第4話 青い傘
その夜、配信を始める前に、湊は何度も水を飲んだ。
喉が痛い。
痛いというより、声を出す前から薄く焼けている。
バイト中に客から「声、小さくない?」と言われた。
店長からは「風邪なら早めに言って」とだけ言われた。
風邪なら、どれだけ楽だろうと思った。
ネカフェの個室に入ると、湊はいつもより長く椅子に座っていた。
開始ボタンが目の前にある。
押せば、誰かが来る。
押さなければ、誰かが来られない。
そういう考え方は危ない。
分かっていても、指はボタンから離れなかった。
湊はヘッドセットをつけた。
「こんばんは」
声が少し割れた。
コメントが流れる。
> こんばんは
> 今日声大丈夫?
> 聞くだけ
> ヨルさん休んで
> ほどけない糸:短めでいいです
湊は水を一口飲んだ。
「今日は長くやりません。話せる人だけでいいです。聞いてるだけでも大丈夫です」
しばらくは、いつもの夜だった。
母親と喧嘩した人。
職場で怒鳴られた人。
好きな人に既読をつけてもらえない人。
全部、同じ重さではない。
でも、本人にとってはその夜の全部だ。
湊は一つずつ拾った。
拾えないものは、拾えなかった。
画面の下に、新しい名前が流れた。
> 青い傘:明日学校行ったら終わる
湊は、少しだけ間を置いた。
「青い傘さん。終わるって、何が終わる?」
返事は遅かった。
> 自分
コメント欄が止まった。
それから一気に流れる。
> どうした
> 学校?
> 無理しないで
> 先生に言った?
> ヨルさん
湊は声を落とした。
「今、ひとり?」
> 家
> 親寝てる
「明日、学校で何かある?」
> ある
> 動画
> 流される
> もう終わり
湊は画面の端を見た。
黒い余白。
そこに自分の顔は映らない。
「動画のこと、ここに詳しく書かなくていい。名前も学校名も出さなくていい」
> もう出てる
> クラスのグループ
> 消せない
> 先生は知らないって言う
「今、手に何を持ってる?」
> スマホ
「他には?」
返事が止まった。
コメント欄が、先に悪い想像で埋まりそうになる。
湊は言った。
「言えなかったら、言わなくていい。今、その手で自分を傷つけないことだけ考えて」
> カッター
コメント欄が一気に騒がしくなる。
> 捨てて
> 離して
> 親起こして
> だめ
> ヨルさん早く
湊は画面を見たまま、声を落とした。
「捨てなくていい」
コメントの速度が少し止まる。
「捨てろって言われても、たぶん今は無理だと思う。だから、持ったままでいい。刃が出てるなら戻して。戻せないなら、机の上に置いて、手は離さなくていい」
> 何それ
> 離した方がいいだろ
> ヨルさん?
「今、無理に奪われると思うと、もっと怖くなる。だから、まず刃だけしまって。できたら、カチって音を聞いて」
長い沈黙。
空調の音。
どこかの個室の椅子が鳴る音。
> しまった
湊は目を閉じそうになって、開けた。
「ありがとう」
> 変なの
「うん」
> 涙出てきた
「泣いてていい」
そこへ、ほどけない糸のコメントが流れた。
> ほどけない糸:机の上に置けるなら置いてください
> ほどけない糸:無理なら、スマホを両手で持ってください
> ほどけない糸:手を別のことで使ってください
湊はそのコメントを見た。
的確だった。
怖いくらいに。
でも今は、助かった。
「青い傘さん。スマホ、両手で持てる?」
> 持った
「刃物は?」
> 机
「それでいい」
> 明日無理
「明日のことは、今ここで全部決めなくていい」
> でも学校来いって
> 来なかったら認めたことになるって
> 先生が
> 親に言ったら怒られる
湊は返事に詰まった。
学校へ行くな、と簡単には言えない。
行け、とも言えない。
行って傷つくのは、この子だ。
行かなくて責められるのも、この子だ。
正しい大人は、画面の向こうにはいない。
「今夜は、生きて朝までいることを一番にしていい」
湊は言った。
「学校より先でいい。動画より先でいい。明日の朝、誰かに言うための文だけ、一緒に作ろう」
> 誰に
「親じゃなくていい。先生でも、相談窓口でも、学校外でもいい。夜明けノートに、名前を出さずに書ける欄がある」
> 書いたらバレる?
