第3話 ほどけない糸
配信アプリのコメント欄には、名前がある。
顔はない。
年齢もない。
住んでいる町も分からない。
それでも、何ヶ月も同じ夜に集まっていると、湊には少しだけ分かることが増えていた。
ミソラは、コメント欄が荒れると最初に整理する。
「深呼吸」や「水を飲んで」といった短い言葉を、同じ高さで置く。
自分のことはほとんど話さない。
それでも、誰かが相談先を求めると、夜明けノートのリンクをすぐに出す。
父親が死んだという少女からのDMは、それから来なくなった。
一日。
二日。
三日。
来ないなら、安全なのかもしれない。
そう思おうとして、湊はそのたびにスマホを閉じた。
都合のいい想像は、閉じる時だけ少し楽になる。
夜になると、楽になったぶんだけ戻ってくる。
湊は配信を休んだ。
一日だけ。
次の日には戻った。
未読通知は増えていた。
『今日はやらないんですか』
『聞くだけでいいです』
『昨日、無理でした』
『ヨルさんいないと寝られない』
画面の向こうにいる人たちは、湊が休んでいる間にも危ういままだった。
それが責任なのか、依存なのか、湊には分からない。
ただ、開始ボタンの前で手が止まる。
あの低い声が、また入ったら。
そう思うと、マイクを口元に寄せるだけで喉が硬くなった。
それでも、湊は配信を始めた。
「こんばんは」
コメントが流れる。
> 今日いてくれた
> よかった
> 聞くだけ
> 眠れない
> ヨルさん、無理しないで
その中に、見慣れない名前があった。
> ほどけない糸:こんばんは
湊は、少しだけ目で追った。
初めて見る名前だった。
アイコンは何も設定されていない。
「こんばんは。聞くだけでも大丈夫です」
> ほどけない糸:はい
> ほどけない糸:今日は、短くていいと思います
変な言い方だった。
初見のリスナーにしては、湊の声の具合を分かっているような書き方。
ミソラが続ける。
> ミソラ:ヨルさん、水ありますか
> ミソラ:今日は無理に全部拾わなくていいです
湊は机の上の水を見る。
買ったのに、まだ開けていなかった。
「あります」
> ほどけない糸:開けてください
> ほどけない糸:今、声が少し引っかかっています
湊はペットボトルの蓋に手をかけた。
自分の指先が濡れている。
汗か、水滴か、分からなかった。
蓋を開ける音が、マイクに入った。
「……すみません」
> 謝らなくていい
> 水飲んで
> ヨルさん休んで
> ほどけない糸:一口だけでいいです
湊は一口飲んだ。
喉の奥が痛い。
水が通るだけで、細い傷に触れる感じがする。
配信は、その夜、短く終わった。
大きな事件はなかった。
学校へ行きたくない人。
母親と話したくない人。
眠れない人。
死にたいとは言わないが、生きたいとも言わない人。
湊は拾い、返し、時々落とした。
ほどけない糸は、ほとんど話さなかった。
ただ、湊が止まるたびに、短く置く。
> ほどけない糸:そこは、返事を急がなくていいと思います
> ほどけない糸:本人が選べる形にしてください
> ほどけない糸:今日は、ここまででいいです
的確だった。
少し、的確すぎた。
◇ ◇ ◇
配信後、湊は夜明けノートを開いた。
ミソラからメッセージが来ていたからだ。
『今日の新しい人、ほどけない糸さん。整理を手伝いたいそうです』
続けて、もう一通。
『文章はかなり落ち着いてます。少しだけ試してみてもいいですか』
湊は画面を見た。
夜明けノートは、配信後に危うい人を朝までつなぐために作られた。
フォームに書き込まれた内容は、基本的にミソラが整理する。
湊は管理者ではない。
一部の投稿文や、本人が共有してよいと選んだ欄だけを見る。
そうしないと、湊の方がもたない。
「俺が全部見たら、俺が全部背負った気になる」
以前、そう言った。
ミソラは、少しだけ間を置いてから、
『分かりました』
と返した。
その距離感で、ここまで来た。
湊は返信欄を開く。
