第2話 助かった朝、死んだ父
目覚ましではなかった。
個室のドアを、店員が軽く叩く音で湊は目を開けた。
「延長、どうされますか」
一瞬、どこにいるのか分からなかった。
白い壁。
狭い机。
大きすぎるモニター。
ヘッドセットはキーボードの横に転がっている。
画面は暗くなっていた。
湊は喉の奥を押さえながら、椅子から体を起こした。
「……出ます」
声が掠れた。
返事をしただけで、昨夜の配信の残りが喉へ戻ってくる。
会計を済ませると、財布の中は薄くなった。
小銭の枚数は見なかった。
見ても増えない。
外へ出ると、朝の光が正面から刺した。
駅前はもう動いていた。
スーツの人が足早に改札へ吸い込まれていく。
高校生がコンビニの前で笑っている。
昨日、屋上にいた誰かが死のうとしていたことを、この道の人たちは知らない。
知っても、たぶん昼には別の話をする。
湊は店の前の端に立ち、スマホを開いた。
配信アプリに通知が残っている。
数字と英字のアカウント。
昨夜の相手だった。
『家にいます』
その下に、もう一通。
『警察の人に連れて帰られました』
夜明けノートの通知にも、同じ投稿が残っていた。
表示されているのは、本人が選んだ最低限の属性だけだった。
十代、女性。
それ以上は伏せられている。
名前も、住所も、学校もない。
そこで文は途切れていた。
時間を置いて、短い文が続いている。
『帰りたくなかったです』
『玄関に乱雑に置かれている靴を見ただけで、吐きそうになりました』
『母は、ごめんねって言いました』
『でも、何に謝ってるのか分かりません』
湊は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
昨夜、湊を襲ったのは「救えなかったかもしれない」という恐怖だった。
今、体に残っているのは違う。
助かった人が、また同じ場所へ戻された。
その事実が、朝の光の中で妙にはっきり見える。
救った。
そう言うには短すぎる。
返信欄には、自分が送った文が残っている。
『五分待てて、えらかったです。今は誰かの近くにいてください』
湊はもう一度、同じ文を読んだ。
誰かの近く。
それが安全な場所だと、どうして言えたのか。
湊は返信を打とうとして、やめた。
何を送ればいいのか分からない。
夜明けノートの通知も残っていた。
『匿名投稿が送信されました』
湊は開かないつもりだった。
でも、指が動いた。
投稿本文は短かった。
『帰りたくない』
『妹がいる』
『母は止めない』
『玄関に靴があると息ができない』
湊にも、相談者本人が残した投稿文の一部は見える。
けれど、その先の非公開メモまでは見えない。
個人情報を湊が抱え込まないように。
ミソラがそう決めた。
湊もそれでいいと言った。
見えるのは、投稿時に表示される入力項目の見出しと、簡単な情報だけだった。
「帰れない理由」
「関係者の続柄」
「今いる場所の目印」
「明日の朝、連絡できる人」
名前を書かせず、住所も伏せたまま、助けにつなぐための項目。
そのはずなのに、湊にはそれが、誰かの家へ続く細い地図みたいに見えた。
画面の下には、編集履歴が残っている。
ミソラが項目を整理しました。
ミソラが非公開メモを追加しました。
湊はそこで画面を閉じた。
朝の光の中で見るには、少し重すぎる文字だった。
◇ ◇ ◇
昼前、バイト先の休憩室で、テレビがついていた。
誰もちゃんと見ていない。
揚げ物の油の匂いが、制服に染みついている。
湊は廃棄予定のパンを一つもらい、端の椅子に座った。
画面の下に、速報の文字が流れた。
都内の集合住宅で男性死亡。
転落か。
湊はパンの袋を開ける手を止めた。
ニュースは短かった。
未明、都内の集合住宅の敷地内で、四十代の男性が倒れているのが見つかった。
搬送先で死亡が確認された。
警察は事故とみて、詳しい状況を調べている。
それだけだった。
名前は出なかった。
住所も細かくは出ない。
