退した後のことを考えると、この店の主軸となって厨房を支えてくれる人間が、俺の他にもう一人どうしても欲しい。
俺と新しい調理スタッフの二人体制で厨房を回すことができれば、仕込みの負担も分散できるし、万が一どちらかが倒れても店を休まずに済む。この『たまや食堂』の課題は一気に解決するはずだった。
しかし――大将からの返答は、芳しいものではなかった。
「正社員の雇い入れか……。実はな、俺も前々からずっと考えてはいたんだがな」
大将が苦虫を噛み潰したような顔で、深いため息をつく。
「うちが出せるような安い給料じゃ、誰も正社員として応募してきてくれないのよ」
おかみさんも困り果てた様子で、ぽつりと愚痴をこぼした。
「たしかに、正社員を雇うとなると、バイトと比べて毎月の固定給に加えて社会保険料や交通費といった間接コストが余計に必要となりますからね……」
隣で葵さんが、静かに頷く。
――そういうことか。
『たまや食堂』のような個人経営の店舗では、重い固定費となる人件費を捻出するのは容易ではない。それに加えて深刻な人手不足の昨今、大手外食チェーンのような手厚い待遇や高い給料との条件勝負になれば、太刀打ちできるはずもなかった。
「だが、ノブの言う通りだ。俺たちが退いた後のことを考えたら、店の要となる料理人が二人いてくれたら、これほど心強いことはないんだがな……」
「そうなんだけどねえ。如何せん、先立つものがね。どうしたものかねえ……」
大将とおかみさんが顔を見合わせ、重い沈黙が居間に立ち込めた。
その時、俺の頭の中にひとつの名案が閃いた。
「その正社員を雇うのに必要なコストの一部を、俺が補填するっていうのはどうでしょう? 祖父の遺産を使えば、十分可能だと思うのですが」
大将とおかみさんが目を見開いた。これなら給与勝負でも大手に負けない待遇を用意できるし、お店の負担もかからない。完璧な解決策だ――そう確信した、次の瞬間だった。
「それは、悪手です!」
バシッと空気の裂けるような声とともに、葵さんからの強烈なツッコミが入った。
「え……?」
「いいですか、信之さん」
葵さんは、鋭い眼差しで俺を射抜いた。
「信之さんのそのお気持ちや、お店を想う情熱は大変素晴らしいと思います。ですが、経営の観点から見れば、それは絶対にやってはいけない禁手ですよ」
「き、禁手……? だって、俺のポケットマネーで賄うなら、店の資金繰りを圧迫しないし、誰も困らないと思うんだけど……」
「そこが大きな間違いなんです」
葵さんは人差し指を立て、懇々と諭すように語り出した。
「第一に、『店舗本来の稼ぐ力(営業利益)』と『個人の持ち出し』をごちゃ混ぜにしてしまう点です。事業というのは、そのお店が上げる利益の中から人件費や固定費を支払い、継続させていくのが大原則です。外部からの補填に頼ってしまえば、一見経営が回っているように見えても、実態は『補填がなければ即赤字の構造』になってしまいます。それでは正常な事業採算が評価できません」
「うっ……たしかに」
「第二に、税務上の問題です。信之さん個人のお金を『たまや食堂』に入れるとなると、形式としては『大将(店舗)への贈与』か『大将への貸付金』になります。もし贈与とみなされれば大将さんに贈与税の負担がかかるリスクがありますし、無利息の貸付にしても、将来の事業譲渡の際に関係が非常に複雑化してしまいます」
葵さんのロジカルな指摘に、俺は返す言葉もなかった。
「そして第三に……これが一番の理由ですが、おじいさまの遺産という『有限の資産』を、毎月消えていく『固定費(人件費)』に充ててしまうことです。補填を続ければ、いずれ遺産は底をつきます。その時、お店の売上が伸びていなければ……結局そのスタッフを解雇せざるを得なくなりますよね?」
「……ぐうの音も出ない」
俺はガックリと肩を落とした。
自分のポケットマネーで解決しようとしたのは、ただの「素人の浅知恵」であり、根本的な解決どころか店を歪ませる原因になるところだったのだ。
「お金を出すなら『消費される人件費』ではなく、お店の稼ぐ力を高める『投資』に使わなければ意味がありません。」
葵さんはそう締めくくった。
――『投資』か。
その言葉を胸の中で反芻しながら、俺はぐるぐると頭を巡らせた。
正社員を雇うためのコストを算出するにはどうすればいい? 答えは単純だ。その分の利益を稼ぎ出せばいい。
だが、今の『たまや食堂』で売上を一気に伸ばすのは容易なことではない。客席数にも上限があるし、大将の腰の状態もある。
ならば、逆に「経費」を削ることはできないだろうか?
