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サイレントライン ―その声は、誰を救ったのか―  作者: スドタケ


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17/20

第17話 夜明けノートの本当の使い方

ミソラは、思っていたより小柄な人だった。


駅前のカフェの一番奥。


壁に近い席で、両手で紙コップを包むように持っていた。


画面の中では、いつも落ち着いている。


コメント欄が荒れた時も、誰かが危ない言葉を置いた時も、ミソラは短く整理する。


水を飲んでください。


名前を書かないでください。


今は場所を聞かないでください。


その言葉の印象から、湊はもっと強い人を想像していた。


でも、目の前にいるミソラは、疲れていた。


髪を一つに結び、目の下には薄い影がある。


湊を見つけると、すぐに立ち上がった。


「ヨルさん」


声に出してから、ミソラは小さく首を振る。


「すみません。目黒さん」


「どちらでも」


湊は向かいに座った。


喉が痛い。


話す前から、もう痛い。


ミソラはその様子に気づいたのか、テーブルの上に水を置いた。


「声、大丈夫ですか」


「大丈夫ではないです」


湊は正直に言った。


ミソラは、少しだけ目を伏せた。


「そうですよね」


二人の間に、沈黙が落ちる。


カフェの中は明るい。


隣の席では、学生らしい二人が試験の話をしている。


入口近くでは、会社員がパソコンを開いている。


ここでは、誰も夜明けノートのことを知らない。


知らないまま、普通に昼を過ごしている。


ミソラが先に口を開いた。


「最初は、本当に、朝までつなぐためだけでした」


湊は黙って聞いた。


「配信が終わったあと、コメント欄には残れない人がいるじゃないですか。まだ危ない。でも配信を続けたら、ヨルさんが壊れる。だから、名前を伏せたまま、今どこにいるか、何が怖いかだけ残せる場所を作りました」


「知っています」


「はい」


ミソラは紙コップの縁を指でなぞった。


「でも、作った時より、ずっと多くのことが入るようになりました」


「誰が増やしたんですか」


「私です」


ミソラは逃げなかった。


「最初は、項目を足したんです。ひとりかどうか。近くに危ないものがあるか。朝に連絡できる人はいるか。帰れない理由。関係者の続柄」


湊はうなずいた。


何度も見た項目だった。


「助けるためでした」


「分かります」


「でも、助けるために必要な情報は、別の人が見れば、追い詰めるためにも使えるんです」


ミソラの声が震えた。


「私は、それを分かっていたのに、分かっていないふりをしていました」


湊は水を飲んだ。


喉が焼ける。


「ほどけない糸さんは」


ミソラは言葉を選んだ。


「最初は、本当に助かりました」


「整理が早い」


「はい。危ない名前を消す。本人が書きすぎた情報を伏せる。コメント欄の空気を止める。私一人では追いつかない時、ほどけない糸さんがいてくれたら、誰かを落とさずに済むと思いました」


「素性は、知らなかったんですか」


ミソラは首を振った。


「性別も、本名も、年齢も、顔も知りませんでした。ただ、文章はずっと同じでした。すごく静かで、でも、傷の場所だけは外さない」


湊は、紬の顔を思い出した。


くまを握る指。


「真鍋さんとは」


「夜泣きの件でつながりました。その前から、明け方の家のことは知っていました。匿名相談を、外部支援につなぐために」


ミソラは息を吸った。


「真鍋さんは、必要な情報だけを渡してほしいと言いました。本人を守るために。朝までに動くために。私は、正しいと思いました」


「本当に必要な範囲でしたか」


ミソラはすぐに答えなかった。


「最初は」


その言い方だけで、湊は十分だった。


最初は。


便利な言葉だ。


最初は助けるためだった。


最初は名前を伏せていた。


最初は誰も傷つけるつもりではなかった。


いつも、壊れる時はその先から始まる。


「榊の妹の情報は、夜明けノートからですか」


ミソラの指が止まった。


「私の画面にはありません」


「でも、どこかにはあった」


「たぶん」


ミソラは小さく言った。


「榊さんの件は、別の相談記録とつながっていた可能性があります。真鍋さん側に、過去の資料がありました。私は詳細を見ていません。でも、ほどけない糸さんがそこへ触れた形跡はあります」


