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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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第1話 五分だけ待って

ネカフェの通話可個室は、少しだけ値段が高い。


普通のブースより壁が厚く、天井まで仕切られている。


声を出しても外にまったく漏れないわけではないが、薄い板一枚で区切られた席よりはましだった。


自宅でやれば、金はかからない。


それでも湊は、ここへ来る。


配信の内容を、家に持ち帰りたくなかった。


画面の向こうの夜を。


誰かが落ちそうになる気配を。


自分が、何もできなかった時の沈黙を。


目黒湊は、そこでもいちばん安いプランを選んでいた。


机は狭い。


備え付けのモニターが大きいせいで、キーボードと紙コップを置くと、それだけでもう余白がない。


椅子の背もたれは少し沈んでいて、体を預けるたびに小さく鳴る。


湊はヘッドセットのマイクを指で押さえ、位置を直した。


黒いスポンジの先が、少し裂けている。


それでも、スマホに向かって喋るよりはましだった。


画面には、配信アプリの管理画面が開いている。


顔は映さない。


カメラも使わない。


黒い待機画面のまま、声だけを流す。


配信上の名前は、ヨル。


ヨルの配信は、相談窓口ではない。


警察でも、病院でも、支援団体でもない。


ただ、夜の底で声を出せなくなった誰かが、匿名のまま一行だけ置いていく場所だった。


湊はその声を拾う。


解決はできない。


救えたと言い切れる夜も、ほとんどない。


それでも、朝まで落ちずにいられるなら。


そう思って、湊は今夜もマイクを入れる。


本名を出したことはない。


顔も、年齢も、住んでいる場所も、何も。


机の端には、湊のスマホが伏せて置かれていた。


ログイン認証用。


DM通知確認用。


配信が終わったあと、誰かがまだ生きているかを確認するための、小さすぎる窓。


湊はマウスに手を置いたまま、開始ボタンを見ていた。


今日はやめようと思っていた。


昨日もやった。


一昨日もやった。


その前の日は、バイト終わりに十分だけつないだあと、駅のトイレで吐いた。


声を出すたびに、誰かの冷たいものが喉の奥へ沈んでくる。


そんな感じがする。


机の上の紙コップには、ドリンクバーの水が少しだけ残っている。


飲もうとして、やめた。


喉は乾いているのに、水を入れたら戻しそうだった。


画面の右下には未読通知が溜まっていた。


『今夜だけ話してください』


『聞いてるだけでもいいですか』


『助けて』


短い文字が並ぶ。


ここでは、誰かの人生が一行で届く。


湊はヘッドセットをかけ直し、開始ボタンを押した。


視聴者数が出る。


三。


七。


十二。


コメントが流れ始めた。


> こんばんは


> 今日もいてくれた


> 聞くだけでいいですか


> ヨルさん、無理しないで


湊はマイクテスト用の波形を見た。


少し揺れている。


「こんばんは」


自分の声が、片耳から少し遅れて返ってくる。


思ったより掠れていた。


「眠れない人は、少しだけいてください。話さなくていいです。聞いてるだけでいいので」


> 今日しんどかった


> 学校行きたくない


> バイト先で怒鳴られた


> 何もしてないのに涙出る


全部を拾うと、全部落とす。


湊はそれを知っている。


画面の向こうには、手が多すぎる。


自分の手は二本しかない。


「近くにあるものを、一個だけ見てください。コップでも、壁でも、床の傷でもいいです。外にいる人は、いちばん近い光を見て」


> コンビニの看板


> 天井


> スマホ


> 屋上の非常灯


湊の指が止まった。


屋上。


その二文字だけ、少し強く目に入った。


次のコメントが、そのすぐ下に流れる。


> 今から飛び降ります


コメント欄が荒れた。


> え


> やめて


> 場所どこ


> 通報


> 本気?