画面に映った建物にも、湊の見覚えはない。
それなのに、胃の底が冷えた。
昨夜の配信とつながっている証拠は何もない。
ないのに、頭の中で勝手に並ぶ。
屋上。
帰りたくなかったというDM。
玄関に靴があると息ができないという文字。
湊はパンを膝に置いた。
ニュースはすぐに別の話題へ移った。
芸能人の結婚。
週末の天気。
誰かが笑った。
「また転落だってさ。酔ってたんじゃね」
休憩室の奥で、同じバイトの男がスマホを見ながら言った。
湊は返事をしなかった。
人が一人死んでも、名前がなければニュースは軽い。
湊はスマホを開く。
大きな記事はほとんど出ない。
当然だった。
人が一人死んでも、たいていの人には関係がない。
湊は配信アプリを開いた。
昨夜のアーカイブには、コメントが少し増えていた。
多くはない。
それでも、同じことを考えた人間はいたらしい。
『昨日の子、大丈夫だったのかな』
『未明の転落ニュース、時間近くない?』
『屋上って言ってたよね』
『まさか関係ないよな』
『父親って書いてる人いたけど、どこ情報?』
『あの子、帰りたくないって言ってた』
『なら自業自得じゃないの』
湊は最後の一文で、指を止めた。
誰も、何も確かめていない。
それでも、短い言葉は簡単に人を裁く。
死んだ人間を悼む言葉より、裁く言葉の方が早い。
ただ、湊もすぐに否定できなかった。
昨夜の子は、帰りたくないと言った。
妹のくまのキーホルダーを握っていた。
父親という言葉は出ていなかった。
でも、帰る場所に何かがいた。
玄関にその靴があるだけで、家の中の空気ごと塞がれてしまうような何かが。
「目黒、休憩終わり」
店長の声で、湊はスマホをポケットに押し込んだ。
「はい」
立ち上がると、膝に置いていたパンが床へ落ちた。
袋は開いていない。
湊はそれを拾い、制服のポケットに突っ込んだ。
まだ食べられる。
そう思った自分が、少し嫌だった。
◇ ◇ ◇
夕方、数字と英字のアカウントからDMが届いた。
『お父さんが死にました』
湊はバイト先のバックヤードで、それを読んだ。
段ボール箱が積まれている。
冷蔵庫のモーター音が壁の向こうで鳴っている。
『私、何もしてません』
次の文が、すぐに来た。
『本当です』
『でも、少しだけ、息ができると思ってしまいました』
そこで止まった。
男性死亡のニュースを見た時は、恐怖だった。
今、少女の言葉を見ていると、恐怖だけではなかった。
言葉を置く場所がなかった。
何もしていないなら、よかった。
そう返すのは違う。
息ができるなら、よかった。
それも違う。
父親が死んだ。
その事実は、たとえどんな人間だったとしても、娘の中に穴をあける。
痛みと安堵が同じ場所に座ることはある。
湊には、それを責める言葉がなかった。
『最低ですよね』
次の通知が来た。
『死んだって聞いて、泣けなかった』
『妹は泣いてます』
『私は、妹を抱きしめたら、手が震えて、離しました』
『昨日、ヨルさんの声を聞いてなかったら、私が死んでました』
『でも今は、お父さんが死にました』
『私のせいですか』
湊は目を閉じた。
何かを返さなければならない。
そう思うほど、言葉は遠ざかった。
寄り添うために、少女の名前や、妹の名前を聞くことはできた。
名前を知れば、少しだけ近づける気がした。
けれど、今ここで名前を知れば、みんなを画面の中に引きずり込む気がした。
だから、聞かなかった。
表のレジから客の声が聞こえる。
袋はいりますか。
ポイントカードはありますか。
世界は止まらない。
誰かの父親が死んでも、弁当は温められる。
「……君のせいじゃない」
声に出してから、湊は慌てて口を閉じた。
誰もいない。
それでも、言葉だけが狭い部屋に残った。
湊は同じ文を打った。
『君のせいじゃない』
少し考えて、続ける。
『でも、一人で抱えないでください。警察でも、学校でも、支援の人でもいい。妹さんのことも、誰か大人に話してください』
送ってから、軽すぎると思った。
