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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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4/20

第4話 青い傘

その夜、配信を始める前に、湊は何度も水を飲んだ。


喉が痛い。


痛いというより、声を出す前から薄く焼けている。


バイト中に客から「声、小さくない?」と言われた。


店長からは「風邪なら早めに言って」とだけ言われた。


風邪なら、どれだけ楽だろうと思った。


ネカフェの個室に入ると、湊はいつもより長く椅子に座っていた。


開始ボタンが目の前にある。


押せば、誰かが来る。


押さなければ、誰かが来られない。


そういう考え方は危ない。


分かっていても、指はボタンから離れなかった。


湊はヘッドセットをつけた。


「こんばんは」


声が少し割れた。


コメントが流れる。


> こんばんは


> 今日声大丈夫?


> 聞くだけ


> ヨルさん休んで


> ほどけない糸:短めでいいです


湊は水を一口飲んだ。


「今日は長くやりません。話せる人だけでいいです。聞いてるだけでも大丈夫です」


しばらくは、いつもの夜だった。


母親と喧嘩した人。


職場で怒鳴られた人。


好きな人に既読をつけてもらえない人。


全部、同じ重さではない。


でも、本人にとってはその夜の全部だ。


湊は一つずつ拾った。


拾えないものは、拾えなかった。


画面の下に、新しい名前が流れた。


> 青い傘:明日学校行ったら終わる


湊は、少しだけ間を置いた。


「青い傘さん。終わるって、何が終わる?」


返事は遅かった。


> 自分


コメント欄が止まった。


それから一気に流れる。


> どうした


> 学校?


> 無理しないで


> 先生に言った?


> ヨルさん


湊は声を落とした。


「今、ひとり?」


> 家


> 親寝てる


「明日、学校で何かある?」


> ある


> 動画


> 流される


> もう終わり


湊は画面の端を見た。


黒い余白。


そこに自分の顔は映らない。


「動画のこと、ここに詳しく書かなくていい。名前も学校名も出さなくていい」


> もう出てる


> クラスのグループ


> 消せない


> 先生は知らないって言う


「今、手に何を持ってる?」


> スマホ


「他には?」


返事が止まった。


コメント欄が、先に悪い想像で埋まりそうになる。


湊は言った。


「言えなかったら、言わなくていい。今、その手で自分を傷つけないことだけ考えて」


> カッター


コメント欄が一気に騒がしくなる。


> 捨てて


> 離して


> 親起こして


> だめ


> ヨルさん早く


湊は画面を見たまま、声を落とした。


「捨てなくていい」


コメントの速度が少し止まる。


「捨てろって言われても、たぶん今は無理だと思う。だから、持ったままでいい。刃が出てるなら戻して。戻せないなら、机の上に置いて、手は離さなくていい」


> 何それ


> 離した方がいいだろ


> ヨルさん?


「今、無理に奪われると思うと、もっと怖くなる。だから、まず刃だけしまって。できたら、カチって音を聞いて」


長い沈黙。


空調の音。


どこかの個室の椅子が鳴る音。


> しまった


湊は目を閉じそうになって、開けた。


「ありがとう」


> 変なの


「うん」


> 涙出てきた


「泣いてていい」


そこへ、ほどけない糸のコメントが流れた。


> ほどけない糸:机の上に置けるなら置いてください


> ほどけない糸:無理なら、スマホを両手で持ってください


> ほどけない糸:手を別のことで使ってください


湊はそのコメントを見た。


的確だった。


怖いくらいに。


でも今は、助かった。


「青い傘さん。スマホ、両手で持てる?」


> 持った


「刃物は?」


> 机


「それでいい」


> 明日無理


「明日のことは、今ここで全部決めなくていい」


> でも学校来いって


> 来なかったら認めたことになるって


> 先生が


> 親に言ったら怒られる


湊は返事に詰まった。


学校へ行くな、と簡単には言えない。


行け、とも言えない。


行って傷つくのは、この子だ。


行かなくて責められるのも、この子だ。


正しい大人は、画面の向こうにはいない。


「今夜は、生きて朝までいることを一番にしていい」


湊は言った。


「学校より先でいい。動画より先でいい。明日の朝、誰かに言うための文だけ、一緒に作ろう」


> 誰に


「親じゃなくていい。先生でも、相談窓口でも、学校外でもいい。夜明けノートに、名前を出さずに書ける欄がある」


> 書いたらバレる?