> ヨルさん


> 誰か止めて


湊はキーボードから手を離した。


すぐに言え。


でも、急ぐな。


頭の中で、二つの声がぶつかる。


「名前は言わなくていいです」


アカウント名は、数字と英字の並びだった。


アイコンは初期設定。


「聞こえてたら、五分だけ待って」


言ってから、湊は自分の口元に触れた。


その言葉を、誰から受け取ったのか。


時々、分からなくなる。


自分の声なのに、どこか借り物みたいに引っかかる。


返事はない。


視聴者数だけが増えていく。


心配している人もいる。


ただ見に来た人もいる。


画面では分からない。


「今、立ってる? 座ってる?」


> 場所言って


> 答えて


> 釣りじゃないよね


> だめだよ


> 警察呼んで


湊はコメント欄の流れから目を外した。


画面の端。


黒い余白。


そこを見る。


「答えなくてもいい。立ってるなら、しゃがんで。座ってるなら、そのままでいい」


しばらく何も返らなかった。


空調の音が低く鳴っている。


廊下の向こうで、誰かがドリンクバーの氷を落とした。


からん、と軽い音がした。


> 立ってる


湊はすぐに返さなかった。


「そっか」


それだけ言って、少し待つ。


「じゃあ、しゃがめる?」


> 無理


> 足が震えてる


「震えてるなら、今は無理に動かなくていい」


言ってから、湊は机の角を指で押さえた。


違う。


足りない。


「落ちる方には動かないで。五分だけ」


> 五分で何が変わるの


> 何も変わらない


> 明日も同じ


「変わらないと思う」


コメント欄が少し遅くなる。


「五分で家が変わるわけじゃないし、学校も、仕事も、お金も、急には変わらない。嫌な人がいなくなるわけでもない」


湊は紙コップを握った。


水が少し揺れる。


「でも五分あれば、今いる場所から一歩だけ離れられるかもしれない。切るのは、そのあとでいい」


> もう決めた


「じゃあ、決めたままでいい。決めたまま、五分だけ待って」


正しい言葉ではない。


けれど、正しい言葉を探している時間が怖かった。


「寒い?」


> 寒い


「温かいもの、近くにある?」


> ない


「自販機とか、お店は?」


> ビルの上


> 何もない


またコメントが流れる。


> やばい


> 屋上?


> 場所言って


> 誰か助けて


> どこ


湊は眉間を押さえそうになって、やめた。


「ビルの上か」


一度、相手の言葉をなぞる。


「じゃあ、足元は見ないで。空も見なくていい。スマホだけ見て」


> みてる


「ありがとう」


> ありがとうって何


> 変なの


「変だよな。でも、今、俺の声を聞いてくれてるから、ありがとうでいい」


画面の右下で、見覚えのある名前が流れた。


> ミソラ:ヨルさん、声が少し変です


> ミソラ:水、飲めるなら飲んでください


> ミソラ:今は周りの人、名前や場所を聞き出そうとしないで


湊は水を飲まなかった。


今飲んだら、喉が鳴りそうだった。


「今、手に何か持ってる?」


> スマホ


> あと鍵


「鍵、どんな鍵?」


> 家の


> くまのキーホルダーついてる


> 妹がくれた


湊は一度、画面から目を離した。


くまのキーホルダー。


誰かが誰かのために選んだもの。


「妹さん、何歳?」


返事が止まった。


コメント欄に、余計な言葉が増える。


> 妹の話するなよ


> いいから場所聞いて


> 答えて


> まだいる?


