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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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18/20

第18話 深夜の声

湊は、部屋の床に資料を並べた。


ネカフェではない。


自宅の狭い部屋だった。


配信の内容を持ち帰りたくなくて、ずっと外で声を出してきた。


それなのに今は、持ち帰らない方が嘘になる気がした。


机の上には、ノートパソコン。


床には封筒。


青い傘。


夜泣き。


榊。


無題。


ミソラから受け取った夜明けノートの控え。


真鍋の事務所から出た資料。


紬が保存していたスクリーンショット。


湊名義のDM。


録音ファイルの一覧。


全部が、同じ部屋にある。


逃げ場がなかった。


湊は、まず青い傘の封筒を開いた。


本人の添付資料。


ほどけない糸の整理メモ。


その後に残った検索履歴。


検索した覚えのない名前。


あの時、湊はただ怯えていた。


夜明けノートは見ていないはずだった。


それでも、検索欄には、加害者の名前らしい文字が残っていた。


悪いのは、加害者だ。


動画を撮った側だ。


学校だ。


大人だ。


そう思えば、少しだけ楽になる。


でも、湊の指はその名前を検索した。


覚えていなくても、履歴は残っている。


次に、夜泣き。


真鍋との通話記録。


ほどけない糸へ向けたDMの通知断片。


会う場所を変えさせろ。


泣く子を盾にする相手は、話し合いでは止まらない。


湊は、その文字を見て目を閉じた。


自分の声ではないと言いたかった。


でも、そう言い切るには、あまりに自分の怒りと似ていた。


あの夜、ドアの向こうにいた男に対して、湊は何を思ったか。


消えればいい。


言葉にはしていない。


でも、心の奥で、確かにそう思った。


その感情に、深夜の声が形を与えた。


次に、榊。


守りたいものがある人間は、黙る。


録音の波形。


共有履歴。


ほどけない糸の保存スクリーンショット。


湊は再生ボタンに指を置いた。


押すまでに、時間がかかった。


音が流れる。


換気扇のような低い音。


椅子がきしむ音。


そして、声。


『守りたいものがある人間は、黙る』


聞き慣れた声だった。


聞き慣れた声のはずなのに、自分のものではない。


そう思いたかった。


湊は、もう一度再生した。


二度目は、少し違って聞こえた。


怒鳴っていない。


脅していない。


ただ、分かりきったことを言っているだけの声。


だから余計に怖い。


これは怪物の声ではない。


湊の中にあった結論の声だった。


「……俺だ」


声に出した瞬間、喉が裂けるように痛んだ。


湊は口元を押さえた。


咳が出る。


乾いた咳。


胃の奥が持ち上がる。


吐きそうになるが、何も出ない。


床の資料が少し滲んだ。


涙ではない。


目が乾いているだけだ。


そう思った。


そう思いたかった。


湊は、真鍋の資料を手に取った。


相談記録。


外部連携メモ。


夜明けノートから渡された情報の整理。


その中に、一枚だけ、湊の手を止める紙があった。


見出しは、残された家族。


名前の欄は黒く塗られている。


けれど、横に小さく残った年齢と続柄だけで、湊には誰のことか分かってしまった。


花音。


あの名前だけが、黒塗りの奥から浮かび上がるように見えた。


紬が守ろうとして、同時に奪ったと思い込んでいる子。


なぜ、その記録が真鍋の資料の中にあるのか。


湊は紙を裏返した。


裏返しても、名前は消えなかった。


真鍋からのメッセージも、資料の中に残っていた。


『ヨルという場所を守るには、情報を分散させない方がいい』


『目黒さん個人が抱える必要はありません。こちらで整理します』


『あなたの中の別の声についても、扱い方を間違えれば、救われた人たちまで傷つきます』


守るための言葉だった。


少なくとも、文字だけ見ればそう読める。


でも湊には、自分の声も、紬の記録も、夜明けノートも、真鍋の箱の中へしまわれていくように見えた。


守る。


整理する。


管理する。


その三つの違いが、もう分からない。


湊は、真鍋とのメッセージ画面を開いた。


履歴はほとんど残っていない。


自分が消したのか。


誰かが消したのか。


それすら分からない。


だが通知欄の古い断片だけが、消し損ねた棘のように残っていた。


差出人は、ヨル。


宛先は、明け方の家。


本文は、途中で切れている。


『花音の記録を――』


そこから先は表示されていない。


湊は画面を閉じた。


見なかったことにしようとして、もう見ていた。


深夜の声は、知らない誰かではない。


湊の中で、普段は飲み込んでいたもの。


善意の言葉で覆っていたもの。


救うという言葉の裏側で、ずっと息をしていたもの。


「俺だ」


もう一度言う。


今度は音にならなかった。


唇だけが動いた。


湊は、録音アプリを開いた。


深夜の声のファイルが、まだ残っている。


これは、証拠だ。


誰かを責めるためだけではない。


自分が逃げないための証拠だ。


湊はミソラへファイルを送った。


『これも、外部に渡してください』


少しして、ミソラから返信が来る。


『分かりました』


『目黒さんも、ひとりで持たないでください』


湊はその文を見た。


