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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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19/20

第19話 サイレントライン

湊は走った。


声は出ない。


息だけが、喉の奥で擦れていた。


駅までの道が、やけに長かった。


夜の歩道。


閉まりかけた店のシャッター。


信号待ちの車列。


全部が普通に動いている。


そのことが、腹立たしかった。


スマホには、紬からの最後の文が残っている。


『真鍋さんに会ってきます』


湊は何度も返信を打とうとした。


『待って』


『行く』


『ひとりで会わないで』


どれも短い。


短いのに、指がうまく動かない。


画面の文字が滲む。


息が荒いせいか、手が震えているせいか、自分でも分からなかった。


湊は、ようやく一文だけ送った。


『行かないでください』


既読はつかない。


駅の改札を抜ける。


階段を駆け下りる。


人と肩がぶつかる。


謝ろうとして、声が出ない。


相手が舌打ちをして遠ざかる。


湊は振り返らなかった。


電車の中で、ミソラへも送った。


『椎名さんが真鍋さんに会いに行きました』


すぐに既読がつく。


『今どこですか』


湊は、行き先だけを打った。


明け方の家。


返信はすぐに来た。


『私も連絡します』


続けて、もう一通。


『目黒さん、ひとりで入らないでください』


湊はその文を見た。


返せなかった。


電車の窓には、湊の顔が薄く映っている。


自分の顔なのに、輪郭がぼやけていた。


口を開ける。


何も出ない。


声が出ない。


その事実が、また胸の奥で別の意味を持ち始める。


止められなかったと、言える。


説明できなかったと、言える。


湊は、その考えを振り払うようにスマホを握った。


違う。


止めに行く。


今度は、画面の向こうではない。


そこへ行く。



◇ ◇ ◇



明け方の家のある雑居ビルに着いた時、入口の灯りはまだついていた。


一階の不動産屋は閉まっている。


階段の上だけが、白く照らされていた。


湊は二階へ駆け上がる。


息を吸うたびに、喉の奥が焼けるようだった。


ドアの前で足が止まる。


明け方の家。


小さなプレート。


その文字が、今はひどく冷たいものに見えた。


ドアは、少しだけ開いていた。


扉の向こうから、会話が漏れている。


真鍋。


それから、紬。


湊は、ノブに手を伸ばした。


その指が触れる直前、真鍋の言葉が扉越しに届いた。


「君が来ることは、分かっていました」


湊は息を止めた。


自分に向けられた言葉ではない。


部屋の中にいる紬へ向けた言葉だった。


「目黒さんから、連絡がありましたから」


湊は、ドアを押した。


相談室は狭く、壁際のキャビネットと斜めに出た椅子のせいで、二人が立つだけでも息苦しかった。


相談室の中に、紬が立っていた。


鞄を胸の前で抱えている。くまが、その隙間で揺れていた。


真鍋は、テーブルの向こうに座っている。


机の上には、ファイルが一冊。


表紙には何も書かれていない。


だが、湊には分かった。


あれだ。


残された家族。


花音の記録。


紬がこちらを見た。


「ヨルさん」


その呼び方が、今は痛かった。


湊は声を出そうとした。


椎名さん。


やめてください。


それを見ないでください。


何も出なかった。


空気だけが、喉の奥を擦る。


紬の目が、小さく揺れた。


「声」


湊は首を横に振った。


違う。


いや、違わない。


声が出ない。


それでも、来た。


それを伝えるために、湊はスマホを出した。


だが、指が震えてうまく打てない。


真鍋が立ち上がった。


「無理に話さなくて大丈夫です」


優しい声だった。


「目黒さん。今は、書いてください。記録に残る形で」


その言葉で、湊の指が止まった。


書いてください。


記録に残る形で。


