第7話 夜泣き
その日は、配信を始める前から喉が痛かった。
声を出していないのに、奥の方がひりつく。
湊はネカフェの個室で、水のペットボトルを開けた。
一口だけ飲む。
喉の奥が、紙でこすられたみたいに痛んだ。
昨日は配信を休んだ。
休んだというより、開けなかった。
改札の前で、ほどけない糸から来たDMがまだ残っている。
『昨日から、声が無理をしていました』
『いつものことにしないでください』
『今日は、誰かの声を聞く日ではないです』
湊はその文を何度も読み返していた。
誰かの声を聞く日ではない。
それなら、自分は何を聞けばよかったのか。
分からないまま一日が過ぎた。
それでも、通知は増える。
『昨日なかった』
『大丈夫ですか』
『今日はありますか』
『寝られない』
『聞いてほしい』
待機画面に指を置く。
始めたら、また誰かが来る。
始めなければ、誰かは来ない。
そのどちらも、少しだけ怖かった。
湊はヘッドセットをつけた。
「こんばんは」
声が少し低く出た。
コメント欄に、いつもの名前が並ぶ。
ミソラ。
ほどけない糸。
ほかにも、見慣れた名前がいくつか。
「今日は短めにします。聞くだけでいいです」
> 声まだ変
> 無理しないで
> 水飲んで
> ほどけない糸:短くしてください
> ミソラ:危ない人は夜明けノートも使ってください
「今夜、今すぐ危ない人は、ここだけに置かないでください。近くに人がいるなら、そっちを先に」
> 近くに人いない
> いるけど言えない
> 家が無理
> ドアの音がこわい
その中に、新しい名前があった。
> 夜泣き:今、家にいます
> 夜泣き:玄関の外に男がいます
コメント欄が一気に動く。
> 通報
> 鍵かけて
> 警察
> 子ども何歳
> 逃げて
> 誰
湊は声を落とした。
「夜泣きさん。今ひとりですか、鍵は閉まっていますか」
少し間があった。
> 子どもといます
> 閉まってます
> チェーンも
> でもまだいます
「その人は知っている人ですか」
返事は少し遅れた。
> 知ってます
> お金の人です
> 夫じゃないです
> 子どもが泣いてます
画面の向こうから音は聞こえない。
それなのに、湊にはドアの前に立つ男の気配だけが浮かんだ。
ドア越しの声。
足元で泣く子ども。
口を押さえている母親。
勝手に組み上がる絵を、湊は一度押し戻した。
「今、電話できますか。警察か、近くの人に」
> できない
> 声を出したら気づかれる
> 子どもを黙らせないと
「子どもさんは、近くにいますか」
> 押し入れ
> でも泣いてる
> ごめんなさいって言ってる
> 何も悪くないのに
湊は言葉を探した。
通報してください。
避難してください。
支援につながってください。
正しい言葉はいくつもある。
でも、今そのまま投げたら、届く前に落ちる気がした。
「今、画面は見られますか」
> 見てます
「文字で相談できる先、ミソラさん、出せますか」
> ミソラ:出します
> ミソラ:地域によって違いますが、声が出せない場合の緊急相談先を貼ります
> ミソラ:ただし、今すぐ危ない場合は迷わず警察です
コメント欄にリンクが並ぶ。
湊は、それを相手が読めるのか分からなかった。
「リンクは全部見なくていいです。まず、今いる部屋の扉を閉められますか。玄関から遠い部屋」
> もう閉めてます
> でも子どもが名前呼ばれてる
> その人が
> 子どもの名前を知ってる
名前を知られているだけで、扉の外にいる人間は近くなる。
顔が見えなくても、手が届くように感じる。
湊は、その怖さを画面越しに初めて知った。
ほどけない糸のコメントが流れた。
> ほどけない糸:ここに子どもの名前は書かないでください
> ほどけない糸:男の名前も書かないでください
> ほどけない糸:夜明けノートに最低限だけ残してください
湊はその文字を読んだ。
最低限。
たしかに、必要だった。
でも何を最低限と呼ぶのか、今は分からない。
「夜泣きさん。ここには名前を書かなくていいです。夜明けノートに、家の中にいる人数と、外にいる人が知人かどうかだけ書けますか」
> 書いたら
> その人に見られませんか
「見られないように扱います」
一度言い切りそうになって、湊は言葉を変えた。
完全に安全だと言うには、自分は夜明けノートの全部を見ていない。
見ないと決めた。
それを安全と呼んでいいのか、最近は少し分からなくなっている。
「ミソラさんが確認します。ここには出しません」
少しして、夜明けノートの通知が出た。
匿名投稿が送信されました。
ミソラがすぐに動く。
> ミソラ:受け取りました。ここでは詳細を書かないでください
> ミソラ:緊急性があります。外部支援につなげます
外部支援。
湊は画面へ少し近づいた。
「外部支援?」
> ミソラ:明け方の家です。夜間の一時相談に対応しているところです
> ミソラ:担当の真鍋さんにつなぎます
ほどけない糸のコメントが続く。
> ほどけない糸:真鍋さんなら、動線を見られます
動線。
その言葉だけが、妙に残った。
「夜泣きさん。今、玄関の音は」
> 叩いてない
> しゃべってる
> 明日また来るって
> 今日は帰るって