ひとりで持たない。


ずっと、自分が言ってきた言葉のようだった。


誰かには言えた。


自分には言えなかった。


スマホを置こうとして、紬とのDM画面が目に入る。


最後に残っているのは、あの問いだった。


『では、私は何だったんですか』


湊は、その一文を見つめた。


答えていない。


答えられなかった。


紬は、自分が救われた人間だったのか、利用された人間だったのか、汚れる役を引き受けただけの人間だったのかを聞いていた。


湊は返信欄を開いた。


指がしばらく動かなかった。


それから、短く打つ。


『今、資料を見ています』


送信。


既読は、すぐにはつかなかった。


それでよかった。


すぐ返ってきたら、また紬がこちらを見ていたように思えてしまう。


湊は床に散らばった資料を見た。


青い傘。


夜泣き。


榊。


無題。


その全部の中に、自分の声が残っている。


しばらくして、スマホが震えた。


紬からだった。


『私のせいです』


湊は画面を見た。


『悪いのは私です』


続けて、もう一通届く。


『ヨルさんは救う側にいてください』


その文を見た瞬間、湊はスマホを握る手に力を入れた。


救う側。


もう何度も聞いた言葉。


紬にとって、ヨルは救う側でなければならない。


そうでないと、紬が汚れた意味がなくなる。


自分が人を脅したことも、情報を握ったことも、榊を黙らせたことも、全部、ヨルを守るためだったと言えなくなる。


だから彼女は、湊を救う側へ押し戻そうとする。


「違う」


湊は声に出した。


声は、ほとんど割れていた。


スマホに打つ。


『違う。君をそう言わせたのは俺だ』


既読がつく。


返事はない。


湊は続けた。


『俺の声が、君にそう思わせた』


『俺が怒った』


『俺が安心した』


『俺が、消えればいいと思った』


一文ずつ送るたびに、胸の奥が削れる。


でも、止められなかった。


『それを、君が代わりにやった』


既読。


長い沈黙。


湊はスマホを置いた。


床の上の資料を見る。


青い傘の加害者が苦しんだ時、安心した。


夜泣きの男が来なくなった時、安堵した。


榊が配信を止めた時、助かったと思った。


それらは、全部自分の中にあった。


スマホが震える。


紬からだった。


『それでも、ヨルさんは救いました』


湊は画面を見た。


『私も』


その一文で、湊の息が止まった。


紬は続ける。


『青い傘の子も』


『夜泣きさんも』


『他にも何人も、ヨルさんの声を聞いて、朝まで待てた人たちがいます』


『壊したものだけじゃありません』


『救えたものがあるなら、そこだけは消さないでください』


湊は、返信できなかった。


救ったものがある。


壊したものもある。


どちらか一方にすれば、楽になる。


でも、それは嘘だ。


湊は、ノートパソコンを開いた。


古いアーカイブ。


二年前の黒い画面。


> 五分だけ待ってください


その文字を見る。


自分は、あの一行で止まった。


その事実まで否定したら、紬の過去も、湊の今も、全部消える。


でも、だからといって、これまで起きたことを正当化していいわけではない。


湊は返信しようとして、喉の奥が強く痛んだ。


咳き込む。


息がうまく吸えない。


口を開けても、音が出ない。


「……あ」


声にならなかった。


もう一度、出そうとする。


喉が震えるだけで、空気が擦れる。


湊は机に手をついた。


水を飲もうとする。


飲めない。


唾を飲み込むだけで痛む。


声が出ない。


その事実に、湊は怯えた。


けれど、胸の奥のどこかで、別の感情が動いた。


これで、言わなくて済む。


止められなかったと、言える。


説明できなかったと、言える。


湊は、その考えに気づいた瞬間、吐き気がした。


声を失ったことさえ、自分の中のどこかは利用しようとしている。


湊は、机に置いたスマホを見た。


紬とのDM画面が、まだ開いたままだった。


『救えたものがあるなら、そこだけは消さないでください』


湊は返信欄に指を置いた。


何かを返そうとした。


けれど、声も、言葉も、うまく出てこない。


指が震えて、文字が打てなかった。


何度も消して、ようやく短く打つ。


『声が出ない』


送信。


しばらくして、スマホが震えた。


紬からだった。


『配信しないでください』


湊は、その文を見た。


こんな時でも、紬はまずヨルの声を守ろうとする。


湊は唇を噛んだ。


『しない』


『でも、止める』


既読。


返事は来ない。


湊は続けた。


『君だけに背負わせない』


今度は、少し間があった。


紬から返事が来る。


『もう遅いです』


湊は画面を見た。


胸の奥が冷える。


『何が』


既読。


しばらく何も来なかった。


その沈黙の間に、湊は立ち上がった。


何かが動いている。


そう思った。


配信の向こうではない。


夜明けノートの中でもない。


現実で。


紬から、最後に短い文が届いた。


『真鍋さんに会ってきます』


湊は、声にならない声で名前を呼んだ。


椎名さん。


音は出なかった。


それでも、体は先に動いた。


湊は資料を鞄に詰め、部屋を飛び出した。


五分だけ待って。


そう打つこともできた。


でも、今は違う。


画面の向こうに言葉を置く時間ではない。


そこへ行く時間だった。

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