真鍋は、どこまでも真鍋だった。


「真鍋さん」


紬が言った。


「目黒さんから連絡があったって、どういう意味ですか」


真鍋は、テーブルの端に置いていたスマホを手に取った。


「その前に、確認させてください」


「何をですか」


「君は、今も目黒さんを守りたいと思っていますか」


紬の表情が固まった。


湊は真鍋を見た。


やめろ。


その聞き方をするな。


「答えてください」


真鍋は静かに言った。


「君は、目黒さんを救う側に残したい。そうですね」


紬はすぐには答えなかった。


だが、否定もしなかった。


真鍋は続けた。


「そのために、君は情報を整理した。危ない名前を消した。見せてはいけないものを伏せた。時には、相手を黙らせた」


「……黙らせたのは」


紬の声が小さくなる。


「私です」


「はい」


真鍋はうなずいた。


「でも、それを君一人に背負わせるわけにはいきません」


その言葉は、優しかった。


優しいからこそ、逃げ場がなかった。


「ヨルという場所は、もう個人の善意だけでは扱えないところまで来ています」


真鍋はファイルに手を置いた。


「記録し、評価し、連携する必要がある」


「評価?」


紬が聞き返した。


「支援連携先です。第三者評価も含めて」


「第三者」


紬は、その言葉を繰り返した。


「この仕組みを、個人の善意で終わらせないためです」


「仕組み」


紬の目が、ファイルに落ちる。


「それは、何の資料ですか」


真鍋は、すぐには答えなかった。


やめろ。出すな。


湊は一歩踏み出そうとした。


けれど、声は出なかった。


真鍋は、ゆっくりファイルを開いた。


「君が救われた夜に、残された家族がいます」


紬の表情が止まった。


「その記録も、支援の全体像を確認するうえで避けて通れません」


「残された家族」


紬は、低く繰り返した。


真鍋は、中から一枚の紙を抜き出した。


すぐには見せなかった。


黒塗りの多い紙を、指先で押さえたまま、机の上に置く。


「名前は消してあります」


真鍋は言った。


「けれど、完全には消えません。年齢、続柄、時期、家族構成。そういう断片だけでも、誰のことか分かってしまうことがあります」


紬の肩が、わずかに震えた。


湊の胸も冷えた。


まだ何も見えていない。


それでも、紬には分かったのだと思った。


そこに誰の影があるのか。


「それは」


紬の声が掠れた。


「妹……花音のための記録なんですか」


真鍋は、すぐには答えない。


「それとも、私を止めるための記録ですか」


まだ答えない。


「それとも、ヨルさんを守る仕組みを作るための材料ですか」


部屋が静かになった。


湊は、スマホを握る手に力を入れた。


違う。


違うと言いたい。


だが、その仕組みという言葉の中に、自分もいた。


声だけで人を止めた。


その後を誰かに任せた。


任せた先で、記録が増えた。


整理が増えた。


名前が増えた。


そして今、花音までそこに入っている。


真鍋は、ゆっくり息を吐いた。


「このままでは、目黒さんも、君も、夜明けノートも壊れます」


「だから?」


「こちらで管理する必要があります」


「管理」


紬は小さく笑った。


笑いではなかった。


息が壊れただけだった。


「やっぱり、支援じゃないんですね」


「支援のための管理です」


真鍋は言った。


「君が思っているほど、現実は単純ではありません」


「そうですね」


紬は、くまを握った。


「私も、単純じゃないと思います」


真鍋はスマホの画面を開いた。


「目黒さんから、連絡がありました」


湊の心臓が、嫌な音を立てた。


違う。


違う。


湊は首を振った。


何度も。


声が出ない。


真鍋はスマホを紬へ向けた。


そこには、メッセージ画面があった。


差出人は、ヨル。


宛先は、明け方の家の連絡用アカウント。


送信時刻は、湊が覚えていない深夜。


本文は、短かった。


『花音の記録を見せろ』


次の行。


『その子は、そこで止まる』


紬の顔から、色が消えた。


湊はスマホを奪うように見る。


文字は、確かにそこにある。