『ミソラさんが大丈夫だと思う範囲なら』
少し考えて、打ち直した。
『ただ、個人情報には触れすぎないようにしてください』
送る。
すぐ既読がついた。
『分かっています』
その後に、ミソラから夜明けノートの画面が共有された。
入力項目が並んでいる。
「今いる場所」
「ひとりかどうか」
「今、自分を傷つけるものが近くにあるか」
「帰れない理由」
「関係者の続柄」
「明日の朝、連絡できる人」
助けるための項目。
そう思って作られたものだ。
名前は書かせない。
住所も伏せる。
学校名や職場名は、本人が望まない限り出さない。
それでも、「帰れない理由」
「関係者の続柄」
という見出しを見ると、湊の中で何かが引っかかる。
続柄だけでも、人は浮かび上がる。
父。母。妹。
名前を伏せても、関係だけで逃げ道が狭くなることがある。
救うために必要な地図。
でも、地図は別の使い方もできる。
湊はその考えを追い払うように、画面を閉じた。
スマホが震えた。
配信アプリのDM。
ほどけない糸からだった。
『ヨルさん』
それだけ。
湊は返信に迷った。
『はい』
すぐに返ってくる。
『昨日のアーカイブ、聞きました』
手が止まる。
『低い声のところです』
湊は喉に手を当てた。
画面の文字が少し滲む。
『あれは、俺じゃありません』
打ってから、送らずに消した。
代わりに、
『聞こえましたか』
とだけ送った。
既読。
『聞こえました』
次の文は、少し遅れた。
『でも、怖くありませんでした』
湊は眉を寄せた。
『怖くない?』
『はい』
さらに、短い文が届く。
『あの声は、優しい声が言えないことを言っているだけだと思いました』
湊は返信できなかった。
優しい声が言えないこと。
その言い方が、妙に気持ち悪くて、少しだけ救われそうにもなる。
救われそうになったことが、もっと嫌だった。
ほどけない糸から、もう一通来る。
『戻された先が同じなら、また泣くと思います』
湊はスマホを伏せた。
個室の空調が低く鳴る。
遠くで誰かが笑った。
その笑い声が、ここには届かないはずの場所から、板一枚を抜けて入ってくる。
湊はヘッドセットを外し、机に置いた。
黒いスポンジの裂け目が、前より広がっているように見えた。
◇ ◇ ◇
ほどけない糸は、それから何度も現れた。
配信のたびにいるわけではない。
でも、いる時は必ず、湊が見落とした隙間へ言葉を置いた。
> ほどけない糸:その人は今、選べる状態ではないと思います
> ほどけない糸:責めないでください。説明を求めないでください
> ほどけない糸:ここで名前を出さないで
コメント欄では、感謝する人も増えた。
> ほどけない糸さん、助かる
> ミソラさんと糸さんいると安心
> ヨルさん無理しないで
> 支える人増えたね
湊は礼を言うこともあった。
ほどけない糸は、そのたびに、
> ほどけない糸:ヨルさんが話し続けるためです
と返した。
その言葉は、善意に見えた。
見えた、というより、善意であってほしかった。
ある夜、配信後にミソラから連絡が来た。
『ほどけない糸さん、整理がすごく早いです』
『ただ、少し踏み込みが深いかもしれません』
湊は、
『深い?』
と返した。
ミソラは少ししてから、
『帰れない理由を、すぐに構造で見ます』
と送ってきた。
その下に、もう一文。
『助けるには必要なのかもしれないんですけど』
湊は画面を見つめた。
構造。
その言葉は便利だった。
便利すぎて、時々、人の泣き方を見なくて済む。
ほどけない糸からも、同じタイミングでDMが来た。
『ヨルさんは、声を残してください』
『添付やメモの整理は、私の方で回します』
湊は、最後の一文をもう一度読んだ。
回します。
その言葉に引っかかった。
『どこへ』
そう打ちかけて、やめた。
聞いたら、答えが返ってくる。
答えを見たら、たぶん戻れない。
湊はスマホを伏せた。
伏せても、通知は来る。
短い振動が、机に置いた水を少しだけ揺らした。