「この配信には出ない。個人情報をここには書かない。送る前に、自分で消してもいい」
ミソラがリンクを出した。
> ミソラ:夜明けノートここです。匿名で大丈夫です
> ミソラ:学校名や名前は伏せてください
> ミソラ:急ぎなら、近くの大人か相談先につなぎます
ほどけない糸が続く。
> ほどけない糸:動画は消さないでください
> ほどけない糸:証拠になります
> ほどけない糸:でも、ここに名前は書かないでください
正しい。
たぶん、正しい。
ただ、その正しさは、濡れた床を迷わず歩く人の足取りに似ていた。
「青い傘さん」
湊は名前を呼んだ。
「今、刃は机の上?」
> うん
「手は?」
> スマホ
「じゃあ、そのまま夜明けノートに一行だけ残して。『明日が怖い』だけでもいい」
> 書く
コメント欄に、誰かが「よかった」と書いた。
湊も、そう言えたら楽だった。
でも言えなかった。
朝になったら、学校は動く。
親も動く。
加害者も動く。
救えたのは、今夜の刃だけだ。
それ以上は、まだ何も変わっていない。
◇ ◇ ◇
配信終了後、湊はヘッドセットを外せなかった。
耳の奥に、青い傘の短い返事が残っている。
書く。
置いた。
分かった。
短い返事ほど、あとで消えるのが怖い。
スマホが震えた。
夜明けノートの通知。
匿名投稿が一件。
湊は開かないつもりだった。
でも、見てしまった。
タイトル欄には「明日が怖い」とだけある。
入力欄の横には、小さな注意書きがあった。
『個人名は書かないでください』
『急を要する場合は、必ず公的機関へ連絡してください』
正しい文だった。
その下に、添付ありの表示があった。
湊には添付の中身は見えない。
権限がない。
画面には、ファイル名の一部だけが表示されている。
『group_録画_消せない』
『先生に言った日』
『クラスの画面』
湊は息を止めた。
助けるための材料。
そう思おうとした。
けれど、ファイル名だけで誰かを壊すには十分な気もした。
編集履歴が更新される。
ミソラがタグ「学校」を追加しました。
ミソラが注意書きを追加しました。
ほどけない糸が整理メモを追加しました。
湊はそこで画面を閉じた。
見てはいけないものの前を通った気がした。
開いたわけではない。
でも、前を通った。
それだけで服に匂いがつくことがある。
スマホが震えた。
ほどけない糸からDMだった。
『ヨルさん、今日は見ないでください』
湊は返した。
『何を』
『夜明けノートです』
少し間があった。
『添付の中に、名前が映っています』
『映っている名前だけでも、見ない方がいいです』
名前だけでも、傷はつく。
名前だけでも、知らない人間が生活の中へ入ってくる。
湊は、それを分かっているつもりだった。
『危ない情報が映り込んでいます。ミソラさんが消す前に、私が整理します』
湊は画面を見つめた。
返信欄に指を置く。
『俺に送らないでください』
そう打って、消した。
代わりに、
『危ない情報なら、消してください』
と送った。
ほどけない糸は、しばらく返さなかった。
湊はその間、画面を見ていた。
通知が来る。
画像が一枚。
ほどけない糸からだった。
湊は開かなかった。
プレビューだけが通知欄に出る。
ぼかされた画面。
グループチャットの一部。
名前らしき文字は、黒い線で隠されている。
ただ、隠しきれていない端がある。
制服の一部。
学校の略称らしき文字。
誰かのアイコン。
湊は通知を横へ払った。
見なかったことにしようとして、すでに見ていた。
ほどけない糸から、文が続く。
『ミソラさんに渡す前に、危ないところは黒塗りしました』
『確認用に残します』
『ヨルさんは、今は開かなくていいです』
湊はスマホを伏せた。
喉が痛い。
水を飲もうとして、ペットボトルを倒した。
中身は少しだけ机にこぼれ、キーボードの隙間に流れかけた。
湊は慌ててタオルを探した。
個室にタオルなんてない。
ティッシュを何枚も引き抜いて、机を拭く。
その間に、スマホがまた震えた。
伏せたままの画面が、机の上で短く光る。
開くな。
そう思った。
けれど、湊は開いた。
ほどけない糸からではなかった。
検索履歴の通知。
ブラウザが同期確認を求めている。
検索欄に、見覚えのない文字が残っていた。
ひらがな二文字。
そのあとに、苗字らしい漢字。
さらに、「動画」「クラス」「退学」という単語が続いている。
湊は画面を見た。
検索した覚えはない。
青い傘は加害者の名前を配信では書いていない。
夜明けノートの中身も、湊には見えない。
それでも検索欄には、誰かの名前らしい文字がある。
湊は履歴の右端を見た。
検索は、配信終了後になっている。
たったそれだけ。
正確な時間までは見なかった。
見たくなかった。
湊は履歴を消そうとした。
消したら、なかったことになる。
残したら、次に見るのが怖い。
指が止まる。
スマホが震えた。
ほどけない糸。
『ヨルさん、今日はもう休んでください』
続けて、もう一通。
『大丈夫です』
何が大丈夫なのか。
誰が大丈夫なのか。
分からなかった。
それでも、その言葉に少しだけ楽になりそうになった自分がいた。
湊は履歴を消さずに、スマホの画面を伏せた。
消さなかったのは、正しさではない。
怖くて、決められなかっただけだ。