「なぜ止めなかったんですか」


「気づいた時には、もう止まっていました」


ミソラの声が、そこで崩れた。


「榊さんの配信が」


湊は何も言えなかった。


ミソラは泣かなかった。


泣く余裕もないように見えた。


「私は、ヨルさんを守りたいと思っていました」


「俺を?」


「はい。あなたが壊れたら、あの場所も壊れると思ったから」


「それは」


湊は言葉を切った。


責めたいのに、責めきれない。


「それも、重いです」


ミソラはうなずいた。


「分かっています。今は」


「でも、その時は分かっていませんでした。誰かを守るために、別の誰かの情報を持ち出すことが、どれだけ怖いことなのか」


湊は、テーブルの上に手を置いた。


「夜明けノートは、閉じた方がいい」


ミソラは目を閉じた。


「そう言われると思っていました」


「今のままでは、誰かを朝までつなぐ場所じゃない」


「はい」


「地図になっている」


「はい」


ミソラの返事は、短かった。


逃げる気がない人の返事だった。


「ただ」


ミソラは顔を上げる。


「閉じたあと、そこへ来る人たちはどこへ行けばいいんでしょう」


湊は答えられなかった。


それが、この話の一番嫌なところだった。


危ない仕組みを閉じれば、危ない夜が消えるわけではない。


名前を伏せた投稿欄を消しても、帰れない人は帰れないままだ。


「専門の相談先だけを残します」


ミソラは言った。


「直接投稿は止める。ヨルさんの配信からも切り離す。私が受けるのではなく、公的機関や専門団体へつなぐ形にする」


「真鍋さんのところには」


「つなぎません」


ミソラの声だけは、はっきりしていた。


「少なくとも、確認が終わるまでは」



◇ ◇ ◇



真鍋の事務所へ行くと、ブラインドは半分だけ開いていた。


中に灯りがついている。


湊とミソラが入ると、真鍋は机の前に立っていた。


書類の箱が足元にある。


「来ると思っていました」


真鍋は言った。


その声は、前に会った時と同じく穏やかだった。


穏やかすぎて、湊は腹が立った。


「記録を消しているんですか」


ミソラが聞いた。


真鍋は箱へ視線を落とす。


「整理しています」


「また整理ですか」


湊の声が掠れた。


真鍋は湊を見た。


「その声で怒鳴るのはやめた方がいい」


「怒鳴れません」


「なら、よかった」


「よくない」


湊は一歩前へ出た。


「夜明けノートの情報を、どこまで使いましたか」


真鍋はすぐには答えなかった。


「支援資料として、匿名化した範囲で」


「匿名化しても、見る人が見れば分かると、あなたは言いました」


「言いました」


「それでも使った」


「使いました」


ミソラが息を呑む。


真鍋は続けた。


「支援を通すには、記録が必要です。数字も、事例も、報告も。痛みを言葉にしなければ、制度は動きません」


「制度を動かすために、誰かの痛みを資料にした」


「そうです」


あまりにもあっさり認められて、湊は言葉を失った。


真鍋は悪びれていないわけではない。


ただ、自分がやったことを、すでに何度も自分の中で裁いている顔だった。


その上で、まだ正しい部分があると信じている。


「法が間に合わない夜を、あなたは見てきたでしょう」


真鍋は湊に言った。


「ドアの前に男がいる。学校は明日確認しますと言う。親は謝るだけ。警察に言うには証拠が足りない。そういう夜に、誰かが間に入らなければ、朝が来る前に落ちる人がいる」


湊は奥歯を噛んだ。


その言葉が完全な嘘なら、楽だった。


「だから、何をしてもいいんですか」


「いいとは言っていません」


「でも、やった」


「やりました」


真鍋は、書類の箱を閉じた。


「そして、止められませんでした」


「何を」


「椎名さんを」


その名前が出た瞬間、湊の体が硬くなった。


「彼女は、記録を救いだと思っていました」


真鍋は言う。


「自分の痛みを、次の子のために使える。そう思えば、被害者でいるだけではなくなる。私はそう伝えた」


「それが、許しになった」


「ええ」


真鍋は目を伏せた。


「彼女にとっては、許しになってしまった」


「分かっていたんですか」


「途中で」


「途中で止めればよかった」


「止めようとしました」


「止まらなかった」


「止まりませんでした」


真鍋の声には、疲れが滲んでいた。


「彼女だけではありません。あなたもです」


湊は息を止めた。