湊は待った。


入力中の表示が、一度だけ出た。


すぐに消える。


何かを書きかけて、やめたのだと思った。


それから、短い文字だけが出た。


> 小4


「小四か。名前や場所は言わなくていいです」


湊はすぐに付け足した。


「ここでは、誰かが分かることは書かなくていい」


少し間があった。


「妹さんは、くまが好きなの?」


> ちがう


> 私が好きだった


> 昔


「覚えてたんだ」


> うん


「じゃあ、その鍵、落とさないで持ってて」


> なんで


「妹さんがくれたものだから」


> 帰りたくない


「帰らなくていい」


少し早かった。


湊は言葉を足す。


「今は、帰らなくていい。帰るかどうかは後で考えていい。警察でも、友達でも、コンビニでも、どこでもいい。まず下には行かないで」


> 下しかない


「階段がある」


> 怖い


「うん」


> 無理だって


「うん」


> なんでうんしか言わないの


「無理って言ってる人に、無理じゃないって言っても、腹立つだろ」


しばらく返事がなかった。


> ミソラ:鍵を握ってください


> ミソラ:画面だけ見てください


> ミソラ:ヨルさんの声だけ聞いて


湊はミソラのコメントを目で追った。


ミソラは古くからいるリスナーだった。


コメントは多いが、でしゃばらない。


誰かがパニックになると、救うためのリンクを出す。


湊が詰まると、短く補助する。


「ありがとう、ミソラさん」


言ってから、少しだけ失敗した気がした。


今は一人に礼を言う場面じゃない。


でもコメント欄の速度は少し落ちた。


> 鍵にぎった


「強く握りすぎなくていい。痛くないくらいで」


> 手が痛い


「じゃあ、少しゆるめて」


> ゆるめた


「うん」


> 子ども扱いしないで


「ごめん」


> でも


> ちょっとまし


湊は机の端をつまんだ。


自分の指先の感覚が薄い。


「近くにドアある?」


> ある


「そこまで行けそう?」


> 分からない


「スマホ見たまま、一歩だけ後ろ。足元は見なくていい。鍵は持ったまま」


返事が消えた。


十秒。


二十秒。


コメント欄がまた騒ぎ出す。


湊は何も言わなかった。


声を出したら、相手の足が止まりそうだった。


ただ待つ。


> 一歩下がった


湊は口を開いたが、すぐには声が出なかった。


「うん」


それだけ言う。


「もう一歩は?」


> できるかも


「できるかもでいい。できなかったら、そこで座って」


> いま


> すわった


湊は背中を丸めた。


見えない場所で、誰かが座った。


それだけなのに、体から力が抜けそうになる。


「座れたんだな」


> うん


> 足が動かない


「動かなくていい」


> 泣いてる


「泣いてていい」


> 誰か来た


コメント欄が一気に明るくなる。


> よかった


> スマホ切らないで


> えらい


> 助かって


> 近くの人に渡して


湊は、よかった、と言えなかった。


誰が来たのか分からない。


安全な人なのかも分からない。


画面越しには、何も見えない。


「スマホ、切らなくていい。相手が誰か、分からなかったら、返事しなくていい」


返事は来なかった。


コメントだけが流れる。


湊はしばらく待った。


「今日は、ここまでにします」


> え


> まだ話して


> ヨルさん休んで


> ミソラ:終わってください


> ミソラ:ヨルさんも限界です


湊は最後のコメントを見た。


心配されているはずなのに、責められているように胸が縮んだ。


「今夜、まだ危ない人は、近くの人か、救急か警察につながってください。ここに全部置かないでください」


自分にも言っていた。


「切ったあともしんどかったら、夜明けノートに残してください。返事はすぐできないかもしれない。でも、一人で戻らないで」


画面の下に、非公開フォームへのリンクが表示されている。


夜明けノート。


配信後に危ういまま残ったリスナーを、一人にしないための相談投稿だった。


作ったのはミソラだ。


湊は管理者ではない。


全部を見ない。


そう決めていた。


抱えたら、たぶん壊れる。


「五分待てた人は、もう五分だけ待って。温かいものが飲める人は、飲んで。なければ水でもいいです」


配信終了の確認画面が出る。


本当に終了しますか。


湊は、はいを押した。


音が消えた。


個室には、空調の音と、遠くのドリンクバーの機械音だけが残った。


急に暑い。


ヘッドセットを外そうとして、指が引っかかった。


机に置こうとしたヘッドセットが、キーボードに当たる。


適当な文字が入力欄に並んだ。


湊はそれを消そうとして、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。


間に合わない。


個室のドアを開け、廊下へ出る。


トイレまでの数歩が長い。


個室に入って、膝をつく。


吐いた。


水しか出なかった。


喉が焼ける。


しばらくして、湊は洗面台で口をすすいだ。


鏡の中の顔は、他人みたいだった。


個室へ戻る途中、ドリンクバーの前で足が止まった。


ボタンを押せば、温かい飲み物は出る。


この店はフリードリンク付きだ。


金はかからない。


湊は紙コップを一つ取った。


温かければ何でもよかった。


でも、今飲んだらまた吐く気がした。


紙コップを戻した。


ポケットの財布が硬く当たる。


中身は見なくても少ない。


今夜の個室代を払ったら、明日の朝に何が残るか分からない。


個室に戻ると、スマホが震えていた。


配信アプリのDM通知。


さっきの数字と英字のアカウントだった。


『生きてます』


たったそれだけだった。


湊は椅子に座った。


背もたれが、きし、と鳴る。


助かった。


たぶん。


今夜は。


湊は返信欄を開いた。


『五分待てて、えらかったです。今は誰かの近くにいてください』


送信。


既読はつかなかった。


それでいい。


湊はスマホを伏せようとして、PC画面の端に別の表示があることに気づいた。


未送信メモ。


開いた覚えはない。


宛先は空欄。


本文の一部だけが見えている。


『救った先が同じなら、原因は残る』


指が止まった。


画面が暗くなる。


マウスを動かして、明るさを戻す。


本文欄に、同じ言葉が残っていた。


『救った先が同じなら、原因は残る』


打った覚えはない。


でも、自分が打ちそうな文字だった。


短くて。


嫌にまっすぐで。


怒っているのに、怒っていないふりをしている。


削除しようとして、人差し指が浮いた。


その時、スマホがまた震えた。


ミソラからだった。


『ヨルさん、今日はもう寝てください』


続けて、もう一つ。


『本当に、これ以上はだめです』


湊は返信欄を開いた。


大丈夫です、と打とうとした。


大丈夫ではなかった。


何も打てないまま、画面を見ていた。


個室の外で、誰かのスリッパが床を擦った。


音はゆっくり遠ざかる。


机の上の紙コップには、水が少しだけ残っている。


コップの縁は、握ったところだけ少し歪んでいた。

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