「そのまま、音がしなくなるまで動かないでください」
> 子どもが出たがってる
「抱きしめてください。声を出さなくていいので、手だけでも」
> 震えてます
> 私が
「震えててもいいです。手が届くなら、触ってください」
返事はなかった。
コメント欄も少し静かになった。
湊はヘッドセットのマイクに指が触れないように、手を机の下へ下げた。
しばらくして、夜泣きから一文だけ流れた。
> 触りました
湊はそれを見た。
よかった、と言いかけて、やめた。
まだ、よくない。
「今夜は、玄関を開けないでください。明日の朝、一人で会わないでください。ミソラさんと、真鍋さんにつながってください」
> はい
短い返事だった。
その後、夜泣きはコメントしなくなった。
配信は、そのまま細く続いた。
眠れない人。
泣きそうな人。
もう少しだけ起きていたい人。
湊は拾った。
でも、何を返したかはあまり残っていない。
ドアの前にいる男の気配だけが、ずっと画面の外に立っていた。
◇ ◇ ◇
配信を切ると、ミソラから通話申請が来ていた。
珍しかった。
湊は少し迷って、応答した。
画面は黒いまま。
声だけ。
『ヨルさん、今、大丈夫ですか』
「大丈夫ではないです」
言ってから、しまったと思った。
でもミソラは、そこには触れなかった。
『なら短くします。明け方の家の真鍋さん、つなげてもいいですか』
「俺にですか」
『一度だけ。夜泣きさんの件で、配信側の状況を確認したいそうです』
「警察に行く話ではないんですか」
『もちろん、その判断も含めてです。明け方の家は、夜間の一時相談と、警察や行政につなぐ前の整理をしているところなので』
湊は画面を見た。
整理。
その言葉が、少しだけ引っかかった。
「俺は詳しい情報、見てません」
『それでいいそうです』
数秒後、別の声が入った。
男の声だった。
落ち着いている。
話し慣れている人の声。
『夜分にすみません。明け方の家の真鍋です』
「目黒です」
本名を言ってから、少し遅れて危ないと思った。
けれど、真鍋の声色は変わらなかった。
『配信名ではなく、本名でいいんですか』
「……言ってから気づきました」
『この場では記録しません』
その言い方が、自然だった。
記録しません。
記録する場もある。
湊はそう思ったが、聞けなかった。
『夜泣きさんの件ですが、今夜すぐに扉を開けさせないことが最優先です。そこは配信中の対応でよかったと思います』
「ありがとうございます」
『ただ、明日の朝が問題です。ああいう相手は、夜が駄目なら朝に来ます。保育園、学校、勤務先、通る道。守るには相手の動線を押さえないといけません』
「動線って」
『相手がどこへ来る可能性があるか。どこで待つか。誰を使うか。本人がそれを言葉にできないことも多い。だから記録が必要なんです』
記録。
また出た。
『もちろん、個人情報は慎重に扱います。ただ、何も記録しなければ守れません。気持ちだけでは、ドアの前に立つ人間は止まりません』
湊は何も言えなかった。
言っていることは、たぶん正しい。
正しすぎて、嫌だった。
「俺は、何をすれば」
『今夜はもう配信を再開しないでください。夜泣きさんが配信に戻ってくると、またそこに縋ってしまう。次は支援側へ渡します』
渡します。
真鍋は簡単に言った。
湊には、その言葉が少しだけ遠かった。
誰かに渡せる人。
渡したあと、眠れる人。
自分は、渡したと思っても指に残る。
『目黒さん』
真鍋が呼んだ。
「はい」
『あなたの声は役に立っています。でも、声だけで抱えないでください』
優しい言葉だった。
優しいはずなのに、湊は返事が遅れた。
「……はい」
通話が終わる。
個室はまた狭くなった。
湊はヘッドセットを外し、机に置いた。
スマホを見た。
ほどけない糸からDMが来ている。
『ヨルさん』
『今日は、よく止めました』
湊は返信しなかった。
少しして、もう一通。
『でも、あの人はまた来ます』
湊は画面を伏せた。
伏せたはずの画面が、まだ薄く光っていた。
新しい通知ではない。
通話中に届いていた通知が、ロック画面に残っていた。
ほどけない糸からだった。
『分かりました』
湊は眉をひそめた。
何に対する返事なのか、分からなかった。
通知には、返信元の一部が小さく表示されている。
送信時刻は、真鍋との通話が終わる少し前になっていた。
『会う場所を変えさせろ』
湊の指が止まった。
自分が送ったことになっている文だった。
けれど、送った覚えはない。
もう一つ、通知が残っていた。
ほどけない糸から。
『分かっています』
その下にも、返信元の一部が表示されている。
『泣く子を盾にする相手は、話し合いでは止まらない』
湊はDM画面を開いた。
履歴には何もなかった。
自分の送信も、ほどけない糸の返信も、そこには見えない。
消されている。
けれどロック画面に残っていた通知だけが、通話中に交わされたはずのやり取りを断片的に残していた。
湊はスマホを握った。
送った覚えはない。
でも、ほどけない糸は返事をしている。
消されたはずの文に。
湊の名前で送られた文に。
「……違う」
声に出したつもりだった。
出たのは、空気の擦れる音だけだった。