「あなたの声も、止まらなかった。あなたの中の別の声も」


「俺を言い訳にするな」


掠れた声だった。


それでも、真鍋は少しだけ黙った。


「言い訳ではありません。記録の話です」


「人を記録に閉じ込めるな」


湊は言った。


声が割れる。


「椎名さんは記録じゃない。青い傘も、夜泣きも、榊の妹も、あなたの資料じゃない」


ミソラが、横で小さくうなずいた。


真鍋は目を閉じた。


「正しいです」


「正しいって言えば終わりですか」


「終わりません」


真鍋は言った。


「だから、記録を渡します」


机の上に、封筒が置かれている。


「ミソラさん。外部機関へ出してください。私の手元にあると、私はまた都合よく整える」


ミソラは封筒を見た。


「全部ですか」


「全部ではありません」


湊は真鍋を睨んだ。


真鍋は苦く笑う。


「今のは、最低でしたね」


「はい」


「分かっています」


真鍋は棚から別のファイルを出した。


「全部ではない、というのは、私が隠したいからではありません。本人の同意が必要なものがあります。未成年のものもある。出し方を間違えれば、二次被害になります」


真鍋は、そこで一度言葉を切った。


「本人だけではありません」


湊は顔を上げた。


「相談者の周囲にいた未成年の家族。その子が、残された側だった場合、記録の扱いはさらに難しくなる」


湊は、花音という名前を思い出した。


「それも、あなたのところにあるんですか」


湊が聞くと、真鍋はすぐには答えなかった。


「確認が必要です」


否定ではなかった。


湊は、それだけで十分だった。


正しい言葉が、どこまでも邪魔をする。


ミソラが封筒を受け取った。


「私も、責任を取ります」


真鍋はうなずいた。


「お願いします」


「お願い、じゃありません」


ミソラの声が震えた。


「私は、あなたに預けてしまったんです。自分で見ないで、あなたが何とかしてくれると思った」


真鍋は何も言わなかった。


「その結果、ほどけない糸さんが、あそこまで行った」


ミソラは涙をこぼさなかった。


でも、声だけが泣いていた。


「私も、止めます」


湊はミソラを見た。


止めます。


その言葉は、今までずっと怖かった。


でも、ミソラの口から出たそれは、少しだけ違って聞こえた。


誰かを黙らせるためではない。


自分の手から離れてしまったものを、もう一度引き受けるための言葉だった。



◇ ◇ ◇



事務所を出る頃には、外が暗くなっていた。


ミソラは駅へ向かう途中で、何度も湊に謝った。


湊は、そのたびに首を振った。


謝罪を受け取れる場所に、自分がいなかった。


「配信は」


ミソラが聞いた。


「しません」


湊は言った。


「たぶん、もう今までの形では」


ミソラはうなずいた。


「夜明けノートも、閉じます」


「はい」


「ただ、リンクだけは残します。ここに書くのではなく、ここから本当の窓口へ行けるように」


「その方がいいです」


そう言うだけで喉が痛んだ。


駅前で、ミソラと別れた。


湊はスマホを見た。


紬から連絡は来ていない。


ほどけない糸のアカウントも、止まっている。


止まっていることが、逆に怖かった。


湊は、真鍋の事務所でもらった控えを鞄に入れ直した。


青い傘。


夜泣き。


榊。


紬。


それぞれの記録が、別々の封筒に分かれている。


別々の人間だった。


当たり前のことを、湊は今さら確認する。


ひとつの物語にまとめてはいけない。


ひとつの正義にしてはいけない。


スマホが震えた。


紬だった。


『真鍋さんに会いましたか』


湊は立ち止まった。


『会いました』


送る。


既読。


少しして、返事が来る。


『あの人は、私を必要としてくれました』


湊は画面を見た。


その一文だけで、紬がどこに立っているのか分かった気がした。


救われたかった少女。


被害者で終わりたくなかった少女。


誰かの役に立つことで、自分が壊れた意味を探していた少女。


『必要と利用は違います』


湊は送った。


既読。


返事は、すぐには来なかった。


駅のアナウンスが流れる。


人が改札へ吸い込まれていく。


しばらくして、紬から短い文が届いた。


『では、私は何だったんですか』


湊は返信できなかった。


その問いに、まだ答えを持っていなかった。

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