第8話 消えた足音
夜泣きは、次の日から配信に来なくなった。
来なくなったことを、湊は何度も確認した。
確認しても、画面には何も増えない。
夜泣きという名前がコメント欄に出ないだけで、普通の夜に戻ったように見える。
でも、戻ってはいない。
湊は配信中、玄関の話をする人がいるたびに、少しだけ言葉が遅れた。
ドア。
足音。
子どもの泣き声。
そういう言葉が画面に出るだけで、喉が硬くなる。
ほどけない糸は変わらずいた。
ミソラもいた。
ただ、夜泣きの話は誰もしない。
話さないことが、配慮なのか、恐れなのか、湊には分からなかった。
三日ほどして、ミソラから短い連絡が来た。
『夜泣きさん、保護先につながりました』
湊はスマホを見た。
バイトの休憩中だった。
店の裏には、空の段ボールが積まれている。
誰かが置き忘れた軍手が、濡れた床の上に落ちていた。
『今は詳しく書けませんが、親子は安全な場所にいます』
湊は返信欄に指を置いた。
『よかったです』
打って、送った。
嘘ではない。
でも、よかった、だけでは足りない。
『男は』
そこまで打って、消した。
聞くべきではない気がした。
聞かない方がいい気もした。
でも、聞かなかったことで何かから逃げている気もした。
店長が裏に顔を出した。
「目黒、休憩あと五分」
「はい」
湊はスマホをポケットに入れた。
その時、ほどけない糸からDMが来た。
『ヨルさんが守ったんです』
湊は通知だけ見た。
返信はしなかった。
守った。
その言葉は、夜泣きの子どもには正しいのかもしれない。
けれど、誰から守ったのか。
守るために、何が起きたのか。
そこが抜けている。
抜けているのに、言葉だけがきれいに見える。
◇ ◇ ◇
数日後、夜泣きからDMが来た。
湊はネカフェの個室で、配信前にそれを読んだ。
『子どもが眠りました』
一行目で、体から少し力が抜けた。
二行目。
『もうドアを叩く音はしません』
三行目。
『でも、静かすぎて怖いです』
湊は画面を見たまま動けなかった。
静かすぎて怖い。
その文だけ、何度も読んだ。
助かった人の言葉なのに、助かった感じがしない。
『返事しなくていいです』
続けて届く。
『ありがとうございました』
湊は返信欄を開いた。
何を返せばいいのか分からない。
『眠れてよかったです』
違う。
『安心してください』
違う。
『もう大丈夫です』
もっと違う。
湊は全部消した。
結局、何も送らなかった。
送らないことも返事になるのか、分からなかった。
ミソラからも連絡が来る。
『真鍋さんから、夜泣きさん親子は一時保護につながったと報告がありました』
少し遅れて、さらに一通。
『詳しいことは聞かないでください。私も、全部は聞いていません』
湊は、その文を見て少しだけ安心しそうになった。
ミソラも全部は知らない。
自分だけが知らないわけではない。
その安心の仕方が、嫌だった。
真鍋からも、短いメッセージが来た。
『結果としては良かったと思います』
湊はその文を見た。
結果として。
その言葉は、終わった人間の言葉だった。
けれど湊には、まだ終わっていないものの方が多く見えた。
何が起きたのかを見ないまま、結果だけを受け取ることが怖かった。
『男の人は』
湊は打った。
また消した。
それを何度か繰り返して、最後に何も送らなかった。
個室の空気が重い。
湊は水を飲んだ。
喉が痛む。
最近、配信のあとだけではなく、何もしていない時にも声が掠れる。
咳をしようとして、喉の奥が引っかかった。
無理に咳を出すと、吐き気が上がる。
湊は手の甲で口元を押さえた。
しばらくして、配信を始めた。
「こんばんは」
声が弱い。
コメント欄にすぐ反応が出る。
> ヨルさん声
> 休んで
> 水飲んで
> ほどけない糸:今日は短くしてください
> ミソラ:無理なら閉じてください
「短くします」
湊はそう言った。
それだけで喉が痛かった。
その夜は、何も大きなことは起きなかった。
眠れない人。
泣いたあとに来た人。
職場で怒られた人。
子どもの頃のことを思い出した人。
湊は拾った。
でも、拾うたびに声が薄くなっていく。
配信を切る頃には、ほとんど囁くようになっていた。
終了ボタンを押す。
音が消える。
湊はヘッドセットを外そうとして、机に手をついた。
手首が少し震えている。
「……まずいな」
声に出したつもりだった。
音にならなかった。
◇ ◇ ◇
ネカフェを出たあと、湊は駅へ向かった。
終電にはまだ少し時間がある。
雨は降っていなかった。
街は濡れていないのに、靴の中だけが湿っている気がした。
改札の前で定期入れを取り出そうとして、キーケースがポケットから落ちた。
金属音がした。
湊はしゃがみ、拾い上げる。
鍵が増えていた。
知らない鍵だった。
小さい。
番号札も何もついていない。
自宅の鍵でも、ネカフェのロッカーキーでも、バイト先の鍵でもない。
湊は指でつまんだ。
いつからあるのか分からない。
昨日か。
一昨日か。
夜泣きの件より前か後か。
分からない。
人が横を通っていく。
スーツの男が肩をぶつけて、振り返らずに改札を通った。
湊は鍵を見ていた。
どこかで見た形ではない。
でも、持っている。
つまり、自分がどこかで受け取ったか、拾ったか、つけたか。
覚えていない。
スマホが震えた。
ほどけない糸からだった。
『ヨルさん』
湊は返信しない。
すぐに次の文が来る。
『大丈夫です』
この人は、いつも大丈夫と言う。
湊には、それがいちばん怖かった。
何を見て、大丈夫だと言っているのか。
何を終わったものとして扱っているのか。
湊はスマホをポケットに戻した。
キーケースを閉じる。
知らない鍵は、他の鍵とぶつかって小さく鳴った。
その音が、しばらく耳に残った。




