第6話 雨の中の少女
雨は、夕方になってから強くなった。
バイト先を出た時にはまだ細い雨だったのに、駅へ向かう途中で粒が大きくなった。
湊は折り畳み傘を持っていなかった。
持っていないことに気づいた時には、もうどうでもよかった。
何処かで買えばいい。
そう思っても、財布の中身を考えると足が向かない。
少し濡れるくらいなら、そのまま帰ればいい。
そう思って歩き出したのに、どこへ急いでいるのか自分でも分からなかった。
道路脇の水たまりを避けながら歩いていると、コンビニの前に制服姿の少女が立っていた。
庇の下にはいる。
けれど、入口の正面ではなかった。
自動ドアの明かりが届くぎりぎりの端で、店内からも、外からも、少しだけ見えにくい場所だった。
傘は持っていない。
髪も肩も濡れている。
雨宿りをしているなら、もう少し中へ寄ればいい。
それなのに少女は、壁に背中をつけたまま動かない。
足元には、雨水が小さく溜まっていた。
靴下の白い部分まで濡れているのに、少女は足を引かなかった。
鞄を胸の前で抱えている。
抱えるというより、何かを隠すみたいに押さえていた。
白いシャツの襟元が肌に貼りついていて、少女は何度もそこを直していた。
直すというより、隠すみたいな手つきだった。
店の入口から出てきた男が、少女の横を通った。
それだけで、少女の肩が小さく跳ねた。
男は何も気づかず、ビニール傘を開いて歩いていく。
少女は、その背中が見えなくなるまで顔を上げなかった。
湊は足を止めた。
ただの雨宿りなら、声をかける必要はない。
でも、雨を避けている人の立ち方ではなかった。
濡れていることより、人目に触れることの方を怖がっているように見えた。
声をかけるべきか。
やめるべきか。
こういう時、正しい距離が分からない。
近づいたら怖がらせるかもしれない。
見なかったふりをしたら、それはそれで、たぶんあとで思い出す。
湊は少し離れたところで言った。
「大丈夫ですか」
少女は顔を上げた。
目が合った瞬間、湊は少しだけ後悔した。
怯えた顔だった。
でも、助けてほしい顔ではなかった。
見られたくないものを見られた人の顔。
湊は一歩下がった。
「すみません。具合悪そうだったので」
少女は返事をしない。
店の中から、自動ドアの開く音がした。
高校生らしい男子が二人、笑いながら出てくる。
その声に、少女がまた身を固くした。
湊は男子たちが遠ざかるまで待った。
「中に入りますか。店員さんに言えば、たぶん少し休ませてもらえるかも」
少女は首を横に振った。
髪の先から水滴が落ちる。
「家の人を呼べますか」
言ってから、湊は間違えたと思った。
少女の顔から、わずかに色が引いた。
動きが止まる。
襟元を直していた手が、そこで固まった。
「すみません」
湊はすぐに言った。
「呼ばなくていいです。今のは忘れてください」
少女は、何度か瞬きをした。
「……すみません。ありがとうございます」
声は小さかった。
湊はうなずき、コンビニに入った。
傘の棚を一度だけ見たが、手には取らなかった。
水だけを買い、外へ戻る。
少女はまだ、庇の端に立っていた。
湊は少し距離を残したまま、ペットボトルを差し出した。
「未開封です」
少女は水を見た。
すぐには受け取らない。
「いりませんか」
「……もらったら、返さないといけないですか」
「返さなくていいです」
「名前も?」
「聞かなくていいなら、聞きません」
少女は少し迷ってから、水を受け取った。
指先が冷えている。
ペットボトルの蓋を開けようとして、うまく回せなかった。
湊は「開けましょうか」と言いかけて、やめた。
少女は両手で蓋を握り直し、ゆっくり回した。
小さく音がして、蓋が開く。
少女は一口だけ飲んだ。
すぐに蓋を閉める。
「ありがとうございます」
「いいです」
少し沈黙があった。
雨は強くなったり弱くなったりしている。
道路の向こうで、車のタイヤが水を跳ねた。
少女は鞄の持ち手を握り直した。
その手は、濡れているせいだけではなく、少し震えているように見えた。
湊が何か言おうとした時、また男の足音が近づいてきた。
今度はスーツ姿の中年だった。
傘を閉じながら、コンビニへ向かってくる。
少女は体を店の壁へ寄せた。
逃げる場所を探すみたいに、目だけが動いた。
湊は自分の体を少し横へずらした。
男と少女の間に入るほどではない。
でも、少しだけ視線が切れる位置。
男は自動ドアの前で傘を振った。
水滴がタイルに落ちる。
少女はその音で唇を噛んだ。
湊は何も言えなかった。
少女は、水のボトルを両手で握ったまま、少しだけ顔を上げた。
「……声」
湊は反応が遅れた。
「え」
「前に、聞いたことがあります」
雨が庇を叩いている。
湊は喉の奥が少し詰まるのを感じた。
「人違いだと思います」
少女はすぐには答えなかった。
ボトルのラベルの端を、親指でこすっている。
「夜に、配信してますか」
湊は黙った。
少女は、慌てたように首を振った。
「すみません。違ったら、忘れてください」
湊は返事をしなかった。
忘れてください。
さっき自分が言った言葉と、同じだった。
少女はボトルを鞄に入れようとして、少し手間取った。
「行きます」
「雨、まだ強いです」
「大丈夫です」
大丈夫には見えなかった。
それでも少女は、もう一度小さく頭を下げた。
傘はない。
店の中へ戻る様子もない。
ただ、そこに長くいたらいけないと決めたみたいに、雨の中へ出ていった。
肩も髪も、すぐに濡れた。
それでも振り返らなかった。
湊は、コンビニの庇の下に残った。
名前は聞かなかった。
聞けなかった。
雨の中でぼやけていく後ろ姿だけが、しばらく目に残った。
◇ ◇ ◇
ネカフェには行かなかった。
行かないつもりで、駅まで歩いた。
改札の前まで来て、スマホが震えた。
ほどけない糸からだった。
『今日は配信しないでください』
湊は足を止めた。
人が横を流れていく。
濡れた傘の先が、何度も足元をかすめる。
『どうして』
と送った。
既読はついた。
返事はすぐ来なかった。
駅の構内放送が、遅れている電車の案内を流す。
湊は改札の横でスマホを持ったまま立っていた。
通行の邪魔になっている。
分かっているのに動けない。
ほどけない糸から返事が来た。
『昨日から、声が無理をしていました』
湊は画面を見た。
『いつものことです』
そう返す。
既読。
『いつものことにしないでください』
湊は返事に困った。
ホームへ降りる階段から、人が次々上がってくる。
濡れたコートの匂いと、駅の古い空気が混じる。
ほどけない糸から、もう一通来た。
『今日は、誰かの声を聞く日ではないです』
湊はその文を見つめた。
誰かの声を聞く日ではない。
では、誰の声を聞く日なのか。
聞き返そうとして、やめた。
湊はスマホをポケットに入れた。
改札を通らず、駅を出た。
雨はまだ降っていた。
さっきより少しだけ弱くなっている。
それでも傘を買う気にはならなかった。
服はもう十分濡れていた。