「この配信には出ない。個人情報をここには書かない。送る前に、自分で消してもいい」


ミソラがリンクを出した。


> ミソラ:夜明けノートここです。匿名で大丈夫です


> ミソラ:学校名や名前は伏せてください


> ミソラ:急ぎなら、近くの大人か相談先につなぎます


ほどけない糸が続く。


> ほどけない糸:動画は消さないでください


> ほどけない糸:証拠になります


> ほどけない糸:でも、ここに名前は書かないでください


正しい。


たぶん、正しい。


ただ、その正しさは、濡れた床を迷わず歩く人の足取りに似ていた。


「青い傘さん」


湊は名前を呼んだ。


「今、刃は机の上?」


> うん


「手は?」


> スマホ


「じゃあ、そのまま夜明けノートに一行だけ残して。『明日が怖い』だけでもいい」


> 書く


コメント欄に、誰かが「よかった」と書いた。


湊も、そう言えたら楽だった。


でも言えなかった。


朝になったら、学校は動く。


親も動く。


加害者も動く。


救えたのは、今夜の刃だけだ。


それ以上は、まだ何も変わっていない。



◇ ◇ ◇



配信終了後、湊はヘッドセットを外せなかった。


耳の奥に、青い傘の短い返事が残っている。


書く。


置いた。


分かった。


短い返事ほど、あとで消えるのが怖い。


スマホが震えた。


夜明けノートの通知。


匿名投稿が一件。


湊は開かないつもりだった。


でも、見てしまった。


タイトル欄には「明日が怖い」とだけある。


入力欄の横には、小さな注意書きがあった。


『個人名は書かないでください』


『急を要する場合は、必ず公的機関へ連絡してください』


正しい文だった。


その下に、添付ありの表示があった。


湊には添付の中身は見えない。


権限がない。


画面には、ファイル名の一部だけが表示されている。


『group_録画_消せない』


『先生に言った日』


『クラスの画面』


湊は息を止めた。


助けるための材料。


そう思おうとした。


けれど、ファイル名だけで誰かを壊すには十分な気もした。


編集履歴が更新される。


ミソラがタグ「学校」を追加しました。


ミソラが注意書きを追加しました。


ほどけない糸が整理メモを追加しました。


湊はそこで画面を閉じた。


見てはいけないものの前を通った気がした。


開いたわけではない。


でも、前を通った。


それだけで服に匂いがつくことがある。


スマホが震えた。


ほどけない糸からDMだった。


『ヨルさん、今日は見ないでください』


湊は返した。


『何を』


『夜明けノートです』


少し間があった。


『添付の中に、名前が映っています』


『映っている名前だけでも、見ない方がいいです』


名前だけでも、傷はつく。


名前だけでも、知らない人間が生活の中へ入ってくる。


湊は、それを分かっているつもりだった。


『危ない情報が映り込んでいます。ミソラさんが消す前に、私が整理します』


湊は画面を見つめた。


返信欄に指を置く。


『俺に送らないでください』


そう打って、消した。


代わりに、


『危ない情報なら、消してください』


と送った。


ほどけない糸は、しばらく返さなかった。


湊はその間、画面を見ていた。


通知が来る。


画像が一枚。


ほどけない糸からだった。


湊は開かなかった。


プレビューだけが通知欄に出る。


ぼかされた画面。


グループチャットの一部。


名前らしき文字は、黒い線で隠されている。


ただ、隠しきれていない端がある。


制服の一部。


学校の略称らしき文字。


誰かのアイコン。


湊は通知を横へ払った。


見なかったことにしようとして、すでに見ていた。


ほどけない糸から、文が続く。


『ミソラさんに渡す前に、危ないところは黒塗りしました』


『確認用に残します』


『ヨルさんは、今は開かなくていいです』


湊はスマホを伏せた。


喉が痛い。


水を飲もうとして、ペットボトルを倒した。


中身は少しだけ机にこぼれ、キーボードの隙間に流れかけた。


湊は慌ててタオルを探した。


個室にタオルなんてない。


ティッシュを何枚も引き抜いて、机を拭く。


その間に、スマホがまた震えた。


伏せたままの画面が、机の上で短く光る。


開くな。


そう思った。


けれど、湊は開いた。


ほどけない糸からではなかった。


検索履歴の通知。


ブラウザが同期確認を求めている。


検索欄に、見覚えのない文字が残っていた。


ひらがな二文字。


そのあとに、苗字らしい漢字。


さらに、「動画」「クラス」「退学」という単語が続いている。


湊は画面を見た。


検索した覚えはない。


青い傘は加害者の名前を配信では書いていない。


夜明けノートの中身も、湊には見えない。


それでも検索欄には、誰かの名前らしい文字がある。


湊は履歴の右端を見た。


検索は、配信終了後になっている。


たったそれだけ。


正確な時間までは見なかった。


見たくなかった。


湊は履歴を消そうとした。


消したら、なかったことになる。


残したら、次に見るのが怖い。


指が止まる。


スマホが震えた。


ほどけない糸。


『ヨルさん、今日はもう休んでください』


続けて、もう一通。


『大丈夫です』


何が大丈夫なのか。


誰が大丈夫なのか。


分からなかった。


それでも、その言葉に少しだけ楽になりそうになった自分がいた。


湊は履歴を消さずに、スマホの画面を伏せた。


消さなかったのは、正しさではない。


怖くて、決められなかっただけだ。

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