学校。
支援。
大人。
そんなものが届くなら、昨夜あの子は屋上に立っていない。
『学校の先生には、前に言いました』
返事は早かった。
『家のことは、お母さんと相談してって言われました』
次の文が、少し遅れる。
『お母さんは、お父さんも疲れてるからって言いました』
さらに、細い文字が続いた。
『今日、妹がランドセルを背負ったまま座ってます』
『誰も学校に電話してません』
『母は警察の人に何度も同じ話をしています』
『私は、台所の床だけ見ています』
湊は画面を見つめた。
制度の名前を並べることはできる。
相談先も、検索すればいくらでも出てくる。
でも、そこへ行くまでの靴を履かせる人がいなければ、全部ただの文字になる。
『今は妹さんのそばにいてください』
それだけ送った。
既読はついた。
返事は来なかった。
湊はスマホをポケットに戻した。
手の中だけが冷えていた。
◇ ◇ ◇
バイトを終えたあと、湊はもう一度ネカフェに入った。
昨日と同じ店。
同じ通話可個室は空いていなかったので、隣の部屋にした。
料金表を見て、三秒だけ迷う。
迷っても、他に行く場所はない。
PCを立ち上げ、配信アプリを開く。
今日は配信しない。
アーカイブを確認するだけ。
昨夜の配信は、自動で保存されていた。
タイトルは空白。
再生時間は三十分ほど。
湊はヘッドセットをつけた。
最初の声は、自分のものだった。
「こんばんは」
掠れている。
弱い。
こんな声に、誰かが縋ったのかと思うと、少し怖かった。
コメント欄の再現が横に流れる。
> ヨルさん、無理しないで
> 今から飛び降ります
> 五分だけ待って
> 鍵にぎった
> いま
> すわった
湊は再生バーを少し戻した。
自分が「足元は見ないで」と言っている。
その下に、風の音。
遠くの泣き声。
聞き覚えのない低い音が、そこに混じっていた。
最初はノイズだと思った。
湊は音量を上げた。
もう一度、同じ場所を再生する。
風。
泣き声。
そして、声。
『救った先が同じなら、原因は残る』
湊の指が止まった。
この怖さは、ニュースを見た時とも、少女のDMを読んだ時とも違った。
自分の外側で起きた出来事ではない。
自分の内側に、知らない部屋があったみたいだった。
声は、自分ではない。
いや、違うと言い切りたいだけかもしれない。
低く、平らで、熱がなかった。
昨夜の自分の声から、温度だけを抜いたみたいな声だった。
湊は再生を止めた。
画面の中で、コメントだけが残る。
> 何か聞こえた?
> 低い声しなかった?
> ヨルさん?
> いまの誰
ミソラのコメントも混じっていた。
> ミソラ:ヨルさん、一度止めてください
湊は、その文字を見返した。
昨日の自分は、その文字を見ていない。
見なかったのか。
見えなかったのか。
その後、自分の声が入る。
「今日は、ここまでにします」
湊は再生バーをさらに進めた。
配信終了の数秒前。
音が小さく沈む。
そこに、もう一度だけ、低い声が入っていた。
『戻すだけなら、また泣く』
湊はもう一度、そこだけを再生した。
聞き間違いであってほしかった。
機械のノイズでも、誰かの通話が混ざったものでも、ネット回線の不具合でもよかった。
けれど、二度目も同じだった。
『戻すだけなら、また泣く』
湊はヘッドセットを外した。
耳が熱い。
少女はこの声を聞いていたのか。
聞いたあとに、誰かが来た。
それが誰だったのか、湊は知らない。
知らないのに、もう何も知らないままではいられない気がした。
スマホが震えた。
少女からではなかった。
ミソラからだった。
『アーカイブ、確認しましたか』
湊は返信できなかった。
すぐに、もう一通届く。
『ヨルさん、今日は配信しない方がいいです』
画面の中で、再生ボタンだけが止まっている。
湊は、空白のコメント欄を見ていた。
何かを言い返すべきだった。
大丈夫です。
違います。
俺じゃない。
どれも打てなかった。