自分のアカウント。


自分の文体。


自分が言いそうな、冷たい結論。


記憶はない。


でも、見覚えはある。


湊はスマホに打とうとした。


『違う』


指が滑る。


消す。


打ち直す。


また消える。


喉は震えるだけで、音にならない。


紬が湊を見た。


「ヨルさんが」


違う。


湊は首を振る。


「ヨルさんが、私を止めるために、花音を使ったんですね」


違う。


そう言いたかった。


しかし、違うと言うには、あまりに自分の中にあった。


花音の名前なら、紬が止まる。


その考えを、自分は一度も持たなかったと言えるのか。


真鍋を止めたいと思った。


紬を真鍋から引き剥がしたいと思った。


夜明けノートも、記録も、資料も、全部壊れればいいと思った。


それらは全部、自分の中にあった。


声が出ない。


文字も出ない。


湊は、初めて完全に黙った。


黙らされたのではない。


自分の中の声に、先に言われてしまった。


紬は、くまを握った。


「では」


その声は、もう泣いていなかった。


「私は、何だったんですか」


同じ問いだった。


画面越しに届いた問いが、今は目の前で声になっている。


「ヨルさんは、救う側にいると思っていました」


湊は息を止めた。


「だから、私が汚れればいいと思っていました」


紬は、湊を見る。


「でも、ヨルさんも、こっち側にいたんですね」


湊は何も言えなかった。


紬の目が、真鍋のスマホへ落ちる。


「花音の名前を使う側に」


その言葉のあと、紬は少しだけ息を吸った。


「じゃあ私は、何を守っていたんですか」


湊は首を振った。


紬は、真鍋のスマホを見た。


そこに残るヨルの文字を見た。


「私を止めるためなら、花音を使ってもいいと思ったんですね」


湊は何も言えなかった。


「私が花音の名前で止まるって、分かっていたから」


紬は、くまを握った。


「そんなに、私は危なかったんですか」


真鍋が言った。


「椎名さん、違います」


「あなたも」


紬は真鍋を見た。


「あなたも、同じです」


真鍋は息を止めた。


「私を止めるために、花音を出した」


「君を守るためです」


「守る」


紬は、その言葉を繰り返した。


「ヨルさんも、真鍋さんも、みんなそう言うんですね」


真鍋はファイルを開いた。


中から、一枚の紙を出す。


黒塗りの多い記録。


見出しは、残された家族。


名前の欄は消されている。


だが、年齢と続柄が残っている。


事故の時期も。


家族構成も。


妹。


小四。


紬の肩が震えた。


湊の胸も冷えた。


名前は伏せられている。


それでも、誰のことか分かる。


紬にも分かる。


湊にも分かる。


なら、他の誰かにも分かるかもしれない。


「これは、匿名化します」


真鍋は言った。


「今も、匿名化されています」


紬は紙を見たまま答えた。


「でも、私には分かりました」


真鍋は黙った。


「目黒さんにも分かった」


紬の声が震える。


「だったら、他の誰かにも分かるかもしれない」


「出し方は慎重にします」


「どこへ出すんですか」


「支援連携先です」


「評価する人にも?」


真鍋は答えなかった。


「仕組みを作る人にも?」


また、答えない。


紬は、小さく息を吸った。


「花音は、ヨルさんの仕組みの一部なんですか」


「そういう言い方はしていません」


「でも、そう使おうとしてる」


「救われた人も、残された人も、記録しなければ消えてしまいます」


「消えた方がいいものもあります」


「いいえ」


真鍋は即座に言った。


「消してはいけないものがあります」


「誰が決めるんですか」


紬が聞いた。


真鍋は口を閉じる。


「真鍋さんですか」


答えない。


「ヨルさんですか」


答えない。


「それとも、その外部の人ですか」


部屋が静かになった。


真鍋は、紙に手を置いたまま言った。


「これは、君一人で抱えるものではありません」


「抱える話じゃありません」


紬の声は低かった。


「花音を、誰かの仕組みに入れないでください」


