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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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第5話 優しい声の後始末

翌朝、湊は自分のスマホを何度も見た。


青い傘からのDMは来ていない。


夜明けノートには、ミソラの更新がいくつかある。


『拡散しないでください』


『本人確認できない情報を貼らないでください』


『被害者の名前や学校名を出さないでください』


その文が並んでいる時点で、もう何かが起きている。


湊は画面を閉じた。


バイト先のコンビニは、朝から混んでいた。


レジ袋の有無。


温めの有無。


煙草の番号。


人は自分の用事を、正しく言える。


助けて、だけがいつも言えない。


昼休み、店の裏でスマホを開いた。


配信アプリのコメント欄がざわついている。


青い傘に関する直接の名前は出ていない。


けれど、匿名掲示板のような場所で、学校のいじめ動画が拡散されているらしかった。


動画そのものは見なかった。


見たくなかった。


コメント欄では、断片だけが流れていく。


『あれ、昨日の子?』


『動画の加害者、別垢まで掘られてる』


『学校名出てる』


『先生の対応も燃えてる』


『ざまあ』


『親の会社まで出すのは違うだろ』


『でもやったこと考えたら自業自得』


湊はスマホを握る手に力を入れた。


ざまあ。


その言葉は、あまりに簡単だった。


誰かが泣いている夜を見たあとだと、加害者が叩かれることに、少しだけ胸がすく。


それを否定できなかった。


気づいた途端、吐き気がした。


「目黒、二番レジ」


店長の声がした。


湊はスマホをポケットへ戻した。


「はい」


その時、通知が一つ震えた。


青い傘ではない。


ほどけない糸からだった。


『今、見ていますか』


湊はレジへ向かいながら、その文を見た。


心配だ。


そう読める。


でも、昨日と同じで、確認にも見えた。



◇ ◇ ◇



夕方、青い傘からDMが来た。


湊はバイト終わりに、駅前のベンチでそれを見た。


『学校休みました』


『母が電話しました』


『担任は、確認しますって言いました』


『でも動画が広がってます』


『僕の顔も出てます』


湊は歯を噛んだ。


加害者だけが燃えているわけではない。


被害者も一緒に燃える。


火は、選んでくれない。


『今、一人ですか』


送る。


既読はつく。


『母がいます』


『泣いてます』


『僕に、ごめんねって言ってます』


『守れなくてごめんって』


そのあと、母親の声が一度だけ音声で届いた。


間違って送ったのかもしれない。


数秒だけの録音。


『すみません、うちの子が』


そこで切れていた。


誰に謝っているのか、分からなかった。


湊はその音声を再生し直さなかった。


一度で十分だった。


湊は画面を見つめた。


母親は、息子に謝っている。


けれど外へ向ける声になると、被害を受けた息子の方を悪者にしてしまう。


『すみません、うちの子が』


その一言が、湊にはひどく苦しかった。


でも、責めることもできない。


彼女もたぶん、何をすればいいのか分からない。


『君のせいじゃない』


また、その言葉になった。


同じ言葉ばかりだ。


それしか持っていない。


湊は送信した。


しばらくして、青い傘から短い返事が来る。


『昨日、カッターしまってよかったです』


湊は少しだけ目を閉じた。


よかった。


今度こそ、そう思いかけた。


けれど、次の通知がそれを許さなかった。


『でも、僕が死ななかったから、みんな壊れてます』


湊は返信できなかった。


駅前の風が、ベンチの下を通る。


白いレジ袋が足元で膨らんで、すぐにしぼんだ。


誰かが舌打ちして、それを拾いもせずに歩いていく。


湊はスマホを握ったまま、画面が暗くなるまで座っていた。



◇ ◇ ◇



その夜、湊は配信を始める前に、夜明けノートを開いた。


ミソラのメモが増えている。


『拡散しないでください』


『本人確認できない情報を貼らないでください』


『加害者の家族情報は禁止です』


そのすぐ下に、ほどけない糸の更新がある。


『家族情報を削除しました』


『添付ファイル名を変更しました』


『危険箇所を黒塗りしました』


湊は、少しだけ息を吐いた。


止めようとしている。


ほどけない糸は、ただ煽っているわけではない。


ちゃんと危ないものを消している。


そう思った。


思いたかった。


ただ、その手際はやはり早かった。


早すぎた。


誰が何を貼ったのか、何が危ないのか、どこを消せばいいのか。


迷いがない。


善意にも見える。


慣れにも見える。


配信開始。


視聴者数はいつもより多かった。


青い傘の件が、狭い範囲で広がっている。


初めて見る名前も混じっていた。


> 昨日のいじめのやつ見た


> 加害者終わったな


> ヨルさん関係ある?


> 救済配信すご


> ほどけない糸さんいる?