飲食店において、経費の大きな割合を占めるものと言えば……真っ先に浮かぶのは人件費だ。
例えば――就活が本格化してシフトに入れなくなるみどりちゃんの穴を、新しいバイトを補充せずに乗り切ることができたとしたらどうだ?
本来なら次のバイトに支払うはずだった人件費が、丸々浮くことになる。
では、今までみどりちゃんが担っていた注文取りや会計の仕事を、一体誰が代わりにやるというのか?
思考を極限まで突き詰めたその先で、俺の頭の中に電撃のような閃きが走った。
――そうか、省人化だ!
「葵さん。例えば、みどりちゃんが抜けた穴を新しいアルバイトで埋めるのではなく、注文用の卓上タブレットや自動精算機の導入で補うのはどうだろう? それらの購入・設置費用を俺が出すというのなら……それは『投資』になるんじゃないでしょうか?」
俺の突然の提案を聞いた葵さんは、パッと表情を明るくさせると、大きく一度頷いた。
「その通りです、信之さん! おじいさまの遺産を使って、将来的な人件費を削減するための設備を導入する……それこそが、まさに立派な『投資』です!」
葵さんは大きく頷くと、大将とおかみさんを順番に見渡して話を続けた。
「この場合のスキームはこうです。信之さんが『店舗への貸付』という形で、それらの設備を導入します。そして、業務の自動化によって削減できたアルバイトの人件費――本来なら毎月出ていくはずだったコストを、新しく雇う正社員の料理スタッフに支払う給与や社会保険料の原資としてスライドさせるんです」
葵さんは手帳に簡単な構造図を描きながら、言葉を強めた。
「これなら『たまや食堂』全体の月々の固定費――つまり人件費の総額は増えません。余計な持ち出しを増やすことなく、ホール作業の手間や負担をテクノロジーで効率化して、一番大事な『厨房の要となる正社員』へと資金を集中投下できるわけです。まさに理想的な構造改革ですよ」
「おお……! 注文取りと会計を機械にやらせて、浮いたお金で本物の料理人を雇うってことか!」
大将が膝をポンと叩いた。
「はい。さらに言えば、信之さんが立て替えた設備の購入費(貸付金)は、将来信之さんがこの店を正式に引き継ぐ際に、大将さんに支払う譲渡対価――いわゆる『のれん代』と相殺することができます。信之さんは二重でお金を払う損をしませんし、店舗は一銭も傷つかずに最新の設備と優秀な料理人を手に入れられる……誰も損をしない、完璧な『投資スキーム』です」
葵さんの解説が鮮やかに決まり、居間の重苦しい空気は完全に吹き飛んでいた。
「ノブ……お前、すごいことを思いつくなぁ。葵ちゃんの知恵もお見事だ」
大将が感心したように深く吐息を漏らし、おかみさんも「さすが、今時の子たちだねえ」と目元を緩めている。
俺は隣で誇らしげに胸を張る相棒――葵さんと視線を交わし、力強く頷き合った。これなら『たまや食堂』の未来を、確実に切り拓いていける。