紬の手が、テーブルの上の紙へ伸びた。


真鍋が、それを押さえた。


「これは、君だけのものではありません」


「返してください」


「これは外部へ出します」


「花音を出さないで」


「名前は伏せます」


「そういうことじゃないです」


紬の声が、さらに低くなった。


「花音を、ヨルさんの仕組みの一部にしないでください」


真鍋の手が止まる。


「椎名さん」


「返してください」


「これ以上、君が背負う必要はありません」


「背負うんじゃない」


紬は、紙を見た。


「守るんです」


その言葉だけが、部屋に残った。


真鍋は紙を引いた。


紬も離さなかった。


湊は止めようとした。


けれど、声が出ない。


スマホを握る指が震え、文字を打つより先に、テーブルが小さくずれた。


斜めに出ていた椅子の脚が、真鍋のかかとに触れる。


真鍋は紙を持ったまま後ろへ下がろうとして、背後のキャビネットに逃げ場を塞がれた。


体が横へ崩れる。


湊の手は、届かなかった。


次の瞬間、低いキャビネットの角に、真鍋の側頭部が強く当たる。


ごん、という鈍い音。


大きな音ではなかった。


だから余計に、嫌だった。


真鍋の体から、力が抜ける。


膝が折れた。


床に落ちるまで、誰も動けなかった。


時間が、一瞬だけ止まった。


真鍋が床に崩れていた。


ファイルは開いたまま、紙が散らばっている。


残された家族。


黒塗りの記録。


花音の名前は書かれていない。


それでも、その場にいる全員が、もうその名前を知っていた。


「真鍋さん」


紬が呼んだ。


返事はない。


湊は駆け寄った。


膝をつく。


肩に触れる。


動かない。


湊は何かを叫ぼうとした。


声は出なかった。


喉が震えるだけだった。


スマホ。


救急。


電話。


声が出ない。


番号を押す指が震える。


何度も打ち間違える。


紬が、床に座り込んでいた。


両手を見ている。


「私」


小さな声だった。


「私が」


湊は首を振った。


違う。


違う。


違う。


でも、何が違うのか、自分でも分からなかった。


自分が送ったメッセージ。


真鍋が出した記録。


紬が伸ばした手。


湊が入った体。


どれか一つを消せば、結果は変わったのか。


分からない。


湊はようやく通報の画面を開いた。


声が出ない。


それでも、位置情報を送る。


ミソラへも送る。


『明け方の家』


『真鍋さんが倒れた』


『救急』


送信。


すぐに既読がついた。


ミソラから何度も返信が来る。


湊は読めなかった。


床に落ちた真鍋のスマホが、まだ光っていた。


画面には、ヨルからのメッセージが表示されたままだった。


『花音の記録を見せろ』


『その子は、そこで止まる』


湊は、その文字を見た。


止まったのは誰だったのか。


紬か。


真鍋か。


自分か。


それとも、もう全部が止まってしまったのか。


階段の方から、足音が聞こえた。


遠くでサイレンが鳴っている。


紬は、くまを抱えたまま床に座っていた。


「ヨルさん」


声は、ひどく小さかった。


「声、出ないんですね」


湊はうなずいた。


紬は、ゆっくり目を閉じた。


「じゃあ、私が言います」


湊は息を止めた。


「何を」と聞きたかった。


聞けなかった。


紬は、床に落ちた紙を見た。


真鍋を見た。


それから、自分の手を見た。


「私が、やりました」


湊は首を振った。


何度も。


それでも、声は出なかった。


違う。


そう言えないまま、救急隊の足音が部屋へ入ってくる。


誰かが湊を押しのける。


誰かが紬から事情を聞こうとする。


誰かが真鍋の名前を呼ぶ。


部屋の中に、声だけが増えていく。


湊だけが、何も言えない。


これまで湊は、画面の向こうに声を置いてきた。


届くと信じていた。


けれど今、目の前で人が倒れている。


声は届かない。


文字も間に合わない。


沈黙のこちら側で、湊は初めてその線の意味を知った。

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