湊は息を吸った。


「ここで誰かの名前を出さないでください」


声は思ったより冷たく出た。


コメント欄が少し止まる。


「加害者でも、被害者でも、家族でも。名前を出したら、消してください」


> でも加害者だろ


> 悪いやつは晒されて当然


> 被害者助かったんじゃないの


「助かったかどうかは、本人が決めることです」


湊は言った。


「俺たちが決めることじゃない」


> でもヨルさんだって怒ってるでしょ


画面の前で、湊は固まった。


怒っている。


それは、本当だった。


青い傘を笑った人間に。


動画を回した人間に。


先生に。


守らなかった大人に。


そして、少しだけ安心してしまった自分に。


「怒ってます」


コメント欄が止まる。


「でも、怒ってるからって、誰かの家族まで叩いていい理由にはならない」


言いながら、自分に言い聞かせている気がした。


「ここは、誰かを晒す場所じゃありません。戻ってこられる場所にしてください」


その時、コメント欄で、ひとつの書き込みが消えた。


表示されたのは一瞬だった。


湊には、名前までは読めなかった。


ただ、「妹」という文字だけが目に残った。


すぐにミソラのコメントが流れる。


> ミソラ:個人情報は削除しました。ここで広げないでください。


ほどけない糸も続ける。


> ほどけない糸:家族を巻き込まないでください。


湊は画面を見たまま、声を出せなかった。


コメント欄の空気が少しだけ戻る。


ほどけない糸は、助けている。


たぶん。


そのはずなのに、湊は安心しきれなかった。


消えた文字の跡は、画面のどこにも残っていない。


それなのに、「妹」という二文字だけが、喉の奥に引っかかっていた。


屋上の少女にも、妹がいた。


青い傘の加害者にも、妹がいるかもしれない。


誰かを止めるたびに、別の誰かの名前が画面の端へ滲んでくる。


「……今日は、長くやりません」


湊は何とか言った。


「今夜、苦しい人は、近くにあるものを一つ見てください。床でも、壁でもいいです。自分を傷つけるものは、手から離せるなら離して。無理なら、置くだけでいい」


その後も、配信は続いた。


泣いている人。


怒っている人。


加害者を罰してほしい人。


自分を罰してほしい人。


湊は一つずつ拾い、落とし、また拾った。


救うというより、沈んでいくものを指先で引っかけるだけだった。


配信を終える頃には、声が喉の奥でかすれるだけになっていた。


終了ボタンを押す。


確認画面。


はい。


音が消えた。



◇ ◇ ◇



個室には、配信の熱がまだ残っていた。


湊はヘッドセットを外し、机に置いた。


耳が熱い。


喉は乾いているのに、水は飲みたくない。


スマホが震えた。


青い傘からではない。


配信アプリの通知。


送信済みDMがあります。


湊は眉をひそめた。


開く。


宛先は、ほどけない糸。


送信時刻は、配信を切った後になっている。


文面は短かった。


『君は正しい。次も守れる』


湊は画面を見た。


打った覚えはない。


その言葉は、自分のものではない。


そう思いたかった。


けれど、「正しい」と言ってしまいたい気持ちは、どこかにあった。


加害者が叩かれた。


学校は動かざるを得なくなった。


青い傘は、昨夜よりは生きている。


結果だけを見るなら、何が悪いのか。


それでも、画面の奥で誰かが少しだけ笑ったような気がした。


音はない。


実際には何も聞こえていない。


ただ、湊の中で、短く冷たい息が漏れた。


よかったじゃないか。


そう言われた気がした。


湊はDMを削除しようとして、できなかった。


削除すれば、証拠を消すような気がした。


証拠。


何の。


自分が何もしていない証拠か。


自分の中に何かがいる証拠か。


それとも、誰かがこの言葉を待っていた証拠か。


スマホがまた震える。


ほどけない糸から返信が来ていた。


『はい』


それだけだった。


湊の指先が冷たくなる。


一文字の返事。


短すぎて、何に対する返事なのか分からない。


分からないのに、意味だけが重かった。


さらに、もう一通届く。


『でも、ヨルさんはもう送らないでください』


湊は息を止めた。


『次からは、こちらで止めます』


止める。


何を。


誰を。


湊は返信欄を開いた。


文字を打とうとして、何も打てなかった。



◇ ◇ ◇



翌日、青い傘からDMが来た。


湊はネカフェの近くの自販機の横で、それを読んだ。


『転校するかもしれません』


『加害者も学校に来てないそうです』


『その人の妹が、泣いてたって聞きました』


『僕は、それを聞いて少しだけ安心しました』


次の文が、しばらく来なかった。


湊は画面を持ったまま待った。


人は、誰かの涙で安心してしまうことがある。


それを責める権利が、自分にあるのか分からない。


『最低ですか』


湊は目を閉じた。


また、この問いだ。


死んだ父を泣けなかった少女。


加害者の妹が泣いたことに安心した少年。


救われた人は、きれいなままではいられない。


湊は返信欄に打った。


『最低じゃない』


そこで止まる。


本当にそうなのか。


湊には分からない。


だから、続けて打った。


『でも、その気持ちを人に投げつけないでください。今は、持っているだけでいいです』


送信。


既読はついた。


返事は来なかった。


駅前の空は、昼なのに少し暗い。


雨が降りそうだった。


ポケットの中で、レシートが指に触れる。


昨夜、配信前に買ったおにぎりのレシート。


印字された時刻を、湊は見ないように折った。


誰かがどこかで泣いていた時間。


誰かが何かを送った時間。


自分がただおにぎりを買っていた時間。


それらは全部、同じ夜の上に並んでいる。


スマホがまた震える。


通知音は短い。


それだけで、湊の指が止まった。


ほどけない糸。


『ヨルさん』


一行だけ。


次の文は、少し遅れて届いた。


『優しいだけで、守れると思いますか』


その文は、質問の形をしていた。


けれど湊には、もう答えを知っている人の確認に見えた。


湊は返信しなかった。


駅前の信号が青に変わる。


人が一斉に歩き出す。


湊だけが、その場に残った。


雨が降り始めたのに、傘を開く人の動きだけが、ひどく遠く見えた。


ポケットの中で、スマホだけがまだ温かかった。

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